イスラエルの歴史

~「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、身重になっている、いいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」~

聖書のルカ福音書2章に書かれたこの日が、みなさんご存知のクリスマスの日です。

そして西暦1年の始まりでした。この紀元元年はイスラエルの地から始まったのです。 では、イスラエルの歴史を見ていきましょう。

イスラエルが、イスラエルという国となるのは紀元前995年ごろダビデ王によったのです。 ダビデは両王国の中心に位置するエルサレムのエブス人を倒し、 イスラエル王国を統一します。

紀元前963年にその子ソロモンが王国を継ぎます。このころがイスラエルにおいても栄華を極め、国を繁栄していった歴史の舞台に登場する時代です。 しかし、ソロモンの死後、北と南にイスラエルの国が分かれていきます。そして十部族がイスラエルの王国、北王国として独立し、南のエルサレムを中心とするユダ王国、 南王国と分離することになっていきます。以後両国はさかんに争い、そしてその戦争によって国力が衰えていきます。 北王国の首都サマリヤは、紀元前721年にはアッシリアによって陥落していきます。

この地から引き離されたイスラエル人たちは、後に「失われた十部族」と呼ばれるようになります。 イスラエルの国に残ったイスラエル人と移民との間に生まれた人々がサマリヤ人と呼ばれるようになります。これは聖書でも良く出てくる人たちです。 サマリヤ人は混血したことや移民たちの信仰をユダヤ教に混ぜ合わせてきたことから、後にユダヤ人から差別を受けるようになっていきます。

しかし、このイスラエルの平安も続くことはありません。新バビロニアのネブカデネザルがエルサレムに侵攻してくるのです。 そして紀元前597年には一万人ほどのイスラエル人をバビロンに連れ去り捕虜とします。これを第一回の捕囚と呼びます。

そして、第二回目の捕囚として、紀元前586年には再びバビロンの王ネブカデネザルによってエルサレムの城壁が崩され神殿は完全に崩壊されていきます。 そして、ここにユダ王国は完全な滅亡を受けるのです。この時もバビロンに多くが捕虜として連れて行かれますが、これを第二回の捕囚と呼びます。

しかし時代が変わり、新バビロンを滅ぼすペルシヤが歴史の舞台に登場してきます。そして紀元前538年にイスラエル人を解放するようになります。 そしてエルサレムに帰還が始まっていくのです。ペルシヤ王ダリヨス1世の下で紀元前515年にユダヤ人がたくさんエルサレムに戻り神殿を再建させていきます。 ゼルバベルの指導のもとでエズラによってこの神殿を建てあげていきます。この時代にユダヤ教の形、原型が固められ、 これが現代のユダヤ教、またユダヤ文化へと直接に影響をおよぼしていきます。しかし、このエルサレムの自由も再び失われていきます。 紀元前333年に、マケドニア王国のアレクサンドロス3世、いわゆるみなさんご存知の有名なアレキサンダー王がペルシヤを打倒していきます。 そしてペルシヤの支配はここで終わりをつげ、ユダヤ地方もギリシヤ人の支配下に入っていきます。 しかし、このアレキサンダー王のギリシヤの自由政策の下にユダヤ人による自治と宗教の自由は守られ、国内の商業も盛んになっていきます。

このアレキサンダー王の歴史を見ていきたいと思います。彼は紀元前359年ギリシヤ北部のマケドニアで生まれます。そして王として即位されていくのです。 そして混乱続くギリシヤ世界に大きな変革の波をもたらすことになります。マケドニア王国は、ギリシヤのアテネに比べると田舎です。辺境の地とも言われています。 しかしそこで20歳のアレクサンドロス3世が即位します。みなさんの知っている名としてはアレキサンダー大王です。しかし、彼は33歳で、熱病で死にます。 彼の王位は13年間続いたのです。アレクサンドロスは、フィリポス2世の次男として生まれます。そしてギリシヤの哲学者アリストテレスを家庭教師にもつのです。 この有名なアリストテレスはギリシヤの天文学、天動説をたてあげ、そして、その1500年地球を中心に太陽が回っているという間違った天文学を打ち出した人です。 しかしその天才哲学者に家庭教師として学んだ彼は軍人的なイメージが強いのですが、その後、死ぬまで学問好きだとされています。 同年代の貴族の若者と一緒に若いころは勉強に励んでいたのです。そして何よりも父親が国の組織の大半をつくったもので、 アレクサンドロスはとても恵まれた環境にあったといえます。そして紀元前333年にあのペルシヤに圧勝します。 更に332年には、エジプトにも遠征、ペルシヤに抑圧されていたエジプト人達はこれを大いに歓迎し、アレクサンドロスはエジプトをあっと言う間に占領していきます。 そしてナイル川の河口にアレクサンドリアという大都市を建設していきます。そしてその後アレキサンダー大王は北上し、バビロン、スサとペルシヤの重要な都市を陥落 させていきます。ギリシヤ、エジプト、小アジアの広範囲をその支配地域に治めていくのです。そしてその後もアジア、インド、中国にまで侵攻し占領していきます。 もちろん遠い遠征となったので、この時までには最初からついてきた兵隊の大半は戦死していたり、途中ではぐれたりしていたのは言うまでもありません。 おそらくアレクサンドロスの周りには、ペルシヤ人達やエジプト人達が大勢いたことでしょう。そしてアレクサンドロスはまた人種融合を目指します。 そのためにはまず反乱を起こさせてはいけません。自らペルシヤの習慣に従い、部下達にもそれを強制しました。このような姿勢は支配者には珍しいことです。 それはアレクサンドロスの理想、ギリシヤ人達にとっては、それは苦痛でしかなかったのです。そしてペルシヤ人の貴婦人とマケドニアの貴族との集団結婚が行われ、 彼が死ぬと途端に結婚した者の多くは離婚し、人種融合の夢は消えていきます。33歳の若さで彼は歴史の舞台から姿を消します。

13年の間に世界の大半を支配した偉大な王として今も歴史に名を残しています。

イスラエルはこのギリシヤの影響をとても受けるのです。そのアレキサンダー大王が死ぬとその領土は将軍達によって分割されその支配をめぐる争いが起きていきます。 ユダヤを含むシリヤ地方の南部をはじめエジプトを支配していたプトレマイオス朝の支配を受けるようになります。 紀元前3世紀の中ごろ、エジプトのアレクサンドリアにおいて聖書がギリシヤ語に翻訳されていきます。そしてこのプトレマイオス朝、この王朝がクレオパトラの先祖になるのです。

アレキサンダー大王がアジア、アフリカ、ヨーロッパを征服したころ、植民地の国々にギリシヤ語の使用を強制したことにより、地中海・世界全体の共通語として ギリシヤ語が一般化されます。

ちなみに新約時代にはイスラエル地方ではアラム語が用いられていました。 また、新約聖書もギリシヤ語で書かれたことによりキリスト教の福音は全世界に広がっていくきっかけとなっていくのです。

このアレキサンダー大王の支配によって全世界にギリシヤ語が共通語となっていったのは歴史にとって大きな影響をもたらしています。 紀元前175年において急速に勢力を伸ばしてきたのが共和制ローマです。ローマが中東における巨大な勢力の誕生を危惧して中東情勢に介入したため弱まってきた プトレマイオス王朝、クレオパトラの先祖達は滅亡を免れるのです。

しかし、ユダヤ人もそのまま支配に甘んじることはありませんでした。紀元前167年になると祭司マタティアとその息子達が反乱を起こします。 この戦いをマカバイ戦争といいます。紀元前143年にはユダヤ人による独立国家が回復するのです。

そしてこのユダヤの地にエッセネ派、パリサイ派、サドカイ派がおこり、この後歴史の舞台でユダヤ人の中ではサドカイ派、パリサイ派と対立が激しくなっていくのです。 しかしイスラエルが独立国家として歴史にのぼるのはわずかでしかなかったのです。紀元前63年にはローマのポンペイウスが中東へ遠征してきます。 そしてユダヤはこうしてある程度自治を認められながらもローマのシリヤ属州の一部となっていくのです。

ここからはローマの支配が全世界に始まっていくのです。そしてヘロデというユダヤ人の王という称号を認められていきますが、 そのことは紀元前37年にヘロデが開祖となるヘロデ朝が成立していきます。ヘロデが紀元前4年に血にまみれた生涯を終えるとその息子たちによってユダヤは再び 分割統治されていきます。そしてローマはユダヤ王の称号をヘロデの息子達には与えず、再び結局ユダヤはローマの総督による直轄支配となっていくのです。 ローマ帝国がユダヤで宗教的権威を認めながらも政治的権威を与えなかったのです。ユダヤは総督の支配におかれます。 その間ヘロデ大王の孫アグリッパ1世がユダヤの統治をしたこともありますが、それは間もなく彼の死後またローマの総督直轄に戻されていくのです。 歴史はどんどんこのローマに傾いていきます。大きな反乱が続発し、ユダヤ人の統治の困難さに手を焼いたローマ人はユダヤ地方からユダヤ色を一掃しようと考え、 ユダヤ人が忌み嫌っていたペリシテ人の名前をとり、この地方をパレスチナと名付けます。そして今イスラエルの北にあるパレスチナ地方という名はここから始まるのです。 ここに再び多くのユダヤ人が離散を余儀なくされ、長いディアスポラ、移民の時代が始まっていきます。

ローマによるエルサレム神殿崩壊の結果、神殿中心の古代ユダヤ教は終焉し、以後ユダヤ教の学問の中心はガリラヤ地方に移り、パリサイ派の伝統を下地に、 今日(こんにち)の現代ユダヤ教にまで発展するユダヤ教の原型がここに始まっていきます。

このローマの支配が、シリヤ地方で始まる時、クレオパトラの先祖、マケドニアの貴族であり、アレキサンダー大王と共に遠征に参加し、大王の後継者の一人となった、 シリヤ王セレウコス、それが同じ大王の後継者でエジプトの王にすでになっていたプトレマイオス家に、プトレマイオス5世の時代に嫁入りすることになります。 以後プトレマイオス家は近親(きんしん)相姦(そうかん)を繰り返し、王はプトレマイオス、女王妻はクレオパトラと名乗ることになります。

有名なプトレマイオス朝最後の女王となったクレオパトラは7世であります。エジプト最後の女王がクレオパトラ7世であることは、恐らくよく知られています。 そのクレオパトラ7世が所属するのがプトレマイオス王朝、エジプトの古代王国の歴史の最後に位置する王朝で、アレキサンダー大王亡き後、その後継者の一人で、 大王の幼少の頃からの友人であった、プトレマイオス1世がアレキサンダーの帝国のうち、エジプトを領地として選んだことから、この王朝は始まっています。 プトレマイオスは名前からしても、アレキサンダー大王の後継者の一人ということからもわかるようにエジプト人ではなく、マケドニア系のギリシヤ人です。 つまり、エジプト最後の女王は、エジプト人の血をいくばくかひいたかもしれないが、先祖をたどれば外国人なのです。アレキサンダー大王の死後、 将軍の一人でマケドニア地方出身のギリシヤ人であったプトレマイオスは、紀元前306年にエジプトの地に王朝を創始します。 プトレマイオス朝はエジプトの伝統を取り入れ血族結婚を繰り返したので200年以上エジプトを支配しながら、エジプト人の血が混じらず、ギリシヤ人の血を保っていくのです。

クレオパトラ ― 「世界を夢見た悲劇の女王」の姿はどんなものだったのでしょう。

美人の代名詞のように語りつげられ、フランスの哲学者パスカルも「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら、世界の歴史は変わっていただろう」と記しています。 その反面クレオパトラはそれほど美しくなかったという説も記録されています。ローマの支配が始まるそんな時代、クレオパトラは紀元前69年1月に生まれます。 彼女の母親は出産の直後に亡くなります。彼女の一族は土着のエジプト人ではなくマケドニアの血を引くギリシヤ人です。ちなみにクレオパトラはギリシヤ語で 「父の栄光」を意味するものです。彼女の属するプトレマイオス家は王家の純血を保つために近親(きんしん)相姦(そうかん)を続けます。 アレキサンダー大王がこの地を征服し大王の後継者で将校だったプトレマイオス1世が統治して以来、250年間続けられてきた習慣です。 そうした近親(きんしん)相姦(そうかん)は体や性格にも悪影響を及ぼしそれが原因で一族の者の中には、てんかん、異常性格、肥満体の者が少なくなかったのです。 クレオパトラの父であったプトレマイオス12世は、軟弱な国王として民より「笛吹き」と呼ばれ馬鹿にされる始末です。 やがて大増税やキプロス島をローマ人に売り渡した件で民衆の怒りが爆発し、この馬鹿の王はローマに命カラガラ亡命することになります。 しかし、クレオパトラは文句なしに知性の高い女性です。植民地内のさまざまな言語にも通じ、何か国語も自由自在に話します。 それにエジプト語を話せたのは彼女一人だったと言われています。彼女は軍事、政治面にも非凡な指導力を発揮するマルチ才女だったのです。 クレオパトラは父の遺言状に従い弟と共にエジプト全土を統治することになります。

クレオパトラ18歳、彼女の弟プトレマイオス13世はまだ10歳です。勝気で女王気質のクレオパトラは王座に就いた時から統治していくつもりだったのです。 ところが、政治を補佐するはずの3人の後見人は、自分たちの野心と利益を優先して右も左もわからない幼い弟を自分たちの思いのまま、操ろうと考え、 そこで意志の強いクレオパトラが邪魔になり、彼らの陰謀により彼女はアレクサンドリアを追われる身となります。 クレオパトラはシリヤの砂漠の秘密の場所に隠れて難を逃れましたが海の向こうのローマ帝国から独裁者カエサルがアレクサンドリアに到着するのです。 この人こそあの有名なシーザーです。ローマ帝国の権力闘争に明け暮れたあげく、ライバルであったポンペイウスを戦いで打ち負かし、ポンペイウスを追って このエジプトの地にやってきたのです。紀元前48年10月中旬、カエサルのもとに女王からの伝言を献上したいと、一人のギリシヤ人が王宮に訪れ、 絨毯のようなものを抱きかかえるように運んできます。その中から一人の小柄な女性が転がり現れたのです。その時クレオパトラ21歳、 今にもこわれるのではないかと思われるほど華奢で、巻き毛は丁寧に揃(そろ)えられてうなじのところで結ばれていた。 カエサルにとってそれは威厳に満ちた女王というより、妖精のような存在に映ったことでしょう。この見たこともない若い女性にカエサルは最初驚き、 やがて彼女の巧みな会話、深い知性ときらめくウィット、気持ちをそそるような恋の駆け引きにローマ帝国の53歳の独裁者の心はすっかり魅了されてしまうのです。 クレオパトラにとってはシーザーに取り入り、彼の権力のもと、自分を追放した弟とその手下どもを打ち負かすか、さもなくは自分が死ぬかしかなかったのです。 そして彼女は、独裁者カエサルの心を見事につかむことに成功します。弟のプトレマイオス13世は、憎い姉がいつのまにか宮殿にまいもどり、 こともあろうにローマの独裁者と深い仲になっているのを見て13歳の幼い国王はたちまち癇癪をおこし、部屋を飛び出し、取り乱していくのです。 この国王の姿はやがてエジプトを愛する民衆の同情を誘い、暴徒と化し、宮殿になだれ込んできます。その後カエサルは二人の間を取り持ち、とりあえず和解させ、 再び二人によるエジプト統治を高らかに宣言します。しかし舞台裏ではひそかにプトレマイオス13世の後見人達が、カエサルとクレオパトラを打つために軍隊を動かして 戦いの準備を進めていたのです。カエサルはそれに気づくと直ちにプトレマイオス13世を王宮内に監禁するとともにシリヤに駐屯しているローマ軍に援軍を要請します。 やがて王宮から追放されたプトレマイオス13世は反乱軍を用いてローマ軍に最後の戦いをのぞんできたが、打ち負かされナイル川に追い詰められ、 ついに船が沈み溺れて死んでしまいます。クレオパトラは実質上エジプトの女王となったのです。 カエサルの力が後ろ盾として働いていたことは言うまでもありません。クレオパトラはその時6か月の身重になっています。 カエサルはローマ総統としての任務を果たすためにクレオパトラと分かれ小アジア、アフリカにつくポンペイウスの残党を打ち負かし、ローマに凱旋します。 カエサルの凱旋式は実に壮大なものになりました。戦利品が何台もの車に積まれてローマに運び込まれたのです。 いっぽうクレオパトラはカエサルとの間に生まれたカエサリオンを育てながら再会の時を待ち望んでいます。 そしてとうとうローマから彼女とカエサリオンを客として迎え入れるべく知らせが届くのです。それは3年後の出来事でした。 ローマに乗り込み大歓迎を受けてカエサル邸に落ち着きます。しかし、カエサルの独裁ぶりに共和制崩壊の危惧の念を抱いた一部の元老院議員達によって暗殺されてしまったのです。 3月15日のことでした。カエサルは実質的には皇帝となり共和制から帝政への移行を図ったのです。しかしたとえそれが市民の支持を受けた善政であったにせよ、 共和国の伝統を守ろうとする元老院にとっては許されないことだったのです。カエサルはその独裁を許さない息子オクタビィアヌス、このカエサルの養子によって、 そしてブルータスの手にかかり暗殺されます。このときカエサル・シーザーは、「ブルータスおまえもか」と叫んだと言われていますがこれはシェークスピアのセリフであって、 歴史の事実ではありません。

これでクレオパトラの野望はカエサルの死と共に急速に去っていきました。おまけにカエサルの遺言では、ローマ帝国の後継者は彼の養子であるオクタビィアヌス ということになっていました。カエサリオンこそ後継者と考えていたクレオパトラには思いもよらぬ事実に、彼女は失意のうちにローマを逃げるように去らねばならなかったのです。 ローマではカエサルの死後、オクタビィアヌスとアントニウスの派閥に別れて権力争いが生じていました。その時、クレオパトラにアントニウスから、呼び出しの声がかかります。 だが、この時、クレオパトラはこれがほんの口実に過ぎないことを見抜いていました。以前騎兵隊長だったアントニウスの脳裏には、 まだ少女だったクレオパトラの面影が忘れられなかったのです。クレオパトラは、小アジアのタルソスに向かいます。 アントニウスは、こうしてクレオパトラと水入らずの時間をアレクサンドリアで過ごします。 しかし41歳の彼は、カエサルのように彼女に太刀打ちできる頭を持ち合わせていなかったのです。田舎育ちで、気前が良いが、根が単純なアントニウスが、 いとも簡単にクレオパトラの魅力に屈してしまうのは、至極当然な結果であったのでしょう。 この時、クレオパトラ28歳、彼女の体の中にはアントニウスのふた子が宿っていました。

ローマからの妻フルビィアがライバルのオクタビィアヌスに戦いを仕掛けたという不意の知らせがきます。 アントニウスは、否応なく、戦争を止めるためアレクサンドリアを後にしなければならなかったのです。 クレオパトラにうつつを抜かすアントニウスの心を自分に向けたい一心で事を起こしたようであります。 結局フルビィアはアントニウスが激しく責め、その後、疲労がたたって病気となり、死んでしまいます。 オクタビィアヌスは、ライバルとはいえ、まだアントニウスと戦うつもりはなかったので、和解を申し出て、その際、和解のしるしに、アントニウスは、オクタビィアヌスの姉を 新たな妻に迎えたのです。

3年が過ぎ、アントニウスは、パルチア遠征で大損害を出して窮地に陥ってしまい、クレオパトラは、援軍を送って救助に駆けつけ、無事アントニウスを救い出したのです。 こうして、アントニウスはクレオパトラに一切頭が上がらなくなり、彼女との結婚に承諾して、さらには、オクタビィアヌスの姉であった妻とも離婚させてしまったのです。

このことは、オクタビィアヌスが、アントニウスに宣戦布告するよい口実となり、事実、二人の間の権力争いも頂点に達し、いつかは戦わねばならない以上、 機は熟していたのです。オクタビィアヌスは、彼の姉が離縁させられた事実をうまく利用しました。元老院議員には、アントニウスを支持する者がかなりの数いたわけですが、 ほとんどがオクタビィアヌス側についてしまったおかげで、彼はローマ帝国すべてを敵に回さねばならなくなってしまったのです。 このことは、クレオパトラにとっても、大きな見込みちがいになったといえましょう。アントニウスの陣営は、悲惨さを増していきます。 軍隊の士気は落ち、脱走する者が後を絶たず、結果的にアントニウスは命からがらその場を脱したが、艦隊は全滅してしまったのです。 アントニウスはほうほうの体(てい)で宮殿に逃げ帰りますが、そこでクレオパトラが自殺したと聞かされ、アントニウスも自決を決意します。

彼女のもとへ連れていかれたアントニウスは、彼女の腕の中で息を引き取り戦いは終わりました。宮廷内に軟禁(なんきん)されたクレオパトラは、 ローマに連れられていく運命だけが待っていました。オクタビィアヌスがローマに凱旋する際、民衆の前で、戦車で鎖につながれた彼女をさらし、 自らの力を見せつけようとしていたのです。そして、8月12日。ローマへ出発を3日後に控えたその日に、彼女は入浴を済ませて、最後の食事をしたクレオパトラは、 小さな蛇の毒で、夢と波乱に満ちた39年の生涯に終止符を打とうとし、番兵が、これに気づき駆けつけた時、彼女は黄金のベッドに、 女王の衣装と宝石を身につけ死んで横たわっていたのです。エジプト王朝は終わりを告げます。

カエサルは紀元前100年ローマの貴族の家に生まれました。これには異説もあります。ともかくイエスキリストが登場する約100年前、彼はこの世に生を受けるのです。 7月13日に生まれたとされています。シーザーは信長のカリスマと秀吉の人望と家康の組織力を兼ね備え、しかもそのうえガクトの色気とガンジーの慈悲さえも、 ともに授かった歴史上稀な魅力を持つ人物であるとされ、欧米人にとってはまさにタイム誌の表紙を一人で飾る、といっても良い人物であったといわれます。 その母性本能をくすぐるルックスと天才的な饒舌の冴え、そして何よりもその度胸の据わった態度によってたちまちローマの人気者となっていったのです。 しかしカエサルに安住の日々はありません。ポンペイウスの残党を倒し、きたるべき「ローマ帝国」のグランドデザインを作成しなければならなかったです。 当時ローマは有力貴族による共和政治が行われていて、このシステムはローマがまだちっぽけな都市国家のときにはうまく機能していても、 紀元前1世紀の全地中海を支配する大帝国のシステムとしては無理があったのです。政策、指揮、決定、命令系統があまりにも非効率であり、 いうなれば町内会が日本全体の行政を行おうというようなものであったからです。カエサルはそれを見抜いていました。この巨大化したローマを統治するためには権力の一本化、 すなわちローマ帝国の設立しかなかったのです。いつのころからか彼は王になる望みを抱くようになっていました。しかしかつて多くの血をながし、王権を倒し、 共和制を勝ち取ったローマ人にとって王という名は悪魔にも等しい響きをもっていました。カエサルの意図はどうしても理解されなかったのです。 「ローマに王はいらぬ、独裁者を倒せ」そう叫びながら襲う暗殺者達、カエサルはひるむことなく手に持った錫一本で立ち向かっていきます。

しかしその暗殺者の群れの中に一人の若者の姿を見た時、彼はすべての抵抗をあきらめ、その場に倒れこみます。「ブルータスおまえもか」息子のように、いや本当の息子、 隠し子だったと言われるその息子に、その愛したブルータスに、彼さえもが自分を殺そうとするのか。その時偉大なるリーダー、シーザーはくしくも倒れてしまうのです。 そして彼は死にます。しかし彼の描いたグランドデザインの確かさは彼の死後、養子として跡を継いだ息子がローマ初代皇帝アウグストゥスとしてその後、 千年以上続く大ローマ帝国の礎を築いたことからもシーザーの考えが間違っていなかったことは明らかであります。

そしてローマの支配がこのシリヤ、イスラエルにおよびローマの属州となっているとき、イエスキリストは誕生したのです。その後イエスキリストが十字架にかかり死んだ後、 イエスキリストの弟子のパウロが紀元3年から62年ごろまでこのキリスト教の布教をはじめていきます。 パウロをはじめとする人たちはキリスト教をユダヤ人以外に布教することで国際化に成功していきます。こうしてユダヤ教から独立した新しい宗教が誕生していったのです。 しかし、ローマにまず福音が入り、キリスト教が広まるにつれ、紀元64年ネロ皇帝がキリスト教の迫害をはじめていきます。

もっともネロ皇帝は、最初から暴君だったわけではありません。最初の5年は哲学者のセネカの支えで立派に政治をとります。 しかし権力の亡者ともいえた母アグリッピナと対立し、彼女を殺害してからささいなことで周りの人を殺すなど行動がおかしくなります。 また帝位後継者になりえる人物をことごとく殺していきます。そのような中でセネカは引退していきますが結局殺されてしまいます。 ローマで大火事があったときにネロが放火したのではないかと疑われてしまいます。あわててネロは家を失った人々を救済したり、見世物小屋を作ったりと必死に対策をするいっぽうで、 少しずつ信者を増やしはじめていたキリスト教徒にすべての責任と罪をかぶせ迫害をしていくのです。もはやネロに対する不満のうずを抑えることはできず、 元老院により国家の敵とレッテルを張られ68年に自殺させられます。この時歴史がまた変わります。ネロが他の最上位皇帝候補を殺していたこともあり、 シーザー、カエサルからのアウグストゥスの血筋の皇帝はここで終焉をむかえていくのです。

「すべての道はローマに通ず」と称されたローマも衰退していきます。紀元313年にコンスタンティヌスがキリスト教を保護し、 349年9月6日に東西に分裂していたローマ帝国を統一し、一人で支配した最後の皇帝となったテオドシウスが、388年には元老院議員に対し古代ローマ宗教の廃絶を求め、 決議を定義します。元老院側は、ほぼ全会一致で賛成します。これによりキリスト教は事実上ローマ帝国の国教となっていくのです。 そしてキリスト教はローマに入りヨーロッパに入って行き、その後ローマからローマカトリックが誕生します。 それからキリスト教は1500年ヨーロッパに入って行き、16世紀マルティンルターの宗教改革からプロテスタント教会が出現し、 福音書の教えに立ち返り権力乱用を止めようと社会と宗教に激動をもたらします。そして18世紀のフランス革命を始めとするヨーロッパに新時代の革命へとつながり、 イギリスからの独立により、アメリカ大陸にまで変革はおよんだのです。

そして今、キリスト教の布教はアジアに入りイスラエルに戻ろうとしています。こうしてイエスキリストの誕生はイスラエルから歴史が始まっていくのです。 そしてこのイスラエルのローマ支配を許可したのは、神様です。ギリシヤでもなく、エジプトでもなく神はローマにキリスト教福音を広げることを定められていました。 そしてパウロにアジアではなく、ローマに入れと命令していくのです。そして、キリスト教は、全世界を周ってもう一度イスラエルに戻って行きます。そのはじまりは紀元1年。

それこそイエスキリストの歴史の始まりなのです。そしてその歴史はイスラエルの小さな町、ベツレヘムから生まれます。クリスマスはこの歴史の始まりでもあり、 新しい時間の始まりでもありました。私たちはこの終わりの時代を今迎えています。そしてキリスト教はもう一度イスラエルに戻ります。 そして今、歴史はその通りに動いています。経済も力もアジアの方に向かっていきます。こうして歴史は一周してしまったのです。 "His Story" 彼の物語は、History歴史となったのです。その歴史はもう終わりを告げようとしています。キリスト教が2000年布教を続けられたのは神によるのです。 そしてイエスキリストは全世界を救うために二千年前にこの地に来られ、そしてもう一度来られます。

メリークリスマス!!!

Yokohama Glory Church

イエスは言われた。 「わたしは、よみがえりです。いのちです。 わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者は、 決して死ぬことがありません。 このことを信じますか。」 ヨハネ11章25,26節

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