ヨハネ福音書21章20-25

~ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか」と言った者である。ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」そこで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に行き渡った。しかし、イエスはペテロに、その弟子が死なないと言われたのでなく、「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか」と言われたのである。これらのことについてあかしした者、またこれらのことを書いた者は、その弟子である。そして、私たちは、彼のあかしが真実であることを、知っている。イエスが行なわれたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。~


今、三度目にイエス様が復活されて、弟子達の前にガリラヤ湖で現れた時、ペテロに向かって殉教を言い渡して、『わたしに従いなさい』と仰って、そして振り向くとイエスの愛された弟子は当然ヨハネで、ヨハネが駆け寄って来て、ペテロは直ぐに「あの人は一体どうなるのですか?」とイエス様に聞いたんです。 今日の本文のヨハネの福音書はこれが最後です。私達は今までこのヨハネの福音書の説教を聞いてきたんですけど、イエス様が十字架に架かった五十日目に、五旬節の日、ペンテコステの日に、マルコの部屋でペテロをはじめ、このヨハネも集まっているところに火の聖霊が下ったんです。それを今私達の教会と同時進行させておられるイエス様は生きておられます。今日、このヨハネの福音書が最後になっていることを、そして私達が火の聖霊を今待っているっていう中で、今日五月十九日が聖霊降誕の日曜、主日だっていうことが偶然ではないと思います。でも、私達は火の聖霊を受ける、受けないが、今の私達の課題ではなくて、このヨハネとペテロにイエス様が何を仰ってるか?イエス様が復活した後に弟子に望んでいる事が一体何なのか?これが私達にとってもっとも重要です。火の聖霊、聖霊のバプテスマは主の主権です。それはロイド・ジョンズ先生も言っています。こちらが願って祈ったから与えられるという問題ではないんです。ただ、クリスチャンなら誰でも願いなさい。だけど私達が来る、来ないと考えるのは、私達の知るところではないです。再臨もそうです。私達の知るところではないと、イエス様に言われていますよね?その他に、イエス様が復活した後に弟子達が、「イスラエルはいつ復興されるのですか?」と質問した時、「復興されない」、「復興する」とは言われていないんです。正解や答えを出してはいません。こう言ったんです。『あなたの知る限りではない』これが全ての答えです。火の聖霊は私達の知る限りではない。願い求めたところで私達の知る限りではないんです。 でも、ここでイエス様が弟子に向かって、クリスチャンに向かって、福音を宣べる時、説教される時、警告を与えられている時には、今この瞬間に跪いて「アーメン、主よ。」と直ぐに、私達は受け入れて、従い、従順するべき内容です。火の聖霊がいつなのか、再臨がいつなのか、私達は聞く必要がない。知る必要がないんです。それを訊ねてはいけないんです。イエス様がされると言われれば、信仰で『アーメン』と答えるだけです。はい、そうです、主よ。あなたは来られます。あなたは火の聖霊を下されます。これ以外に私達は伺ってはいけないんです。知る必要がないからです。でも、今日語られるメッセージは、私達が明日また考えようとか、明日から従おうという問題ではありません。今すぐ、私達は受け入れて「アーメン、主よ。」と言わなければならないのが福音です。今日信じない者は明日信じることはできません。今日命を失った者は明日後悔しても遅い、と同じ次元です。今日、この命の言葉を食べないなら、今日、この教会が最後のヨハネの福音書を学んできたから、言い訳はできません。イエスこそ王、イエスこそ主、イエスこそ救い主。この方以外はないと語ったのがヨハネです。そして、その締めくくりもそうです。イエス以外にない。その事でつまずいてしまうなら希望がなくなります。 だから今日、ヨハネの福音書が最後となり、そして今私達は火の聖霊を待っている。この教会自身もヨハネが語るようにイエス様と本当に深く関わっていかないと、この葡萄の木に関わっていないと、み言葉に関わっていないと、従順していないと、イエスと関わりのない人生になってしまう、という事です。教会云々、牧師云々とではなくイエスと関わってなければ、何も、私達には希望がない。これが全てです。 そして、今日の福音はペテロが殉教を言い渡された後、ペテロがヨハネに向かって「あの人はどうですか?」と直ぐに聞いてしまうんです。そしてイエス様が答えられます。そのヨハネはまさに晩餐の日にもイエス様の隣に居て、イエス様に「裏切り者は誰ですか?」と聞いた人です。


~ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」~


これを聞いていた弟子達はヨハネだけではなく、そこに居た弟子達もこの話を聞いていて、『ヨハネは主の来られる日まで生き延びる』という噂が広がり、その後もその噂でもちきりだったんです。それは二世紀になっても、ヨハネは生きているのではないかと、言われている位です。その時の書物に、ヨハネは普通に死んだと言われています。エペソの教会で死んだにも関わらず、ヨハネは死んだのではなく、エペソを出て密かに宣教に行ったとか、まだ何処かで隠れて生きているとか、主の来られる日まではヨハネの心臓は止まらないとか。こんなような噂がずっと出回っていました。イエス様が「ヨハネが、私が来るまで死なないと望むとしても」あなたと何の関わりがありますか?と仰ってるだけで生き延びるとは言っていないんです。噂が噂を呼び、広まってしまい、噂に尾びれまで付いてしまい、『ヨハネは死なない、ヨハネはまだどこかで生きている』と言われるようになってしまいました。それをこのペテロとヨハネ以外にも、聞いていた者達が、福音ではない、噂話を流しているんです。でも、ヨハネはエペソで死んだと言われています。 そして、この最後の二十一章は、二十章まではヨハネが書いただろうけど、その後彼から証を聞いた弟子達が二十一章を付け足したと言われている説が、もっとも有効だと言われているんです。だからこれは、ヨハネが書いたのではなく、ヨハネの話を聞いた弟子、或はヨハネが死んだ後に書かれたものと言われているんです。当然それも死ぬ間際なのか、死んだ後なのか、は分からない。しかし、ヨハネが死んでいる事をこの弟子達は知っているが為に、『これを証しした者は、これを証ししたのであって』という断りを入れています。だから生き延びているはずはないんです。でも、イエス様の話を改ざんしてしまう危険が、噂に含まれてしまいます。そして、まるでヨハネを天使のように、神のように崇めようとしてしまう。偶像礼拝はいくらでも始まってしまう。そういう事を聖書は止めさせようとしています。人間如きが神の如くに永らえるはずがないんです。 そして、この話をしている時はペテロが恭しく殉教の話を聞いているところです。そんな軽いおとぎ話ではありません。重い生涯の任命をされ、使命を受けているにも関わらず、ヨハネが駆け寄ると、ペテロは何故ヨハネの事を聞いているのか?ここに問題があります。ここで、ペテロは『従いなさい』とイエス様に命令されて、はじめて従っているけれども、ヨハネは愛の故に『従いなさい』と言われてもいないのに、従いつつあった、と解釈する人もいますけれども、でも、私個人としては、ここでまだ若いペテロとヨハネが晩年ほど悟っているとは思えない。復活したイエス様をまだ三度しか見ていないし、火の聖霊を受けていないので、完全な悟りを受けているとは思えないんです。それは、ペテロだけではなく、ヨハネの方もそうだと思います。ヨハネの福音書が『愛の福音書』だから、ペテロよりヨハネがより一層イエス様を愛していたとは思えないです。どちらも、完全な、というか深い悟りはまだないですよね?火の聖霊が下った後に、そしてイエス様の聖霊の導きによって、彼らも深い悟りを得て、この日ではなくものすごい晩年に福音書は書かれている、と言われている通りです。ここでペテロが、まるで自分の殉教を差し置いてヨハネの事を一々おせっかい焼いている。という解釈があるけれども、ペテロはペテロで、ヨハネはヨハネで、本当にまだ完全な悟りがなかったと言うしかない。 何故なら、ここでイエス様はペテロにだけ、今使命を与えています。ヨハネには与えていません。だから、大勢いる中でペテロだけ傍に呼んで、ペテロに重要な使命を渡しています。殉教の使命です。この前も言ったように、殉教は賜物です。神が与えてなければ、死は越えられませんし、神がこの賜物を与えなければ従順出来ません。人間自らは不可能です。興奮だけでは殉教ではないはずです。感情では、自殺と変わりません。だから今イエス様は重要な使命をペテロに与えています。それなら、ヨハネはここへ来るべきではないです。イエス様はペテロを呼んで話しています。ヨハネは今は呼ばれていないです。たとえ自分も従順したくても、たとえ自分が命を投げ出すほど使命を果たしたくても、ヨハネの時はまだ来ていません。イエス様はペテロを呼び、ペテロだけに今使命を与えて、そしてこのペテロの使命は他の人とは違います。ペテロにしかない使命です。その時にヨハネは割って入っていいわけがないんです。ヨハネは、たとえイエス様が慕わしくても、待つべきです。 何故なら、その後の彼らの行く道でわかります。ヨハネが一世紀末にヨハネの福音書を書き、パトモス島から出て活躍した時に、もうペテロはいません。パウロもいないんです。初めの弟子達は死に、ヨハネだけが残りました。イエス様はパトモス島でヨハネに使命を与えたんです。重要な使命です。黙示録を書かせ、福音書を書かすという、もの凄く大事な使命がヨハネには百歳になってきました。このガリラヤ湖ではなかったんです。なのに、自分も一緒に聞きたい、自分もペテロと同じ扱いを受けたい、これでヨハネは駆け寄ったと考えます。愛のヨハネと言われているからと言って、このまだ若いヨハネが深い悟りや忍耐があったと考えにくいです。パトモス島に入り、百年近く忍耐の訓練を受けた末に、本当にイエス様の恵みで彼も悟った筈です。ペテロにおいてもそうですよね?この時、悪気はないと思います。ヨハネについて嫉妬があったとは思えない。イエス様が死んで復活されたのをすでに目撃しててるので、そんな幼稚な考えではないはずです。だけどそのおせっかいや、人間的な感覚をまだ捨て切れてはいないという事です。ペテロもヨハネを気にしてはいけないのに、気にしているし、ヨハネは待っていなければならないのに、待てずにいる。まだ完全な悟りを得ていないとしか思えない。でも、死んで甦ったイエス様を見ているし、三年四年も、イエス様から直接教わっている彼らに、信仰がないはずがありません。イエス様を思う気持ちに嘘はなく、私達以上に信仰者だったと思います。でも、ここで私達が学ぶのは、彼らが何をして何をしなかったという判断ではなくて、これを人間がしているという事です。誰でもいつもこれをしているという事です。ここで、私達がヨハネの福音書で最後のところへきて、本当に悟らなくてはならないのは、噂話で、福音書を曲げてはいけないことです。イエス様が語ってもいないのに、まるで、夢を見た、幻を見た、イエス様から直接声を聞いたとか、色んな自分の様々な解釈と、自分勝手な感情で、聖書は曲げてはならない。イエス様はヨハネを生き永らえさせるような事は仰っていないんです。それを望むか、望まないかなどというイエス様が感情で仰る筈がないんです。ただ、ヨハネには後から使命がある。ペテロには今、その使命を渡さなければならない。イエス様にとってここが重要だったんです。ペテロにおいても今、自分の使命が物凄く大事です。それにも拘らず自分の使命はさておいて、ヨハネの使命に干渉してきているんです。ヨハネもペテロに今、イエス様が大事な話をしているのに、脇から入ってくるんです。これは自分の欲です。私達が生きている間にこれを繰り返しています。 『キリストに倣いて』という本の中で、ある作家は、こう言っています。自分の分を越えた人は怒りやすいと。自分の分を越え、分量を越えて、使命を越え、責任を越え、イエス様が与えているタラントや能力を超えて考える人は怒りやすい。この怒りやすい人は常にこうなんです。疑い、人を干渉し、他人についてばかり、あれこれと詮索し、言わなくていい事まで言い、聞かなくていい事まで聞き、そして自分の仕事は全部ないがしろにしながら、他人の仕事に非難を加える。あの人はこう言っていると告げ口します。自分の分を越える人は必ず怒りやすい。他人に干渉して、他人に怒り、他人の事ばかり気にしているけれど、自分の仕事は全部疎かにする。自分の仕事は何にも達成しない。自分の仕事に関して、使命に関して、自分にもらったタラントに関しては、無責任なんです。だから、聖書に書かれている1タラントがそうだったんです。1タラントは5タラント貰った人や、2タラント貰った人ばっかりが気になっちゃうんです。そして自分の貰った1タラントは全てないがしろにしていくんです。あげくに神に逆切れしていくんです。文句を言います。だから、自分の分を越えることはどれだけ罪悪なのか?という事を考えなくてはいけない。今ペテロはそうでしょ?自分の分を越えてヨハネに干渉している場合ではありません。自分こそが殉教するという重い、重責を担う使命を頂いて、福音を語るという、本当にイエス様が一番望む神の国の一番大切な仕事を与えているにも関わらず、自分の仕事をどうするべきか?何が正しいのか?イエスの望みは何なのか?考えなくてはならないのです。それなのに質問したのは、あの人は?でした。自分の使命に対してはこんなに疎かにしながら、あの人は、この人はと、気にしています。これこそ一体何か?パウロが言っている通りです。 ローマ12章3節


~私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。~


本当に思い上がらず、慎み深く、謙遜で謙虚でありなさい、と言って教会の中に色々な器官があると、パウロが言っているんです。様々な器官があって、様々な器官がイエス・キリストの一つの体を担っている。そしてその器官は、私がこれだ、私こそあれだ、と言ってはいけないと、言っています。ここも同じですよね?あの人はどうですか?この人の仕事振りはどうですか?それを言う前に、自分の仕事は?今自分の与えられているポジションは?自分がやるべきことは?でも自分の仕事には全部無責任に、やりたくない、こんな仕事は私は望んではいない。と言いながら、他人の仕事に一々口出し、他人の仕事を裁き、他人の仕事については一々非難していく。怒って、妬んで、これこそ私達が致命傷でやってしまう事ですよね?本当にクリスチャンが、ペテロではありませんが、やっている事です。今私達は、本当に神様に、「福音を語りなさい。聖くありなさい。命令に従いなさい。律法を守りなさい。」と様々な命令や警告を受けているのに、これに関しては本当に無頓着でありながら、他人の仕事の失敗や他人の仕事の成功にどれだけ関心があるのか?自分に関係がないにも関わらず、過敏です。そして一々イエス様にあの人はどうですか?こうですか?と祈りにまで加えて、他人を裁いています。私達の祈りがこんなに幼稚であるならば、神の国は立ちませんよ、当然ながら。キリストの体が当然愛の絆で結ばれるはずがないですよね?当然、争いと妬みと分派、分裂、党派心、こんなものしか起きません。そして私達が自分の、本当にイエス様に与えられたタラント通り、恵み通り、そして与えられている能力通りに生きるということは、他人に冷たくていいことではないはずです。自分の仕事に忠実なら、他人はどうなってもいい。自分の仕事を果たしたので後はどうなってもいいわけありません。イエス様が仰ったのはそういう意味ではありません。慎み深くあれ、謙虚であれ、謙遜であれ、です。「私の仕事」ではなく『私達の仕事』です。「私の国」ではなく『神の国』です。「私の成功」ですか?違うでしょ?「神の栄光」です。それを考えたら、私の仕事はここで終わるはずありません。私の使命を果たしたから、他人が隣で転んでようが、落ち込んでようが、失望してようが、絶望してようが関係ない。これはもうキリストの体ではないんです。憐れむ心がない、それはもうキリスト者ではなくなります。イエス様が直接サマリヤの隣人で教えていますよね?礼拝が忙しい、祈りが忙しい、あぁ教会に行かなければ、それで隣の人が死にそうであるのに、教会が大事、礼拝が大事、祈りが大事、献金が大事、形が大事なんてあり得ないです。どう考えたって律法を全うしていないんです。親不孝もそうです。兄弟喧嘩もそうです。怠けて勤勉でないのも同じです。 だから、ここで言っているペテロの態度も、ヨハネの態度も、どちらも違います。私達はイエス様が語られるまで、待つしかないんです。イエス様が与えられる使命に、従順であるべきです。割り込んで、横入りして、自分も仲間に入れてくれ、これが教会という概念ではありません。違います。皆お手手繋いでゴールする所ではないんです。イエス様と一対一で向かい合う場所。イエス様の命令をどれ程忠実に守れるか?それが問われる場所です。誰が守っていようと、誰が守っていまいと、私はどれだけイエスに忠実なのか?他の牧師や他の教会、他のクリスチャンは関わってないんです。私がどれだけイエス様に誠実でいられるか?これが全てです。他人も、他人の教会も、ノンクリスチャンもクリスチャンも関わりなく、私が今誠実かどうかが、一番重要ですよ。私がこのみ言葉にどれだけ従順しているかが、全てです。それをこの人は、あの人はと言っているうちは、イエスに従順する気がないんです。人の仕事に割り込んでくることもそうです。人の仕事だけがいい仕事に見えて、自分の仕事だけは、もの凄く見下された、差別された仕事と思いこみ、この考えをもっている限り、1タラントにしかなれません。神が与えた使命、神が与えているタラント、神が与えている能力は、全部神からきたものは、聖いものです。何一つ捨てるものはないんです。何一つ、愚かで無知なものはない。全部が秩序に適っていて、全部が神の知恵によるもので、全てが神の国の利益のものです。神がくれるものは、全てそうです。神の善です。でも、私から出るものは何ですか?汚物しかないです。妬み、嫉妬、怒り、これ以外出せない殺人者で、姦淫する者で、偶像礼拝者で…アダムの堕落以後全ての人間がそうです。私をはじめ、たとえ使徒たちでさえそうです。違いますか?余りにも腐敗して、堕落しています。イエス様の意志でなければ、イエス様の摂理でなければ、神が導いてなければ、人は間違えるんです。もっと悲惨なのは、神に反逆する。神の国をぶち壊す。人の足を引っ張り、盲目が盲人を引っ張るように、です。ここまでしてしまうんです。だから、私達の不従順は、深刻です。私達の全ての問題は不従順です。能力の問題ではありません。不従順です。そして不信仰です。イエス様を信頼しない。これが、今ペテロとヨハネの会話の中で一番問題だったのです。不従順と不信仰です。イエス様から恩を受けて、恵みを受けたにもかかわらず酷い態度しかとれない。これが不信仰です。次には、自分の事しか考えないことです。神の国も、人の霊魂も関係ないんです。神の栄光だってほとんど関係がなく生きているんです。ただ、私がどう思ったか?どう考え、どう感じているか?どうしたいか、どう願っているか。これしかありません。今何と関わっていますか?隣人と、神と関わっていますか?そして、このペテロやヨハネのようにイエス様に言ってしまうんです。祈りの中で、仕事の中で、生活の中で、「どうせ私は…」これは卑怯な言葉です。恩あるイエス様に対して。違いますか?あなたを創り、あなたに与えた恵みを落としてしまうんです。あなたを救った神に対して、こんな事しか言えないんです。どれ程優秀だったから、どれ程この世で成功したからって、神の前で誇れるものなど人にはありません。何故こんな自惚れができるのか?この世でも恩人に対してこんな失礼なことしません。どうせ私は…という不貞腐れた態度を神に簡単にしてしまう。これは神に頂いている恵みを、ないがしろにする仕打ちです。本当に神からの恵みは無かったんですか?本当にしてもらわなかったんですか?神はどれだけあなた方を憐れんだんですか?どれだけあなた方に恵みを下さったんですか?そんな事はもう、本当に自分勝手に忘れていくんです。そして自分の気ままな事ばかり願いにして、祈りにして、そして大声で自信満々に、仕方ないと言うんです。私達のしている事はこういう事です。人間はこれしか出来ないという念頭が必要です。神に対してこれしか出来ないんです。私達の不従順を「私は分からなかった。」ときれい事のように済ませない事です。「私が過去こうだった?」言い訳に過ぎません。何の正当な理由にもならないんです。全てはこの自分の邪悪な心から湧き上がっているし、全ては捻じ曲がった腐敗したところからしか現れてないんです。それを分からなかったとか知らなかったという理由で済ませようとするのは、違います。もっと自分の捻じれた、汚れた、卑怯な部分をみるべきでしょ?どれだけ神に反逆しているかを、もっと観察するべきです。そうでなければ、あの人はどうですか?この人はどうですか?とペテロのように或はヨハネのように、横入りして、自分の分でもないものを横取りしようとして、どちらもやりますよ。或は隣人に本当に寒々しい心しか持てない。自分の事しか考えない。パウロが言ったように、血を吐くような、闘いです。自分の罪と、自分の不従順と。イエス様が『従いなさい』という従えの意味は、自分との戦いです。他人とではありません。 そして、このペテロに向かっては殉教者と呼ばれていますけれども、『殉教者』はギリシャ語でマルトゥス、英語ではマーター(martyr)と書いてあります。本当の意味は、『証人』なんです。『イエス・キリストを証しする』そういう意味です。だから、ペテロに向かって「あなたは、最後は死ぬかもしれない」これは、イエス・キリストを証しするという意味です。ペテロが逆さに十字架に架かったのは、皆さんが憧れて、美化し、感傷的に考える事ではないです。だから、死ぬことが大切なのではなく、キリストの証です。ペテロは死ぬためにそれをしたのではない。証しをするためにそれをしました。だから、イエス・キリストから貰わないと、証人になれないのと同様に、殉教者にもなれないのです。 殉教は必ずイエス・キリストを証しするもの。証しすることです。だからペテロは殉教する=あなたは証しをしなさい。とイエスに言われているんです。そして、ヨハネに至ってはこう呼ばれています。白い殉教者。ペテロが赤い殉教者なら、ヨハネは白い殉教者。と教会で長らく言われているんです。何故なら、ペテロは血を流し、証ししたけど、ヨハネは羊皮紙やパピルスの白い紙に福音を書いたからです。彼は彼で殉教者です。彼は彼でイエス・キリストの証人です。何故なら百歳までパトモス島に入っていました。それまではペテロが活躍し、パウロが活躍しています。ヨハネの本当の使命は黙示録を書き、そしてこの福音書を書く事です。そしてそれが、一世紀末に書く事が使命だったのです。パウロの時代とペテロの時代と、このヨハネの時代は根本的に違います。パウロやペテロはどんどん積極的に、闘いながら宣教を行った闘いです。ヨハネの時代は物凄いキリスト者への迫害が始まっている時代です。一世紀末だから。もうほとんどのクリスチャン達は殺される。牢獄に入れられる。財産を没収される。そしてローマに連れて行かれ、皆轢かれて死んでいく。そういう時代です、ヨハネがパトモス島から出た時代は。多くの人がこのヨハネが頼りです。多くの人が、イエスの弟子が唯一生きていたから、どれだけヨハネ先生、ヨハネ先生とすがったことでしょう。だけど、ヨハネは違うと言っいます。生き延びるような、永遠に生きるような、私は神ではないと言っているんです。ヨハネがここで言いたいのは『福音書だけを信じなさい』あの人か、この人か、と騒ぐのではなくイエスこそ神であったと語っています。そしてヨハネは、この忍耐の限りを人生で過ごし、本当に忍耐を尽くした百年という期間を経て、そしてパトモス島で聖書を書くという使命を受けます。スクリーンのように黙示録を見させられ、そして『はじめとおわり』をヨハネは見て、そして書いたのが、この『ヨハネの福音書』と『黙示録』です。だから、白い殉教者と呼ばれました。本当に福音を書かすために百年、主が待ったんです。この百歳になるまで主は待って、福音書を書かせようとして忍耐の限りをヨハネに要求してきたんです。何もさせず、何も出来ない、牢獄生活を何年もおくらせた後に福音書を書かせたんです。これはこれで殉教者で、これはこれで証人です。 だから、どちらにも使命があったのです。でも、イエス様の時に、イエス様の方法で、行われます。ペテロのやりたい放題、ヨハネのやりたい放題、ではないんです。聖書にはそういう失敗をした人が沢山います。ダニエルもそうでした。ダニエルが本当に朝も昼も夜も忠実に誠実に祈っていました。そして、この罪は自分達の罪、先祖の罪、神は本当に不正がない。だけど神の名の故に、神の栄光の故に、今本当に虐げられている私達ではなく、神の名が穢されている事において、立ち上がってくださいとダニエルも、もの凄く誠実に祈っていました。たった一人異国の地で。そのダニエルに終わりの時代を走馬灯のようにスクリーンのように見せます。でも当時のダニエルはこれを理解できなかった。とても怖れて気絶しそうになります。世の終わりの色んな出来事を幻で見た時に。そしてダニエルは直ぐにこう言うんです。「そして結末はどうなるんですか?」と天使に聞いてしまう。そしたら天使に言われます。「結末はあなたの知るところではない」です。「これはまだ封じられていて、これはまだ証されてはいない。あなたは、あなたの正しく忠実な道を行き、あなたはあなたの墓を設け、あなたの分を守りなさい」最後に天使にダニエルはこう言われるんです。恐ろしいはずです。本当にこれからイスラエルがどうなるのか?バビロンがどうなるのか?ペルシヤがどうなるのか?気になってしょうがないダニエルは、見せられてとても怖い、終わりの時代を見せられたダニエルは「結局最後どうなるんですか?」と聞きたいんです。でも、神にこう言われるんです。「黙りなさい」です。「あなたは遜って最後まで自分の道を全うすれば、それでいいんです。それ以外は聞いてはならない。これは神の秘密。封印されているもの。それまであなたは手を出してはいけない」これが神がダニエルに言った事です。 今、ペテロもそうです。ヨハネについては、終わりについては、あなたは知るべきではない。今、あなたがあなたの使命を果たしなさい。これを今ペテロに言って、そしてヨハネにも同じ事を言います。あなたは、あなたの使命を果たしなさい。これが、ヨハネの福音書の最後の本当に重要なところです。私達は、あの人がどうだとか、この人がこうだとか、あの教会の使命はこうだとか、知る必要がないんです。あの牧師はこうだろう、ああだろう、終わりの時代はこうだろう。知る必要がないんです。イエス様は常にこう言います。「あなたが知る限りではない」です。誰が後に何をしようが、です。国がどうなろうと、『わたしが決める事』あなたの知る限りではない。私達は何ですか?「はい、主よ。」と跪き、私に言われた私の使命を忠実に誠実に果たせばいいんです。しかもそれを、本当に喜んで感謝して、全ての神の摂理だけが、神の善だと思わなければいけないんです。この神が為さることが全て善である。私がやる事は全部悪なんです。私からは悪しか出ないんです。神は善しか行わない。私達は当然この神の善に従うべきなんです。そしてこの神の善は、知られている部分もあり、知らされていない部分もある。私が知る分量があり、知らなくていい分量があるんです。そして私がやるべき分量があり、やらなくていい分量があるんです。手を出さなければならない所があるけど、手を出してはいけない分量があるんです。わきまえなきければいけないでしょ。私が、私の使命を喜んで果たすために。しかもそれは、神の栄光、神の国、そしてしいては救われるべき人達の為です。それをいつまでも、怒りと妬みと嫉妬から決して離れない。自分中心から決して離れていかない。おぞましい限りです。これをキリストの体の中でするんですから。 私達は、この福音書をもらった事がどれだけ有難いのか、この最後のヨハネの言葉で本当に理解しなければいけません。


~これらのことについてあかしした者、またこれらのことを書いた者~


『これらのことについてあかしした者』というのは、現在進行形で書かれています。『今、証ししつつある』なんです。本当の本文は。だから福音は今も証しし続けられている、しかし、この『書いた者』は文字通り過去形です。これはこういう意味です。ヨハネは死んだ。だけど福音は今も語り告げられている。こういう意味です。ヨハネは生き延びている、まだ何世紀も生きているのではないか?ヨハネ先生が生きている限り、希望がある。それは違います。私達にとって大事なのは、福音書です。彼らは死にました。しかし、福音書は生きているんです。福音書は今も語り告げられている。だからヨハネは白い殉教者と言われている所以です。この福音書を残したからです。 証し人、証人、証言っていうものは一体何か?ユダヤ人の中では重要です。必ず目撃した。これ、重要です。証言するためには必ず目撃している人でなくてはならない。目撃した第三者が要求されます。自分の事を証言しても、認められないんです。これが、自分以外の人の証言でなくてはならない。で、二人以上でなくてはならない。これがユダヤ人にとっての証言です。そしてその最初にイエス様はこう言っています。「わたしは真理を証しするために来た」この真理はイエス・キリストでなくてはならないです。真理を証しした唯一の方です。そして、最後にこうです。真理の御霊がくれば、あなた方にイエス・キリストを教えるだろう。聖霊が目撃者として証言するという事です。だから、ヨハネ達は目撃しなければならなかったんです。弟子達は二人以上でなくてはならなかった。福音書が四つ書かれた理由です。その上に、自分の事は誰も書いていない。全てがイエス・キリスト、自分ではない他人を書いている。そして最後に、聖霊に依っているんです。これが、福音書が本当に真実で、これは嘘偽りがない。確かにこれを書いた人は死んだ。でも、今もこの真理は、この証言は、証しされ続けている。 私達に、新約聖書があることが、どれだけ恵みか。彼らは新約聖書がなかったんです。彼らは本当に聖霊に導かれていくしかなかった。だから、彼らは目撃するしかなかった。これを書くには、彼らは本当に証言に立っていなければならなかったんです。でも、私達にはそんなものはいらないんです。福音書で私達は信じて救われたのなら、福音書で信じて、最後まで従って行くだけです。何か夢を見て、幻を見て、手を置けば病人が癒されて、この奇跡が福音ではないです。福音は聞いて、信じる事です。聞いて、従う事。これが福音です。人間の感覚や妄想ではない。


~イエスが行なわれたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。~


これは本当に本に書けなかった、字に収められなかった、という物理的な事を言っているわけではないです。活字に出来なかった、羊皮紙が足りなかった、パピルスが足りなかった、そういう事を言っているわけではありません。インクが足らなかった、そういう事ではなくそういう物理的なものじゃないです。イエスは収めきれない。これが全てです。イエス・キリストの御業、イエス・キリストの力、イエス・キリストの救い、イエス・キリスト、この、人となって来た事、そして死んで葬られ甦った、この全ての事件、火の聖霊が下ったこの全て。語りつくせない、知りつくせない。私の脳には入れられない。人間は全部知れない。どんなに書かれても悟れない。どんなに正確に、十二人の弟子が一斉に、もっといっぱい書いてくれても、もっとたくさんの事件を書いてくれても、もっと具体的にイエスを証しても、知り得ない。受け入れられない。収められない。私達は理解できない。これを最後に書かれています。 確かにヨハネは精一杯証ししました。ペテロも精一杯証言して、パウロにとって偉大な書物です。パウロの手紙は。それでも収めきれない。分かり切れない、理解出来ない。神の業は私達には知り得ない。これは天使さえも神の全ては知り得ないんです。それが全知全能と言うもの、それが創造主、それが神という概念です。それを考えた時、神の性質そのものが善だというならば、私達は善という概念、定義を聖書に合わせ、自分の考えを壊さなくてはいけません。何故意見できましょう?ただ従うだけです。 今日でヨハネの説教は終わります。私自身自分の間違ったイエス像、聖書の言葉の意味を改めさせられました。でも感動しました。嬉しくてなりません。本当の真実が聞かされたことに喜びが心に溢れます。今まで間違った解釈を聞かされてきたからです。それは実に人間的でした。でもこの榊原牧師の本は、真実を教えてくれたからです。勿論この本をそのまま語ったのではなく、カルバンの解釈を基本としています。それは今までの価値観をひっくり返す、神の位置で語られたものです。人間は神の事を知らないけど、神は人間をよく知っています。だから神の位置で語られる方が真実です。人間の感覚は当てにできず、間違いだらけです。神の知識は大切です。自分が信じ礼拝する相手を知らずに拝むことはできません。 このヨハネを読んだ人がイエス様に近づくことを祈ります。

Yokohama Glory Church

イエスは言われた。 「わたしは、よみがえりです。いのちです。 わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者は、 決して死ぬことがありません。 このことを信じますか。」 ヨハネ11章25,26節

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