ヨハネ福音書21章15-19

~彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」~


ここは、とても有名な箇所です。そしていろいろな解釈のある中で、ペテロにイエス様が三度「わたしを愛しますか?」と質問されたのは、ペテロが三度、十字架で裏切ったからその罪の赦しであると言う人もいれば、ギリシャ語の愛の定義が、イエス様が言っているのと、ペテロが答えている愛の定義が違っていた、と色んな解釈がある中で、私達はそういう細かい所を一々見ることだけにとらわれないようにしたい。イエス様が三度ペテロに向かって、「わたしを裏切りましたね」というような罪の赦し的なものではなくて、この人達以上にわたしを愛しているか、という質問だったという事を、私達が今日本文を読む時には一番考えなくてはならない所です。このイエス様が言った愛と人間が言っている愛が違うとか、そういう事は今重要ではありません。そして、ペテロが復活したイエス様と会うのはこれで三度目です。なのに、三度目に一々十字架で裏切った罪を赦すというのはおかしいんです。それなら最初に復活された日曜日の夕方、安息日の日にペテロは当然イエス様に赦しを請うでしょう。イエス様だってあの時ペテロに赦しを与えなければ、会っていられません。しかも、二度目もまた会っている。なのに、その時はその話はなかった。もう既にイエス様とペテロが会った時には罪の赦しはあったとみる方が正しいです。この三度目に会って初めて罪が赦されたというのは考えにくいです。イエス様が復活した日にペテロは当然その事を思い返していますよね?三度イエス様を裏切った事実は簡単に忘れられるはずがありません。そしてイエス様も忘れている筈がないです。だから、安息日の復活した夕方にはもう、ペテロとイエス様は会っているので、その時はもう当然、罪の赦しは行われていますし、二度目の時は更に行われているはずです。そしてここは三度目ですよね? 三度、復活したイエス様とペテロは会っている場面です。だからここは、罪の赦しという概念で見てはならないです。イエス様はそんなしつこい性格ではないし、ねちねちした性格ではないはずです。神様が一度赦すと言われたら、思い返さないと聖書にあります。だから本当に悔いたペテロに向かって、しつこく罪を追及する神ではないです。ここではむしろ『従いなさい』という、ペテロに向かって任命している場面だととらえなくてはならない。ペテロがこれから再生してやり遂げなくてはならない仕事があって、神は特にここで個人的に、ペテロに向かって話しているのは間違いないんです。他の弟子達とは区別しています。そして、他の弟子達だってその時、ガリラヤに帰っていて、漁をしていますよ。でも、イエス様が呼んだのはペテロだけです。ここは確かにペテロ個人に対する任命だったんです。そしてペテロ個人に、『従いなさい』という仕事への命令でありました。そしてそれ以上に殉教の命令だったんです。「後にあなたは必ず殉教する」これがこの場面の一番重要な内容になっています。でも、他の弟子達には言っていません。という事は、殉教は誰にでも言わないという事です。「死になさい、あなたは後には必ず殉教します」と言われた事がある牧師先生の証を聞いたことがあります。だけど全ての牧師ではありません。今日の本文はペテロに牧師になりなさいという任命ではないです。イエス様とペテロのガリラヤでの最後の会話は、罪の赦しというよりは、殉教の啓示です。でも、確かにイエス様が三度ペテロに向かって「わたしを愛しますか?」と繰り返し聞いていたのは、確かに、「あなたは鶏が二度鳴く前に三度私は知らない」という、三度という数字はイエス様が当然比較はしています。でも、それは罪を責めるという類のものではないです。使命への任命です。その時に三度繰り返すのは、憶えさせるためです。「あなたは三度裏切ってわたしを知らないと言ったけど、しかし今回は三度わたしを愛していると言った。だから、今度こそわたしに従いなさい」という意味でイエス様は三度確認されます。ペテロを何度も責め立てている訳ではないんです。ここは責め立てているというより、新しい火の聖霊を受けた後のペテロへの任命、啓示、預言です。必ずあなたは殉教しなければならないという預言を今ペテロは受けている。 イエス様がこの事を何故聞くかというと、最後の晩餐、過ぎ越しの祭の食卓の時もペテロはこう言うんです。「たとえ他の人が裏切っても、わたしだけはイエス様を決して裏切らない。」とペテロは言っています。その前にも、「私は命を懸けて必ずあなたを裏切ったりはしない。」と彼は言っている。彼はいつも言葉でこの人達以上に私は熱心だ、この人達以上に命を懸けて私はあなたに従う、とペテロは今まで何度も言っています。その上に全ての人が「ひどい教えだ。」と離れていって、イエス様の弟子さえも離れて行った、と書いてある時に「あなた方もわたしを捨てていくのですか?」とイエス様に聞かれた時も、ペテロはこう言います。「いいえ、あなたを離れて何処へ行きましょう。あなたこそ、永遠の命を持っておられる方なのに。」と答えたのもペテロです。そして、「あなた達は一体わたしを誰だと言いますか?」と言った時に、ペテロだけがこう言ったんです。「あなたは生ける神の御子キリストです。」そしてイエス様は、「あなたに天の御国の鍵を預けましょう」とイエス様がほめました。ペテロはいつも、こう答えてきているんです。勿論それは天の父が言わせたと、書いてあります。そしてイエス様もペテロに向かっては「今あなたはわたしについて来られないけれども、後にはついて来る事が出来る」とイエス様はペテロに向かっては言っています。その後ペテロがたとえ三度イエス様を知らないと言うとしても、わたしはあなたの信仰がなくならないように執り成しました。だから、サタンがあなたを振るいにかけても、あなたは必ず立ち直るから、その時にはあなたの兄弟を励ましなさいともイエス様は言っている。これも、ペテロに言っているんです。もう既に「この人達以上に絶対あなたに従う。」と最初から言ってきて、そしてイエス様も、「今は出来ない。今は絶対わたしを裏切るだろう。でも後には絶対わたしに従うように、わたしがさせる」と言っています。 でも、この一連の出来事をカトリックは、ペテロにだけ天の御国の鍵を預け、だから、教会の頭はペテロであると言ってローマ教皇はペテロの跡継ぎみたいな事を言っていて、カトリックの頭がペテロになってしまっている。でも、これは間違った事なんです。イエス様がこの時ペテロに言っているのは「わたしはわたしの栄光のために、わたしはわたしの教会のために、あなたを使う」は言っているけど、教会の頭だとは、言っていないんです。ペテロは教会の頭のはずはないんです。教会の頭はイエス・キリスト以外あり得ないからです。でもカトリックはそれを曲げて、解釈を違えて、教会の頭はペテロだとか、天の御国の鍵を預けられたのはペテロだから教皇はペテロだ、と今の今までもカトリック教会は間違った考えでここまで来ていますが、ペテロは決して教会の頭でも土台でもないです。それをイエス様が今ペテロに言っている訳ではないんです。ただ、わたしはわたしの教会を建てます。わたしはわたしの栄光を現わします。だからあなたが今まで言ってきたことは本当ですか?という確認です。あなたはこの人達以上に命を捨てると言ったし、あなたはわたしに従うと言ってきたし、あなたはわたしに永遠の命があると言ってきたし、あなたは、わたしを生ける神の御子キリストだ、と偉大な信仰告白をしましたね?という確認です。わたしを愛していますか?は以前あなたが三回裏切ったけど、でもあなたが言ったあの言葉は本当ですよね?という愛の確認です。罪の赦しとか罪を責め立てている訳ではなく、ペテロは今まで、私は他の人があなたを捨てても、私は捨てない。決して私はイエス様を裏切ったりしない。あの言葉を思い出しなさい、です。だから、イエス様が三回もペテロに聞いているんです。あの時言った言葉は本当ですか?あの時あなたが告白した信仰告白は本当ですか?だったら、わたしに従いなさい。というのが、今日のイエス様とペテロの会話です。 罪を赦したとか、愛の定義が違ったとかそういう事ではなく、イエス様が圧倒的に一方的に任命しているんです。ペテロを選んで。そしてそれは、牧師になりなさいという意味ではないです。羊を養いなさい、牧しなさい、と書いてあるけれども実際にその時、網を下して捕まった魚が百十三匹、だからこのように大漁に人間を獲る漁師とすると言ってはおられるけれども、牧師になれと言っている事ではないです。それ以前に語ったように「あなたは生ける神の御子キリストです。」と告白した後に「わたしはこれから十字架に架かって死にます。」弟子達の前で初めて十字架の死をイエス様が啓示します。その時ペテロはどうしました?引き寄せて「イエス様あなたは死んではいけない。イスラエルの王となって私達は大臣になり、右と左に立ってあなたのために命を捨てて、あなたのために家族を捨ててきたんだから、私達に報いろと、イエス様を彼は戒めようとします。その時イエス様は「引き下がれ、サタン。あなたは人間の事だけを思って、神の事を何一つ思っていない」と叱られます。その事を思い起こさせるんです。弟子達の中で一番争いをするのが、今与える任命ではないんです。わたしが言っている牧者は、牧師は、羊のために命を捨てる。神の羊ために命をすてるのが、わたしメシヤとしての、救い主としての仕事です。わたしはこのために来たのです。天の父の御心に叶うために、わたしは十字架で死ぬために来たんです、と説明した時にペテロはそんな事はしてはいけない。メシヤは王にならなければいけない。栄光に輝いて力と権力を振るっていなければいけない。ローマ皇帝のように、権力を使いなさい。力を発揮しなさい。奇跡を行って皆を権力や支配で鎮めさせ、統治させなさい。というのは、ペテロ達の求めだったんです。でも、イエス様は「いいえ、わたしはそんな事のために来ていません。わたしはあなた方の足を洗いに来たし、あなた方に仕えるために来たし、わたしはあなた方を救うために命を捨てるんです」イエス様が羊を飼うと言うのはこういう意味だったんです。でも、ペテロは悟らないうちは「いいえ、あなたは死んではいけない。いいえ、あなたは権力を振るって、私達を大臣にし、一番にしなさい。」ペテロ達の求めはこれだったんです。でも、イエス様はそうではないと言い続けた。でも悟らなかったんです、その時の弟子達は。 でもイエス様は実際本当に死んでしまったんです。現実に、だから今復活したイエスと会っています。だからペテロもいい加減理解できたはずです。メシヤが何のために来たか?救い主とは一体誰なのか?羊を牧するとはどういう意味か?命を捨てる以外ないんです。自分を捨てる以外に使徒の仕事は出来ない。ペテロは目撃していますよね?イエス様が何をしたか。死んで死刑になって甦ることにおいて人を救うというその御業もペテロはもう既に見ています。だから今、わたしの羊を牧しなさいとは、どういう意味か、もう反発しません。もう「いいえ、私は大臣になる」とか言えなくなります。牧者が一体どういう事をしなければならないのか。もういい加減ペテロは少なくとも見ているんです。イエス様が何をしていたのか。権力を振るったわけではない。支配したわけではない。ただイエス様は死ぬために来られたと、仰ったとおりの事をなさっている。イエス様を目の前にして今、ペテロはもう「いいえ。」とは言えないです。「そうです。はい、主よ。」と言うしかないんです。だから、「羊を牧しなさい。わたしを愛していますか?」とは「わたしに従いなさい」と同じです。そして、しいては殉教しなさい。あなたは今までは自分勝手に大臣になるとか言ってきたけれど、弟子の中で一番になるとか言ってきたけれど、もうここからは違います。わたしが死んだように、あなたも死ななくてはならない。わたしが自分の命を捨てたように、あなたも捨てなくてはならない。今、これを言われているんです。だからペテロにとって軽々しい言葉ではないですよね、これは、もう既に。「わたしを愛しますか?」「主よ、私がどう思っているか、あなたはご存知です。」と本当にペテロは、最後には苦しく答えています。そんなに意気揚々とハレルヤ!と言って、大喜びで愛しますというような言葉ではなかったんです。殉教しなさい、と言われた言葉で、実際にイエス様は先に逝って行かれた道です。十字架の道に従いなさいと言われるんです。簡単に言える言葉ではありませんでした。もう、頭を垂れるしかない。もう額ずいて主の前に祈るしかない。 ペテロの福音書、或は他の人が書いた中で、確かにローマでペテロが殉教したところは書かれている書物があります。その時ペテロが十字架で逆さに死んだという記事もあります。それが史実かどうかという以前に、ペテロが何故十字架に逆さに架けられたかは、想像するしかないですよね?何故その時ペテロは普通の十字架刑だったのに、逆さになったのか?あの激しいペテロだからそうした、とか言う人がいるかもしれないけど、私は本当に最後にイエス様とペテロの会話を読んだ時に、その十字架刑はペテロの晩年のときです。長い人生で沢山経験をつんだあとに死にます。ペテロは若いうちに殉教しているわけではない。相当年齢が経って熟練して、イエス様との付き合いも本当に深くなっていて、火の聖霊を受けているペテロです。この時より、更に信仰心は深まっていますし、イエス様の事を更に理解した上で死刑になっているのです。その時のペテロは本文の時のような幼稚な考えで、激しくて興奮しやすい性格で逆さになったとは、私個人は思えないです。年齢も重ねていて、そしてイエス様との会話もたくさんしてきたペテロが、まだ興奮してそんな事言ったとは思えない。では何故ペテロは逆さにしてくれと頼んだのか?私は私なりに考えます。それは興奮したとか、イエス様の弟子だから師匠と同じようにはいかないとか、そういう感情的なこととは思えません。イエス様は十字架に架けられましたけど、イエス様の十字架は自発的だったんです。神の御子として、メシヤの仕事として、そのためだけに来ましたよね?でも人が実際に殉教するときは、自発的かと問われたら、決してそうではありません。神の恵みに依らなければ無理です。人は神にそれだけの力をもらわないと、殉教なんかできないです。むしろ、殉教は賜物ですよね?天から下ってきていないと、殉教なんてできません。もう一度、ペテロだって裏切ります。神の力なしには誰でも不可能です。もう一回十字架刑の時に、ペテロは逃げる事だって出来ます。上手に逃げて、信仰ある振りはいくらでも出来るじゃないですか?だから、一旦はペテロだって帰ろうとしたといわれている。その時イエス様が来て、一緒にローマまで行ったという話です。ペテロだって殉教をすんなり受け入れてはいない。殉教は神が力を与えないと、無理です。しかも、これはプレゼントです。そしてこれは、神が決めた人しかやらせない。これが殉教の本当の意味です。殉教する時のペテロはそれをもう十分理解する年齢に達しています。イエス様の十字架の死と、自分の死とは意味が違うという、区別をつけたんではないかと思います。イエス様は神として自発的に、本当に人類の為に命を投げ捨てられたけど、自分はそのような者ではない。だから、今十字架に架かれる勇気は神にもらっている事を十分ペテロはもう知っています。自分の自発的な殉教ではない事を。その区別をつけたかったのではないでしょうか。イエスの十字架の死と、私のは種類が違う。私は神からもらった力でしかやれない。でも、イエスは自発的にやった。誰から力をもらったわけではないんです。イエスはそのためだけに来ていた。でも、私は神から力をもらわなければ、この殉教さえも出来なかった。ペテロはイエスと同じように敬われて、皆がペテロを崇めるようになることを、ペテロは望みますか?望みませんよね?皆がイエスのごとくにペテロ様とあがめられるのをペテロが望んでいるとはとても思えません。私はイエスではない。私はメシヤではない。私は救い主ではない。ペテロはそれを区別したかったんではないか。私はたかが人間にすぎない。でも、イエスは神だった。その区別をつけようとしたとしか思えないんです。 ペテロが偉大だったというより、イエス様の栄光が現れるためです。 でも、これを書いたヨハネは殉教していません。老衰だとは言われていますけど、ヨハネについても二世紀頃にアレキサンドリアで、カトリックの教皇が書いた書物があって、それは事実だ、とそこには書いてあるけど、それが事実かどうか分からない。でも、ヨハネの物語というこの後が書かれていて、それはヨハネがパトモス島を出た後は、エペソに行き、エペソを拠点としてその近辺の教会に仕事に出掛け、長老を立てたり教師を立てたり牧者を立てたり任命したり、という仕事をしていた。ある街に出かけた時に、そこで目に付いた本当にハンサムで健康そうで、利口そうな利発的な青年を見つけて、そこの教会の牧者に「この青年はあなたに預けていきます。この青年を育てなさい。」とヨハネは言ったと、書かれているんです。そしてヨハネはまたエペソに帰って行って、しばらく経ってその青年を、その牧者は自分の家に引き取り養い、育て、食べさせ、聖書を教え、祈りを教えて、そしてその青年がとうとうイエス・キリストを受け入れ、洗礼まで受けた。そこまでやったら、その牧者はその青年を「もう自立させればいい。」と言って手を離すんです。でも、その青年がその後にどうなるかと言えば、盗賊の誘惑を受け、盗賊の仲間に入り、元々利発で健全でハンサムで力があるから、当然盗賊のボスになってしまいます。力がある分だけ、まとめていきます。そしてとうとう、盗賊のボスにまでなってしまいます。堕落に堕落を重ね、そしてそこまで落ちてしまった後に、何年かしてヨハネがまたその教会に来た時、教会の牧者に向かって、「私が預けた委託金を返しなさい。」とはじめに言ったと書かれています。その委託金は一体何だろう?そんなお金は貰っていないのにと、その牧者は思ったけど、「あの青年の魂を私に見せなさい。」とヨハネが言ったと書いてあるんです。「預けた青年は何処に行きましたか?」そしたらその牧者はポロポロ泣きながら「あの青年はもう堕落して、盗賊のボスになってしまった。」と泣いて告白した。するとヨハネは、「なんてことしたのか?」とその牧者を叱り、馬に乗って年老いたヨハネは、その盗賊の所へ行き盗賊の見張り人に捕まって、「あなた方のボスの所へ連れて行きなさい。」とヨハネが言い馬に乗って、そのボスのところに行った。老人が歩いて来るのを見て、その盗賊のボスはその馬に乗って来るのがヨハネだって気付くと、逃げてしまったのです。怖くて逃げてしまう。恥ずかしくもあっただろうと思います。逃げてしまったけど、ヨハネはそんなに年老いたのに、走って追いかけて「待ちなさい、そこで止まりなさい。」と言って、「イエス・キリストはまだあなたを赦すと仰っている。まだあなたは望みがある。だから、止まりなさい。イエス・キリストはあなたのために命を捨てたけれども、でも、私もあなたのためなら命を捨てますから、だから止まりなさい。」とヨハネは叫んだと言うんです。その時に青年は立ち止まって、泣いて悔い改めたという話が書かれている。青年をヨハネは連れて行って、一緒に最後まで祈ってあげて、断食も何度もさせ、その罪を本当に悔い改めるまで、つきっきりでヨハネはその青年の霊的な世話をした。と、その書物には書いてある。 長いストーリーを今簡単に説明したんですけれども、ヨハネが最後に言った台詞も「主は私のために命を捨ててくれたので、私もあなたのために命を捨てる。だから、あなたはもう一回立ち返らなければいけない。イエスはあなたを呼ぶために、私を遣わしたのだから。」とヨハネが言ったと書かれてあるんです。だからペテロにしても、ヨハネにしても、晩年、それをもう理解しています。イエスが何のために来て、何のために死んだかは、理解しているんです。そうして彼らは最後に殉教の力ももらっているし、最後にその賜物ももらっていて、最後までそれを全うしていきます。 でも、それはペテロやヨハネだけではありません。キリスト教の歴史の中では、このような殉教者は本当に沢山います。そのような話は本当に書物に書ききれない位、沢山の人が命を捨てています。そのいくつかだって、私達は知っています。サンダー・シングの本にも、カルタル・シングというインド人はヒンドゥー教の家で大金持ちの息子でした。跡取り息子。でも、彼は恋人がいたにも関わらず、その恋人とも別れ、家も捨て、財産も捨て、一人、宣教の道を選びます。イエス・キリストと出会った後。そしてそのカルタル・シングが入った村でカルタル・シングは結局死刑になるんです。三日三晩木に吊るされて三日間革の縄目で苦しめられて死ぬっていう場面の時に、その村人の一人が、カルタル・シングは最後に神を呪うだろう、最後は神に恨み言を言うに違いない、と言って三日三晩その村人の一人がカルタル・シングを見張っていたんです。そして、いつか神を呪って、いつか後悔するに違いない、と思っていたのに、カルタル・シングは最後まで平安で最後まで主を褒め称えつつ、そして最後に「私がもう一回、いや一万回生まれ変わったとしても、一万回私は殉教する。たとえ私があと一万回死んだとしても、神が私にしてくれた恵みに返す事は出来ない。それを返すに値しない。」と彼は言った、と言われているんです。そしてそこの村は、最後まで神を裏切らなかったカルタル・シングを見て、村全員がイエス・キリストを受け入れて、全員がクリスチャンになった。その後に、サンダー・シングが来るんです。それでサンダー・シングがここを宣教しようとした時に「もう既にイエス・キリストは知っている。私達はイエス・キリストを受け入れた。」と村人の話を聞いて、「誰が宣教しましたか?」と聞いたら、カルタル・シングの話をしたんです。そしてサンダー・シングが町に下りて行って、カルタル・シングの証しをしている時にそこで一人の老人が泣きながらその証を聞いていた。その老人はカルタル・シングの父親だった。そのカルタル・シングの父親は息子を追い出して、息子と縁を切っていたけど「自分の息子はこんなに偉大な仕事をしていたのか?」と言って、彼もまたイエス・キリストを受け入れた。とサンダー・シングの本に書いてあるんです。そこに父親を呼んだのはイエス様だし、そして、そのようにその村全部を救ったのは、イエス様です。でも、神が殉教者カルタル・シングを派遣したからです。そのカルタル・シングは全部を捨てました。恋人も。そして、最後まで不平なんて言わなかったんです。一度たりとも文句を言ってないんです。一度たりとも後悔をしなかったし、それ以上に一万回また生まれ変わっても、一万回殉教する。でも、殉教したからといって、イエスに返せるものではない。と言っています。 私達は死ねばいいわけではありません。ここで言っているように、殉教は賜物です。イエス・キリストが与えたもの。だから、殉教は誇りではあるけれども、自慢ではないんです。 ペテロがこの時「主を愛します。」と口が重くなります。私達がたとえ死んでも、イエスの何かに返すとか報いたとかそういう事ではないです。そんな風に自分を主人公にし、自分の殉教を誇り、それが神の栄光だと思い込むなら、自殺です。 だから、口に軽々しく殉教するとは言えません。殉教は賜物です。神の恵みです。だから、死んだからと誇れるものではない。若かった頃のペテロはまだ分からなかったんです。でも、殉教を遂げる時にはもう理解していたはずです。イエスの死とは違うという事を。 日本でも外国から来た宣教師中で三浦綾子の本に出てくる人がいます。本土から北海道まで、昔は連絡船だったので、船の連絡船で行き来をしている時に宣教師が二人乗っていて事故が起こりました。彼らには浮袋が二つあったけど、船が沈む寸前にその浮袋を他の日本人に渡しているんです。そして彼らは当然死んで殉教していますけど、その彼らにはアメリカに小さい子供が居たんです。だから、その小さい子はお父さんが死んだ事を恨んでいました。何故お父さんを神様は連れていったのか?神を恨んでいたけれども、大きくなって三浦綾子に会いに来て、三浦綾子の小説に自分のお父さんが書かれた事が嬉しくて三浦綾子に会いに来たと本に書いてあって、そしてその娘は父を誇りに思うと、大きくなった時には、信仰心が育っているので、理解できました。彼らは死ぬと分かって乗っていません。咄嗟の判断です。もしかしたら0コンマ何秒の判断だったかもしれない。そんなにうかうかして船が沈む時に迷って祈って聞いてみるっていうような時間があるわけない。しかも、咄嗟に自分の死が迫っています。もう切羽詰まって水が自分ののど元を覆っている時に、浮袋を脱ぐなんていうのは、イエス様の賜物以外できません。決して自分の浮き輪を取れません。 神が命令しなければ、使命を与えなければ、その賜物を与えていなければ、誰もイエスの道は行けないんです。どんな職分も果たせません。全ては天から下って来るもの。人間自らやれるものは、何もないというイエス様が言っている通りです。殉教だけではありません。全ての事において、神の恵み以外人間は何事も自分からは出来ないです。


~私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。~


この聖句を簡単に理解するのは難しいです。イエス様を信じて救われていても、自分の中にイエス様がおられるという実感をどれだけ持てるでしょうか。人助けや教会の仕事で実感するものではないからです。でも一歩ずつ毎日イエス様と関わる努力が必要です。祈ることや聖書を読むこともそうでしょう。でもいつ、どこででも心でイエス様を感じることの方がもっと大切です。イエス様を考え思うことが信仰で、祈りで、礼拝です。 信仰生活は感情でもないし、一時の興奮でもありません。神をほめたたえる生活です。神は最もそれを望んでおられます。私が優れて、一番弟子になって、人々に認められることではないんです。誰に何と言われようと、イエス様に救われた喜びと感謝を捨ててはいけないのです。苦しく信仰の維持が難しい時代ですが、祈り勝利することを願います。

Yokohama Glory Church

イエスは言われた。 「わたしは、よみがえりです。いのちです。 わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者は、 決して死ぬことがありません。 このことを信じますか。」 ヨハネ11章25,26節

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