ヨハネ17章20-26

~わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。 正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」~


イエス様は最後の晩餐の大祭司の祈りをまだ続けられていて、今日も、その大祭司の祈りの続きなんですけれども、ヨハネの福音書を私達が今まで学ぶ中で、私自身が気付かなくてはならないのは、聖書が語る意味と私が解釈している意味が、余りにも違うという事です。ヨハネ福音書は愛の福音書だと言われて、ヨハネの福音書がいいと考える人は大勢いるかもしれないけど、ヨハネが言っている愛は、人間が思っている愛とは違います。ヨハネの福音書で書いてあるイエス様が仰ってる内容が、どれほど私の解釈と違うか気づく筈です。だから、今日の大祭司の祈りでも思い知るしかないんです。イエス様が人間側の立場をもって語られてはいないことを。このヨハネの福音書は人間の愛など、語っていないという事です。正しく聖書をよく知り、イエス様が語っている事が、人間の事情ではない事を知り、イエス様は、イエス様の話をされているだけで、心に留め、私達は人間感情である自己愛を無くしていくしかないのです。妄想と偶像を捨ててヨハネの福音書を読まなくてはなりません。でも、実際にそれが心の奥まで届くのは、聖霊によってでしか出来ないことです。私がどれだけ勉強し、どれだけ正しい事を言おうとしても、聖霊様が心の内で働いていくだされなければ、聖書をよく知ることはできません。だから聖霊様が働いてくださることをまずいのりましょう。

20節

~わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。~


この大祭司の祈りでイエス様が本当に執り成しておられるのは、今話している11人の弟子だけではなくて、この11人が語る言葉を信じる人々、この時代ではなく、その後の時代、国境を越えて、時代を超えて、色んな人々がこの新約聖書を読み、使徒達が語ったその言葉を聞いて、信じた人々にもわたしは執り成して、そしてお祈りをし、天の父にお願いしています。と、イエス様がこう仰ってるんです。だから、この時代の11人だけではなく、その後のイエス・キリストを信じる全ての者を執り成している。だから、これこそ大祭司の祈り、大祭司にしか出来ない祈りなんです。そして、彼らの言葉によって信じた人々、というのは、実際に彼らが宣教して、彼らの口から出た言葉だけではなく、彼らは、新約聖書を書いた人達です。だから、この新約聖書を読んだ人々にも、と言われているけれども、では彼らの言葉といえば、一体何かと言えば、神の言葉を語ったんです。彼らはたった一言も自分の話はしていないんです。たった一言も人間の話をしていないんです。彼らが話したのはイエス・キリストについて、話したんです。だから、神の言葉、すなわちイエス・キリストの言葉を信じた人なんです。結局使徒達が話した言葉であれ、使徒達が書いた聖書であれ、どちらにしろ、イエス・キリストの言葉、神の言葉を伝えたのです。使徒達は派遣されたのです。でも、語っておられるのは、聖霊です。そして、語られた内容は、神についてです。そして、それはイエス様のことです。それを信じた人々にも、わたしは今、天の父にお願いし、天の父にその人達も、養って守ってくれるように、と今イエス様が大祭司の祈りをしているんです。


~それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。~


ここの大祭司の祈りは、天の父とわたしが一つのように、彼らをも一つとなるためです。ここで、本当にポイントは、『一つとなるために』執り成します、とイエス様が大祭司の祈りをしているんです。今日の大祭司の祈りの中で一番の大切な内容は、『一つとなるため』です。それは、天の父とわたしと聖霊が一つであるように、彼らもわたし達と一緒にいるためです。というのが、一つとなる主な理由です。そして、ここのヨハネ17章は有名な箇所です。大祭司の祈りで有名な箇所で、他の多くのクリスチャン達も、ここの17章はよく読まれるところ。そして、この『一つとなる』という所では、神学的に余りにも激しい論争が起きている所で、この一つとなるっていう箇所は、今私達が知っているように、キリスト教は多くの派閥に分かれています。そして、プロテスタントだけでも、たくさんの教派に分かれているけれども、それ以外にカトリックもあれば、キリスト教と名乗っている異端者達もいる。そういう意味で、どれだけ異なる教えに翻弄されているのか。一つの教会の中にも、分派、分裂が起きて、党派心が起きている。だからノンクリスチャンにしてみれば、これほどの分派が起き、分裂が起きているのを理解できません。宗教改革が起きて、カトリックから分離したプロテスタントは正統派ではないという人が、未だに居るくらいです。カトリックが主流で、プロテスタントは新しい宗教だという感覚をもっている人がいます。それ程にキリスト教が分裂していると言われています。ノンクリスチャンには理解できる話ではないんです。だから、『一つとなるために』という所で、色んな運動が起きたんです。さまざまに分裂した教派を一つとしよう、キリスト教を一つとする事は、教派の名前を一つとしないとしても、会議やミーティングをして、話し合いをして、何か私達がもう少し一つとなるために努力しなくてはならない。それこそがイエスの命令だから。一つとなるために運動しようではないか。活動しようじゃないか。という活動が何百年の間に起きています。そこに最近ではカトリックでさえ、耳を傾ける程で、一つとなろうという運動が行われている。でも、今イエス様が語られたのは果たしてそういう活動を言っているのか?と言えばそうではない筈なんです。教会が一つとなるという事は、ハッキリ言って、不可能なんです。派閥が一つになるのも不可能だけれど、教会の中で一つとなるのも難しいんです。何故なら必ずサタンが働き、教会を分裂させるものは入ってきます。何故ですか?福音に混ぜ物を入れる、或は福音を逸らしていくという、反対者達は必ず来ます。だから、分裂が起こるのは、仕方がないんです。何故ならそこは分裂ではなく、聖絶です。聖別です。区別なんです。神とこの世が一切交わる事ができない、神とサタンが一切交わる事ができない、この霊的世界の中で、交わる事はないんです。混ぜ物が入る事はあり得ない。だから、一つとなるためにイエス様が今、執り成しているから、教会が一つとなりましょう、或は教派が一つとなりましょう、或はキリスト教が一つとなりましょう、という組織的、活動、運動は、何の意味もないんです。ここでイエスが言っている、『一つとなる』は、そういう類のものではない。 では一体、この一つとなるという、「この一つ」というのは、一体どういうものか?教会の中で、何か一致を持とうとして、何か沢山の勉強会、話し会をすれば一つとなるのか?精神統一ができるのか?そういう事でもないです。ある人はこれを霊的一致と呼んだり、愛の一致と、呼んだりしている人達もいます。これは、愛によって一つとなる、或は霊によって一つとなる事。内側の問題だ、と言っている人もいる。でも、内側の問題が一つとなれば、解決する事が出来ると言う判断をする人もいるけれども、その後イエス様が何と言われたかというと、「また彼らもわたし達におるようになるためです」その事によって、一つになる事によって、あなたがわたしを遣わされた事を世が信じる為です。この世の人が信じる為に一つとなると言っているここの解釈を、さっき言ったような運動や、組織、そして話し合い、ミーティング、そういう事によって一つとなって、団結し、大きな力を発揮した時には、この世の人が見て、「あぁキリスト教とはいいものだな。」「あぁ教会とはいいものだな」「あぁクリスチャンとはいいものだな」という解釈がされています。だから、運動が激しく行われていく。いつも組織的な団結や、或は話し合い、ミーティング、会議、教理の一致、などを話し合って、一つとなろうとし、キリスト教が大きくなり、人数が増えて、安泰する。この世が見て、感動するだろう。そういう解釈をしている人が大勢いる。そして、そういう活動を未だに続けます。でも、イエス様が言っている「この世も信じる為です」その前にイエス様が何とおっしゃったか?この世は神の居ない自立した社会と、単数形で括っていて、世というのは、色んな人々という複数形ではなく、単数形です。神の居ない世界です。罪深い一個体を指しているとその前に説明している通り。「だから、世はわたしを知る事がないし、この世はわたしを憎むでしょう。だから、わたしを信じる人もこの世では艱難があり、憎まれます」とイエス様がハッキリ仰っているんです。この世はクリスチャン達を憎むだろうし、この世はイエス・キリストを認める事もできないし、信じる事も出来ない。神の居ない一個体です。罪深い一個体を指している。では、この世が信じる為です、とはどういう意味なのかというと、教会が大きくなって、病院を建て学校を建て、英会話教室を開いたら、この世が見て感動するだろう。そういう意味ではありません。この世はそんな事で感動しません。ここは、裁きについて語っているんです。生きている間の話ではありません。審判の日のことです。この世は、その日知るだろう。アウグスティヌスという神学者はこの解釈をこう言っています。これは、二度とこの世が改心してイエス・キリストに戻る事が全くないという解釈だ。イエス様が仰っている、「わたしと天の父が一つであるように、彼らも一つとなるためです。そして、それをこの世が知るためです」というのは、改宗して、宣教して、伝道するという話ではないんです。すでに神にとってこの世は、罪深い一個体。天の父とは全く関係ない、神の全く存在しないところですから、そこはもう、改宗する事も、救われる事も、神の恵みと愛を受ける事も、もう全くない事を予言して、断言されているんです。そして、その日、審判の日に彼らは地団太を踏み、歯ぎしりし、泣いて喚くが、必ず彼らは天には入れないという断言なんです。その事は黙示録にも書かれてあります。


ヨハネ黙示録3章9

~見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。~


ここは、この世というのは教会の外という意味ではないです。サタンの会衆です。ここで言っているこの世は神の居ない、罪深い一個体を言っているんです。だから、ユダヤ人或はクリスチャンと自称していても、実はそうではなく、そして、その者達は、あなたの元にひれ伏し、わたし神が、あなたを愛している事を彼らは知る、です。何を知るようになるんですか?彼らは自分達がイエスを知るようになるではありません。イエスが救った、贖いだした一つとされた者達が、神が愛している事を彼らは知るようになる、なんです。だから、この世というのは、その審判の日に、イエス様が最後の裁きを下す時に、それを見るだろう。もう絶対に神の国に入って来る事はないという断言的なものなんです。だから宣教活動を言っていないんです。この世でキリスト教が大活躍をし、人数が増え、教会にカフェテラスができ、誰でも教会に行きたくなって、そしてすごく素晴らしい事になったから、この世が感動してどんどん教会に入って来るだろうという話ではないんです。絶対的な神が、存在している事を説明しているんです。神の居ない世界のどこにも、神の所に戻って来る方法はありません。だから、ここで一つになるという話が組織的な事であるはずがないんです。人間側が何か努力して、行いをしたら一つになる。何か精神統一をしたら、一つになる。何か愛情的な活動をしたら、一つになる、というものではないんです。ここで、一つになる、は絶対的な天から下って来る一つなんです。こっち側の事情ではありません。天から下って与えられるもの。だから、人間側が選択できるものではありません。これは恵みなんです。賜物なんです。与えられるもの。こっちが組織を作って、作るものではないんです。一つとなるとは、神からしかこないんです。それを私達はいつもヨハネの福音書を読んで、何か自分の努力で手に入れられるものと考えがちですが、与えられるものだと言っています。そしてこの世は、絶対にこの一つ中に入って来る事は出来ない。罪がゆるされ、神が与えていなければ無理です。人間側の組織力などは関係ないんです。人間側の団結は無意味なんです。私達はそれを一心に願うけれど、皆共有して、幸せに暮らしたいから教会に来たとしても叶いません。天の父が呼んでいなければ、誰も父の処に来られないのです。そして、この世は来られないんです。この世はイエスを憎み、この世はイエスと対立し、この世はイエスを迫害して殺すからです。どうして一致があるんでしょう?ヨハネはイエス様が仰った事をそのまま書いているんです。


~またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。~


23節の彼らが全うされて一つとなるためです。というのは、一つとして完成されるためです。だから、完成し続けなくてはならない、という事です。


~それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。~


また、『この世が知るためです』と書いています。天の父がイエスを愛し、十字架に架けました。そして、イエス様は、人類を愛し、十字架で死なれました。だから、あなたがわたしを十字架に架けて死なせるため遣わしたように、彼らもそれを信じて、救われるためです。という十字架で死ぬためにイエスが来られ、そしてそれを彼らが目撃しなくてはならないんです。そして、知って、これを伝えて行かなければならない。そして、彼らもまた、わたしが遣わしますから、彼らは遣わされて使徒となり、この福音書を書いているんです。それは遣わされたからです。そうして後から来る人も、信じる事が出来る為です。そして、一つとなる、と言っています。このように、イエス様の大祭司の祈りは一つとなる事が目的だ、と仰っているんです。


~父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。~


実にここでイエス様はエゴエイミーを仰ってます。『わたしはエゴエイミー』イエス様は途中からこの栄光を貰ったわけではありません。初めから、天の父と同じく持っていて、そして、受肉された時には隠されていて、だけど十字架で死んで甦る時、或は十字架に架かられたその時には、元々持っていた、天の父のではなく、『わたしの栄光』をわたしに戻して下さい。そして、わたしに栄光がある事を皆が知るために、と言われます。彼らは後にこれを知って、伝えなければならないのです。イエス・キリストを伝えて行かなければなりません。遣わされる者、使徒なんです。そして彼らは聖書を書きました。実際の目撃者なんです。だからイエス様には目撃者が必要だったんです。でもこれは人間がしたことではなく、わたしがした事、そしてわたしの栄光が現れ、そしてわたしを見た時、彼らも信じる為だと、ヨハネが言っている事をよく理解しなければなりません。或は、聖書に書かれた事が何かを理解しなければならないんです。


~正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」~


神の愛がイエス様にあり、イエス様の愛が彼らの中に入り、そして、彼らがわたし達と一つとなるためです。「今、あなたがたが分からなくても、わたしがした事は後に分かるようになる」あなたがした事ではなく、わたしがした事は、ペンテコステ日に分かるようになる。それはイエス様が何をされたかが、理解できるようになるということです。 だから、ジャン・カルヴァンはこう言っています。「神を知る事と同じくらい、自分を知るっていう事は重要だ。」それはアダムの堕落によって人類は呪われたのです。罪深い性質によって、自分を正しく理解できないように、神のことも正しく理解出来ないんです。 コルネリオがペテロに向かってお辞儀した時、彼は拒否しました。私とは誰ですか?あなたと同じ罪深い人間です。崇めるのはイエス・キリスト、ただお独りです。こうして弟子達は絶対にその栄光を自分で受け取ろうとはしなかったんです。知っていたからです。自分が誰で、神が誰であるかを知っていたら、絶対そんな事できないんです。 神の国とは、イエス・キリストの特質、性質、考え、意志、栄光、力が満ちている所です。その教えが充満している場所です。み言葉が守られている場所。それは一つとするためです。イエス・キリストはこの地に来られました。ミーティングをし、組織を作ることで、一つとなることは不可能です。天国が一つであるように、この地でも一つとなるという事が人間の努力でできるはずがありません。神のおられる場所が一つなら、神と無関係では一つになれません。「わたしはあなたの信仰がなくならないように祈りました。それはわたしの栄光のため、わたしの名のため、わたしがした仕事が明らかにされるため、わたしはやり遂げる。そして絶対にあなた方を最後まで愛し抜く」イエス様はおっしゃいました。わたしの仕事が邪魔されるはずがないし、勝利が覆されるはずない。イエス・キリストの救いは、この世のどんなものからも、邪魔されて、折れたり曲がったりするものではありません。神のプライド、名誉、栄光のため、絶対にこれは曲げません。この救いの法則は、絶対です。イエス・キリストを信じて、イエス・キリストの十字架の血で神と和解する事が出来るというこの教理は完全で、偉大です。だから、これ以外に救いはないという神の絶対的宣言です。ここに一つとなるんです。イエス・キリストの十字架の勝利は曲げられない。神が決め、イエスが死に、イエスが甦り、イエスがした事です。誰が覆せるんですか?「わたしがした事」イエスがお一人で、なさった事。神がご自身で決められた事。歴史の史実です。これを神の愛と言っているんです。 神と一つになる、イエス様と一つになる、この結びつきが救いです。罪が赦され、神と和解し、神の子となり、永遠の命をいただいたことが、神の愛です。この地上の幸いではなく、人間の欲望を満たし叶える宗教ではありません。祈りとは、この神の国が立ち、福音が地の果てに伝えられることです。祈ります。

Yokohama Glory Church

イエスは言われた。 「わたしは、よみがえりです。いのちです。 わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者は、 決して死ぬことがありません。 このことを信じますか。」 ヨハネ11章25,26節

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