ヨハネ6章58-66
~これは天から下って来たパンです。あなたがたの父祖たちが食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」これは、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」しかし、イエスは、弟子たちがこうつぶやいているのを、知っておられ、彼らに言われた。「このことであなたがたはつまずくのか。それでは、もし人の子がもといた所に上るのを見たら、どうなるのか。いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。しかし、あなたがたのうちには信じない者がいます。」――イエスは初めから、信じない者がだれであるか、裏切る者がだれであるかを、知っておられたのである――そしてイエスは言われた。「それだから、わたしはあなたがたに、『父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない』と言ったのです。」こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。~
出エジプト記で書かれているように、エジプトから出て1か月経った頃から、イスラエルの民はパンがないと言いだし、そして1か月経った2月15日に、天からパンが、マナが下り始めたんです。そして、これはその時も神はこう言うんです。「これは、わたしがあなたがたに与えたパンである。」と言って40年間、彼らをそのマナで養いました。イスラエルの民はこの事件をよく知っています。そして、5つのパンで5千人を養った、その奇跡を見た人たちは、自分たちにそのパンをくれと言うんです。食べさせてくれと。自分たちは貧しいのだから、腹いっぱい食べさせて欲しい。
その時に、イエス様がカペナウムに入って来られ、その説教とメッセージをずーっと繰り返すんですが、私こそが天から下ってきたパンである。私を食べなければ、私を飲まなければ、誰も生きられない。それは、モーセが、イスラエルの民が、荒野で食べた、あのマナではなく、命のパンであり、永遠に生きるパンであると主はこの会堂で説教されたんです。そして、今日の本文、それを聞いて全ての弟子たちが、「これは、酷い言葉だ。」「そんな言葉誰が聞いておられようか。」と言うんです。この人たちは、さっき腹いっぱいパンを食べさせてもらった人達です。この弟子たちとはたくさんの病気を治してもらった人。たくさんの奇跡を見た人。たくさん、神様に助けてもらった人たちです。その時は、弟子になりたい、弟子になりたい。お供させてくれ、一緒に連れていってくれ、私もその教えが知りたい。イエス様にずーっとついてきた人たちです。
でも、イエス様が「私が天から下ってきたパンだ。」と言い始めた時、「これは、酷い教えだ。」と言ったんです。とても、もうあなたとは一緒に居られない、と言っているんです。これは、聞いてない人が言ったわけではありません。み言葉を聞き、奇跡を見て、イエス・キリストの力を見てから、これを言ったんです。何も知らない人がこれを言ったんじゃないんです。彼らは聞いたけど心で受け入れることができなかったんです。そしてこのイエスの真理に反論したい、反発したかったんです。そして、分かっているくせに、聞いているくせに受け入れなかったんです。そして、
~しかし、イエスは、弟子たちがこうつぶやいているのを、知っておられ、
彼らに言われた。「このことであなたがたはつまずくのか。~
イエス様が言っていることをよく聞いてください。彼らは文句を言っているつもりかもしれない。不平不満をただ言って、愚痴をこぼしただけかもしれない。彼らにとっては、つぶやきだったかもしれない。ただ呟いただけ。ただ言い訳して弁明しただけだったかもしれない。でも、イエス様は彼らを見て何て言ったんですか?呟いたと言わないんです。躓くのか?と言ったんです。本人たちは呟いてるつもりかしれないけど、イエス様にとっては、それは躓きなんです。躓きというのは、ただ転んで、ぱたっと倒れたようなものではないですよ。
ここでの本文の内容では、そういうものではないんです。何故なら、倒れたとするなら、また立ち上がれますよ。ここで言っている、神様にとっての躓きは、罠という意味です。狩人たちが鳥や獣を捕らえるときの言葉なんです。罠を仕掛けるんです。そして、ここであなたがたは躓くのか。ここで、あなたがたは罠に捕らえられたのか、とイエス様は、言っているんです。そして、皆も知っているように、鳥や獣が罠に掛かったら、滅亡を意味しているんです。死そのものです。一度掛かったら、絶対に逃れる事なんてできません。それはただ、食料になり、死を意味して、滅亡を意味しているんです。イエス様が言っているのはこの意味なんです。あなたがたはここで、捕らわれ、罠に掛かり、もう逃れることができないほど、滅びを選ぶのか?です。彼らは聞いて受け入れずに反発し、「聞いておられようか。」と呟いているだけのことかもしれないけど、神側は、ここであなたは罠に掛かるのか?と言っているんです。
~それでは、もし人の子がもといた所に上るのを見たら、どうなるのか。
十字架で死ぬだけではなく、3日後に甦って、そしてイエス様は霊的な姿の栄光なる姿で昇天する時、天に入られるのを見た時、あなたがたは果たしてそれを信じるんだろうか?この言葉で躓くものがイエス様が今からなさろうとする全ての事を信じるんだろうか、と言っているんです。
~いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。
いのちを与えるのは聖霊だって言っているんです。この聖霊以外にいのちを与えるものは一つもない。人間的なもの、『肉』と表現してありますが、この肉は人間的なものの全てです。考え、思い、感情、心、精神、その人が持っている知恵・知識全部です。それは何の益にもならないって言っているんです。神の語った言葉以外、そして、それに聖霊の働き以外、何の有益なものもないし、あなたにとって、それはいのちではない。と言っているんです。
あなたの持っている肉的なものに、いのちなどないと言っています。だから、モーセにこう言うんです。
「人間はマナだけで生きるのではなく、神から出た一つ一つの言葉による。」イエス様はこの言葉を、実現しているんです。イスラエルの民の中で。私の言葉以外にいのちなどないと言っているんです。でも、あなたはここで躓いたのか、ここで罠にかかり、二度と帰ることのできない、もう捕らえられたら滅亡以外ないというこの真理のことばに、あなたは聞いても逆らうのか、です。
~「しかし、あなたがたのうちには信じない者がいます。」――イエスは初めから、信じない者がだれであるか、裏切る者がだれであるかを、知っておられたのである――
イエス様はここで突然イスカリオテ・ユダの話をします。裏切るものが誰であるかを知っておられることを、イエス様は予見しておかなくてはならなかったんです。これはとてもイエス様にとって重要なことだったんです。そしてこの、裏切るというのは原本からいうと、裏切るという単純な内容ではないんです。手渡すです。悪意がある意味じゃなく、物理的に手渡すと言う意味なんです、ここは。この物理的に手渡すと言う言葉は、イエス様が、他でも使っています。
~イエス・キリストはピラトに手渡された。~
~ピラトはイエス・キリストを十字架に渡された~
~イエス・キリストは十字架でご自身のいのちを渡された~
~天の父はイエス・キリストを十字架に渡された~
という所の『渡す』という意味も同じなんです、ここと。物理的に渡したという意味をここで使っています。イスカリオテ・ユダはイエスのいのちを、肉のいのちを渡したんです。サタンに。そしてそれが誰だか知っています、と言っているんです。ここでイエス様は必ず言わなければならなかった理由があります。何故なら、イエス・キリストを後に
人間扱いする者が出てくるからです。もしイエス・キリストが全知全能であるなら、必ず弟子が裏切ることを知っていたのではないか、知らなかったなら、神ではない、と言う者が出てくるからです。そして大勢出てきたんです、この2千年。それでイエス・キリストを人間扱いする人が大勢います。でも、イエス様は予見していたんです。はじめから裏切り、わたしを渡す者が誰だか知っている、と。ですから、ここでイエス様はこの事をすでに知っていた、ということです。予見して、予定通りだっていうことです。
次に人間はこういう愚痴をこぼします。「じゃあ、イスカリオテ・ユダには自由意志はないのか?」「神が定めたことに誰が逆らえるのか?」という反論を言う者が必ず現れてきます。「そしたら、人間側の責任ではなく、神側の責任ではないのか?」これを言ってくる人が大勢いましたし、また大勢いることを主は知っています。それを、言い訳させないために、イエス様はここで予見していなければならなかったんです。
何故なら、
~そしてイエスは言われた。「それだから、わたしはあなたがたに、『父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない』と言ったのです。」~
ここに説明があるんです。父が呼ばない限り、誰も来ることはできない。でも、ここはとても微妙な事を言っておられるんですが、神は神側に責任がないと、全否定を語っているんです。何故?ここで父が信じさせなかった、とは一言も言っていないんです。父は、誰ひとり信じさせなかった事は一度もないんです。この人たちは、与えた者から外れた者です。与えられなかったんではなくて、与えた者から外れてしまったものなんです。神が責任を回避されています、ここで。
~こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。~
とうとうここで、人間側の責任が問われるんです。神は平等に語られましたよ。平等に真理を語っているんです。公平に神は語っていました。ここで離れていった人たちは、知らなかった人達ではないし、聞かなかった人達ではないですよ。「こんな話は酷い話だ。」「こんな言葉は聞いていられない。」と言って離れていったんです。イエス様と出会ったばかりである人が、それを言うのは理解できますよ。「分からない、知らない。」彼らはそういう人達でしたか?いいえ、弟子達って書いてあるんです。何年も、或いは何か月も、或いは何日も、共にした人です。そしてイエス様からたくさんの恩恵を受けてるんですよ。パンを食べさせられ、家族を救われ、病気を治してもらい、そしてありとあらゆる真理を教えてもらい、ありとあらゆる神の力、神の奇跡、神の栄光を見た人たちです。見て尚、何て言ったんですか?「酷い教えだ。」と言ったんです。そして自分の意志で、自分の責任の下で、自分の判断で今、離れていったんですよ。だから、神はその前に語っておられます。予見されているんです。「私は裏切るものが誰か知っている。」です。知らない神ではないんです。イエス・キリストは肉体を持ち人として来られたけれども、神の力を隠しているだけで、持っていないわけではないんです。それを現していないだけのことです。だから、誰がはじめから裏切るものであるかを知っていたんです。だから、ここで予見しないと、イエス・キリストを人間扱いするので、ここで予見しているんです。
どんな反論も受け付けないんです。天の父のみ心に叶っていなければ、また呼ばれていなければ、与えてもらわなくては、必ず来ることはできない、とはどういう意味ですか?
聖霊によらなければ絶対に無理という事です。人間は聖霊によらなければ、イエス・キリストを救い主と告白することは不可能なんです。絶対無理です。私たちは罪を犯したんです。誰でも罪を犯しました。生まれた時にもう、サタンの子供で、サタンの僕です。サタンの性質しか持ってないで生まれてきます。自ら神を知ることも、自ら神を探すことも不可能なんです。絶対に無理なんです。聖霊によらなければ、絶対、イエス・キリストを救い主とは告白できないんです。
そしてみ言葉を聞くのも、聖霊によらなければ私たちは理解ができないんです。聖霊によらなければ、私たちは分からないんですよ、神が何を言っているかなんて。ここでイエス様が言っているのは、神のことばは、いのちそのものだから、これを食べなければ、誰も生きる事はできないっていうことを主張しているんです。でも、それを言った瞬間、大勢の者が、酷い言葉だって言ったんです。酷くて聞いていられない、と。受け入れない、反発したい。反論したい。そして、私の感情にそぐわない。私の考えにも当てはまっていない。私の体験、私の経験上、そんな事はあり得ない。私の考えでは、私の感情では、これは受け入れられないと言っているんです。したがってここに神の責任はないと言っているんです。聞いた人たちが、奇跡を見た人たちが、反論することに。
そしてイエス・キリストを最後に渡す者を、私は誰かを知っている。今も進行中です。イエス・キリストはクリスチャンの中で、イエス・キリストを最後に裏切るものをはじめから知っておられます。その者はイエス・キリストの元に来ることもできないんです。何故?父が呼んでいないからです。それがどういう事か、パウロはもっと詳しく語っています。
へブル4章1-3
~こういうわけで、神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。信じた私たちは安息に入るのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。~
まだ救いの恵みは残っているとパウロは言っているんです。そしてこの望みから、恵みから、私たちが万が一でもここから外れないようにしようではないか。その為に私たちは、本当に謙遜になって、恐れていなくてはならないと、言っているんです。福音を聞いたものは、ユダヤ人であれ、異邦人であれ、同じだと言ってるんです。福音を聞き、神のみ言葉を聞き、それを聞いた人は全部同じである、と。何人であれ、どこの人であれ、どの時代の人であれ。
~ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。~
ここは、さっきの話をもっと具体的に言っていますよ。信仰によってとは、どういう事ですか?ほんっとにこれは、神のみ言葉だ。これは、神が語られたことだ。と素直な心を持って、だから、従順しなければならない。という従順な心で、服従をし、これは、正しい言葉。美しい言葉。偉大な真理、偉大な教理だ、と心で喜び、そのみ言葉を愛し、そして心に刻み込むんです。刻印するんです。これが、信仰をもってみ言葉を受け入れる人の状態です。そしてその者たちに聖霊が働くんです。まず、そういう心を持つように聖霊は働きます。そして聖霊がイエス・キリストと結びつけてくれるんです。
でも、彼らにはそのことが益になりませんでした。み言葉を聞いても、ロイド・ジョンズの本を読んでも、どんな説教CDを聞こうが、誰のメッセージを聞こうが、どんな偉大な本を読もうが、有益になりませんでした。何故なら彼らは、信仰によってみ言葉を聞いてはいないからです。何によって聞いたんですか?感情によって。興奮によって、自分の気ままによって、利己主義によって。そして自分の体験と経験で、これを読んだからです。そして最終的にその人間から出てくる全ては何ですか?『神が私に合わせろ』です。私の考え、私の感情、私の状態、私の分量、私の水準、私の今の境遇、神の方が合わせるべき、と。この状態でみ言葉を聞いても、何にも益にはならないし、イエス・キリストと何一つ結ばれることはないんです。そして、もっと恐ろしい事は、次に書いています。
~信じた私たちは安息に入るのです。~
しかし、
~「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない。」
と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。~
그러나,
神のみ言葉は今も昔も永遠に変わらないです。このみ言葉に逆らうものは決して入らせない、です。信仰のない者は決して入れない。信仰のない者は何を表現します?み言葉が入っていないから、最終的には、なんていう酷い教えだ、何という厳しい教えだ、何て私を非難する教えだ、私を何て否定する教えだ、私を落ち込ませ、私にやる気を失くさせる、何ていう野蛮な教えだ。無神経な教えだ。愛のない、恵みもない、慰めも労りもない教えだ。最後は絶対こうなります。絶対です。必ず安息に入れないとご自身に誓われたとおりです。ご自身に誓ったことを破る神ではないんです。そして、その裏切るものは始めから誰だか知っておられます。私たち人間は、同じ教会に居て、同じみ言葉を受けていたら、そんな区別がつきませんよ。誰が裏切っているのか、誰にはみ言葉があるのか、誰にはみ言がないのか。見た目には分からないですよ。ましてや、何年も信仰生活した宗教人に、その区別をつけるのは難しいです。宗教儀式は行われているし、宗教的な生活はしているし、誰よりも熱心で、誰よりも犠牲的で、誰よりも模範的な宗教活動してる人に、その人の中にみ言葉がないなんて、誰が見抜けますか。誰も見抜けないんです。神以外は。しかし、神はその人が必ず最後に裏切る事を知っています。その人の中にみ言葉がないからです。そして、決してそういう人に聖霊は働かないっていうことです。聖霊の火を消したのは、聖霊の方ではなく、その人です。何をした時に?酷い教えだ、何てひどい言葉だ。私はこれを受け入れない。受け入れたくない。反発したい。反論したい。逆らいたい。そう言ったものに聖霊が働くはずがないんです。み言葉が内側で働くはずがないんです。み言葉がいのちとなって、その内に働くはずがないんです。その人は何ですか?罠にかかり、もう逃れることができない滅亡が待っているんです。
イスカリオテ・ユダがそうでした。『わたしを渡す者は誰か』を知っているんです。イエス様はそんな事知らない神ではなく、この弟子たちが裏切ることも、はじめから知っておられました。そして真理の言葉は、この世は嫌い憎むんです。この世は真理のことばが大っ嫌いですよ。イエス・キリストの語る言葉が全部否定です。あり得ないんです。この世は、これを憎み、嫌います。だから、父が呼ばない者は誰もイエス・キリストの所に来られないということは、本当の事です。
聖霊に因らなければ、誰もイエス・キリストに繋がることはできないんです。
聖霊に因らなければ、誰もイエス・キリストを救い主と告白できません。
聖霊に因らなければ、み言葉が内側で実を結び、いのちとなる事はできないんです。
ですから、私たちはどうすればいいのか?神の言葉は絶対。本当に愛おしく、偉大で、素敵で、素晴らしく、知識に富み、知恵に富み、恵みに富んでいて、被造物に何という優しい、何といういのちの言葉だろう。耳をすまして私は聞き従おう。私はこの言葉が大好きだから、従順しよう。私はこの偉大な方が大好きだから、従おう。と信じ、祈り、求めなくては、人間自ら聖められることはできません。神が絶対的な主権を持っているんです。そうでなければすでに神ではありませんよ。私たちは神の導きを、何時でも、何処ででも、耳をすまし、待ち望み、また待ち望み、また待ち望み、聞くたびに喜び、聞くたびに感謝し、聞くたびに素直に従順し、聞くたびに服従するっていうことが重要になってくるんです。これが、信仰によってみ言葉に結び付けられた者達がすることです。信仰に因らずみ言葉を聞いた人は、必ずこうです。私の性格に合わせてやります。私の考え方でやりたいんです。私はこんな状態だから、神が私に合わせてやるべきでしょ、と言い、宗教生活だけをしていくんですよ。最後、必ず裏切ります。必ずイエスを捨てます。恵みを受けてなお、このように神を裏切るものには、聞かなかったものより激しい裁きがあるんです。
私たちは何によって生きているんです?この神のことばによって生きているんです。ことばを否定した時、何の希望が残るんです?キリスト者、あなたがいうクリスチャンは、聖書を読むために呼ばれたんじゃないんですか?なぜなら聖書に神の考えや恵みの救いが書かれているからです。聖書に神の言葉があるって信じてクリスチャンになったからです。イエス・キリストが神だと告白して、教会に入ったんじゃないんですか?なのに、言葉は嫌、命令は嫌、私の考え通り、感情通り、性格通り、そのように反発するのは、道理にあいません。何故クリスチャンと呼んでいるんです、自分を。神の言葉がいのちなら、食べるべきではないんですか?神がことばなら、従うべきではないんですか?これだけが、いのちであり、救いの道だっていうなら、当然そこを選ぶべきではないんですか?
イエス様がいのちであり、真理であり、唯一の道であるなら、この方についていくのは、他に救いの道がないからです。条件付けて、呟いて、愚痴こぼし続けるなら、罠に捕らわれて、滅びを招くんです。不従順が、あなたにとって簡単だったかもしれないけど、不従順があなたにとって、ただの愚痴だったかもしれないけど、不従順が、「あぁ、忘れた!」「あぁうっかりした!」ものだったかもしれないけど、神側では、もう赦しのない滅びなんです。決して安息に入れないという神の絶対的な誓いの元に行われているんです。
確かに私たちは信仰生活を継続します。確かに私たちは昨日と同じ生活が続けられます。でも、今日と言う日に私たちは従わなくてはなりません。祝福か呪いか、死かいのちか。神か、サタンかです。いいえ、神か、この世です。いいえ、神か、自分かです。これは、中間などない、ということです。簡単ではないでしょう。でも神のことばだけが命で、聖霊に因らなければ、決して安息に入れないということです。聖霊を悲しいませてはなりません。
私たちは手軽に癒され、手軽に奇跡を求め、手軽に救いを求め、手軽に信仰生活を選んでいますけど、その手軽な呟きの中に2度と機会のない、滅びがあるんです。2度とチャンスのない、2度と戻れない闇が存在しているんです。これが霊的な世界ですよ。何という難攻不落な人間の心だろう。何と神を否定し、神を非難し、自分を正当化する、この人間の心だろう。そして、何と神のみ言葉が心の中で実を結ばないんだろう。今日のメッセージ通りな実感です。心に響かない。反応がない、今の時代はそんな時代です。
み言葉は従順が要求されます。理解できなくても、まだ分からなくても、成長途中でも、まだ私たちが完全にイエス様のことが分からなくても、逆らいたくなっても、いや、逆らってしまっても、最後まで主を恐れ、謙遜になるなら、神はその人を捨てたりはしませんよ。だけど、神を知るには従順が大事なんです。
だけど、不従順を重ね続け、悔い改めることもせず、自分の感情によって神を酷いというなら、罠に落ちます。人間は弱く、神に至ることは不可能です。だから天から、命のパン、イエス・キリストが来臨され、神を知るようになったのです。神を知ることこそ、人間の究極的な幸せです。アーメン
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