ヨハネ福音書21章1-14
~この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現わされた。その現わされた次第はこうであった。シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。 イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねる者はいなかった。イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現わされたのは、すでにこれで三度目である。~
以前このヨハネの福音書は、ヨハネが書いた福音書は20章までだ。この21章は弟子が書き足したもの、と言われている、と言った通りに今日の箇所は、もう一度弟子達が散らされた。というところです。彼らは派遣されて、使徒として働く事、福音の仕事を、イエス様が働いて来たあの福音の仕事をしなさい、と言われているにも関わらず、その後、彼らは自分の故郷に帰って、また自分の仕事に戻った、という話が書かれてある。イエス様が金曜日に十字架に架けられ、死んで葬られ、日曜日の朝に甦って、その日曜日の夜にもう弟子達の真ん中に立たれて、食事の最中にイエス様が現れました。復活したイエス様が一回目に現れて、次はその八日目です。種を入れないパンの祭が一週間続き、そして安息日があったから、次の八日目の一週間まで弟子達はガリラヤに帰らず、エルサレムに留まっていたんです。そして、そのエルサレムに留まっていた八日目の夜、食事の最中に、またトマスが信じないと言っていた、あのデドモと呼ばれるトマスがいる中で、もう一回復活したイエス様が真ん中に立たれた。そして彼らは種を入れないパンの祭が終わり、安息日も終わったので、エルサレムから今、自分の故郷のガリラヤに戻って来ているんです。その戻って来る中でガリラヤ出身の弟子達が、幾人もいるんです。ゼベタイの子らはもちろん、ペテロやアンデレはもちろん、他の弟子達も居た、と書かれていて、他の弟子が誰だかは分かりませんが、ここで、ガリラヤから上ってエルサレムに行った者達が、過ぎ越しの祭が全部終わった後、ガリラヤに帰ったというお話が、今日の本文です。 ガリラヤに帰った、しかもヨハネの福音書は20章までだったのに、21章が足されたという事で、『漁をする』という所では、ルカ書のペテロが最初に呼ばれた時も漁をしているというたとえ話が出てきます。だから、それをヨハネは勘違いをして、またヨハネの弟子が勘違いをしてここに入れたんではないか、はじめにペテロが漁をしていた時、イエス様が人間を捕る漁師にしてあげよう、と言った時の話をここに持って来たんではないのか?と言われていて、或はヨハネが書いているこれが史実で、この事実をルカが、ペテロが呼ばれた時にその話を入れてしまったんではないか、とも言われているんです。余りにも話が似ているので。漁に出て一晩中魚が捕れなかったのに、イエス様が現れたら、魚が一杯になったという話が同じなので、実際この話は一つなのではないのか?或は前後が入れ替わってしまったのではないか、と言われているけれども、ルカのところで書いているのと、ヨハネのところで書いているのでは、随分違う、という相違点が沢山ある。それは、ルカの時は何艘かの船だったけれども、今日のガリラヤ湖畔の船は一艘の船なんです。そして、その時には一晩中魚が獲れなかったという所は同じ。だけど、魚が獲れなかったんですか?もっと沖に行って深い所に行って網を下しなさいと言われたら、魚が獲れた。今日の場所は、右から左に場所が移っただけ。そして、魚が獲れた。ルカの場合はイエス様が一緒に船に乗られている。だけど、今日はイエス様が百メートル先の陸地におられる。それもまた、違う。その上に、イエス様の奇跡を見たペテロが、「私など罪深いので、私から離れてください。」とイエス様に言ったのに比べて、今日は「主です。」と聞いた瞬間、ペテロは上着を着て、一目散にイエス様に会いに行ったという所で、やはりルカが書いた始めの時と、この復活した後では、イエス様がお会いになった時の漁の話とは別のものだろう、というのが多くの意見です。 彼らは漁のプロですよね?物心ついた時から漁をして、ガリラヤ湖畔の恵みで生きてきた漁師達。でも、どちらの話も一匹さえ獲れないんです。一日中、夜明けまでも長時間粘ってみたけれど、一匹も獲れなかった。でも、イエス様が一言仰った瞬間に大漁になった。という話。そして、ペテロはそれまで漁をしていたけれども、イエス様に、「わたしについて来なさい」「わたしと一緒に福音の仕事をしなさい。そうすれば、あなたは人間を救う仕事をするから」とあの時もペテロが主人公です。今回も他の弟子全員と、ゼベタイの子達もいるけれども、その始めの時もゼベタイの子達はいたけれども、でも、今日もペテロが主人公です。だから始めと、復活したイエス様が、ペテロに、あなたは人間を捕る漁師にしてあげる、という所では同じなんです。しかしこの福音書はやはりペテロが最初に救われた時、イエス様に呼ばれた時も、そのように起こったし、また復活したイエス様が現れた時も、夜通し船を漕いだけれども獲れないのに、イエス様が「網をもう一回下し直しなさい」と言った時には、もの凄く大量に、しかも、一匹、一匹が凄く大きく、そして百五十三匹という大漁だったんです。一瞬にしてこんなに大漁になり、そして、ルカの福音書では網が破れかけて、余りにも大漁で網が破けた。でも、今回は網は破れなかった。どんなに大漁でも網は破れなかった。と書いている違いはあるんです。 このペテロがガリラヤに行ったっていう話は、イエス様の福音の仕事を任され、エルサレムで聖霊を受けなさい。そして、あなた方は福音を宣べ伝えなさいと、イエス様に直接命令を受けているにも関わらず、イエス様を裏切ってガリラヤに行き、自分の仕事をした、という解釈をする人もいるし、または、その福音の仕事はやるけれども、余りにも意気消沈して、ガリラヤで生計の為に漁をした。と言う人もいる。それ以外にも、牧師でも月曜日休む、と言われているように、福音の仕事をしている合間に自分の趣味の如くに漁をした。どれが本当かという所においては、そのどちらも違うというのが榊原先生の解釈です。そのどちらも違う。その当時、パリサイ人やユダヤ教の先生、ラビと言われている人達は聖書を教える時は、無料で教えなくてはならない。そこから、お金をとってはならない、と言われている。だから、そのラビ達でさえ、生計は自分で立てていた。祭司達は、また別です。神殿奉仕だから収入があります。だからラビ達は奉仕をして、教えるという仕事をしていても、自分で生計を立てていたんです。だから、今日の本文でペテロが自分の仕事の漁をしながら、福音を宣べ伝えるという事は、その当時では少しもおかしくない。ましてやパウロも天幕づくりという仕事をしていて、そして福音を宣べ伝えていたし、このユダヤ教のラビ達も、生計を立てながら、福音を宣べ伝えたという事は、この当時では当たり前だった。それで、このペテロが別にイエス様を裏切って、ガリラやへ行った訳でもないし、悲しみに暮れて行った訳でもない。ましてや生計の為だけに行ったのではないし、ただ意気消沈して悲しくて、或は趣味か娯楽で行った訳ではない。だから、幾人かも「漁に一緒に出ましょう。」と言たからといって、福音の仕事を辞めると言っている訳ではない。というのが榊原先生の解釈です。他の色んな人の解釈もあって、私達には正解は分かりません。イエス様の復活を見ているペテロはそう簡単には裏切りませんよね?ただ、生計を立てる為に仕事に行ったというのが、妥当だとは思います。それで、一晩中プロの漁師だった人達が集まったのにも関わらず一匹たりとも獲れなかった。自分の力でやった時は何も起こらなかった。しかし、イエス様のみ言葉に依れば、大漁の生産をした。というのがここのポイントです。それは聖書でいつも書かれている事です。
詩篇127篇1-2
~主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。~
私達は本当にイエス様の力でなくては、イエス様の導きなしに、憐れみなしに、保護なしに、赦しなしには、何も出来ない。ペテロが最初に呼ばれた時もそうだったし、復活したイエス様が現れる時もそうだったんです。絶対自分の力では出来ないという事です。長い何十年の修行の末、親からも伝承され、先祖代々から漁をしている家で、たとえどんなに良い船や網を持っていたとしても、技術や腕を持っていたとしても、優れた能力や知識があったとしても、ガリラヤ湖に大漁となる魚が泳いでいても、絶対に自分の力では何も出来ない。という事です。イエス様が働かなければ、全てが虚しい、です。もし、イエス様が働かないで大量だったとしても、イエス様が働かない家、イエス様が働かない家族、イエス様が働かない教会、イエス様が働かない仕事場、イエス様が働かない地域、国、全てが極めて虚しいです。死と闇が覆っているからです。罪と汚物にしかまみれていません。クリスチャンといえども、信仰を自力で保てません。誰であったとしても、一瞬たりとも息も吸えないんです。イエス様が守らなければ無理なんです。これが神の摂理です。神なしに生きられるような生物はないし、そんな被造物は天使でさえ、存在し得ません。神が働かなければ全てが虚しいんです。だから、この教会はもちろん、仕事場はもちろん、私達が関係する全ての人間関係の全てです。あなたがどれだけ褒められてようが、技術があると言われてようが、あなたは頭がいいね、あなたの人格は素晴らしい、面白い、魅力的だ、個性的だ、そう言われても、何か意味があるんですか?そこにイエス様がおられないなら、そこにイエス様が働いていないなら、神の国と無関係なら、天国に行けないなら、それで地獄へ行ってしまうなら、何がそんなに楽しいのか?です。他に何をそんなに要求するの?何をそんなに欲しいの?神が働かなければ、何一つ、私達に命はないんです。少なくとも、命は無い、道も無い、真理も無いんです。そこは嘘と誤解と偽りと妄想と迷信と偶像しかないです。そこに突進していく人間が邪悪になるのは、当たり前だと思いませんか?嘘に嘘を重ねた世界で、嘘と嘘の教えを受け、嘘と嘘の行動しか起こさない。嘘しか喋れないその世界に、何の光があって、何の命があって、何の道がありますか?どんな真理があるという?これは、イエス様が光を差し、教え、み言葉を下し、命令しなければ、それに屈服し、服従し、従っていなければ、決して得られないものなんです。人間自らは真理が分からない。人間自らは神が見えない、聞こえない、触れられないんです。神が訪ねて、神が私に教え、神が天から下り、神が働いてくれなければ、現わしてくれなければ、話してくれなければ、語ってくれなければ、聖霊を動かしてくれなければ、…何にも私達に命はないんです。だけど、この世はその聖霊を拒み、イエスのみ言葉を拒み、命令を嫌い、服従を嫌がります。でもそこに命があるのか?真理があるのか?本当の喜びがあり、本当の目的があるのか?本当の道なのか?義なのか?肯定的な所なのか?これを考えたら一目瞭然です。私から出るものは、全部自分中心です。嘘です。迷信です。全部の視線を自分に向ければ満足な世界です。評価が自分に向けられていればそれでいいんでしょ?自分さえ愛されていればいいんです。その為には命も投げ出すでしょう。自分が認められようとしたら何でもしますよね?それは虚しいものではないですか?真理も無いのに、命もない、いいえ、神が居ないのに。その人間関係にどんなメリットがあるんですか?その場所にどんな利益があるのか?です。全部が嘘で、偽りで、偶像で、妄信です。でも人はそれに執着してしまうのです。何故そこから離れようとしないのか?何故そこがそんなに居心地よくて、恋い慕うのか?何故そんなにサタンが作った世界が慕わしいのか?何か意味があるのか?です。神が働いてないのに、現れないのに、語られないのに、いいえ、私達が服従もしないのに。喜んでもいないのに。それをしたいとも思ってないのに、です。神様が働かない全ては虚しいんです。空白です。本当に実りがないんです。全ては絶望、絶滅、死、闇、地獄です。神がいないってそういう事です。神が働かないってそういう事です。だから、あなた方が平気で聖霊を悲しませ、平気で聖霊様の命令に不従順していても、その時は感情が達成感に浸っているかもしれない。でも、その後、本当に虚しい、何も実りのない時間がやってくるんです。いいえ、滅びがやってくるんです。選択するときは考えず軽々しくそれをするけど、神が存在しているのか?その現場に、その言葉の中に、聖霊様は働くのか?考えないといけません。 私達は本当にイエス様の善以外、向かってはいけないんです。イエス様の真理、義、道、以外闇なんです。一歩でも踏み外せば、そこは邪悪でいっぱいです。悪魔が支配し、悪魔が嘲笑い、人間を滅ぼそうとする、全ての邪悪な要素が、イエス様の道以外には、もうありとあらゆるものが転がっています。アダム以来の人間は全て「やりたくない。」「従いたくない、服従したくない、私は私の感情通り、気ままなまんま生きていたい。自分の体験通り、今までやってきた方式を変えたくない。」と考えます。これが本当の理由じゃないですか?分からないのではなく、やりたくない、が本当の答えです。知らないのではないんです。神のその道は嫌いなんです。 聖書は、基本的には誰でも理解出来る言語で書かれています。それを知らない、分からない、わけではないんです。私達は従いたくないという本性が問題なのです。肉の欲の達成が優先されています。それは生まれ以って魂が堕落しているからです。 パウロは何て言いました。ゴールに到達する者はたった一人しかいない。全員が走り出すけど、ゴールする人は一人しかいない事を栄光の冠を貰う人だと言います。それは大勢いるのか?そんなに沢山いるのか?沢山いないと彼は言っています。多くの人が空振りのボクシングをし、ゴールも分からないのに走って、何にも考えずに汗水流しているだけです。心では一切格闘しない。霊的には一切闘わない。自分の都合のいい事だけをチョイスしていく。これは闘っているとは言わないです。決して闘っていないんです。だから殉教は自殺じゃないんです。殉教は恵みなんです。その恵みの使命を受けた人しかやれないんです。肉体が死ぬことが殉教ではありません。自分の価値観を神に合わせることです。だからそれは神からの賜物です。プレゼントなんです。死のう、死のうとして、死ねる訳ではないし、殉教したいと言って主がさせる訳ではないでしょう。したくないと言って逃げられる道でもないし、全てが賜物、全てが恵み、全てが天から下るものです。私のチョイスはないんです。私はチョイス出来ません。『従う』これ一つなんです。何故?私達には真理が一つしかない。義は一つしかない。正義も、善も一つしかない。その唯一の一つはイエス・キリストです。イエス・キリストから全て始まるんです。これが全てです。だから、夜通し働いても何にも実りがないんです。イエス様が一言、「こっちだ」と言った瞬間に大漁なんです。これが、真理なんです。イエス様がここでも表わしている通りです。イエス様の道にしか実りはないんです。イエス様が教えた道にしか光はないんです。そして、そこにしかゴールはないんです。それを断った人間にどんなゴールがあるというのでしょう?それを嫌がった揚句に、手にするものなどありません。イエス様が決めた、『これが義だ』『これが善だ』と言われたものが、それが全てです。これが真理だと言ったイエス様の言葉が全てなんです。何故?神だからです。全知全能とは、その性質が善です。品性があって、崇高で気高いんです。イエス様の性質そのものがこの世の全ての原理だからです。私達が持っているのは邪悪で、品性もなく、教養もなく、無知で、粗野で、野蛮です。イエス様以外に希望はないんです。だから、イエス様に従うのは当たり前です。善は一つしか存在していないからです。聖さも一つしか存在していない。それは、私の中の修行の末に得るものではありません。イエス様が『これだ』と言った瞬間、得るものです。この道だって言った瞬間、そこが善なんです。イエス様の命令全てが義なんです。私が夜通し、今までの経験を駆使してやったものは、いつか無くなります。そこに残される何もない、そこには実りなんてありません。誰も救われません。誰も天国に行けないんです。何故?そこはイエスの義じゃないんです。だから、『従う』が、どんなに重要か、です。自分を屈服させ、死なせ、全否定し、神に栄光帰すが、私達にとってどれだけ重要になるのか?今日もそれをイエス様は仰ってるんです。 そして、あなた方は魚がありませんね。食べ物がありませんね。では、網をもう一度下しなさいと言われた、イエス様の網は一体何だったのか? マタイ13章47節
~また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。~
イエス様が仰ってる網は、天の御国の事を言っているんです。神の国です。神の教会を言っています。だから、あなた方の力では神の国は訪れない。あなた方の知識では神の国は建てられないんです。あなた方が徹夜しようが、断食しようが、命を懸けようが、教会は建てられない。どんな犠牲を払っても教会は建てられないんです。人間には。神様が、ここに網を下しなさい、と言わない限り、教会は建ちません。私達は献金がこの程度集まれば、教会が建つと思っているし、人数がこの位いれば、教会は維持できると思っている。とんでもないです。イエス様が潰せば、瞬間に潰れます。イエス様が建てたら、瞬間に教会は建つんです。それが今日イエス様が言った、「網を下し直せ」です。あなた方では無理です。わたしが神の国を建てるし、わたしがわたしの教会を建てる。わたしが、倒れたダビデの幕屋を建て直す。わたし、イエス・キリストです。このイエス・キリスト以外に教会は建てられないんです。教会は持続出来ない。経営出来ない。運営も出来ないんです。誰も救われないんです。しかしイエス様が、「わたしに従え」と言った瞬間従ったら、そこがもう、教会なんです。そこはもう、神の国です。何故?イエス様が頭として、王として存在しているからです。これが教会で、これが神の国です。イエス様が臨在しなければ、もう神の国ではありません。たとえ百人の教会でも、イエスがいなければ、そこは教会ではありません。どれだけ溢れた献金があろうと、です。イエス様がおられるなら、誰もいなくても、教会なんです。聖徒が少なくても、多くても、イエス様がおられれば教会なんです。 霊的な世界です。霊であるイエス様がおられ、目には見えないけど、この方が王で、主で、主(あるじ)な国です。イエス様が居られる所が神の国なら、エルサレムでもガリラヤでもないんです。イエス様がサマリヤの女に「もう、ここだ。あそこだ、と言って礼拝するのではない。霊と真を以って礼拝する所が神の国だ」と言っているんです。だから、私達も霊と真で礼拝しない限り、もう教会ではないんです。イエス様が褒め称えられ、イエス様が主となっていなければ、教会とは言えない、人間の集合体となってしまいます。イエス様を救い主として告白した瞬間、私達は救われて、聖霊を頂いています。その命である聖霊を悲しませたのは、不従順を選んだんです。盲人が盲人を案内したって意味がないんです。 真理を選択しない限り、イエス・キリストを選択しない限り、何もないんです。私達にはその命令こそが命です。命令は守るためにあるのでなく、その命令そのものがイエスそのものなんです。何故?イエス様の存在そのものが真理だからです。邪悪になってはいけないというこの命令は、命令というより、イエス様そのものです。イエス様の性質そのものに邪悪がないからです。それ以外に天国の性質はないんです。邪悪は決して天国に存在しません。命令という概念を横に置いておいても、命令の内容に注視しなくては理解できません。これこそ、真理だという感謝が溢れてなければならない。これこそ、何ていう気高い教え、何ていう素晴らしい、偉大な教えという感動がなければ無理です。嫌々、渋々、やりたくもないのに、今まで通り、自分の勝手きままに、感情通り生きていきたいのに、そんな考えで人間が行ける場所ではないんです。これ以外に何の真理もないからです。これ以外、何の希望も、命も、道も、これ以外の目指すものはないです。だから、行くんです。感情が無くなる事はあり得ない。でも、それを出さないという決心はできます。それを口にしないという決心が必要なんです。私の口からは主への賛美。私の態度は主への礼拝。私の行動は主への誉れを謳う。これ以外は出さないという決心が必要なんです。それが、狭い道を行くということです。だから、闘うしかない。命へ行くためには苦しいのは当然です。悲しい、辛い、と言って逃げた先は死の道です。現実逃避しようとするのが、死の道です。これを受け入れて感謝する道が、命の道です。これを受け入れて賛美する道がイエスの道です。それが狭い門でしょ?有能になって、優秀になっていく道ではないんです。聖書が丸暗記できる程知識を持ったから行こうとかいう、そういう道ではありません。どんな状況にあっても、賛美していく道です。だから、分からないというのは嘘です。行きたくないが、正直な答えです。やりたくない、従いたくない。当然私達の本性はそこです。でも、それを言うか、黙るかは、私の信仰です。それでも、その道を行きます、と言って選択して、私が本当にやれなくても、口からそれを肯定的に言う事が大切です。この道こそ命だって言えないなら、もう、不従順を選択したんです。そこに、私の環境が苦しいからとか、分からないは、理由にはなりません。たとえ、そこがどういう道でも、ここは命の道です。と言わなくては目的を失います。「いいよ、いいよ、頑張ろうよ。」このあなたを励ます言葉は、「何の希望もない。」と言うしかありません。 考えを壊す、私の感情を退けさせる。この作業は血を流す作業です。一時も自分の感情を赦してはならない。一瞬たりとも自分に期待してはいけないんです。一瞬たりとも自分の選択に肯定があっては、ならないんです。全否定です。ジャン・カルヴァンは言っています。死ぬ瞬間まで、自分を否定するのは簡単ではないでしょう。 ジャン・カルヴァンは、これも、あれも、全部イエスに貰ったと言っています。パウロは私からは何にも持っていないと言いました。今日、網を下せと言われたら、網を下すんです。イエス様が右って言ったら右、左って言ったら、左なんです。憎むなって言ったら憎んではいけないんです。怒るな、と言ったら怒っては、いけない。罵るな、と言ったら、罵ってはいけない。私達は、「はい、主よ。」と言うだけです。妬むなって言ったら、妬んではいけないんです。敵を赦せと言ったら、赦さなければいけないんです。私の思うままだったら、本当に最悪です。私の感情のまま生きようとしたら、最悪しかないでしょ? ヨハネは七つの奇跡しか書かなかった。「言いたい事はいっぱいあるよ。私はもっと知っている。でも書かない。」と言ったんです。イエス様だって言いたい事はいっぱいあったでしょう。でも、十字架で死ぬ時でさえ黙ったんです。従順するために。私達は喋り過ぎで、自分の事を説明しすぎです。黙って従えば、イエス様が現れてくれます。自慢するからイエス様が働きません。 最後にイエス様は食べ物を用意してくれました。魚とパンを焼いて。或は弟子達が来る前から用意してくれたのかもしれません。薪を整え、パンを焼き、魚を焼き、「さあ、食べなさい」と言ってくれましたよね?イエス様が復活してからは、食事の時に現れるんです。最初も夕食の時、次も夕食の時、エマオに行った二人に現れた時も夕食で、パンを裂いた時に消えたんです。そしてガリラヤ湖畔で三度現れた時も、また一緒に食べてくれたんです。何故ですか?幽霊じゃない、とイエス様は弟子達に教えたいんです。「私は決して幽霊ではない」とイエス様は食べてくれたんです。復活した後も。弟子と一緒に食事をしてくれたんです。それは、晩餐の意味です。聖餐式の意味です。ここでもまた、復活しても、されるんです。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲みなさい」です。「わたしがあなたを養わなければ、あなたは生きられないんです。霊においても精神においても、肉体においても、私があなたを養わなければ、あなたは死ぬんです」イエス様は復活した後も分け与えてくれるんです、ご自身の肉と血を。憶える為に、聖書を書かせる為に、福音を伝える為です。これを最後にイエス様は弟子達にしてくれました。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲めば救われる」という、あの福音をもう一回実践してくれるんです。最後までイエス様が為さった事は、救いを知らせなさい、だったんです。「わたしでなければ、誰も救われない」「イエス・キリストの御名でなければ、誰も天国へ行けない」「わたしを通してでなければ、天の父のもとには行けない」これが福音です。あなたが何か努力し、優秀になったら、とは言われません。イエスが伝えられるところで、イエスは働くんです。祈ります。
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