ヨハネ福音書20章24-29
~十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言った。八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われた。それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」~
この日は『その八日後に』と書かれているように復活したイエス様が二度目に現れ、弟子達の真ん中に立たれたんです。前回は『復活した朝』とあるように、イエス様が復活されたその夜にエマオに行った二人の弟子に現れ、彼らが「主を見た。」と言って、急いでエルサレムに帰って来て、その夜、弟子達が食事を食べている最中にイエス様が現れて、「平安があなた方にあるように」と復活したイエス様が弟子達におっしゃったんです。そして、その1週間後です。木曜日が過ぎ越しの晩餐の日であり、そして金曜日がイエス様が十字架につけられた日で、そしてユダヤ人の安息日である土曜日があって、そして日曜日の朝、イエス様が復活されました。でも、その金曜日から種入れぬパンの祭があったんです。種を入れないパンの祭がユダヤ人の間で七日間行われていて、金曜日から1週間、彼らはエルサレムに留まってその祭りを祝っていなくてはならなかったんです。だから、その八日目、ですからここはまた日曜日なんです。イエス様が復活された日曜日の朝かから1週間が経っていて、種入れぬパンの祭が終わり、金曜から土曜にかけてのユダヤ人の安息日が終わり、そしてその土曜日が過ぎて、日曜日にまた弟子達が集まっている最中に復活したイエス様が突然、戸が閉められ、鍵がかけられている中、弟子達の真ん中に、復活したイエス様が二度目に、ここに立たれたんです。以前はデドモと呼ばれるトマスは居なかったんです。この日曜日にはデドモと呼ばれるトマスもいて、弟子達や他の女達、色んな証言をしているクリスチャン達の真ん中に、イエスが二度目にして現れた。そういう事件なんです。 復活して、イエス様が現れた時、その当時では、やはりこれは「幽霊だ。」と言った人達もいたんです。もう死んでいて体を持っていない。だからそういう人達もいて、その次には、一度心臓は止まったけれども心臓がまた動いて、イエスが蘇生した、という風に言っている人達もいた。でも、聖書は何を云っているのか?この前もメッセージしたように、墓の中には包帯で巻かれた形のままのスッポリ蒸発してしまったような状態で、ターバンがそのまま置かれていた。だからイエス様は、墓に葬られはしましたが、葬られた瞬間に元の神の姿に戻っているんです。だからもう、そこにずうっと留まってはおられなかった。当然天の御国に昇られているし、そしてこの復活した後現れているのは、弟子達が信じる為であって、まだ神様が意味もなく地上をウロウロしていた訳ではないんです。だから、当然幽霊ではありません。肉体ではない、霊体。霊の体になったイエス様がここに居られるんです。でも、それは幽霊ではないです。ちゃんと霊的な体をもって現れておられる。だから、「わたしの手をみなさい。わたしの釘の痕をみなさい。脇腹の槍の痕をみなさい」霊体になってもイエス様はその痕を残しておられる。そして心臓が一度止まって、もう一回動いた肉体でもないんです。霊的な栄光のお姿なんです。だから、自由自在に現れます。戸が勝手に開いた訳でもないし、鍵が閉まっていたのを誰かが開けたのでもなく、もうイエス様は天に昇られているから自由に現れ、自由に去られます。それでいて、八日後の日曜日もまた、弟子達が「主を見た、主を見た。」と噂をしている。そこにトマスだけが「信じない。」と言ったんです。何故?その1週間前に復活したイエス様を見ていないんです。けれども、トマスもこの種入れぬパンの祭を祝うために、また安息日を守る為にまだエルサレムに留まっていたんです。そして、この群れから離れて居た訳ではない。もう既に教会としてのシステムは始まっていますよね?彼らは集まって安息日を守っていたし、集まってはイエス・キリストの話をし、そして集まっては祈っていたから、もう聖霊も受けている状態です。その前の復活したイエス様が、「聖霊を受けなさい」と言って、彼らはもう聖霊を受けていますから、死んでいたものが生きる者に…命を得ています。初代教会が既に始まっていたんです。マルコの部屋でペンテコステの日に、火の聖霊が下った時に教会が建ったんではなく、もう既に教会の形態は始まっていて、その教会の真ん中にイエス様がもう一度現れて、従ってトマスもこの教会の群から離れていた訳ではなく、ただ、先週の日曜日の夜には居なかった。目撃していないだけで、トマスは次の日曜日には居たんです。だけど、ここにいる女達もエマオに行った人たちも、そして既にペテロやヤコブやヨハネは見ています。復活した主を。だから、「主を見た。」「主を見た。」ともう一度トマスを説得しているんです。それをトマスは見ていなかったから、イエス様が復活した状態を当然弟子達は説明しています。だけどいくら話を聞いてもトマスは信じなかった。どんなに、『これが事実だ』とこれだけの大勢の人が「イエスを見た。」と言っているのに、トマスは心が本当に頑なで、決して信じない、と言ったんです。その手と脇腹と足の傷を見ない限り、絶対私は信じない、と彼は言っている。しかし、彼は信じないとは言っていながら、そこから、群れから出て行こうとはしない。「私はここを出る。」とは言っていない。「あなた達ともう決して付き合う事はない。」とも言っていない。「信じない。」と言ったけど、彼は「ここ出る。」とは言っていないんです。 彼はイエス様が自分の師であったこと、先生であったことは知っています。そして、偉大な預言者であったことも知っています。そして、その事は信じています。そして、その群れである弟子達と離れようとしている訳ではないんです。だけど、復活したイエス様は「見なければ信じない。」と言ったんです。だから、彼においては、自分の目で見なければ、自分の手で触ってみなければ、決してあなた方の言葉では信じない。と言っているんです。その所で、イエス様が現れました。そして、イエス様はトマスが信じないと言った通りの事を反復されます。「このわたしの釘の痕を触ってみなさい」「脇腹に指を入れなさい」「この傷跡をみなさい。手で触りなさい」トマス自身がこうしなければ信じないと言った、その通りをイエス様がそうしてみなさい、と言ったんです。彼のその言葉通りにイエス様が返してきたんです。しかし、トマスはその指をその傷跡に入れる事はしないで、直ぐに頭を垂れ「我が主、我が神。」と跪いたんです。そしてイエス様に「あなたは見て信じたのか?見ないで信じる者は幸いです」と叱責されてしまうんです。 でも、このトマスは今まで聖書の中では三回ぐらいしか出ていなくて、イエス様が「エルサレムへ行こう」と言った時、命を狙われているので、弟子達は怖がって、「こんなに命を狙っている人が大勢いるのに、エルサレムに行くんですか?」と驚く中で、トマスだけは「いや、私達も主と一緒に死のうではないか。」と語っている。そしてもう一つは、イエス様が「天の父のところに、わたしは必ず帰ります」と言った時に、トマスは「天の父の行く道を私達は知りません。」という風に、その時も鈍いですよね、彼は。激情家であり、少し鈍い性格を持っている。また彼は、”双子”と言われているように、双子の片割れであった。これが聖書でトマスについて知っている事です。それで最後の最後でこの有名な物語でトマスは登場します。「絶対信じない。」と言った。だから、彼としては鋭い感覚は持っていないです。どちらかといえば、知性も高くないし、そして激情家、感情家、であるけれども、本当に他の弟子達のように熱く烈しい民族心、愛国心があったか?というのまでは分からない。トマスについて聖書で分かるのは、この程度。ではトマスだけが信じなかったのか?トマスだけが不信仰だったのか?トマスだけがイエス様を裏切ったのか?という事においては、弟子達は皆同じだったんです。ただ、その時トマスは復活したイエス様を見なかった。だけど、ペテロやヨハネだって、墓が空の時でさえも、悟ってはいなかった。そして、復活したイエス様を見るまでは彼らだって信じてはいなかった。だから、他の弟子もトマスも、どちらが幸いであったか、どちらが信仰が上回っていたか、という所では本当に変わりません。これは、全ての人間において、女達も十字架の下まで行ったという割には悟らなかった。ただ泣いていただけ、ただ感情的なだけで、ただしがみ付いていただけで、決してイエス様の言っている事を悟ってはいなかった。それは、ペテロやヨハネも同じだった。そして、ここのトマスも同じなんです。決して彼らは、イエス様がこうやって見せない限り、信じてはいなかったんです。でも、イエス様は、その頑なトマスの前にも現れたんです。この弟子達にイエス様が現れるのには、理由がありました。何故なら彼らは新約聖書を書く人達。そして、何よりも目撃者だったんです。イエス様と寝食を共にし、イエス様がどんな説教をし、何をなさったかを見ていた上に、十字架に架かり、死んで葬られ、甦ったイエス様を直接目で見ている目撃者です。彼らこそがキリスト教の始まり。そして、新約聖書を書く人達。イエス様は現れなければならなかったんです。 彼らが他の人より鋭くて、知性が高かった訳でも、性格が良かった訳でもなく、彼らは選ばれたんです、初めから。そして、何をするか?新約聖書を書かなければならなかった。そして、何より、イエス・キリストが死んで葬られ、甦った、その復活したイエス様を証しする人達です。この人達は全てキリストの証人として、後に、イエス様が使う器です。だからこそ、彼らは見なくてはならなかったし、聞かなくてはならなかったし、手で触らなくてはならなかった。彼らが強烈にこの事を証ししないと、キリスト教は始まらないんです。だから、イエス様も彼らの前では現れて下さったし、彼らの前では証拠も見せて下さったんです。そのイエス様が彼らの前に現れた時に、トマスもさすがに、もう本当に跪いて降参し、「我が主、我が神。」と頭を下げるしかありません。有名な言葉があります。この、『我が主』というのは、ヤハウェという意味です。ヤハウェとは、モーセが書いた神です。「『わたしは在る』というものだ」「わたしはあなたを遣わす」と言った方。結局トマスは何を認めたんですか?待ち焦がれ、ユダヤ人が本当に尊敬するモーセを導いた、イスラエルを導いた神であり、あなたこそ、全知全能の神。創造主であられます。それでいて、ヤハウェ、メシヤでもあられます。これは、ペテロが告白したのと同じです。「あなたは生ける神の子キリストです。」という告白と同じように、彼はただ、あぁ甦ったイエスだ、と言った訳ではなく、屈服しているんです。すでにモーセの時にも現れた、あの神。旧約の時にイスラエルを導いて、建国してくれたあの神、その神があなただったんですね、という信仰告白です。ただ跪いて、ただご免なさいと言っている訳ではなく、本当に実感して心から認めたんです。「あなたこそ、主の主。王の王。神の神だ。」そして、跪いたんです。そして、イエス様が語られました。
~「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」~
でも、これは見て信じたのが悪い、見ないで信じるのが優れている、という意味ではないです。これが書かれたのは、1世紀末です。1世紀末にヨハネがこれを書いた。そして、このヨハネは百歳以上生きたと言われていて、最後の目撃者。最後の証人です。だから、1世紀末、或は2世紀に入ったら、生き証人は一人も存在しません。イエスの弟子も皆死ぬし、この当時ケパに現れ、十二弟子に現れ、女達に現れ、五百人に現れ、後にパウロに現れた、というあの目撃者達は、もう居ないんです。1世紀末や2世紀には。だから、この聖書が書かれた当時には、もう見た人なんて居ないんです。イエスを直接は見ていない。イエスの声を直接聞いた人も居ないんです。ここから見ないで信じるという、聖霊に依らなければ信じる事が出来ない、時間です。だから、ヨハネは特に強調しているんです。見ないでも信じなさい。これは事実だから、というのがヨハネが最後にこの言葉を加えた理由です。そして、その最後の事件にトマスが表れている。今まで大してトマスは登場する事はなく、ほとんどヨハネやペテロやヤコブ、アンデレ達が中心だったのに、このトマスが最後の最後にヨハネの福音書だけに出てきます。後にこのトマスはインドに行ったと言われています。2世紀頃にはトマスの伝承の本があって、でも、それは事実とは違う。だから、聖書に加えられてはいないです。事実とは違うから。でも、このトマスの本といわれる、2世紀頃に書かれた本があって、まるで小説のように書かれているんですが、そのトマスの本では、イエス様にインドに行けと言われる前に、弟子達が、「さあ、これから宣教しよう。」とした時、皆で地域をクジ引きにした。そして、トマスにインドが当たった、と言われているんです、その話では。そして、それは「嫌だ。」と言ってトマスは断るんです。「ユダヤ人がそんな異邦人の所に行きたくない。ましてやインドなんかユダヤ人と何の関係もない所なのに、私は行かない。」と、断っているんです。そして、イエス様が現れてもトマスは「他の国なら何処へでも行くけど、インドだけは行きたくない。お願いですからインドだけは行かせないでくれ。」と頼んでいるというのです。その時、インドの国の王様が大々的に国を建築するということで、奴隷を沢山買ってこなくてはならなくなり、その時に、奴隷を買うためにインドから商人が、王様から派遣されユダヤに来ていて、そして奴隷を集めている時に、イエス様がトマスを売って書類にサインをした、と書いてあるんです。その伝説では。そして、その時にインドの証人がトマスに向かって、「あの方はあなたの主ですか?主(あるじ)ですか?」と言った時に、「私の主(あるじ)です。」と答えたトマスはインド行きをもう断る事は出来なかった。これは、事実ではないです。伝説です。だから、当然本当の話ではない。だけれども、トマスがインドに行った事は事実なんです。当時インドに行く、また行きたいユダヤ人は一人も居ません。インドは旧約聖書も分からない。イスラエルの神も分からない。ましてやイエス・キリストの事が全く分からない。もしかして読み書きさえ分からない。知っている人も、見た事や聞いた事がある人も一人も居ない地域です。そこに福音を伝えに行くなど、誰だって行きたくない。ましてやまだ獣のように生きている人もいるはずのインド。文化水準も低い所です。この時代でも、ギリシャやローマには高度な文化があったし、バビロンやその地域の方がはるかに発達しています。だからインドには行きたくはない。それは当然だったのです。だけど、ここでトマスは、「我が主、我が神」と跪いて、彼は告白しています。イエス様の前で。それと同時に、トマスは彼を主(あるじ)と認めたなら、イエス様がインドへ派遣した時に、「嫌だ。」と断る権利がない、という話です。私達が口でイエス様の事を「我が主、我が神」と、もし答えるなら、です。もう既に私達に私の権利などない、という事です。 これは、簡単にトマスが、「あぁイエス様だ。本当に噂どおりだ。」と言って、跪いているようなものではないんです。もう既に、「私は私のものではありません。この私の全てはあなたのものです。あなたこそ、私の主(あるじ)です。」これがこの時のトマスの信仰告白です。だからこの時、トマスはインド行きを嫌だ、とは言えないです。でも、これ、トマスだけだったんですか?違いますよね?弟子達全員そうです。ペテロだって、パウロもそうです。ユダヤ人達は皆エルサレムから散らされて、異邦の地で死んでいるんです。ヨハネもそうです。最後にヨハネの福音書を書いたのは、すでにエルサレムではありません。このように弟子達がイエス様に向かって「私達の王、私達の主、私達の神。」と告白した時に、彼らにはもう、自分自身への権限はないんです。それをヨハネはここで語っています。 私達は聖書を読みたい、勉強したい。知りたい。聞きたい。物凄く簡単に口走ります。そして、浅く軽々しく「我が主、我が神。」と言います。「そして命を懸けて十字架の云々…」でも、このトマスのようなのか?本当にトマスのように告白したのか?もし、そうでないなら嘘つきです。偽善者です。クリスチャンこそ嘘つきで偽善者といえるのです。口では立派な事を言い、口では正しい事を言い、「親孝行しろ。」とか、「目上を敬え。」目の前の隣人さえも愛せない人が、言葉では正しい話を人前でします。子供達の前で偉そうに説教するんです。なのに、口ではまた、「我が主、我が神。」と立派な事を言う。ヤコブが言った通りです。「この口は賛美しながら、人を呪う。」同じ口でそれをしている、とヤコブが言っている通りです。 イエス様は先週の日曜日に現れた後に、「平安があるように」と仰いました。そしてその為に「聖霊を受けなさい」。でも、その後なんて言いました?「わたしはあなた方を遣わします」イエス様が平安があるように、と言ったのは、この世の平安ではありません。毎月食べられる給料が出て、雨風防ぐアパートがあって、安定した自分の勉強する部屋があって、そしてその為に教会を利用するというような、イエス様が下さる平安は、それではないです。何ですか?派遣です。「わたしは、あなたを福音の為に遣わす。わたしの弟子を作りなさい」その為に平安を与えると言ったんです。その平安は『聖霊』です。この聖霊はあなたを勇気付けさせ、生活を安定させ、人前で評価され、立派になる事の平安ではないです。この聖霊は前回言ったように、キリストの証人としてイエス・キリストの目撃者として立たすための力だ、と弟子達に仰います。それを私達は今も、聖書から読み取らなければなりません。今日の本文で言われている事は、私達は直接の弟子ではないけれど、2千年前のイエス様を見た事はないし、そして直接声を聞いてもいない。手で触ってもいません。でも、私達はここと同じ事を言われているんです。聖書を読む時に、私達は同じなんです。「我が主、我が神。」と告白し、「クリスチャンになります。私は救われました。」と言った瞬間に、トマスと同じ立場です。私に私の権利はないんです。主のものになるんです。だからこそ、アバ・父と呼べるようになり、罪深い者が赦され、天国の父と和解をし、天の国籍を持ち、死から免れ、地獄から免れ、裁きから免れ、そして私は天国の御国の相続者になる。これが約束です。そしたらもう、私が私の権利を持たない、でしょ?もう既に私には王がいるんです。私には私を買ってくれた主(あるじ)がいます。イエス・キリストの十字架の血で買い取った方がおられます。なら、買い取られた方の奴隷でしょ?私の考えの自由があるんですか?私が判断する自由があるのか?です。ないんです。イエス様を主と告白した瞬間に。私達はもう主(あるじ)がいます。それはこの地上の家族ではないです。血や肉に依ったものではなく、イエス・キリストの十字架の血で、それが再生されたんです。それが、今日語られている本文です。そして、イエス様は先週の日曜日にこう言います。「あなた方が誰かの罪を許さないなら、そのまま罪が残され、あなた方が罪を許すなら、罪は許される。と最後にイエス様が弟子の前で語っています。それは、道徳的な問題、倫理的な問題ではないです。あなたが今まで憎んできた人を許し、あなたが今まで喧嘩した事がある人を許し、気に入らない人を受け入れ、そして私が妬んで嫉妬した人を受け入れる、こういう意味ではないです。あなたとは関わってない事情を語られています。「わたしこそ、罪を赦す者。わたし以外に罪を赦せるものはいない」イエス様が仰った本当の理由です。あなた方の問題ではなく、罪というのは、イエス・キリスト以外赦す事は出来ない。イエス・キリストだけがその罪を赦す事が出来る。これが十字架の福音です。それを最後にイエス様は語っています。道徳的に倫理的に、私の徳の為に、私の義の為に、他人を許せという意味ではありません。「わたしこそ、罪を赦す神。わたしこそ、罪を贖ったメシヤ、キリストです」これを仰ってるんです。あなた方はその事に何も関わっていないんです。罪の赦しは、イエス・キリスト以外ないんです。贖いだす方はイエスしかいない。イエス様が最後に語られたのは、「わたしこそ、罪を赦す唯一の神だ」なんです。これを先週の日曜日、イエス様が仰ったんです。 私達は律法の書で、『隣人を愛しなさい。隣人を許しなさい。』という命令がきています。これは、私達の生活とか、性格とか、道徳観念、倫理観ではないんです。感情の問題ではありません。罪の赦しは神でなくてはならない。罪は神しか解決できない。私達はその神の奴隷。神に買い取られたもの。そして、私には主(あるじ)がいるんです。その主(あるじ)だけが罪を赦し、釈放することが出来る。私は何ですか?その主(あるじ)の所有です。人を憎む権利がないんです。それ以前に善悪を判断する能力がないということです。相手の罪を罪だと断定する力なんか持っていない。本当の理由はここです。神にしかその判断能力がないという事です。神にだけ善悪を判断する能力があり、神にだけそれを赦す能力があり、それを裁く権利があり、何よりも全知全能でなければ、不可能なことです。人は無知で能力がなくて、何も善がなく、私の内に何の原理も道理もない。理性や知性の欠片もない。そんな存在です。アダム以降全てが呪われたとは、そういう意味です。ましてや主(あるじ)がいる、主(あるじ)に買い取られた奴隷。何の権利があって、権力があって、人を裁くのかという次元の問題なんです。あなたが幸せになるためとか、友達と上手くいくため?教会で争い事がなくなるためにある命令ではありません。もっと次元の高い、もっと崇高で、もっと気高い、神的な問題なんです。私達は罪についての考えが余りにも感情的なんです。自分中心に考えます。何を聞いても、自分の中の無知な所でしか考えない。その自分の無知の故に、隣人に正しい話をし、聖書を引用すれば福音だと思ってしまうんです。 福音は何ですか?『神にしか赦しはない。神だけがその能力と権力と全ての権能を持っておられる。神の右の座につかれたイエスしかいない。全ての者は跪け。全てのものは足台にされ、天にあるもの、地にある全てのものは、膝を屈めるお方。我が主、我が神』という告白は、私の主と認める告白です。キリスト教の教理なんです。だから、復讐は神のものです。私が隣人にしてはいけないのです。私にその権利がないからです。ただ神様だけが復讐すると、そういう幼稚な次元でではなく、人には復讐する能力がないという事です。 十戒が与えられ、これを命令だと言われるのは、私達には何の善悪も正しく知れないからです。これに従う以外に道がない、真理がない、という意味です。だから神の奴隷、従う者なんです。神は偉いからという、幼稚な教理ではありません。真理に従うとは、現実にその方法しか解決策がないということです。トマスはインドに行きました。『我が主、我が神。』この告白は、そんなに簡単なものではないんです。「この教会に属します。」とは簡単な事ではありません。覚悟が要求されます。契約なんです。何故なら救いは私の支払い無しに貰う恵みの契約なんです。プレゼントだったんです。イエス様が私達の頭を押さえ、ロボットや奴隷のようにしたいという事では決してないんです。神に放って置かれたら地獄に行くしかないんです。でも救われたからといって、すぐに自覚や覚悟があるはずがないし、考えも感情もすぐには変えられません。私達は生まれ持って神に対して無知なんです。キリストの証人として立ちますと言った所で、私達は神に全部負ってもらい、全て神が養い、自分からは何にも出来ず、神が教えてくれなければ何の善もないんです。だから、奴隷という単語を使っています。でも、本当の意味は、放って置いたら何も出来ないんです。邪悪になって、益々低能になって、益々動物以下になって、滅びる以外ないんです。なのに人間は神の前で、何故偉そうなんですか?何故そんなに傲慢なんですか? この世だって1泊お世話になったら、恩返しをします。この世だって命を助けて貰った人に恩を感じます。その恩を忘れたりしません。正常な人なら、この世でもそうです。 私達はどんな時代に生きていますか?この時代を裁く人達がいます、あの残虐なニネベの町の人達です。そして神を礼拝していないシバの女王です。彼らが私達を裁きに来ると、イエス様は言いました。この終わりの時代は、悔い改める事が出来ないからです。まず、それが異常なんです。自分が正しいからです。無知なことがわからない。自分は間違っていない。これを頂点まで高めてしまいました。キリスト者と呼ばれている人達も決して悔い改めないんです。決して神の言葉を聞かない。従順しない。従わない。そして、遜らない。 読み書きが出来るのは、聖書を読むためです。文化が発展したのは、福音が本当に広く伝わるためです。イエス様が許可したのは、ここです。これは私達が傲慢になるためではないんです。こうして私達が主の言葉を聞く事も出来ない程になってしまいました。この文化を与えられたのは福音の為だったんです。でも、酷い時代です。もう、絶対に悔い改めない。絶対に跪かない。絶対聞かない。自信満々なんです。自信満々に語り、自信満々に、傲慢に、何の罪悪感もなしに、神に対して恩知らずです。ニネべの町とシバの女王に裁かれるのは、彼らは神の前で自分の罪を悔い改めたからです。神の言葉の前に跪いたんです。ニネベは残虐な民だったけど、神が怒った時には悔い改めたんです。私達は殺人を犯していない。私は姦淫していない。私は道徳的に何の罪も犯さず、凄く努力し、熱心に犠牲してきた。この考えをやめません。私達が泣くのは、自己憐憫です。悔い改めではありません。 イエス様を信じていても、誰でもインドに行き、ペテロ達のように強く生きられるわけではありません。神様が望まれるのは立派な行為ではなく、罪が赦されたことを感謝し、神様を褒め称え、イエス様を自分の救い主と認めることです。 これを告白し、自覚するなら、イエス様は私達の恩人です。恩人をないがしろにすることは、つらいことです。だから祈るしかありません。私が神様をないがしろにしないように助けてくださいと。アーメン。
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