ヨハネ福音書 19章 38-42

~そのあとで、イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。それで、ピラトは許可を与えた。そこで彼は来て、イエスのからだを取り降ろした。前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。そこで、彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻いた。イエスが十字架につけられた場所に園があって、そこには、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。その日がユダヤ人の備え日であったため、墓が近かったので、彼らはイエスをそこに納めた。~

今日読まれた本文の中で、ヨハネだけの、他の福音書にはない、ヨハネだけに書かれている特徴というものがあって、やはりヨハネの福音書が十字架の事件の現場を他の福音書とは全く違う風に描かれている一番重要なテーマは、イエスは王であったか、どうかなんです。裁判の記録も、結局イエス・キリストとはイスラエルの王であったのか、どうかっていうのを一番強調している。そして、イエス・キリストが十字架につけられた時も骨が砕かれなかった事や、血と水が流れなかった事や、それが本当に全て預言の成就が、イエス・キリストが本当に救い主の王であったか、メシヤであったか、というのが凄く強調されていて、そして、今日の本文においても、イエス・キリストの十字架の下に誰が居たかって強調される時に、他の福音書では女性が語られています。十字架の下には女達が居た。ほとんど、ここが強調されているんです。マグダラのマリアや母マリア、そして、他のガリラヤからついて来た女達。女弟子についてが沢山書かれていて、主に、この十字架の現場で書かれている事は、復活の事が強調されている、伏線として他の福音書では書かれているんです。結局女達が、イエスの屍がどこに埋められたか、様子を見ていた女達。そして、日曜日の復活の時に、香料を持っていて、女達がその所へ行った。そこに岩が置かれていた。封印がされていた。天使が居た。などという、他の福音書でのこの十字架の現場の事件については、女達がどうであったか、と書かれていて、そして復活の時、香料を持って行った。っていう話が出てくるんです。でも、ヨハネの福音書だけは、十字架の下で女達の話が一切出てこない。今日出てきたのは、二人だけ。ニコデモと呼ばれる人と、アリマタヤのヨセフ、この二人なんです。どちらも男性です。そして、どちらもイエス・キリストの十二人の弟子でもないんです。なのに、ヨハネ福音書だけは、この二人についてだけ、十字架のイエス様の死体、屍をどういう風にしたのか、という事が強調されているんです。だから、ここでもヨハネが何のテーマを以って、何の主張を以って、福音書とは違う強調をしてるのか、というのが、今日の学びの一番のテーマなんです。

この読まれた、「イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフ」が一体誰であったのか、という事。この人は他で一ヶ所くらい、他の福音書で出ていますけども、イエスの事は信じていて、イエスの事は尊敬していた。でも、それ以前は隠れキリシタンだったんです。公には、自分をクリスチャンだとは言わなかった。何故なら、ユダヤ人を怖れていて、人の顔色を怖れていたんです。社会で自分が村八分になる事や無視される事を怖れて、彼は一切イエスの事を口にしていなかった。でも、心密かに彼は、イエスの事を尊敬して、崇めていたんです。この人の記事の出てくるところでは、ユダヤ人の教会の幹部達がイエスを捕えようと相談する時に、この人は、証言なしに、捕まえる事は律法に適っていない。と一言、言って、「あなたもガリラヤ出身なのか?」って責められた時には、もう何も口答えしないんです。ただ、捕まえる事を賛成していなかった、程度なんです。そして、ここで分かるように議員であり、サンヘドリンの議員であり、当然お金持ちです。議員になる為には。そして、ユダヤ教であり、地位のある、名誉のある、お金のある、人です。そして、サンヘドリンの議員の一人。なのだけは、明らかです。で、もう一人のニコデモという人も同じです。夜、イエス様に尋ねて来て、「あなたは律法の教師だと思います。」とイエス様を認めて、夜、たった一度だけ訪ねてくる人。この人も、サンヘドリン議会の中で、イエスを死刑にしよう、と言った時に賛成しなかった人です。だけど、それ以上の事はしなかった。彼も同じ議員で、お金持ちで、地位と名誉があって、ユダヤ教の一人。でも、隠れキリシタン。公には自分をイエス・キリストを信じてる、とは言えず、このサンヘドリンや議員達から除け者にされる事を怖れて、公には決してイエス様を証しせず、証言もせず、夜ひっそりと、誰も見てない所で黙って、誰にも知られずイエス様の所へ話を聞きたくて、一度訪ねて来た人です。この二人の特徴は、そういう特徴。隠れキリシタン。イエス様より人間の方。神より、自分の方を選んできた人達。決して美化されるものではない、でも、他の福音書で、彼らは敬虔な人だった。正しい人だった。とは、言われている。正しく生きてはいたでしょう。でも、決してイエスを証しする信仰はなかったんです。気の弱い、大人しい、まあ、そういう特徴のある人達です。でも、ヨハネの福音書は、イエス様の死体はこの二人が引き取った、と書いてあるんです。

そのイエス様の死体を引き取るっていう事が、この時代どういう事かっていうと、前にも話したように、ローマの死刑は野晒しにして、獣たちに喰わせて、二日とか三日とか、ずーっと血を流させ、物凄く残酷刑です。これが十字架刑です。基本、ローマ人のやる。でも、この日は安息日の大いなる日、だったんです。過ぎ越しの中にある挟まった安息日は、大いなる日。だから、始めっからサンヘドリン達も、十字架刑は早く終わらせて、その日の内に死体を下してくれ。と願い出ているんです。このユダヤ人達は、イエス様を惜しんだんではなくて、穢されるから、過ぎ越しの祭が穢されるから、律法に依っては死体をその日の内に葬らなきゃならない。という理由です。そして、ここに出てくるニコデモと、ヨセフも、隠れキリシタン達も、訴え出てるんです。イエスの死体を引き取らせて欲しい。これは、サンヘドリンが見てる前で、ピラト総督が見てる前で、全てのユダヤ人が見てる前でのイエス・キリストの死体の引き取りだから、勇気がいったんです。公にキリスト教と名乗るのと等しい行動だったんです。今まで隠れていて、今までずーっとひた隠しにし、人間を優先し、神を優先していなかった、気の弱い、卑怯な卑劣な彼らが、イエス様が死んだ時には、勇気を振り絞って、それを名乗って来ているんです。そして、ヨハネの福音書だけがそれを強調しているんです。

~アリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。それで、ピラトは許可を与えた。そこで彼は来て、イエスのからだを取り降ろした。前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。そこで、彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻いた。~

このアリマタヤのヨセフが持っていた、自分の為に取って置いた墓と、そしてニコデモが用意した没薬、アロエを混ぜ合わせたもの三十キログラムとありますが、これ、三十五キロ位なんです。正確には、三十三から三十五キロ。これらが一体何だったのか?が凄く重要になるんです。ユダヤ人の習慣としては、法律としては、死刑になった人は、その罪人の共同墓地があります。ほとんどそこに葬られるんです。そして、二つの種類の墓があって、石打の刑の墓と、首を切られた人の墓。罪が重い石打の方は、罪深い人達の共同墓地。そして、罪の軽い人達は、罪の軽い人達の共同墓地。ここは、すっごく酷い場所。葬られるっていうか、死体を投げ捨てられる程度のもので、誰も彼もが一緒に捨てられる場所。本来こんなに神を冒涜した一番酷い、重罪な十字架刑ならそこへ行くはずなんです。そこへ葬られなきゃならない。だけど、この議員達。地位と名誉のある、お金のある人達が訴え出て、その共同墓地には捨てないで欲しい、と願い出て、そして、一般の市民、普通の罪も犯していない一般市民でさえ、墓などないです。共同墓地だったんです。もちろん、罪人と同じ所ではないですけど、普通同じ所に共同墓地を掘られ、そこに一斉に埋められていく。が、普通の習慣です。この当時。そのように、墓を持つなんて、本当に王族か貴族以外ないんです。特にこの葬られ方は尋常じゃない葬られ方だ。十字架刑を受けた人の葬られ方ではないんです。

その一番の特徴が没薬とアロエを混ぜ合わせたもの。しかも、その量が三十キログラム以上。凄いんです、これ。お金に換算したって。何故なら、没薬というものは、ユダヤとかイスラエルの地で取れません。アラビア地方でなきゃ取れない、輸入品です。しかも、エジプトでは王様をミイラにする時に使われるもの。そして、アロエを混ぜた、混合した物。というけど、基本的に香料の事を言っています。旧約でも出てくる、香料。もちろん、これ衣類とかに付ける香料でもあるけれど、死体にも付ける香料。これは、インドからの輸入品。どちらも高価なんです。どちらもお金が高い。どちらも輸入品で、そう簡単に手に入るものではない。この議員とか、お金持ちであったから、手に入るもの。一般の人など決して手に入らない。しかも、一般の人には絶対、この香料三十五キログラムって、どんだけ重いですか?ちょっと軽い人の人間の体重です。その位の量を振りかけて、亜麻布で巻くなんていうのは、王様の埋葬なんです。一般市民でもないんです。完全に、王の埋葬の仕方なんです。それが、旧約の時代にも出ています。

第2歴代誌14:16

~そこで、人々は、彼が自分のためにダビデの町に掘っておいた墓に彼を葬り、香料の混合法にしたがって作ったかおりの高い香油や香料に満ちたふしどに彼を横たえた。そして、彼のために非常にたくさんの香をたいた。~

アサフ王の葬り方です。偉大な王様だったんです。この偉大な王の葬り方と全く同じなんです。イエス・キリストの体の葬り方が。そして、本当に王族達は、しかも本当に尊敬されている王族達は、このように必ず香料をふんだんに満たさせながら、葬られていくんです。でも、イスラエルの習慣において、本当の罪人。本当に神の前で罪を犯した者は、王であっても晒し者だったんです。イザベルとその王の時には、本当に神に謀反を犯した、あの時には王であれ、王妃であれ、彼らは野晒しで獣に喰われて皆の見ている前で死体が晒されたんです。王であっても、神の前で罪を犯した者は、こうだったんです。でも、イエス・キリストは罪人です。十字架刑にあった。そのイエス・キリストの死体が、王のように葬られた。これがヨハネが本当に言いたい事なんです。彼は一体誰だったのか?罪人だったのか?王だったのか?そういう意味で、彼の死体がこういう風に王様のように扱われているっていう事をヨハネだけは主張したいんです。復活を強調するよりも、彼は誰であったか?王であったのか?罪人であったか?この事を物凄く強調したい。この葬り方は尋常じゃないんだ。王様以外に決してこういう葬られ方はしないんだ。という事を物凄く強調しているんです。

~イエスが十字架につけられた場所に園があって、そこには、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。~

イエス様が埋められたそこは、園だったんです。王様の中でも、このように没薬と香料で葬られるっていう事があったとしても、そこに園があったという王様は特別なんです。更に。ダビデはそうだったんです。さっきも読んだところ、『ダビデの墓の園』と呼ばれるくらい、園のある場所と呼ばれるくらい、ダビデの墓には園があったんです。公園ていうか、本当に大きな庭園があったんです。それはもう、贅沢な限りなんです。一人の王を葬る為に庭園まで造ってしまうっていう。でも、イエス様の墓も庭園だったんです。その庭園の中に、しかも、誰も葬られた事のない、たった一人もそこに死体が入った事がない、全く初めて人が入る場所。という所にイエス様が葬られた。これは、王様の中でも尋常じゃないんです。パウロの先生でもあった、律法の師の中でも一番偉大だと言われるガマリエルが、イエス様が十字架に架かった二、三十年後に彼も死んで、葬られるんですけれども、彼は王ではなかったんです。でも、没薬を三十キログラム以上使われた、と記録が残されています。そして、それを不信に思った者が、彼は王でもないのに、どうしてこんなに贅沢な葬り方をするのか?と言った時に、弟子達が、「彼は百人の王よりも偉大だった。神の律法を正しく理解し、正しく教えていたから。」と言う風にガマリエルの葬儀も、このように壮大だった。という記録が残っている。でも、イエス様はそれ以上に、『園』であったんです。しかも、です。誰も葬られた事の無い墓。これが一体どういう意味だったか。この言葉は他の所にも書いてあるんです。

ルカ1章34

~そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」~

ここも、そうです。誰もつかった事のない胎、なんです。処女の胎をそう表現しています。誰もつかった事のない胎。そして、イエス様がエルサレムに入場される時も、誰も乗った事のないロバの子。ここも同じ表現です。だからイエス様は、誰もつかわれていない女の胎をつかって来られ、誰も乗った事のないロバの子に乗って、エルサレムに入られ、そして今、誰も使った事のない墓に入られて、イエス様が葬られた、とヨハネは強調しているんです。それは一体何かというと、神に使われる聖別された特別な、もの、なんです。ここは、神以外使ってはいけない。そういう意味なんです。神だけ使う権利がある。他の人間は誰も使ってはならない。用いても、触ってもならない。昔の契約の箱も、祭司以外触ってはならなかった。一般聖徒は誰も触っちゃいけない。至聖所は大祭司しか入っちゃいけない。これも神しか使ってはならない。という厳密な意味なんです。誰もつかった事のない、女の処女の胎。誰も乗った事のない、小さなロバの子。誰も入った事のない墓。これは、何を言いたいのか?『王の王、主の主』をヨハネは強調したいんです。他の人のように涙を流し、シクシク泣いた。そんな現場じゃないんです。王が葬られる、王だけが使う事が出来る、王だけがこのような事が出来る。神だけがこれをする事が出来る。神にしかしてはいけない。だから、イエス・キリストは王であった。というテーマがここでも流れているんです。この事はヨハネにとって本当に重要だったんです。何を書くにも、これを書かなくてはならなかった。もう、どんな福音書より、奇跡よりも、どんな風に人間が活躍した、じゃないんです。イエスが王であった。王以外何者でもなかった。彼は神として扱われなくてはならない。そして、それは預言の成就でなくてはならない。という事がヨハネにとって凄い重要だったんです。

~その日がユダヤ人の備え日であったため、墓が近かったので、彼らはイエスをそこに納めた。~

と、ヨハネの福音書はここでイエス・キリストの死体について書かれているんです。ここで重要なのは、イエスの弟子は誰もいないんです。イエス・キリストの死体が葬られた時、「私は命を懸けます。」「私はあなたが死ぬ時、一緒に死にましょう。」と言った弟子達は一人もここにいないんです。ここで活躍したのは誰ですか?隠れキリシタンです。今まで教会に来たことはない人。聖書を読んだことのない人。祈った事のない人。全くキリスト教について、よく知らない人達が、今までは気が弱くて、人の顔色を窺って、神よりも自分を優先していた人。だけど、イエス・キリストが死んだ後には、彼らは勇気を出し、イエス・キリストの死んだ後に神から流れてきたその力に依って、彼らは信仰をハッキリ確信させて、命を取られるかもしれない、ユダヤ人から石打にされるかもしれない、サンヘドリンから追い出されるかもしれない、神殿礼拝に、もう入れないかもしれない、というものを覚悟して、イエス・キリストの死体を引き取り、そればかりではなく、自分が本当に最善にとっておいた墓を明け渡し、そして自分が持っていた財産を使って、高級な没薬と香料を持って来ているんです。ただ、勇気をもっただけじゃなく、財産まで全部を注いでまでも、たった一度しか会っていないんです、ニコデモは。そして、彼らは一回イエスに会っただけ、長い話を聞いた事も、説教も聞いた事もない。イエス様が為さった奇跡は聞いていただろうけど、見てはいなかった人達。彼らがここで、イエス様の王としての、本当に王として葬るという仕事を彼らがした。弟子達は逃げて、卑怯にも卑劣にも、ここにはいなかった。が、ここでヨハネが言いたい事です。隠れキリシタン達がこれをしたんだ。という事です。そして、クリスチャンと名乗る人達は、誰一人何もしなかった。ここがテーマなんです。

私達クリスチャンにおいての警告なんです。あなた方は何をしたの?主の為に。本当に主を王だと思っていたのか?この榊原先生が牧師達の会議に出た時、『日本人は伝道しない』というテーマで話が行われた時、「会社に行ったら、仕事の話以外は出来ないから。」「仕事場ではそんな事は出来ないから。」という事をテーマでずっと話し合った時、ある牧師が立ち上がって、こう言ったそうです。「会社で福音を伝えたか、伝えてないか。という事が重要ではない。もっと悲惨なのは、教会の中でも信仰がない事がもっと悲惨なんだ。話したか、話せなかったか、それ以前の問題で教会の中でも、キリスト者の中でも、信仰の話などされてはいない。自分の話をし、自分の事以外考えていない、この事がもっと悲惨なんだ。」とある牧師が言ったそうです。その通りなんです。話せたかどうかという、それ以上に心の中にイエスが優先されていない。何もないんです、生活の中で。イエスの栄光なんて。自分の栄光、自分の成功、自分の慰め、自分への自己憐憫しかないんです。教会の中で。外に行ってイエスが語られたか以前にもっと悲惨だって言ってるんです。これが弟子達がやってる事です。そして、隠れキリシタン達が立ち上がって、弟子があんまり酷くて、クリスチャンがあんまり酷いから、神が他の人を遣った。と言う風にしか言いようがないんです。ここは、危機状態です。自分の命も財産も危ない状況。ここで、弟子は逃げたけど、信仰の薄かった人達は神に遣われていった。という事になるんです。本当に私達のいるこの時代、もっとこれより悲惨で、もっとこれより、神の事なんて考えていないんです。でも、「私はクリスチャン」と言っているクリスチャン達しか存在しないんです。じゃあ、本当に私達はこの信仰のない人より、何が優れている、何がどう違うの?無いんです。違いなんて、一っつも。だから、こんな悲惨な状態にあるにも関わらず、危機感も持てない。というのが、ヨハネが福音書を書いた時代だって似たようなものだったと思います。全てのキリスト者達が信仰がある訳じゃない。自称クリスチャンにどれだけイエス様を思ってる気持ちがあるのか?これをヨハネだって訴えたいんです。

そして、歴史を見たって隠れキリシタンは、ずーっといます。公にしない。でも、本当のイエス・キリストの十字架の死を瞑想した者達は立ち上がっていくんです。何故かって言うと、ローマで沢山の殉教者を出す時にローマでキリスト者達が捕えられて、酷い拷問をされている時、拷問するローマ兵の中にも隠れキリシタン達が結構いて、で、拷問してるうちに彼らはこう言うんです。「自分も本当はクリスチャンだ。一緒に死なせて欲しい。」こういう記録がいっぱい残されているんです。拷問する側のローマ兵士はそれまでには、ずーっと隠していた、キリスト者だっていう事をごまかしていたけど、キリスト者達を拷問する時に耐えられなくなって、自分も拷問を受けさせて欲しいって沢山の兵士が死んだそうです。同じく殉教して。だから、その時まで言えなかったけど、実際イエス・キリストの十字架の死を見る時、彼らは名乗って、勇敢に死んでいったっていう記録が沢山残っていて、このニコデモ達がまさしくそうです。イエス・キリストの十字架の死を見て、彼らはもう胸が射されて、居ても立っても居られないから立ち上がったんです。だから、十字架の死がそれ程彼らに勇気を与えたんです。

ここの弟子達の中で裏切り者たちが沢山います。イエスの為なら命を捨てるって言ってた十二人の弟子達は、ペテロにおいては、三回の否定。呪いまでかけて。ユダにおいては、イエス・キリストを銀三十枚で売ってしまった。という代表的な裏切り行為をした二人がいます。その二人の十字架の前での裏切り行為の後、彼らはどうしたか?ユダの裏切りはこうだったんです。「私は罪の無い人の血を流してしまった。」という、私は何て事をしてしまったんだろう。という正しい後悔はしてるんです。そして、銀三十枚を持って、祭司の所に行って、「これは返す。」と言いに行ってるんです。まあ、それだって勇気を持ってやった事だと思います。でも、その彼の態度はどうだったか?正しく謝り、正しく非を認め、正しく後悔はしてるんです。そして、正しく自分の誤りを告白している。だけど、彼はどういう風にしたかっていうと、銀三十枚をもって、そこに行った時祭司長達は受け取らない。「お前はお前がした事を自分で何とかしろ。」と言われるんです。その時彼は頭にきて何をしたかと言うと、祭司しか入っちゃいけない聖所に入り、銀三十枚を投げつけるんです。そこは、祭司しか入っちゃいけない。普通の一般聖徒は触れてはならない所だったんです。そこに入って行って、銀三十枚を投げつけるんです。そして彼は、自殺してしまいます。後悔をし、間違った事をし、罪を犯して、自分が間違っていた、本当にイエスは罪のない方だった。という事を認めて、責任をとって自殺をしたんです。自分の罪が間違っていたっていう責任の取り方をしたんです。

それに較べてペテロの方は、逃げて、嘘ついて、三回も否定して、呪って、その後だって、ただシクシク泣いているだけ。謝りにも行かないし、お金も払わないし、責任もとっていないんです。人間的に見たら、よほどユダが正しいし、ペテロの方が卑怯に見えるんです。でも、明らかに使徒行伝でユダは地獄に堕ちた。と書いてあります。腸が真っ二つに割れて内臓が全部出て醜い晒し者の死体になった。だけど、ペテロは偉大な使徒になっているんです。その後。この差は一体何だったのか?です。どうやって彼ら二人は、隔たっていたのか、という所において、ユダの悔い改め方は自分の気が収まる方法です。確かに後悔したでしょう。でも、彼はイエス・キリストを偉大な人、罪の無い人、程度にしか受け止めてないんです。自分の師匠、自分の先生、この程度です。自分と三年間過ごした人。そして、その時に彼には一度も罪が無かった。彼は過ちなど犯していない。自分の方が間違っていた。彼が思った事はこの程度だったんです。人間的に言えば正しいやり方かもしれない。そして、お金も返しに行ったんです。律儀にも。一円たりとも盗まず。でも、そのお金が一体どうなったか?この銀三十枚は祭司達の神殿の宮から出たお金です。だから、ユダが返すというなら、神殿の宮に収めればいい事なのに、祭司達もこう言うんです。無意識に。「呪われたこのお金を神に聖い宮に入れてはならない。」不正を犯したお金は神殿に入れてはいけないっていう律法がある。「だから、我々はこの三十枚を宮の中に入れてはいけない。陶器師の人の墓地を買って、外国人の墓地にしよう。これは、呪われたお金だから。」彼らはこう判断するんです。この呪われたお金だっていう認識をしてるんです。無意識の内にイエス・キリストは罪がなかった、という認識。罪があって神の正しい裁きがしてあったなら、呪われたお金にならないんです。これは、裏切りのお金、不正のお金、正しくないお金、呪われたお金っていう認識を彼らだって持っている。正しい人を殺したっていう認識をどっかで持っちゃってるんです。無意識に。そしてユダの方も無意識に、このお金は呪われたお金。不正のお金。だから返さなきゃ。ユダの方も無意識に、イエスを売った事がどれだけ呪われているか、やってしまってるんです。そして、成就してしまってるんです。この成就は一体何か、というと、ゼカリヤ書に書いてある、このゼカリヤっていう預言者を神様が立てて、「イスラエルの羊達を牧会しろ」と命令される。そして、彼は誠心誠意、牧会をしようとしていた。でも、このイスラエルの民はどういう対応をしたか?私が本当に彼らを救い、彼らを導かねばならないなら、あなた方は見積もって、私にお金を払えって言った時に、銀三十枚払うんです。これは、その当時奴隷に払う料金です。主の僕に対して奴隷に払う料金しか払わなかったんです。そして、ゼカリヤは杖を折って、「この羊をもう牧さない。」と神の預言が成就してしまった。結局ユダが見積もった銀三十枚、イエスの命を引き換えにする対価は、奴隷の対価。奴隷に払う対価だった。王の命を銀三十枚に見積もった。この異常な卑劣な考え方が、まずここで、成就してしまっている。そして、エレミヤの預言も含まれているんです。

エレミヤの時代にカルデヤ人のネブカデネザルがエルサレム崩壊の為に、来ます。神殿が燃やされ、全ての男も女も殺され、そして、エルサレムが崩壊する事件です。その時にエレミヤは崩壊する事を知っていながら、その土地はいずれネブカデネザルのものになると知っていながら、神に「土地を買え」って言われます。そして、エレミヤは土地を買います。そしてそれは、その後、カルデヤ人の土地になってしまう。自分の土地は没収されます。その時に神は、「必ずわたしは、取り返す。取り戻す。その土地はわたしのものになる」という預言をします。それが、放浪の旅から帰って来て、イエス・キリストが神の国をもう一回取り戻すっていう成就なんです。その事の成就が、ユダの銀三十枚で買い取られた、陶器師の土地を買い取り、外国人の墓地にした。という預言の成就になってしまうんです。そこは、呪われた地となった。これは、イスラエルの民が罪を犯したから、カルデヤ人に穢され、一旦はその土地は奪われる。その土地は一旦呪われる、という象徴なんです。しかし、イエス・キリストの十字架の死で、その贖いの血で、神の国はもう一度取り戻される、っていう成就なんです。だから、預言の成就なんです。しかも、そこは外国人墓地になる。外国人で、死刑になった人の共同墓地になるんですが、この福音は、取り戻した神の国は、ユダヤ人には杖が折られ、異邦人に行きます。という成就でもあるんです。そこまで神を信じていると、嘘をついていたユダヤ人が、捨てられて、呪われて、そこからは、異邦人の新約聖書の始まりです。という成就が、ここで実現していく。これが、ユダが銀三十枚投げて、買われた、外国人墓地の旧約聖書の預言の成就なんです。エレミヤが買ったけど取られた土地を、イエス・キリストが回復する。という預言の成就。しかも、それが売られた値段が、たった銀三十枚という奴隷の値段だったんです。どれだけ神を冒涜したらこの値段になるのか。どれだけ主の僕に対して、こんな酷い仕打ちをするのか、という事の強調なんです。

まあ、これはヨハネの福音書の解釈ではなく、マタイに書かれている内容なんですが。でも、私達が、イエス様の死体は王として葬られた。でも、それをしたのは、隠れキリシタンの方で、弟子達ではなかった。では、弟子達は何をしたか?イエスをただ裏切っただけ。どんな酷い裏切り方をしたのか?ペテロにおいても、ユダにおいても。どちらも酷い裏切り方なんです。じゃあ何でユダは永遠に葬られ、滅び、地獄へ行き、ペテロは偉大な使徒になったのか?彼は惨めな本当に悲惨な姿でイエスの前に行くんです。本当に裏切り者の姿で跪くんです。本当に惨め極まりない、イエス様に顔向けできない状態で、イエスの前に自分からも進んで行くんです。駆け寄るんです。助けて欲しい。ペテロにとってイエス様は救い主だった。ユダにとっては、ただ罪を犯さなかった人。この程度なんです。救い主じゃないんです。ユダは自分の過ちを自分で責任を取る。それは自分の気が収まるから。自分の後悔を納得して、何とかお金を払って、何とか自殺をして、解決しようとしたんです。このやり方がどれだけ卑劣なのか。どれだけイエス様の十字架の死を無駄にしたのか。どれだけ十字架の意味なんか台無しにする行為なのか。ペテロは惨めだったけど、益々イエスの方に行き、ユダは、「私はお金を払って弁償します。そして、私の気の収まる方法で解決します。」これを選んだ人です。イエス・キリストは救い主じゃないんです。自分が王になったり、大臣になったり、出世する道具にすぎない。自分が力を付ける為に利用する相手。その程度なんです。その事が間違っていて、その責任の取り方もお金で弁償する。

辞めればいいんでしょ。私が死ねばいいんでしょ。私が消えればいいんでしょ。というやり方なんです。うちの教会がいつも取る方法じゃないですか。お金払えばいいんですか?辞めればいいんですか?出て行けばいいんですか?あなた方とイエスの関係など、何もないんです。あなた方にとってイエスは救い主じゃないんです。しかも、それは気が収まるだけです。自分の感情を満たすだけ。遜ってもいなきゃ、悔い改めてもいなきゃ、自分の罪などこれっぽちも見つめていないんです。認めてもいない。何の悔い改めでもないんです。ただ、そこは自分の気が収まるだけ。自分の感情を満たすだけ。自分が思い通りにしたいだけ。悔い改めるって言いながら、自分の思い通りにして、神の前で「何が悪い。弁償したでしょ。」これがあなた方の取る態度じゃないんですか。そして、今のこの教会の結果です。イエス様にとって、そんなお金はいらないんです。そんな賠償金いらないんです。あなたにとって、わたしは誰ですか?ヨハネにとっては、イエスは王。ペテロにとっては、本当に罪を赦してくれた方。弟子達においては、本当に救い主だった。だから、インドに行ったんです。だから、彼らは散って命懸けでイエスを伝えた。使徒行伝見てください。二言目にはイエス・キリストを教えた。イエス・キリストを伝えた。イエス・キリストを証しした。これしか書いてません。何をしたとか、偉大な業がこうだった、とかこんな事は書いてないんです。誰も彼もがイエス・キリストを伝えた。喋った。話した。教えた、と書いてあるんです。余りにもアメージング・グレイスだったからです。彼らにとって。あまりにも偉大な恵み。十字架の死と復活があまりにも有難い事。感謝な事。私の罪を赦してくれた。私を本当に救ってくれたお方。あなた方は満足し、気が収まって、弁償させて、何か成功させる相手じゃないんです。教会はそんなとこじゃないんです。自分が活躍する場所じゃないんです。そして、あなた方はイエスに対する態度はどういう態度だったのか。思い浮かべれば、ユダと同じ事しかしないんです。それで、ユダと同じ事をしていながら、こんなに頑張った私の熱心は、何だったのか?って。平気で傲慢に口に出すんです。いつ、あなたがそんなに熱心だったよ。いつあなたがそんなに頑張った?自分の為にしただけでしょ。いつ、イエスの為に何の犠牲を払ったんですか?あなたが家族が居なくて、あなたの家族が崩壊したのは、イエスですか?違うでしょ?あなたが蒔いた種。あなたの無知。あなたの罪です。誰が、イエスがあなたを結婚させない。誰が、あなたが家族と分離するようにさせました?自分がした、愚かな無知なんか、ここ、何にも念頭に置かないんです。自分が蒔いた種なんて何にも考えない。イエスが私にそういう境遇をくれたから、私は犠牲した。私は熱心にした。私はイエスに従った。この解釈はユダと同じです。でも、彼はくすねていたんです。イエスのお金を。いつもくすねていました。イエスの奇跡をいっつも利用するんです。イエスが働いた力を自分のものにしようとしたんです。ガリラヤ出身の十人を馬鹿にしてたんです。頭の悪い人間達。自分だけが頭が良くて、自分だけが正しくて、自分だけが間違っていない。自分は熱心にやった。自分は正しく生きた。自分は本当にイエスの言った通りにしただけ。ユダの考えはここしかないです。最後まで、です。だから、正しい解決の仕方。自分にとって正しい罪の償いの仕方。あの結果です。金を触ってはいけないっていう、祭司達しか入ってはいけないっていうとこまで手を出し、祭司に向かって銀三十枚投げ出し、そして、自分で、罪を犯したんだから、自分で自殺しましょう。これが彼のやり方です。救われるはずないんです。全く救いとは無関係。イエス・キリストの十字架の血とは無関係。イエス・キリストの事有り難いなんて思っちゃいないんです。気が収まるから。私が満足するから。私のやり方で、解決したい。それなのに、その時の覚悟は、本当に死を覚悟してやった。私はどれだけ熱心に悔い改めたか。どれだけ私がイエスの為にこの選択をしたか。ふざけろよ、ふざけんな。私に言わせれば、だったら、本当に清算するなら、ここで飲み食いした、宿を借りたお金、全部払え。その間を換算したら、ここの家賃が九万だから、どれだけ換算して何百万払わなきゃ、銀三十枚、ふざけんじゃない。あなたの什一献金じゃ、返せませんよ。ここの家賃、四年分払って帰れ、です。住みついていたくせに、飲み食いしてきたじゃない。それ全部お金払いなさい。銀三十枚?ふざけるんじゃない。あなたが賠償金、そんな金じゃないんです。あなたがイエスの十字架を以って救われたのは、賠償しようとしたら、あなたの什一献金なんて、何か役に立つんですか?払える金額ですか?それなのに、「私、お金払って堂々と出て行きます。」何ですか、これ?全部あなたが飲み食いしたお金払って出なさい。私にしてみれば、忍耐の限りです。でも、忍耐します。ここは、私のものではないからです。私のものなんか、一つもない。私にとっては、それを知ってる方はお一人だけで結構で、裁く方もお一人で、それに報いるのもお一人なんです。だから私は何の感覚もなしに、何を、誰を、裁く事なしに、福音だけを正しく語りたい。イエス・キリストの十字架で何が起きたのか。その死は一体何だったのか?復活は何だったのか?を正しく語りたい。ヨハネが語ってるように。彼は王であった。主の主であった。贖い主であった。救い主であった。彼は本当に神の神であった。どれだけの犠牲だったのか?これを私は語るだけです。誰を裁く権利もないし、誰が間違っていて、誰が救われて、誰が救われてないかなんて、私でも罪人の一人。私もイエス様がいなきゃ救われない一人。私も、神を裏切った一人です。十字架の前で逃げた一人です。変わらないんです。でも、私はあなた方と同じような考え方で、イエスを見たりしません。あなた方と同じような生き方なんて絶対にしません。あなた方が取るような責任の取り方なんか、私にとって糞くらえです。私は今日も主の前に跪くし、今日も主の恵みを感謝するし、私がどんだけ惨めでも主の所へ行くだけです。だから、あなた方の信仰通りなってください。というしか言いようがないです。今週は苦難週です。本当にイエス様の十字架で何が起きたのか、ヨハネが語ったイエス様は一体誰だったのか。ユダのような責任の取り方をするか、ペテロのような悔い改めをするか、私達が考えなきゃならない一週間です。そして、あなたが、今までしてきた事を思い出し、主の前に遜ってください。これ以外何も言う事がないんです。祈ります。

Jesus Christ Glory Church

イエスは言われた。 「わたしは、よみがえりです。いのちです。 わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者は、 決して死ぬことがありません。 このことを信じますか。」 ヨハネ11章25,26節

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