ヨハネ福音書7章1-13

~その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。それは、ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡りたいとは思われなかったからである。さて、仮庵の祭りというユダヤ人の祝いが近づいていた。そこで、イエスの兄弟たちはイエスに向かって言った。「あなたの弟子たちもあなたがしているわざを見ることができるように、ここを去ってユダヤに行きなさい。自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行なう者はありません。あなたがこれらの事を行なうのなら、自分を世に現わしなさい。」兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。そこでイエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです。世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます。わたしが、世について、その行ないが悪いことをあかしするからです。あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りには行きません。わたしの時がまだ満ちていないからです。」こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。しかし、兄弟たちが祭りに上ったとき、イエスご自身も、公にではなく、いわば内密に上って行かれた。ユダヤ人たちは、祭りのとき、「あの方はどこにおられるのか」と言って、イエスを捜していた。そして群衆の間には、イエスについて、いろいろとひそひそ話がされていた。「良い人だ」と言う者もあり、「違う。群衆を惑わしているのだ」と言う者もいた。しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はひとりもいなかった。 ~


7章1節から

~その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。そして、仮庵の祭りというユダヤ人達の祝いが近づいていた。~


仮庵の祭りと言うのは、基本的には収穫感謝祭ですけれども、アメリカでいわれている収穫感謝祭ではなく、過ぎ越しの祭りなんです。エジプトから出たイスラエルの民が荒野で仮庵の(木で作った簡単なテントのような所で住みながら、神が私たちを救ってくれた、という感謝の祭りでもあるし、また1年の収穫の感謝の日でもあって、今私たちがアメリカ人に合わせてやっている感謝収穫祭は、このユダヤ人の仮庵の祭りとは全然違うんです。だから、これからはアメリカ人に合わせるのではなく、聖書通りの仮庵の祭りを私たちもしたいと思いますけれども、特にこの仮庵の祭りは1週間続くので、外国に散っている移民のユダヤ人達が年に1度集まってくる、大祭りですよ。そしてこの大祭りを祝おうとして、外国人達がこのエルサレムに集結しているんです。この集結している時に、イエスの兄弟たちがイエスに何て言ったかというと、


~「あなたの弟子たちもあなたがしているわざを見ることができるように、ここを去ってユダヤに行きなさい。自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行なう者はありません。あなたがこれらの事を行なうのなら、自分を世に現わしなさい。」~


とイエスの家族たちが全員「エルサレムに出ていけ」と言っているんです。今、彼らはガリラヤの田舎に住んでいます。ガリラヤの田舎で、それほど大勢住んでいない所で、ほんっとに一部分のかぎられた人の前だけでイエス様は奇跡を行っているんです。5000人を食べさせたり、水の上を歩いたり、死人が生き返ったり、そして様々な病気が癒され、悪霊どもが叫び声を上げて出ていく。これは、イエスの兄弟たちも見ているし、この奇跡的な出来事も、尋常ではない出来事をイエス様がしていること自体は、信じていない家族、信じていない兄弟たちも、この事は全員知っている事実でした。そして、奇蹟そのものは信じているんです。そしてそれが、今まで誰もやったことがないような、たくさんの奇跡を今、イエス様がガリラヤ地方、田舎の一部分でそれをしていることは知っています。でも、兄弟たちはイエスを神の子とはみていないので、こんな田舎でやるのではなく、公の大都会に出ていきなさい。公の大都会に出ていき、ユダヤ人の主な人達、政治家たち、議員たち、パリサイ人、サドカイ人、そして全ての律法学者の前でそれをしろ、と言っているんです。

何故ですか?「そうやって、認められたら、私たちもどうにか考えてみましょう。」ですよ。

そうやって公の場で、大勢の前でも奇跡が行われ、そしてその大多数がイエスを認めたら、私たちも認めようではないか。でも、今あなたがこんな田舎で、自分を現そうとし、自分を公の場で、自分の力を発揮しようとするんだったら、どうせならエルサレムで、正常な正式なユダヤ人達に認められなさい。こんな田舎者の、田舎の人たちにチヤホヤされたって意味がないでしょ。という具合の事をイエスの兄弟たちが言っているんです。そして、ヨハネはここで強調しているんです。彼らは何も信じてはいなかった、と。

イエスの周りには確かに奇跡的なことを見ながら、大勢の人が付き従っています。今、大勢の者がイエスに群がっているんです。その田舎町であれ、何千人という人達が、何百人と言う人達が常にイエス様の周りをうろついているんですよ。そして兄弟たちは公の場で自分を目立たそうとして、そのようにしていると思っているので、どうせなら、公に正式に認められて欲しい。そうすれば私たちも、もっと楽になるのに。こんな風にあれこれ言われて、あれこれ詮索されるのは、もう金輪際御免こうむる。だから、あなたは正式な資格を取ってくれ。お偉い方の正式な皆が認める何かを、イスラエルの何らかのポジションに就いて欲しい。エルサレムで何かちょっと立派なポジションに就いて欲しい。という類なことをイエスの兄弟達が、今言っているんです。でも、ここでイエス様がしていることを、圧倒的に支持しようって気は1つもないんです。イエス様が色んな人を救おうとし、助けようとしているとき、その援助は、手助けは1つもしないんです。イエス様のバックアップにつく気は1つもありません。そして、イエス様がしていることに何1つ良い風に思ってはいないんです。


~そこでイエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです。世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます。わたしが、世について、その行ないが悪いことをあかしするからです。あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りには行きません。わたしの時がまだ満ちていないからです。」~


イエス様はここで、兄弟たちにこのように返事をされるんです。私の時はまだ来ていない。でも、あなたの時は何時でも来ているのだから、と言っているんです。この時とは、時間的な時を言っているんではなく、イエス様が今、たとえ、1部分の人の前で公に仕事をしていたとしても、公生涯の仕事を今、続けているにしても、結局イエス様にとってのイエス様の時ではないんです。でも、あなたの時は今、来ていますよね、と言っているんです。このあなたの時は、7節で説明がつくんです。


~世はあなたがたを憎むことはできません。~


この世の時間と、このイエス様の家族は同じ時間を過ごしているんです。この世で言っている時間は、全く意味を持たない。決して目的を持っていない時間ですよ。そして、兄弟たち、家族たちはこの世と調子を合わせ、この世の中に溶け込み、この世と全く同じ考えをして、この世と全く同じ習慣で、この世と全く同じ常識を持ち、この世と全く同じ考えや思いを持って生きていますよね。でも、私は違います。と言っているんです。私の時はまだ来ていませんから。だから、この世と調子を合わせ、この世と同じことをしているあなた方は、この世があなたを迫害するはずもないし、この世があなたを嫌うはずもないし、この世からはみ出すことは、あなた方はないでしょう。だけど、私はこの世とは違います。と言っているんです。この世は私を憎んでいます。何故?私がこの世について行いが悪い事を証ししているからです。イエス様の存在そのもの。死人を生き返らせ、病人を治し、その奇跡を行う度に、「あなたの罪は赦された。」とイエス様は告白しているんです。この世の人たちは全員罪があり、この世の人たちは、いつも全員が汚れて、悪魔の子供だと言っているんです。そして、あなた方はその通りです。あなた方はこの世の人です。もう、この世に溶け込んでいるんです。この世と何の違う時間も過ごしてはいません。でも、私はこの世と違う時間を過ごしているんです。と言っているんです。そして、


~あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りには行きません。わたしの時がまだ満ちていないからです。」~


でも、イエス様はその後に、祭りに行っています。だから、イエス様の言っている祭りは、エルサレムで行われている仮庵の祭りではなく、この世の祭り事には行かないと言っているんです。あなたは、この世に行きなさい。私はこの世に行かない、です。あなたはこの世と同じ考えをしなさい。私はこの世とは同じ考えを持っていません。あなたはこの世が持っている時間を過ごしなさい。

私はこの世が持っている時間を過ごしたりしない。と言っているんです。イエスはその後、エルサレムに上って公に語ります。公堂に入り、全員の見ている前で、色んな奇跡を行い、色んな言葉を喋り、色んな人に噂されていきます。でも、兄弟たちには、絶対私はそこへは行かない、です。そしてイエス様はガリラヤに留まられても、兄弟たちが上った後に、密かに、エルサレムに行くんです。誰も見ていない所で、内密に上って行かれるんです。

だけど、ユダヤのエルサレムではとんでもない噂がいっぱい流れています。まず、祭司長達、律法学者達、パリサイ人達は、イエスを殺そうとして、探し回っているんです。このイエスをどうにか止めようと、イエスが神を冒涜しているし、律法をないがしろにし、自分たちの立場を悪くしているから、このイエスを殺そうとする、1部分のユダヤ人がいるんです。でも、その他大勢の大衆たちは何をしているかといえば、様々な噂を流しているんです。「この方はいい人だ。」或いは「この方は危険だ。」或いは、「この方は色んな奇跡を行っている。メシヤかもしれない。」「いや、この方は悪霊かもしれない。」様々な噂がエルサレムの中で行き交っているんです。でも、公に誰も喋りません。公にイエスの事を、誰も、誰ひとり、何も、言わない。ただ呟いて、ひそひそ、もごもご口の中で言っているだけのことです。そして、ただ噂だけを流しているんです。そして、彼は今どこに居るのか?と探しているんです。何故?何故彼らはそうやって公然と喋れないんですか?ユダヤ人達を恐れていたからです。

彼らユダヤ人、一部のユダヤ人達はイエスを殺そうとしています。殺そうとしているのを知っているから、自分の立場を明らかにしないんですよ。これがもう片方のユダヤ人達です。もう片方はイエスを完全に殺そうとして、探し出そうとしている。もう片方のユダヤ人達は、噂をするだけで、自分の立場を明らかにしないユダヤ人達。イエスの家族たちも同じなんです。ああだ、こうだと噂は流していても、イエス様を公然の場で、「この方はこういう方だ。」と喋る人が誰もいないという事です。そして、イエス様は、私はそのどちらとも同じではなく、あなたがたとは違う、と言っているんです。

私たちクリスチャンが、どの立場で立っているかです。このユダヤ人達を見れば、誰も彼もが神様を信じているんです。そしてメシヤが来ることを知っています。そしてメシヤが来るときに、ユダヤ人達の中ではこういう言い伝えがあるんですよ。メシヤは突然現れるんではなく、この地上のどこかに存在していて、そして徐々にそのメシヤは隠れたところで、公になるときが来るんです。隠れてはいるけれども、公になるときが来るから、だからその日を待ち望もうっていうのがユダヤ人達の考え方です。だから、イエスはどこから来たのか?知っているなら、メシヤではないっていう判断なんですよ。

どこから来たかが、分からないのが、メシヤなんだと言う言い伝えなんです。その後、それを噂で話しますけれども、その、イエスは知られています。ヨセフの子供で、大工の子供で、彼の家族は誰々で…だから、どこから来たか私たちは知っているから、これはメシヤではないと言っているユダヤ人達も大勢いるんです。でも、こんな奇跡を行うのは、メシヤでなくて一体誰だ?こんな奇跡をかつて誰が起こしたのか?こんな権威ある教えは一体誰が教えてくれたのか?という一方の人たちですよ。とにかく皆が様々な噂を流してるんです。そして、イエスを知らない人が居ないくらい、エルサレムはその噂でごった返しています。その所にイエス様は密かに行かれ、そして、公でまた、語られていくんです。

このようにして、誰もがです、自分の責任を果たそうとはしないんです。何故ですか?この世の人だからです。この世の人だから、誰も、「イエスはこういう人だ。」「イエスというのは、こういう人間だ。」「イエスというのは、こういう風に生きている人だ。」と誰も、公で口にしないんです。何故?殺されるから。イエスは言っているんです。「世が私を憎むはずだ。」何故?「私がこの世の間違いを正しているからだ。」と、イエス様ははじめからそうおっしゃっているんですよ。この世とイエスは決して相見えないんです。

だけど、大多数のユダヤ人達はメシヤを待っている割には、この世に属しているんです。イエスを、メシヤが来ることを望んでいると、口では言いながら、この世と同じ波長で生きてしまっています。そして、神はいると言いながら、この世を神よりも愛しているから、誰も自分の責任でイエスを告白することを一切しないんです。ただ、逃げ回っているんです。もごもごと口の中で言っているだけです。何故でしょう?この世を恐れているからです。それは、この世に嫌われたくないからです。この世に憎まれ、この世にはじかれ、この世から離れていくのが嫌だからです。だから、イエスをハッキリ言いたくないんです。だから、私の立場をハッキリさせたくないんです。曖昧にさせておきたいんです。私の立場を。イエスの家族たちがそうでしたよ。隠れていないで、公にハッキリしてくれって言うんです。だけどイエス様の時は1つしか存在していないんです。イエス様は公的に、今仕事をしているかの如く見えますけど、このような奇跡を行い、噂され、誰も彼もがイエスの名前を知っているから、公的な仕事をしてるかの如くに見えますけど、神側の立場としては、今公的に何も働いていないんですよ。

神側の立場で公的にイエスが働くのは、ただ1度だけです。十字架において死ぬという、これが神にとっては、公的な仕事なんです。だから、私の時はまだ来ていません、と言われるんです。私はまだ、公的に働いていませんし、その時間が来ていません。だから、あなたがたは、この世に行きなさい。私はこの世には行かない、と言っているんです。イエス様がエルサレムに行くとか、行かないとか、物理的なことを言っているわけではないんです。「あなたは、この世に行きなさい。私はこの世に行きません。」何故?私はこの世に出るときは、たった1度、十字架で死ぬときだけです。これが、イエス様の今の立場なんです。そして、今、2000年経った現在、イエス・キリストの名前は、大勢が知っています。クリスマスが何の日かも知っています。イエス・キリストの誕生の日なのは、誰も彼もが、どの宗教であれ、知っていますよ。でも、その人たちが知っているのは、ただ1つです。『イエス・キリストは十字架で死んだ。』ですよ。2000年経った今でも、イエス・キリストが述べ伝えられるのは、十字架で死んだ、その事件1つです。ここで行われて、エルサレムで行われて、ガリラヤで行われた奇跡的な話は、誰ひとり知らないんです。誰ひとり知らなくていいんです。イエス様にとってこんな奇跡は大きな問題ではないんですよ。

イエス様の公的な公生涯の仕事ではないんです。イエス様の本当に公的な神側に立った使節的な大使としての仕事はたった一つ、たった一度十字架で死ぬことだったんですよ。それがイエス様の、この地上に来られた唯一の目的だったんです。だから、この十字架の時がまだ来ていないので、私の時がまだ満ちてはいない、と言っているんです。イエス様が今も、昔も明らかにされているのは、たった一つです。十字架刑です。十字架で死刑にされたことです。十字架で死んだことですよ。むごたらしい、この死が、今も受け継がれている、イエスの噂なんです。イエス様にとっては、これしか、ここにしか、ご自身の仕事は、焦点を合わせてはいないんです。奇跡や慰め、励まし、癒し、これらのものは、イエス様にとって大きな問題ではないんです。だけど、民衆は何ですか?これだけを望んでいるんです。癒され、慰められ、励まされ、力をもらい、食べさせてもらい、住むとこをもらい、幸せをもらい、平安をもらい、自分の環境、自分の事だけを要求していますよ。そして、その人たちはこの世に溶け込み、サタンと溶け込んでいるから、何ですか?イエスを明らかに喋ったりはしないんです。自分の立場が悪い事になることに、1つも手を出さないんです。自分が不利になり、不利益になり、自分がこの世から捨てられ、嫌われ、憎まれる時には、一目散にさっさと逃げますよ。これが今の私やみなさんの状態です。

これらをイエス様は一番嫌います。イエス様が一番憎み、はいでも、いいえでもない、なまぬるい状態を吐き出すと聖書は語っています。

噂だけして、良いとこ取りし、奇跡だけもらいたいけれど、イエス様が誰か、私が誰か、私はどう生きるか、何の意味を持って、何の目的を持っているかは、喋りたくないんです。何にもハッキリしたくないんです。曖昧にしておきたいんですよ。自分のために。

クリスチャンが公的に姿を表すのは何ですか?この世とは全然違う立場を取るときですよ。クリスチャンがこの世で公的な、本当に公的に名前を上げるときは何時ですか?イエス・キリストの十字架が語られる、その場所です。パウロはそうやって生きたし、ペテロたちもそうやって生きたんですよ。そしてパウロはエペソでも、こう言っているんです。『あなたがたは、機会を十分に生かせ。』です。この機会という時間は、何を言っているんでしょう。

ユダヤ人にとって時間は2通りあるんです。意味もない、流れる時間と、意味を持つ、目的を持つ時間、この2つを区別して『時間』という言葉を使い分けています。その使い分けている言葉の中に、イエス様がこの世と言っているのは、意味もない、目的もない、ただ、ダラダラ、ダラダラ流れている時間の事です。そして、イエス様にとって意味のある、ユダヤ人にとって意味のある、目的のある、その時間は何ですか?救われる、救われている、この時間を言っているんです。天国に、全ての焦点を置き、この世とは決別し、この世とは一切まみえることなく、溶け込むこともなく、この世に憎まれ、公にキリストを告白するとき、イエスの時間なんですよ。これこそが、イエスの時間なんです。この世に溶け込み、この世に妥協し、自分でふんぞり返り、神を利用し、そして噂は流しても、自分の立場を明らかにせず、自分の明らかな責任をとることを回避して、イエス様の兄弟たちのように、ですよ。

奇跡を行い、有名にしてくれたら、私は、あたなを認めましょう、と言っている兄弟たちと同じなんです。まず、私に奇跡を働かせろ。それなら、私はあなたを認めましょう。今、クリスチャンたちがとっている態度です。そして、「私とあなたの時間は、全く別です。私の生きる世界と、あなたの生きる世界は、全く別の世界です。」と言われるんです。後に。どこで生きているんです?どんな時間を過ごすんです?何の目的で、何のために生きているのか?これが分からないと、ただ流れる時間を過ごすだけです。これが分からず、この世で妥協し、無責任に、何の責任も取らず、自分の立場、ポジションを明らかにもせず、そしてこの世に妥協することは、信じて救われた者の道ではありません。イエス様が言った、あの、時の中に入ると言うのは、この世と決別するということですよ。それがイエス・キリストの支配下の中に入っている事です。サタンの支配下に入っている時とは違います。意味もない、ダラダラと流れる時間、そんな人生を過ごしてはいけないんです。

今は平安だと思い込んでいるかもしれないけど、教会に属したら、イエス様に属したと思い込んでいるかもしれないけど、後に、明らかにされます。「私とあなたは、全く違う。」と。イエス様が最後に、あなたを知らないっていうのは、そういう事です。「全く違う世界に生きていては、私の国に入ることはできません。」です。生きている間、イエス・キリストを証しもせず、その立場に立つこともせず、この世に妥協して生きていては、いざと言う時に、「私の国に入ることは、可能なんですか?」と聞かれるんです。

どっぷりこの世に浸かり、どっぷりこの世に流れる時間をダラダラと過ごし、自分のポジションを明らかにせず、損することも、犠牲することも避け、自分が痛い目に遭う事は全部避け、人任せに、牧師任せに、他の宣教師任せにして生きることが、聖徒ではないはずです。神とは別なところで生きていはいけないのです。

このユダヤ人達のように。噂している人たちは、皆イエスを知っています。奇跡を行うイエスを。噂をしている人たちは全員、イエスがどういう力を持っているか、知っています。もらっている人たちです。付き従い、いつも引っ付いた人です。でも、この人たちは何をしたんですか?十字架の前ではイエスから離れました。私が天国から下ってきたパンだと言い始めた時に、「酷い教えだ。」と言って去って行った人たちです。十字架を語られた瞬間に嫌うんです。あなたの罪を悔い改めよ、と言った瞬間に離れますよ。決して自分の罪を認めたりしないし、イエス様がこの世を悪だとおっしゃっているのに、自分が悪だと言われた時には、イエス様から離れていくじゃないですか。これが、今日仮庵で噂しているユダヤ人達の姿です。決してイエス様のみ心など、何にも悟らない。決してイエス様の国に、決して入ることもない。決してイエス様と同じ時間を過ごすこともできない。そんな人たちです。ただ、噂だけをしている人たちです。イエス様は『良い人』だったと言われたいわけではありません。イエス様は、良い人、奇跡の人、力ある人と噂されたくて行ったことはないのです。十字架のイエスと言われたいんです。十字架で死んだイエスと言われたいんです。

パウロが何故、命を懸けて、「私は十字架以外何も知らないことにした。」と言ったのでしょう?十字架の意味をよく知っているからです。イエス・キリストが来たのは、これ以外に理由がないんです。イエス・キリストと今交わる理由も、これしかないんです。天国に入る理由は、これしか、ないんです。十字架以外、私たちクリスチャンに語れるものなんて、ないんです。私達は、曖昧にし、立場をこの世に合わせ、自分はこの世に足を突っ込んでおきながら、イエスを利用するだけ、利用し、苦しいと文句を言ってしまいます。このユダヤ人達のように。イエスの兄弟たちのように、です。この私もそうです。でもそんな立場に立ちたくない。そんな風に、私が私を甘やかして、イエス様に、こんな十字架に架かったイエス様に失礼な態度をいつまでもとりたくありません。こんな中途半端にイエス様を信じたくないです。

多くのユダヤ人達が、十字架の前で離れていきました。この世は、人は、十字架で躓くんです。今も、昔も。人が躓くのは、十字架です。「十字架背負って、私に従いなさい。」その場面がきたら、皆逃げるんです。自分の十字架背を負いたくないんです。楽して、奇跡だけみて。

イエスが来た理由、イエスの名を唱える理由。たった一つです。十字架の『死』なんです。そして、『復活』です。それを信じた者は誰でも救われる、です。そして、その恵みを受けたなら、私たちが、ただ生きる事は許されないんです。ダラダラと意味のない時間を過ごすことは許されないんです。イエス・キリストを救い主と告白した瞬間、イエスと同じ国、イエスと同じ場所、イエスと同じ時間を過ごすということは、この世との決別なんです。これが、救いの原理なんですよ。十字架の原理なんです。両足突っ込んで何とかなるところが、ひとっつもないんです。中間なんて存在していないんです。だから、イエスに属さない者はサタンに属していると書かれています。天国じゃなければ、地獄なんです。

イエス・キリストの十字架の福音を語るために私は生きていきたいし、そう望みたいです。

私たちの立場は明らかです。十字架の死を信じて、そして復活を信じて、私たちは新しい人として生まれ変わったんです。そして、それを嘆願するんです。イエス・キリストの栄光を現してくださいと。この世との決別とは、会社を辞め、離婚し、世捨て人になることでは決してありません。私達はこの世で今も生きています。この世の価値観との決別です。生きる目的が変わるのです。キリストを証しする証人は、聖霊の力なしには不可能です。

まず祈りましょう。その力、勇気、知恵、方法をくださいと。そして、それは隣の魂を愛するゆえにするのですから、このイエス・キリストの十字架の愛がみなさんに注がれることを祈ります。アーメン

Yokohama Glory Church

イエスは言われた。 「わたしは、よみがえりです。いのちです。 わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者は、 決して死ぬことがありません。 このことを信じますか。」 ヨハネ11章25,26節

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