ヨハネ16章29-33

~弟子たちは言った。「ああ、今あなたははっきりとお話しになって、何一つたとえ話はなさいません。いま私たちは、あなたがいっさいのことをご存じで、だれもあなたにお尋ねする必要がないことがわかりました。これで、私たちはあなたが神から来られたことを信じます。」イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは今、信じているのですか。見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」~


今まだイエス様が最後の晩餐で遺言を話されていて、このヨハネの福音書16章、17章は全部、イエス様が死ぬ前に、弟子たちに最後の遺言を残しているのが、続いています。そして、「わたしはもう死にます。そしてあなた方から去って行きます。だけど、もう一度来ます。それは、イエスの霊、聖霊が来ます。しかし今度は姿形は見えない。イエス様と直接お話は出来ないかもしれない。でも、聖霊が来た時にはもっと具体的に、あなたはわたしを知るようになる」という遺言の後に、今日の本文です。 その前に弟子達は、「何処へ行こうとされるのか。」「何を言っているんだろう。」と、言葉にはしないで、ただ心で思っていたのに、イエス様は何にも聞いていないのに、その心を見透かして、「あなた方は何を心で呟いているのですか。わたしが去って行くという事がまだ分からないのですか?わたしはもう一度来ます。そして、天の父の処へ行けば、もう一人の助け主、聖霊があなた方の処へ来ます」と弟子達の心を見抜いて語られると、弟子達が今これを言うんです。あぁ、エスパーのように、超能力者のように、イエス様は皆の心を全部知っていて、何を思っているか言い当ててしまうので、弟子達がそれを見て、イエス様について、今日これを言っているんです。


~「ああ、今あなたははっきりとお話しになって、何一つたとえ話はなさいません。いま私たちは、あなたがいっさいのことをご存じで、だれもあなたにお尋ねする必要がないことがわかりました。これで、私たちはあなたが神から来られたことを信じます。」~


これは先週の続きなんです。イエス様は何にも言わなくても見透かす方。私達が心で思っている事までも全部知ってしまう。喋っていなくても、全部分かっている。だから、私達は今、あなたを信じました。何故ならあなたは全部を見透かしている、全知全能の神だから。だから、今信じました。だからもう、お尋ねする必要がありません。と言っているんです。でもここ、普通に話していれば文脈がおかしいんです。


~誰もあなたにお尋ねする必要がないことがわかりました。~


イエス様が弟子に向かって何も質問しなくていい、というなら分かります。全部見透かしておられるんだから。なのに、何も分からない弟子達の方がイエス様にもう質問する必要がないとは、奇怪です。ではこの言葉の本当の意味は何か?もう自分達が語る前に全部イエス様は知っているから、だからあなたは全知全能の神だから、私達が今はっきりと、あなたが間違いなく神である事を知りました。という事を弟子達は言っています。でも、その前にナタナエルの時も、ナタナエルが木の下にいたのをイエス様が預言した時も、弟子は、「あぁ、あなたは神様です。」と認めていました。ペテロだって、「あなたから離れて、私達は何処へ行きましょうか?あなたが永遠の命を持っておられるのに。あなたが神の聖者である事を知っています。」とペテロも告白している通り、今、初めて知ったのではなく、その前から弟子達は、あなたは神様の御子です。神様の聖者です。神の独り子です。という事は認めてきているんです。なのに、今になって、「あぁ、やっと私達は信じました。」と、ここでまだ言っているんです。そして、その信じた理由が今、これです。イエス様が超能力者のように、相手の気持ちと相手の心を見透かしているから、神様としか言いようがないと言っている程度なんです。ここで言っている、「だから、今信じました。」と弟子達が言っている、信じた程度を見てください。ただ、イエス様が心に思っている事を言い当てただけの程度で、「あなたは神様です。」と話しています。それなのに、恐ろしい事はここです。すでに自分は信じて、信仰があって、イエス・キリストの事を全部知ったつもりになってしまっていることです。そこで、弟子達にイエス様が言います。


~イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは今、信じているのですか。見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。~


あなた方は今信じたのですか?ここは、原文では、疑問符ではないんです。「今、信じたんです」と疑問符では書かれていないんです。だからここは、質問している訳ではありません。その前にイエス様はこう言います。「わたしが父の元に行く時に、今は分からなくても、やがて聖霊様があなたの内に入り、わたしの事が分かるようになります。その時が来ます」とイエス様が話している通りに、今、あなた方は分からないと、事前に警告を与えているんです。なのに、弟子達は今何て答えたでしょう。「いいえ、私達はもう知りました。今知ったんです。そしてあなたが神である事を信じています。」と言っている。イエス様と弟子達の会話は、もう、ちぐはぐなんです。イエス様のかたっている次元と、弟子達の次元はもう違っています。でも、イエス様が弟子達に全く信仰がない、と責めてはいない。今、信じているのですか。と言うぐらいに、信じた事は認めます。わたしが神であると知ったのは確かです。わたしの名がイエス・キリストだと知ったのは、事実です。とイエス様は、確かに認めてはいます。でも、認めていても、あなた方の信仰は不完全です。まだ、未熟です。まだあまりにも弱いと言っているんです。何故ですか?この後、イエス様を裏切るからです。弟子達は、私は命を懸けてあなたに従いますと言い、あなたは神です。そして、私達は今信じて、信仰があります。もう、私達は例え話で聞かなくても、ハッキリと父が分かり、神が分かるようになりましたと、大胆に答えています。でもイエス様は、いいえ、不完全です。未熟です。あなた方の信仰は、明日風のように無くなる程度です。 実際に、無くなってしまったんです。あれだけ張り切って、あれだけ熱心に、神様に従うと言った弟子達が、結局皆どうしましたか? このヨハネ以外の福音書にはゲッセマネの祈りが出てきます。ヨハネの福音書は、そのゲッセマネの祈りは書かれていません。でも、他の福音書で、ゲッセマネで十字架に架かられる前のイエス様がお祈りしている時、ユダをはじめ、ローマ兵士や祭司長、パリサイ人がイエス様を捕えにきました。その時に、弟子達は全員、逃げたと書いてある。全員、イエスを捨てた、と書いてあります。それだけど、ヨハネの福音書には、そのゲッセマネの祈りの場面は書かれていないんです。イエス様がここで、あなた方は散り散りに散らされますと語られたけど、ヨハネはそれを、書いてないんです。ヨハネの福音書は不思議にゲッセマネの祈りの現場で弟子が散ったと、表現していません。ペテロともう一人はイエス様が捕えられている現場までついて行っているんです。そして、その裁判の場所に、ペテロは居ます。火にあたりながら見ています。しかも、何が話されているか聞いています。散らされたと言ったって、ペテロはその時、逃げていないです。後から着いて行っています。そしてイエス様が十字架に架けられた場面でも、ヨハネの福音書では、ヨハネと、母マリアは、その十字架の下にいます。イエス様と会話までしているくらいです。だから、ヨハネはずっと居たという事になります。だから、他のマタイ、マルコ、ルカの福音書ではゲッセマネで皆散って、皆イエスを捨てて逃げていったと表現してありますが、ヨハネの福音書にはそう表現してはいないんです。ペテロは着いて行ったし、ヨハネは最後まで十字架に居ました。なのに、果たしてイエス様が散り散りに散って行くと予言しているものが、一体、何だったのか? 私達は軽々しく、弟子は皆イエスを裏切った。弟子は十字架で逃げたんだ。命乞いをし、命を惜しんだ。という理解しかしない。でも、イエス様がここで言っている散り散りになるとは、十字架に行った、行かないっていう行動ではない。逃げた、逃げなかったという事ではないんです。彼らは、イエス様が十字架で死んだ時、3日後に甦ったイエスを目撃しています。そして復活したイエス様を見たんです。だけど彼らはイエス様が居なくなり、見えなくなった後何をしました?ガリラヤに行ってしまったんです。何をしに戻ったのですか?漁をしに戻ってしまった。これは何ですか?元来の、自分の仕事に戻ってしまった。信仰よりも、以前の自分の居場所に戻ってしまったという事です。十字架に行ったか行かないではなく、命を懸けた、懸けていないという話ではなく、本当にイエス様が言いたい、散り散りに散ったという意味は、私達は熱心だと、まるでどの宣教地にも行きます、さあ皆、我々も一緒に死のうではないかみたいな勢いは、イエス様がここで言っている、そのあなたの信仰は未熟ですよ。本当に未完成です。ただ、神様の事を何にも知らないくせに知ったつもりで、知ったから命を懸けると勇み足をしているけど、あなた方は絶対信仰を捨てます。ここは全てのクリスチャンに警告をしているんです。 そして、聖書にはないけれど、2世紀頃にはペテロの福音書という、聖書には購入されなかった原文があるんです。その原文の中は、ペテロの事が書いてある、ほんの一句だけが残されていて、そこには、イエス様が死んだ後、ペテロとアンデレ、そしてもう一人が漁に行って網を掴んだという記事があるんです。だから、弟子達が全員、自分の仕事に戻ったという事です。現実に歴史的な事実なんです。だから、イエス様が今責めているのは、弟子達に向かって、確かにあなたはわたしを信じているクリスチャンです。確かに教会には行って、説教は聞いているでしょう。確かにあなたに信仰がないとは言わない。でも、それはあなたが明日信仰を失くす程度のものでしかない。明日わたしを裏切ることができる程度しかない。何故?ここで熱心がないとは言っていません。イエス・キリストを知っていないと言っているんです。本当の神の知識がないと言っているんです。人間には自ら絶対などなく、不安定だ。人間は誰も同じで、パウロであれ、ペテロであれ、例外なしに、とても不完全だ。イエス様を1回信じたと告白したくらいで、継続出来る程強くはない。どんな牧師でも、どんな宣教師でも。明日の米が無くなり、自分が癌だと言われ、自分の状況が追い込まれた時に、信仰は無くなる程度しかないと言っているんです。何故なら、殉教したのはキリスト教だけではありません。今までの歴史の中で、むしろ、もっと熱心にイスラム教徒達は殉教しています。イスラム教徒だけですか?いいえ、仏教徒だって、ヒンドゥー教徒だって、勇敢に殉教して、死んでいるんです。自分の信仰を守るために。でも、イエス・キリストが言っている信仰とは、そういうものですか? ただ命を捨てて、ただ自殺行為のように、火の上歩いたり、針の上歩いたり、そんな武者修行したり、苦行するものですか? まず、神を知る知識がないと、人間には不可能です。知識がなければ、無知なら、滅びると聖書は預言しています。無知の故に滅びるんです。そして、無知は獣に等しいと書かれています。神を知らない、神を知る知識がないというのは、結局明日信仰を失くすんです。また、イエス様を知らないと言って、すぐに以前の生活に戻ります。酒を止めた人、タバコを止めた人、クリスチャンになって、盗みを止め、殺人を止めた人。明日また殺人者に戻ってしまいます。明日また泥棒に戻って、元の本業に戻ってしまう。本心が、本音が出てしまうんです。何故ですか?この世は、厳しいんです。クリスチャンだけ艱難が無くなるとは言われていないんです。クリスチャンだけ、いつもいい事が起きるなんて、イエス様は一言も言っていません。 それ以上にイエス様はこう言いました。「わたしが十字架に架かって、世に憎まれたなら、わたしの弟子も当然憎まれます」何故ですか?クリスチャンは、イエス様を信じた瞬間に、この世と決別しているんです。天国に国籍が移されます。もうこの世の子ではなくなる。サタンの子から、神の子になります。たとえ実感がなくても、たとえ他の人がそれを知らなくても、そうなんです。それを知っているのは、むしろサタンの方です。悪霊どもは私達がもうこの世の奴隷ではない事を知っています。だから、放っておいてはくれません。サタンが攻撃するのは、イエスを信じてない人ではなく、イエスを信じている人に攻撃をしてきます。という事はイエスが受けた迫害は、私達も当然受けるんです。絶対に厳しい環境がクリスチャンにもあるんです。死ぬこともあるでしょう。病気にだってなります。盗まれて、酷い事が起きても不思議ではありません。それを、無くすなどとは、イエス様は一度も言ってはいません。でも、神様を知る知識がないと、その瞬間に信仰がなくなり、その瞬間にクリスチャンを辞めてしまう。一瞬でもう教会には行かなくなり、もう聖書を読まなくなり、祈れなくなります。 そのことは、自分の人生で体験しているはずです。人間は興奮しやすく、大きなことを言って、少し人生が厳しくなると、すぐに文句を言い撤回してしまいます。これだけ不平不満と、怒りと、妬みが、すでにあります。これではまるっきりこの世の人と同じです。人を憎み、人を裁くのは、この世がする事です。サタンの方法です。例外なしに、パウロもペテロもそうです。神様を知らないと、聖霊様が働いてくれないと、私の中にいる聖霊様が力をくれなければ、明日イエスを捨ててしまいます。たとえ牧師でも、絶対はありません。拷問の末に打ち勝つ自信なんて自力ではとっても無理です。でも、私は信じます。その時、神様が拷問に耐えられる力をくれるという、信仰だけは持っていたいです。願いたいです。だからイエス様が、あなたの信仰は未熟です。信じたと言うのですか?どれ程に?イエス様には奇跡を起こす力がある、という程度にしか信じてないんです。でもそれでは聖書を知る知識ではありません。神を知ることこそ力です。み言葉が霊的なパンで食物です。私達は聖書を読むように牧師に命令されて、渋々、嫌々読んだら、食べ物にはならないです。でも、私が生きる為にイエス様を捨てないために、信仰を守るために、食べる時には力になります。賛美も礼拝もそうです。私達今まで勘違いして生きてきたんです。間違った信仰生活であり、本当に無知だったんです。教会の中で人に認められたかっただけです。その為に教会に来ました。それでは聖霊様が悲しみます。イエス様が語られる通り、確かにあなた方は信じたかもしれない。でも、わたしを全く知ってはいないと、言われているんです。だから、当然その信仰は弱いです。当然、明日は無くなるかもしれない。本当に風のような程度です。私達の信仰なんて。明日、宮城で起きた洪水がきて、あなた方は賛美できますか?これでは無いに等しいんです。だからこそ、私達が今日の本文の通り、弟子が今、イエス様に何を言われているか聞かなくてはならない。私たちは弟子と同じ。信じた程度が浅いんです。そして、イエス様をまるで知らないんです。知っているつもりだっただけで、実際はその真実を知らないんです。イエス様は、見なさい、あなたが散って行く、元の仕事に、あなた方は戻ります。と仰ったんです。

パウロも言っています。第1コリント8章2節 ~人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。~

未だにパウロのような天才はいないと言われています。5か国語が話せて、ローマ市民で、ガマリエルの弟子で、律法の専門家で、しかもユダヤ人の議員で、政治家で、しかも大金持ち。そして、ベニヤミン族出身。彼の経歴を見てください。すごく頭がいいんです。皆が認めているんです。でも、知っていると思っている事さえ、私は知らないと、彼が言ったんです。誰がこれに口答え出来るんですか?私達は、余りにも知っていると思い込み過ぎて己惚れやすいんです。聖書をたとえ10回通読しても、どれ程イエス様を知れるのでしょうか?聖書を昨日も読みました。今日も読みましたと言っても、どれだけイエス・キリストを説明できますか? どれだけ救いの原理を語れますか?どれだけノンクリスチャンに正確にイエスを語れますか? 口下手が問題ではありません。知識がない事が問題です。だから、私達はまず知らないことを認めるしかない。 私は今、本当に知らない事を恥じています。何故?今初めてジャン・カルヴァンの本を読んで、聖書を本当に知らなかったことに気づかされたからです。目から鱗です。本当に知らないで、ただ、熱心に聖書を読んできましたけど、信仰の書物を読んでいたのに、知らなかったんです。分からなかったとしか言いようがない。このジャン・カルヴァンの聖書の解釈が事実なら、全く無知としか言いようがない。だから、まず知っているという勘違いを捨てなくてはなりません。しかもそれは、聖書に関してだけではなく、この世に関しても、人に関しても、誰に関しても、知らない事を認めて、謙虚になって、謙遜になって、二度と己惚れてはいけないんです。裁いてはいけない。誰を裁くんですか?隣人を裁きます。知っているっていうつもりが、人を裁くんです。自分は知っているという傲慢が人を馬鹿にして見下します。私達は知っていると思っている程度さえ知らない。これは、イエス様が警告し、パウロが言っているから、間違いがない。しかも、自分だけと思わない事です。その劣等感に陥ることはやめましょう。人間すべてに言っているからです。古今東西、どの人間も神の知識に較べれば、誰も知らないんです。何も知らないんです。天国の情報を知っていますか?知らないでしょ?パウロは天国行って、イエス様と直接会って話もしたんです。なのに、天国の事を全ては知りつくせないと言っています。ましてや行った事もない私達が知っているはずがないんです。その知っているという傲慢が、人を裁きます。これが私達の問題点。だから、私達はイエス様の前で、「そうです、主よ。知りません。本当に無知です。だから、教えてください」という祈りが必要です。 そしてイエス様が最後、それでも私達に慰めをくれます。


~わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。~


最後のイエス様の弟子達への遺言が、『平安であるように』だったんです。その平安は、何度も言っているように、この世でいい事が起きる事ではない。でも絶対赦されない罪深い人間が、イエス・キリストが真ん中に立ってくださり、神の怒りの前に、そして十字架で代わりに懲らしめを受け、代わりに死んでくださったので、神の怒りが私ではなく、イエスに移されたことで、私達は神と和解したんです。敵対していた私達が、ノア洪水の時からもう神と完全に敵対して、和解する事が不可能な程の間柄になってしまったものを、神と和解する事が出来たのは、イエス・キリストが、真ん中に立ったからです。人間と神の真ん中に立ってくれて、仲介者になってくれたからです。その平和を言っているんです。私達が神と和解した。神の子となった。そして、天国の相続者になった。私達はいずれ天国へ帰る事が出来る。イエスが仰った、「わたしは残します。」という平和は、神との和解です。その平和です。私の我儘が全部この世で可能に、思い通りになるというような平和ではありません。我儘が通っていつも心が穏やかになる、という平和ではありません。第一に理解しなくてはならないのは、神との和解、罪の赦しです。その平和です。次に、神と和解したなら、私の心に神がいてくださるので、艱難は乗り越えられる。何故?神が力をくれるからです。これが神との和解の、最高のプレゼントです。お金ではありません。環境の変化でもないんです。隣の人が死ぬようなことがあっても、私が死ぬと告白されても、訪れる心の平和です。これは、お金では買えないほどのプレゼントです。


~あなたがたは、世にあっては患難があります。~


この艱難は、ギリシャ語では苦しみ的なものではなく、『迫害』なんです。だから、イエス様が仰ったように、この世の苦しみを言ってはいないです。ここは、クリスチャンが大好きな聖句で、榊原先生に言わすと、ほとんどのクリスチャンはここを暗唱して、自分の苦しみを乗り越えようとか、自分が今、お金がない、会社が嫌、仕事がないとか、そんなものを克服するために暗唱している聖句だと、勘違いしているけど、ここで言っている艱難は、迫害です。イエスが受けた迫害です。誰もイエスを信じない。イエスを信じるなんてアホくさい。なんて馬鹿な事を言っているんだっていうこの世が、私に与える迫害です。その迫害が必ずあります。むしろ喜びましょう。何ですか?イエスの子供の証拠です。もし、迫害がないなら、既に私はイエスの子供ではなく、この世の子です。もし、私に迫害があるなら、喜びなさい。あなたこそ、イエスの子供だから。だから、迫害があなたから死ぬ日まで終わりません。艱難は当然あります。当然この世の苦しみも、信じてない人と同じくらいきます。平等に、公平に。


~しかし、勇敢でありなさい。~


この勇敢でありなさいとは、むしろしっかりしなさいという言葉です。ここの勇敢でありなさいは、バルテマイ、盲人が「イエスよ、イエスよ、私を本当に助けてください。」と叫んだ時に、弟子が、喜びなさい。イエス様が呼んでおられます。という箇所の、喜びなさいという意味なんです。そして、ガリラヤの湖で、弟子達が、イエス様が湖の向こうから歩いて来るのをみて、怖がった時に、イエス様が、「わたしだ。しっかりしなさい」と言った時の言葉の意味です。そして、長血を患っている女に、「しっかりしなさい、あなたの信仰があなたを癒したのです」と言った時もこの意味です。そして、痛風の人にも、しっかりしなさいと言った時にも、ここの原文と同じなんです。だから、ここで勇敢でありなさいとは、『しっかりしなさい。』そして、『喜びなさい。』そして、あなた方は恐れる必要がない。何故?それは、次の理由が重要です。


~わたしはすでに世に勝ったのです。~


イエス様は何をしたんですか?十字架で、まずサタンや暗闇の力の、私達を攻撃する権威を奪いました。次に、私達にいずれくる『死』これを克服しているんです。だからイエス様が3日目に復活した時、イエス様は全ての全てになられたのです。肉体を着て、弱々しく死んだかもしれない。人はイエスを敗北者と言うかもしれない。そして、この世の人は、イエスは偉人、義人だったかもしれない。でも、死んだではないかという評価しかしていない。だけど、クリスチャンは知っています。死の権威を奪い、甦ったイエスには、全ての力があり、イエスは全てに勝利してしまった。生も死も支配し、地獄も天国も支配し、サタンはイエスの足台になってしまった。何の権力も、もう持ってはない。これが、イエス様が勝利した理由です。だから喜びなさい。しっかりしなさい。平安でいなさい。何故?『わたしはもう世に勝ったから』 ここで言っているのは、第1ヨハネで、こう言っています。「イエス・キリストを信じた事こそ勝利です」もう既に世に勝った、イエス・キリストを主と告白し、神だと認め、私の救い主と認めた瞬間に、私もこの世に勝っているんだ。この信仰そのものが、私達の全てだと言っているんです。そして今日の本文でその信仰がないと、弟子達は言われている。だから、しっかりしなさい。私達がこの世で勝つのは、信仰です。力ではなく、パワーではなく、奇跡ではないんです。私達が世に勝つ本当の力は、信仰です。何の?イエス・キリストを信じるという、絶対に私に平安をくれる、環境を乗り越える力をくれる、聖霊が私に、イエス・キリストを知る力をくれる。絶対に私を孤児にはしない。独りぼっちにはしないという信仰。 何故か?「わたしは父と一緒にいます」とイエス様が仰います。今弟子に向かって言います。あなたがたは、わたしを捨てるでしょう。でも、わたしは一人ではありません。父がわたしと一緒におわれます。その意味はこうです。十字架に架かった時、イエス様は最後に何と言いました?「神は何故、わたしをお見捨てになるのですか」と叫びましたよね?でも、最後には、「わたしの霊をどうぞ委ねます」と天の父に向かって言っています。これは、神の懲らしめ、人間を滅ぼそうとする神の怒りは、イエス様を一旦捨てるということです。神が一旦イエス様を捨てます。それが十字架の死だったんです。人間の代わりに、神がイエス様を捨てたんです。だけど復活の時に、神はもう一度、イエス・キリストを神の右の座につかせます。それこそ、イエス様が全ての全てになられる事。これを見ると、神がイエスを捨てた事自体が、計画の一つ。天の父が始めから決めていた事。だから、「イエス様は死んで甦った」が私達の告白です。「十字架で死んだ」だけでは、不完全です。イエス・キリストは十字架で死んで甦った、この理解が必要です。「死んだ、死んだ」では、この世の人が言う事。でも、重要なのは『復活した』です。そして、私に聖霊がきた。だから私は強いはず。何故なら、パウロがティモテに手紙を送る時、何て言いました?ティモテは気が弱かったんです。そのティモテにパウロは勇気を出させるために、「神の霊は臆病の霊ではない。」と言ったんです。私達の内側に来たイエスの霊は、私達をびくびく、臆病にする霊ではないんです。この艱難に負ける程弱々しい霊ではない。これに打ち勝てる力のある霊。力のある神なのだから。しっかりしなさい。騙されてはいけません。サタンはお前は弱いだろう。お前は挫けるよ。お前はもう明日生きる気力がないだろうと言ってくるかもしれない。でも、私達は勇敢に闘うんです。いいえ、イエス・キリストは私の為に死んで甦って、私の心にきたイエスの霊は、決してお前などに屈服する霊ではない。と私達は勇敢に立ち向かわなければならない。この世は、悪霊がいます。いない、と私達は思ってはいけない。でも、私達は恐れる必要がない。何故?勇敢に闘う神の霊が私と共に働くからです。アーメン。祈ります。

Yokohama Glory Church

イエスは言われた。 「わたしは、よみがえりです。いのちです。 わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者は、 決して死ぬことがありません。 このことを信じますか。」 ヨハネ11章25,26節

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