ヨハネ福音書19章31-37

~その日は備え日であったため、ユダヤ人たちは安息日に(その安息日は大いなる日であったので)、死体を十字架の上に残しておかないように、すねを折ってそれを取りのける処置をピラトに願った。それで、兵士たちが来て、イエスといっしょに十字架につけられた第一の者と、もうひとりの者とのすねを折った。しかし、イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。それを目撃した者があかしをしているのである。そのあかしは真実である。その人が、あなたがたにも信じさせるために、真実を話すということをよく知っているのである。この事が起こったのは、「彼の骨は一つも砕かれない」という聖書のことばが成就するためであった。 また聖書の別のところには、「彼らは自分たちが突き刺した方を見る」と言われている~


イエス様はご自身の意志でご自身の霊を自発的にお捧げになって、そして今日の本文は、イエス様が死なれた後に、十字架で起きた事件が二つ書かれています。『イエス・キリストの体の骨は一つも砕かれなかった』それと『血と水が流れた』というのが、ヨハネが書いている十字架上でイエス様が、自発的に積極的にご自身の霊をお渡しになった後、起きた事件の二つで、そしてその特徴として、ヨハネだけが強調している、特に力を入れて書いている所があります。そして、今日の読んだところの初めにあるように、その日は備え日であったとあり、安息日、すなわち安息日は大いなる日であった、と書かれているこの日というのは、普通の安息日ではないんです。大いなる安息日。八日間過ぎ越しの祭をする間、そのうちで種を入れないパンの祭や、色んな祭がこの時重なっていて、特に過ぎ越しの祭は一年に一度行われるユダヤ人にとっての大儀式なゆえに、地方からも大勢のユダヤ人が巡礼の旅でこのエルサレムに集まっている。その最初の安息日です。だから普通の安息日とは違って、大いなる安息日、と呼ばれている。そして、その安息日の前日、という事になるので、金曜日という事になります。何故なら、安息日は金曜日の夜から土曜日に掛けて行いますけど、普通安息日と言ったら、土曜日を言います。だから、安息日の前日或は、準備の日となると、その日は金曜日という事になります。だから、イエス・キリストが自発的にご自身の命を捨てられたその日が金曜日だ、という事です。その金曜日に起きている事件なんです。


~死体を十字架の上に残しておかないように、すねを折ってそれを取りのける処置をピラトに願った。~


と、書いてあるように、ローマ人の法律、ローマ人においての十字架の死刑は、そんなに早く死なないんです。二日も三日も、手首足首を釘打ちされているだけですから、徐々に弱まり、徐々に血が抜けて、そして本当に苦しみを与えて殺す、死刑なんです。だから、物凄く残酷な死刑なんです。十字架の刑と言うのは。それで、ローマ人においては、十字架で晒し者にすることに意味があるので、死体を取り除ける事はないんです。二日も三日もそのまま十字架につけたまま晒し者にするというのが、十字架刑の特徴なんです。でも、この日は大いなる安息日というのもあったし、それとは全く無関係にローマ人にとってもローマ皇帝の誕生日とか特別な日には死体を親族に渡す事はあったんです。例外的なものはあった。だけど、ユダヤ人にとって十字架刑の死体をそのままおいておく、というのは、ユダヤ人の戒律にはないんです。申命記でもモーセが命じているように「死体を次の日まで置いておいてはいけない。」という命令があって、ヨシュアもそのモーセの律法に従って、死体について扱っている場所があります。


ヨシュア記8章29

~ヨシュアはアイの王を、夕方まで木にかけてさらし、日の入るころ、命じて、その死体を木から降ろし、町の門の入口に投げ、その上に大きな、石くれの山を積み上げさせた。今日もそのままである。~


敵国のアイの王を木に吊るして死刑にしたんですが、日の入る頃の前、夕方にはその日の内には、その死体を下して、死体を埋めた、と書いてあります。これがモーセが命じたユダヤ人への戒律だったんです。必ず、敵の死体であれ、誰の死体であれ、木に吊るした呪われた者は、そのまま死体を残しておいてはいけない。必ず土に埋めなければならない。しかし、これはあくまでもユダヤ人の戒律です。だから、この日も大いなる安息日の上に、ユダヤ人の律法が関わっている。なぜならすぐに死ねません。十字架刑というのは、普通なら二、三日生き続きます。心臓だけは動いているので、脛を折るという方法があるんです。それは、命を縮める方法です。しかも、それでも普通ならやってくれない。だけど、ユダヤ人達が訴えたんです。自分達の戒律もあるけれども、今日は特別な大いなる安息日。過ぎ越しの祭で全世界からユダヤ人が集まっている祝いの一週間に、穢れた死体をそのままにしてはおけず、埋める事が自分達の習わしだと訴えたのでピラトが許可を与えた。普段なら許可を与えないのに、今日は許可が下りました。そして、その死体を下す事を許可されて、それで木で作った大きな金槌のようなもので、脛を折るというのが、常だったんですが、見た時に両隣の囚人たちはまだ生きていたので、脛を折られました。しかし、イエス様はもう息を引き取られていた。前回読んだところでイエス様は、二、三日ずっとそこに居られる気はないので、ご自身で自発的に、お命を自分で捨てた上に、父に自分の命を受け入れてください。と仰っているんです。ご自身で自発的に死なれたんです。だから、他の囚人は死ねなかったけど、イエス様の肉体はもう死体になっていたんです。だから、両隣の囚人は脛を折られたけど、イエス様の脛は折られなかった。というような事件が今、十字架上で起こっている。


~しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。~


ここは他の福音書で、ピラトはイエス様が死なれた事を、すでに報告受けたけれど、本当に死んだのか百人隊長に命令させて確認させます。そして百人隊長がピラトの命令を受けて、イエス様が本当に死んでいるかどうか確認をするために、槍で突いているんです。他の福音書と照らし合わすと、そういう事になるんです。本当に死んだかどうか、そして槍で突いた。と書かれてありますが、この突いたという単語は、ペテロが使徒行伝で牢獄に入った時、天使がペテロの脇を突いたという時の、突いたと同じ言葉です。そして、死体から血が出るという事はあり得ません。もう、死んだ人間というのは、心臓が止まるので、血がめぐっていない。もう血が固まっている。だから、槍で刺されても、血が出るはずがない。科学的な根拠から言えばそうです。だから、医者たちがこの聖書を研究する時に、この時、イエスは心臓破裂を起こしていて、血が心臓に溜まっていたから、死んだ後も、心臓を突いたとき血が出たのではないか。と説明していますけれども、でもここで言う、刺したとは、脇腹で心臓ではなかったし、その上に突いたというのは、グサッと刺したという意味ではないんです。本当に小突いた程度です。だから、少し脇腹を刺しても、イエス・キリストの死体から、しかも血液だけが出るならまだしも、水と血が一緒に出てくるはずはありません。この水というのは、血液が血清になったら水になって、血と血清が分離された状態です。だから血と水が出てきたという事は事実だという事です。しかも、本当にこれは、奇跡なのです。死体から血と水が出てくるというのは。しかも、少し脇腹を刺した程度で、死んだか生きているかを確認するくらいのものだったのです。その所から体中の血と水が流れたというのですから、本当に奇跡としか言いようがなかったんです。


~それを目撃した者があかしをしているのである。そのあかしは真実である。その人が、あなたがたにも信じさせるために、真実を話すということをよく知っているのである。~


と書いてあるように、その証をしたのは、当然この十字架の下で目撃した男性は一人しかいません。ヨハネです。イエス様の愛する弟子。ヨハネしか居なかった。でも、この著者はこう言っています。これは、本当に真実であった。本当の事だったと強調しているんです。イエスの脇腹から血と水が出たというのを、これは嘘ではない。本当の歴史的事実だったというのを強調していて、そして、それを証言するのは私と、私が証言したのを私が保証する的な言い方をしているんです。それ程執拗に言っています。これは、本当だった。何故なら、ヨハネが最後に生きていた一世紀末、或は二世紀にくると、異端者が沢山出てきて、イエス・キリストが神だったのか?という論争は、長い間続きます。だから、イエス・キリストの十字架上で起きた、血が流れた、水が流れたという事件は、この論争の中心にあったんです。何故なら、人間であったか、神であったかという論争の中で、血が出るという事は人間でしかあり得ない。でも、ほとんどの人は、イエスは天使の一人ではなかったのか?という人達がいるんです。天使の一人となって、アブラハムに三人の天使が訪れて、その時のような形で、私達には人間に見えても、実際は神であったのでないか。という人もいるし、その反対に、イエスは人間であって、神ではない。という人もいて、結局その論争が激しく、ずっと続くんです。イエス・キリストは血を流したのか、どうなのかという事が重要な証言になり、イエス・キリストは確かに神の子だったけど、人間でもあった、そのことを強調するために、それは真実だった、それは嘘ではなかった、を主張していたのも確かにありますが、でもヨハネが、私は私の証言を、私が知っているという事を、しつこいぐらい強調している理由は一体何だったのか?という事になります。その時に、これをヨハネが証言したものを、他の別の人が、また証言して保証しているのか?という解釈もある中で、でもそこには、他に女四人とヨハネしか居なかった。その中で、では誰がこれを証言したのか?ヨハネの証言を、証言したのは誰か。しかし、ヨハネは自分の証言は、神が証言する。自分が証ししていることは、イエス・キリストが知っている。と言っているんです。ヨハネはここで、真に、真に、という単語を使っています。「真に、真に、血と水が出た。イエスは死んでいるのに、刺したら血と水が出てきた。」これこそ、ヨハネの福音書の特徴です。その時血と水が流れた。

『それは、あなた方が信じる為です。』というのが、理由だったんです。この真実は、歴史的な史実だったことが、一つです。そして死体から水と血が流れた。これは聖書の成就だった。聖書の完成だった。これが真実の中に含まれているんです。これは、もう二千年前に、この時点で聖書は完成されてしまっている。聖書は成就してしまった。全ての事は起きてしまった。そして、もう取り返しがつかないほど、史実になってしまった。という事を「真実だ。それは、あなたが信じる為だ。」と言っています。でもここは、信じなかったノンクリスチャンが、信じてクリスチャンになるという次元のものではありません。分からなかった人が、突然はっと気づき、「あぁ、そうだったんだ。」という類のもので、「信じさせるためです。」と言ったわけではないです。信じた者が、もう既に信じている者が、ヨハネと同じ信仰に到達するように、という意味なんです。だから、もっと深い信仰を持つ為にです。もっと確実にこの史実が分かるようになるため。もっと確実にイエスの脇腹から血と水が流れた本当の理由を、あなた方が知る為に。という強調なんです。これはただ、知らなかった事を、「へぇ、そうだったんだ。」と知る事ではありません。曖昧な信仰では駄目だと言っているんです。「確実に知る信仰まで到達しなさい。」このことをヨハネが、「あなたが信じる為に、私は語った。」と言っているんです。

血と水が一体何だったのか?その後に、


~この事が起こったのは、「彼の骨は一つも砕かれない」という聖書のことばが成就するためであった。~


これが大きな秘密なんです。両隣の囚人達は死んでいなかったから、骨が折られました。でも、イエス様は、全身の骨が一本も折られなかったんです。そこを、ヨハネは強調しています。なぜイエスの骨だけが折られなかったのか?何故ご自身でその前に命をお渡しになったのか?普通に考えれば死なないのに、イエス様だけはご自身で命を捨てられている。何故だったのか?


出エジプト記12:46

~これは一つの家の中で食べなければならない。あなたはその肉を家の外に持ち出してはならない。またその骨を折ってはならない。~


これは一体何の骨を折ってはならないという命令かと言えば、どの家でも初子を神様が災害で殺すと語り、しかし、傷の無い子羊の血が門柱に塗られているその家は通り過ぎよう、とした時の屠られた子羊の肉を言っているんです。その子羊の肉を捌く時、血を抜き、その血を門柱に塗り、それを屠って、その日の内に食べなくてはならない、という命令だったんです。その日の内に肉は食べなければならない。その日の内に、子羊の血は門柱に塗らなければならない。そうすれば、あなた方の初子は死なない。滅ぼす者は、あなた方の家を通り越していこう。という過ぎ越しの祭の、その事件があった日に、命じられた命令だったんです。その子羊の骨は折ってはならない。というのが、命令だったんです。だから、聖書の成就だったんです。イエス・キリストの骨が折られないということは、過ぎ越しの祭で屠られた子羊、という表現なんです。もしイエスの骨が折られたら、子羊の血によって救い出す、という聖書が成就されません。ですから、イエス様は木の棒で脛を折られる前に、ご自身の命を絶たれているんです。そして、ご自身の骨は一本も砕かれないように守られるんです。何故?子羊の捧げものとして、神に捧げられなければならなかったからです。ご自身の血は人の罪の贖いの為に、人々に与えなくてはならない。これが、イエス様の十字架の目標だったからです。それだから、イエス様の骨は折られてはならなかった。だから、積極的に、自発的に、死ぬ時間をご自身で決めているんです。でも、ローマ人にとっては、死んだか死んでないか、命令されたから確認をとり、ただ生きている者の骨を折っているだけです。彼らには何の認識もなくて、分からずやっています。しかし、イエス様は、神様の計画は、初めからこのことが摂理であり、聖書の成就で、預言の通りで、イエス様が子羊として死なれる、という事の完成だったんです。その事が凄く大事だったんです。だから、ヨハネの福音書は、骨が折られなかった事、その事をあなたが、本当に信じる為だという協調を、何故したのか?イエスこそが、罪を赦すために過ぎ越しの祭の本当の主人公ではないのか?出エジプト記で、あなたの先祖がエジプトから出られ、あなたの初子が殺されずに、カナン地に入り、イスラエルという国を建てた方は一体誰だったのか?そして、この方は、本当の神の国を成就する為に今、ご自身の骨を折らずに子羊の任務を果たしておられる。その贖いの仕事を完成させたのです。これは、真実だった。だから、私は証言するし、神も証言する。と彼は何度も説明して、それは、あなた方のこの不信仰を止めさせるためだ。あなた方が従わず、神に反逆する事を止めさせるため、という意味なんです。「血と水が流れたのは、本当だ。」という強調は何だったんですか?エジプトを出る時、子羊の血を塗らなかったイスラエル人は滅んでいるんです。四百三十年も奴隷としてそこに居て、カナン地には入れなかったんです。あの子羊を屠って、骨を折らずに、その日の内に肉を食べて、その日の内に死体を下しています。その日の内に血を塗り救われたように、その日の内に血と水が流れた。それで、あなた方を滅ぼそうとする者は、あなた方を通り越していく。決して罪の赦しは血なしには贖えない。それが、旧約から神の命令だったんです。罪の赦しは絶対血の対価が必要だ。これが、救いの全ての根拠だったんです。だから、その血が流れたことを強調せずにはいられないんです。

だから、私はその証言者だ。そして神も証言する。死人から水が流れ、血が流れる事がどれほど普通の出来事ではないかを訴えます。イエスの骨が折られなかったのは、あなたが今祝っている過ぎ越しの、屠られた子羊だからだ。十字架上でイエス様がなされた事が一体何だったのか?イスラエルの人々よ、思い出しなさい。あなたが祝っている祭の本当の意味が何か考え直しなさい。という事を強調せざるを得なかったんです。異端者が現れ、イエス・キリストを人間ではないと言ったり、神ではないと言ったり、そんな異端者が一世紀末頃には、沢山現れている中で、血と水をなぜ流したのか?何故イエスの骨は折られなかったのか?聖書を読んだら分かるではないのか?あなた方はなぜそんなに信じないのか。それをヨハネが強調したいんです。イエス・キリストが一体誰だったのか?バプテスマ・ヨハネも、「この方こそ、この世を救う子羊イエス。」と叫んだのをヨハネは側で聞いていました。だから、バプテスマ・ヨハネも、そう証言した。この地を救うために屠られる子羊。その時はヨハネも何の意味か分からなかったけど、十字架上でイエスの脇腹から血と水が流れて、骨が折られなかった、あの事件を見て、バプテスマ・ヨハネが、自分の師匠が何を言ったかを、いよいよ理解したんです。だから皆さんも分かりなさい。イエスが意味もなく、死んだのではないことを。子羊として、今贖いの為に積極的にご自分の命を捨てた理由は、骨を折られない為だった。それは、子羊としての仕事を全うする為。だから、成就したとヨハネは言います。もう既に救いは達成している。これが、ヨハネの福音書の書き方です。子羊イエスの贖いは、もう完成されている。そしてそれは歴史の事実だ。

私達は十字架の歌を歌い、十字架上のメッセージを聞いて、それこそ、力だと言っているけど、どれ程理解しているか?今ヨハネがそれを言っています。「はっと分かった。」ではなく、本当に信じているのか?本当にその事を理解しているのか。そして、「信じた者が必ずこの方を見るようになる為だ。」と言っています。後にこの方を見る為だと言っているんです。どういう時ですか?栄光の雲に乗って再臨する主を必ず見ると言っています。そればかりか、滅びる者さえ神の審判の前でこの方を見なければならない。全ての被造物が、後に屠られたイエスを知るようになります。死んで、甦った方を、やがて必ず救われた者も、救われない者も、見る日が来る。このことをヨハネが言っています。必ずあなたはいつかこの方を見るんです。これは、全ての人間です。この方は誰だったのか。死んでも血と水を流した方。骨を折られなかった子羊。そして、その事によって私達の罪は赦された。この方を見る時は、信じなかった者が裁かれるんです。これを本気で信じなかった者は必ず裁かれる。歴史的事実があったという事をヨハネは強調している。私達は聖書を軽々しく読み、何か聖書を読んだら自分に利点があって、利益があると思って読んでいるけれど、読めば読むほど、「私はあなたに何度も話した。」あなたが信じる為に、私は語った。信じていない者に言っているわけではありません。信じたという者に、信仰が無かった事を言っているんです。あなたがイエスを見る時には、その言い訳も弁明も出来なくなります。これが私達への忠告です。罪の贖いのための、神への供え物だったので、私たちの救いは、イエス様の死からしか始まりません。罪の贖いが血だからです。そしてこの水は聖霊を象徴しています。イエス様が死なれて三日後に、日曜日の安息日に、復活されて、ペンテコステの日に聖霊降臨がありました。イエス・キリストの十字架の血は罪を赦し、そして、イエス様が送ってくれる聖霊によって信仰を与えられます。だから、血と水を強調しなければならなかったんです。全ての弟子達はこの時、何も悟っていません。何も理解していません。理解したのは、何時ですか?聖霊降臨の時です。だから、血と水で救われるんです。そして、この聖霊以外に、心で信じて主を告白することはできません。水のバプテスマ、水の洗礼式は、儀式です。本当に聖めを与えられるのは、聖霊によってです。水ではありません。聖霊によって信仰が生じます。だからイエス様が「わたしは生ける水です。わたしから水を飲む者は、二度と渇かない」あれは、聖霊を内需した者は、二度と渇くことがないという意味です。だから、イエス様が内に来られた。それが水です。だから、イエス様の死んだ後にしか聖霊降臨は起きません。イエス様が死なないと、復活して天国に入らないと、聖霊降臨が起きないんです。聖霊降臨が起きないと、誰も信仰を持つことができません。だから、血と水が流れた事が、イエス様が死んだ後にその事件が起きた事が重要だったんです。それを説明する事は、ヨハネにとっては、本当に大事な福音だったんです。それを、あなた方が信じる為、私の証言は、私が証言する。そして、あなた方はいつかそれを見るだろうという事です。

ペテロがここにはいません。ヨハネと四人の女が十字架の前に居て、この証言をしていますが、ペテロは知っての通り、火の暖炉の前で、カヤパの所で裁判をしている時に、遠くから見ていて、三回もイエス様を否定してしまい、鶏が二回鳴く前にイエス様を否定してしまって、この場にペテロは居ません。そのペテロの失敗をイエス様は、「サタンが、あなたがたをふるいにかけるようにと願って聞き届けられました。 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。」と言われたのに対し、イスカリオテ・ユダに対しは「あなたの好きなようにしなさい」と言って、イエス様の過ぎ越しの晩餐の途中で出て行き、イエス様を売る為に三百デナリを取って、イエス様を売る事を決めます。サタンが入って、その時は夜だったと表現しています。ペテロが裏切った時も、鶏が二度鳴く時はまだ外は暗いんです。でも、ペテロが裏切った時も夜だったけれど、でも、後に夜は明けるんです。空は暗くても時刻は明け方だったからです。ペテロの時にはじき日が射します。それは、ペテロだけが特別だったからではなく、イエス様がその前に執り成したからです。「あなたの信仰がなくならないように、わたしは執り成した」これが全てだったんです。そして、ユダに対しては、「あなたの好きなようにしなさい」執り成していないんです。これが全てだったんです。だから、どちらも外に出た時、激しく泣いたんです。ペテロも、後悔して泣き、ユダも自殺するほど後悔したんです。でも、ユダの時は、もう、夜が明けないんです。でもペテロの時は夜が明けたんです。何故ですか?同じく裏切り、同じように欲深く、自分の事しか考えなかったんです。あれだけ命を捨てると言っても、恐れて逃げました。でも一つだけ違います。イエス様が執り成しました。ただ、その一つの事実があっただけです。ペテロは後に福音の器として立ち上がります。

救いはイエス様がなさります。人間は何一つ関わっていないし、何もできません。救いはまるで自分の手柄。救いは自分の自由意志で得たもの。そして、努力すれば、もっと得られるもの。天国は勝ち取るものだと考えています。しかしパウロは、人の行いによるなら、十字架のイエスの死を全部無意味にし、むなしくすると言いました。あなた方が願っているのは、自分の癒し、自分の慰め、自分の励まし、自分の熱心、行動によって人に認められること。それはイエス・キリストの十字架をないものにしてしまうんです。救いを自分の手で出来るかの如くの態度です。イエスに依らなければ救われない。聖霊に依らなければ救われない。

出エジプト記で屠られた子羊。血の犠牲をもって罪の贖いをするためになされた事。それはサタンや暗闇の力を打ち砕き、捕えられている奴隷を解放し、最終的な目標は、イエス・キリストの御名が褒め称えられるためです。これが、イエス・キリストの十字架上の目的です。だから、喜び、感謝しなさい。賛美しなさい。礼拝しなさい。あなたの結ぶ実は、『愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制』です。イエスという葡萄の木につながって、多くの実を結ぶとは、聖霊の実です。神が栄光を受けられるため、そしてイエスキリストの名が褒め称えられるためです。私達はそれを見て喜ぶのです。祈ります。

Yokohama Glory Church

イエスは言われた。 「わたしは、よみがえりです。いのちです。 わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者は、 決して死ぬことがありません。 このことを信じますか。」 ヨハネ11章25,26節

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