ヨハネ福音書20章19-23
~その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」~
「その日、すなわち週の初めの夕方のこと」とある『その日』とは、イエス様が復活した日曜日の事です。でも、夕方と書いてありますが、ここはかなり遅い時間だとみなくてはならない。何故なら、朝早くイエス様の墓は空っぽだった。それは、ヨハネとペテロが行った時も証言して、墓が空だったことが目撃され、そしてマグダラのマリアはそこで「主を見た。」と証言している。でも、その日、復活したイエス様を目撃したのはこの人達だけではないんです。エマオに向かった二人もイエス様と道々一緒に歩いています。そのエマオでの道すがらイエス様の言葉を聞いて篤くなって「一緒に泊まりませんか?」と提案すると、主はパンを裂き祝福されたあと見えなくなったのです。そして、その瞬間にイエス様だと分かった。その後、エマオに向かって自分の故郷に帰ろうとした二人は、急いでエルサレムに戻り弟子達の所へ証言をしようとして帰って来ました。だから、エマオに向かった二人が帰って来て、そこに加わっている状態です。その上に十一人の弟子も一緒に居たと、書かれているけれども、パウロが第1コリント15章で書いているように、はじめに女達に現れ、次にケパに現れ、そして十二人の使徒に現れ、そして後に五百人に現れ、ヤコブに現れ、自分に現れた。こう書いてある通り、復活してはじめに現れたイエス様は、十二人に現れたと書いてあるけれども厳密に言えば十一人です。イスカリオテ・ユダはもう死んでいません。それでエマオから帰って来た二人は加わっている。そして、更に言えば、デトモと言われるトマスはこの時は居ないんです。後からこの話を聞きました。だから、弟子達だけが居た訳ではない。その一緒に居た仲間達もここに集まっています。そしてエマオに向かった二人も加わり、十一人の弟子の中の一人は欠けていて、だから、ここは弟子達だけが集まっていたとは言えない。かなり遅い時分に、イエス様が復活したその日の夜遅くに、エマオの二人の話を聞き、女達の話を聞き、ヨハネとペテロの話を聞き、もしかするとイエスは甦ったんじゃないかと噂をしていながらも、ユダヤ人からの迫害や様々な命の危険に、恐怖に慄いて戸をしっかり閉め、鍵をかけて、エルサレム周辺の何処かに居るんです。だから、一般のクリスチャン達が集まっているという考えでなくてはいけない。弟子達だけがそこに居たわけではないんです。そしてこの起きた事件が、キリスト教の教理においても、とても重大な事件であって、復活したイエス様が初めに何を為さったか?という内容が今日書かれていて、それは復活した日に起こっているんです。日曜日に、そして数人の証言している人達が今集まっているけれども、実際に本当は信じきれる事がなく、恐怖にふるえ、皆がその時一つの所に集まって、鍵を閉め、怯えている。そして、「どうなったか?どうなったか?」と皆で噂をし、甦ったイエスの話が今ひっきりなしにされている所です。今日の本文はそんな事件なんです。だから、弟子達と言っても一般のクリスチャン達の集まりです。
~ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」~
しっかり鍵が閉まって、四方壁に囲まれているその部屋の中に、すでに霊体となられたイエス様はドアから入って来られてはいないのです。突然皆の真ん中に立たれて、「平安があるように」と声を掛けているんです。そりゃ当然、皆ビックリしますよね?でも、『シャローム』というヘブル語は、一般的には基本挨拶なんです。「こんにちは。」「おはよう。」「さようなら。」色んな意味で挨拶として使われていますが、でも、ここでイエス様が語られた「シャローム」という言葉は、挨拶ではなく、本当に怯えている、信じない、信仰のない、このクリスチャン達に向かって「恐れるのは止めなさい」「平安があるように」という御言葉でした。それは、イエス様が十字架に架けられる前に、「わたしは、あなた方に平安を残します。この世が与える平安とは違います。しかしわたしは、あなた方を孤児にはしません。あなた方に必ず平安を残します」と約束された、あの約束の成就でもあるんです。平安があるように。怯える事はない。あなた方が恐れる必要はない。わたしを見て平安になるように。突然皆の真ん中に現れて、しかも、他の福音書では食事をしていたと具体的に書いてあります。つまり食事をしている最中にイエス様が突然現れた。しかも真ん中に立たれて、イエス様は、「平安があるように」「恐れる必要はない」とおっしゃいました。
~こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。~
イエス様は、十字架刑にあった時の、釘で刺された手と足の釘の跡を見せた。そして、槍で刺された脇腹を見せられるんです。その傷を見せて、「わたしはイエスだ」と言う証言をしたんですが、それは、霊なのか、実際のイエスなのかと怯えている弟子達に向かって、「わたしはイエスだ」という証拠を見せるためではありません。そして、それだけで皆が喜んでいる訳ではないんです。これは、『死んで甦った』という救いを今与えるためです。イエス様の十字架刑は、『死んで甦る』が最も重要なんです。だから、この脇腹を見せて、手の傷を見せるというのは、「わたしだ。幽霊ではない」という意味ではないんです。「イエス」という名刺を出している訳ではないんです。『死んで甦った』という、あの福音を思い出しなさい。その福音を聞いて、喜んでいるんです。イエスが幽霊じゃなかったという事ではないんです。「これは、他の誰でもなく、間違いなくあのイエスだ。」でもないんです。『死んで甦って、救いは完成されました。福音は完成されて、成就して、あなた方は救われたんです』という福音の喜びなんです。だからそれ以前に、あなた方は今悲しんでいます。わたしが去って行くので、あなた方は悲しんでいます。でも、後にあなた方は喜ぶでしょう。もう一度わたしを見るからです、というもう一度イエスを見る時には、救いの達成した後です。だから、あなた方の罪は赦された。そしてあなた方はもう死を恐れる必要はない。わたしが死を打ち壊したから。これの喜びなんです。感情的に、感傷的に、マグダラのマリアがシクシク泣いて、イエス様が死んだ、死んだ。悲しい、悲しい。あの感情ではないんです。もう一回イエス様と出会ったという感傷でもない。ここは、救いの達成。救いの完成。福音を聞かされた喜びです。死は打ち壊されて、イエスは勝利した。このGood News。福音はGood Newsですね。喜ばしい知らせ。素晴らしい情報。救いの完成です。それで皆が喜んでいるんです。感傷的な感動的な話をここでしている訳ではないんです。喜びなさい。死は何の効力もなくなった。死の棘は何処にあるのか、死の勝利は何処にあるのか?イエスの命に死は呑まれた。この福音を聞いて喜べ。イエス様はここで平安になれ!よりも『喜び踊りなさい』です。賛美しなさい。救いは達成されたから。という福音の喜びなんです。甦ってもう一回会えた。死んでなかった。あぁ、良かった。死んでなかったんですね。こんな人間的な事ではありません。 イエス様は福音が達成されたと知らせるため、四十日の間、弟子の前に現れたんです。何故四十日もご自身の姿を五百人以上の人に現したんですか?福音を伝えるためです。継続して語られたのです。以前は、「悔い改めなさい。天国が近づいた」と仰ったけど、今度は「天国は達成された、到来した」です。イエス様のこの四十日の福音はもう達成され、天の国は完成されたと仰って、今あなた方は福音を聞いたから、「喜びなさい。平安になりなさい」しかしこれはこの世の平安とこの世の喜びとは違うんです。
~イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」~
ここでとても重要な教理があります。『勇気を出しなさい。恐れる必要はない。福音は達成されました。死んで甦ったイエスを見なさい。もうあなた方の罪は赦された。』という福音が今、宣べ伝えられ、『平安があるように。喜びなさい。』これは同時にどういう定義なのか?『宣教しなさい。』です。あなた方が個人的にだけ喜ぶ問題ではありません。十一人の弟子、使徒達だけが言われた。だから使徒達だけが宣教するのか?違います。エマオに向かった二人もいるし、他の、一般の平信徒もいるんです。弟子ではない人達も居ました。女達も居ました。その人全員に、一人残らず、クリスチャンは誰でも福音を聞いたら宣教しなさい、です。私達は勘違いも甚だしい、自分勝手、自己中心、幼稚、子供、自分の事しか考えない、他人の命なんか何一つ考えない存在です。ここで言っている「福音を聞きなさい。喜びなさい。死は勝利に呑まれた。もう死で恐れることはない。」だから、ユダヤ人を恐がって、鍵を閉める必要はないんです。「外に出なさい。地の果てまでも行きなさい。わたしの弟子を作りなさい。わたしを信じて聖霊のバプテスマを受けなさい。そうすれば悪霊は追い出され、新しい言葉を語り、そして、蛇をも掴み、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば、病人が癒されるという、しるしが表れます。だから、聖霊のバプテスマを受け、地の果てまでも福音を宣べ伝えなさい。」今、これを仰ってるんです。それが福音です。そして、イエス様が「喜びなさい。平安があるように」とは何ですか?勇気を持って、立ちなさい。出て行きなさい。地の果てまでも福音を宣べ伝えなさいという、同じ言葉です。 イエス様は喜びなさい。平安を受けなさいとおっしゃいました。しかしこの世が与えるのとは違います。何故あなたは喜ぶのか?福音を聞いたから。何故あなたは平安になるのか?死を打ち勝ったイエスを見ているから。そして、それは他人にも伝えなさい。死の恐怖に怯えている人達の所へ行き、「死は命に呑まれた。」と、伝えなさい。これは、喜びなさい。平安があるように。あなた方は救われましたという命令です。
~そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。~
『彼らに息を吹きかけて言われた』というのは、創世記に書かれている塵でアダムを創った後に、息を吹き入れた、という、あの言葉と同じ単語なんです。だからこの、『息を吹き入れた』という意味が何かというと、
第1コリント15章45節
~聖書に「最初の人アダムは生きた者となった」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。~
最初のアダムに神様が息を吹きかけてから、ただの塵だったアダムは神の息を吹き入れられた瞬間、生かされます。生きるものになりました。その内側に霊魂が入っていきます。そして、その霊魂は罪を犯す前なので永遠に、生きるものです。だから、初めのアダムというのは、神に生きるものにされた。塵だったのに、死んで朽ちるものはいつかは、腐ります。その腐って朽ちて死んでいくものが、生きるものに、永遠に生きるものにされた。息を吹き入れるとは、永遠に生きる者になったのです。そして、第2のアダム、イエス・キリストは、アダムとは違う。生かす霊です。命を与える霊。それは神だけが可能です。創世記で息を吹き入れた方はどなただったのか?イエス様です。だから、イエスが復活したのは、もう命を与える霊として、地上で明らかにされるのです。だから、『聖霊を受けなさい』とは、朽ちていく私達、アダムが堕落した後、私達は永遠に死ぬと、神に宣告されてしまい、全人類は朽ちるものとなったのです。必ず死ぬ者。必ず、永遠に天国で生きる事が出来ない。必ず死ぬ立場にいる私達が、イエス・キリストを信じた瞬間、聖霊を受ける事によって、その神の息を吹きかけられることによって、朽ちるものが、生きるものに変えられる。その生かす霊、『聖霊を受けなさい』とイエス・キリストに言われているんです。 マグダラのマリアが墓の前でイエスと出会った時に、「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。」と言っておられる所を言語通りの理解ではいけないんです。墓は空だった、ですよね?イエス・キリストは死んで墓に葬られた。ここまでは絶対的な教理。必ず信仰告白に入れなければならない。『葬られた』まで入れなければいけません。しかし、葬られてイエス様はもうそこにいないです。三日間墓に居た訳ではないからです。もう栄光を受けられています。葬られたその瞬間に。三日間墓の中に眠ってはいません。肉体を離れたイエス様が眠れる筈ないんです。生かす霊となられたんです。ペテロ書に書いてある、イエス・キリストは、三日間地獄に行って、地獄の門を開いてノア洪水の後の人達、地獄に捕らわれ、サタンに捕らわれている、その捕らわれている人を解放しに行って、福音を宣べ伝えた。そしてノア洪水の後のイエス・キリストの十字架の死までの間の人達は救われている。救いに行ったとペテロ書に書いてある。イエス様は復活されていますよね?葬られた瞬間、もう墓にはいません。そして、当然霊ですから、天の御坐に行きます。私達のように時間や空間がある訳ではありません。牢獄の門を一々解放しに行ったと肉的に考えてはいけないのです。神の右の座に着かれ、その栄光の座に着かれて、全ての名の上にご自身の名を置かれ、主権を頂き、全権を頂き、主の主、王の王となり、そして全てのものが膝を屈められ、全てのものを支配する権限が、もう死んだ瞬間に、イエスに与えられています。だから、王として葬られたのは、もう始まっているんです。王としての権限が。だから、もう居ません。墓の中になんか。日曜日の朝以前にもう居ないんです。ただ人間側が、日曜日の朝、復活したイエスを見ているだけで。その前から復活されています。だから、イエス様が今、『息を吹きかけて』というその瞬間に火の聖霊、あのマルコの部屋で、これよりも五十日後に火の聖霊が下った、という以前にもう神の御坐に昇っておられます。昇天されたという描写は、ただ弟子達や人間や、心頑なで無知な者にそう見せて、理解させるためです。まだ昇天されていない、天の御坐に着かれていないという事ではないんです。私達は全てを言語通りに受けると、時間や空間を越えて理解できない。もう主は完全に神の御坐に着かれています。ただ、信じない人間の為だけに四十日間、そのお姿を現してくださっただけです。 日曜日、もう既に弟子達は、イエス・キリストが死んで甦って、復活した、福音を完成された方を見た瞬間に、聖霊を受けなさいと言われた瞬間に、すでに聖霊内受は成就しています。私達と救われた状態は同じです。四十日後の、火の聖霊を受ける間を、待つ間もなく、救われているんです。そして今、イエス様に「聖霊を受けなさい」と言われて、そこに居る全ての者が復活したイエスを見て、聖霊を受けているんです。それは、朽ちる私達、死んでいく私達が、永遠に生きる者に変えられたんです。朽ちる者が、朽ちない者を着た。死んでいる者が命を着たとパウロが何度も説明している。イエスに繋合わされたんです。死んでいたのに、イエス・キリストに繋合わされたんです。聖霊を受けるというのは、神の国に入るというのは、イエス・キリストという葡萄の木に繋がれるという事です。聖霊を受けるというのは、永遠に生きる者に変えられたということです。だから、聖霊を受けない人はイエスに繋がれません。救いだけで、聖霊は受けていない。これは有り得ません。そういうクリスチャンは一人も存在していません。もし、聖霊を受けていないなら、救われていないんです。
~あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」~
イエス様が今、「聖霊を受けなさい」と言っている。でも、この五十日後にエルサレムから離れてはなりません。わたしは約束のものをあなた方に送ります。復活したイエス様が言いますよね?それは助け主、いわゆる真理の御霊。わたしが誰だかを教える霊。神の霊があなた方に下るからエルサレムを離れてはいけません。聖霊を待ちなさい。助け主を待ちなさい。と言われて百二十人が五十日間祈ります。エルサレムから離れないで。そしてマルコの部屋で五十日後、ペンテコステ日に聖霊降臨が起きます。五旬節に、火の聖霊がまずマルコの部屋に最初に下り、弟子達に最初に火の聖霊が下った。ここで、すでに聖霊を受けているのに、ペンテコステで下って来た火の聖霊は一体何だったのか?ロイド・ジョンズの聖霊論を読んでいるので分かると思いますけど、同じ聖霊です。違いはありません。こっちは賜物の霊だとか、こっちは力の霊、だとか、そんな区別がある筈がないんです。神の霊は、神の霊。聖霊は聖霊。違う聖霊は存在していません。だから、すでに聖霊を受けているし、ペンテコステでも聖霊を受けている。という事になるんです。救われる時誰でも聖霊がその霊魂の内に内受される。これは通常の聖霊の働きです。救いをもたらし、死ぬ日まで、私達を聖く導いてくれます。イエス・キリストがどなたかを教え、罪について義について裁きについて教える聖霊様です。これは通常の聖霊の働きです。聖書を読む時助けてくれ、私達が祈る時、祈りを導いてくれます。でも、ペンテコステに下って来たあの火の聖霊は、『特殊な恩恵』とジャン・カルヴァンも言うし、ロイド・ジョンズも明言している。特殊な恩恵です。だからそれを、イエス様も聖霊のバプテスマ。と呼んでおられます。或は火のような聖霊が下った、と仰ってるように、同じ聖霊です。違う聖霊ではないです。そんなものは、存在していない。同じ神の霊。同じ神の力です。その救いを受ける時の聖霊様だって、死を克服した偉大な力です。それが内受するだけでも凄い恵みです。でも、特殊な恩恵、特殊な力というのは、また別に下って来る。そして、全てのクリスチャンに下る訳ではない。そしてマルコの部屋に百二十人居たとしても、全ての人に下るものではない、とロイド・ジョンズ先生は説明しています。そして、程度も違う。受ける程度が違う。これを主権だと言っています。神が決める事、神が定める事。もう世界の基が据えられる前から決められている選び。ここはもう、『選び』なんです。神様だけが決める事の出来る選び。それは、ペンテコステの日にやって来ます。でも、今日の本文で受けるのは、信じた者誰にでも、与えてくれるという聖霊です。今、ペテロ達、エマオに向かった二人。トマスを除いた十一人。そして、他の女達、他のクリスチャン達が集まっている中で、イエス様の死と復活を見て、そして信じている者に、全ての人に聖霊を与えるんです。この部屋にいる全ての人が救われています。全ての人が神の子。神をアバ・父と呼ぶ権利があり、神の国の相続者になり、永遠の御国に入る特権を頂いています。そのまま直接イエスの御名で悪霊を追い出し、イエスを主と理解する力を頂いています。しかしペンテコステに降ったあの火の聖霊は、その通常の聖霊とは違います。イエス・キリストを証しする、証人になる力です。だからここで、聖霊を受けなさい。福音を聞いて喜びなさい、と同時に弟子達にイエス様は何ていいました?「地の果てまでも、わたしの証人として行きなさい。地の果てまでも福音を宣べ伝えなさい」これは、講壇から説教を流すとか牧師になるという意味ではないです。このマルコの部屋に居る時も、女達も一般ピープルも居て、11人の使徒達だけが居た訳ではないんです。それでも火の聖霊を受けています。そして、火の聖霊を受けたのは執事達も居たんです。という事は、火の聖霊は神が決めるんです。牧師だから受けるのでもないし、男だから受けるんでもないんです。これは能力でもない。神が初めからイエス・キリストの証人として立たせる者に下る力、です。『特殊な恩恵』です。だからこれを受けた人は世界の果てに行くまで福音を伝えます。地の果てまでというのは世界中にという意味ではないです。イエス様が命令する場所。イエス様が導く場所。聖霊が導く場所で、必ず福音を語る人です。イエス・キリストの証人として証をする、その力を特殊な恩恵と言っています。 だからペテロ達は、以前は戸を閉め怯えてまだ立ち上がらずにいました。聖霊により救いを受けているのに、信仰が弱かったのです。再びガリラヤに戻ってしまう程度のもの。だから、これは救いとは違う特殊な恩恵、聖霊のバプテスマ、キリストの証人として立つ力です。それを求めるように命令されています。でも、それは証人としての力です。それをするために、イエス様は時折病人も癒すし、時にはある種の奇跡を行うし、時には人間を超越した事を火の聖霊を受けた者はしていきます。もっと厳密に言えば、教会を建てるためです。神の国がこの地で現れるためです。イエス・キリストが主として、王として君臨するため、イエス・キリストが礼拝され、賛美され、褒め称えられるためにです。これが火の聖霊が下る理由です。人間のこの地での幸福や成功のためではありません。人間があからさまに評判が良くなるとか、そんな事ではないんです。 特殊な恩恵です。本当に貰うべきです。この特殊な恩恵なしに何の力もないです。「火の聖霊なしには神の国が建たず、イエス・キリストが伝えられません。ペテロ達も鍵閉めて、怖れて、何も語らず、イエスの死からも逃げて、十字架からも逃げて。そして最後は食べられないから、ガリラヤへ戻ると言います。しかし火の聖霊を受けたペテロはどうですか?牢獄も鞭打ちも怖れていません。「人の言う事を聞くべきですか?神のいう事を聞くべきですか?」サンヘドリンの前で大胆に語ります。そして、「私は神のいう事を聞きます。」と言って大胆に立ち上がり、福音を宣べ伝えます。もう別人です。ペンテコステ以降のペテロは。もう二度と十字架で逃げたりしません。彼は継続して火の聖霊を受け続けたんです。パウロもそうです。それは、神様の主権です。この特殊な栄光、特殊な力は永続的にある訳ではありません。しかしペテロやパウロは福音のために生涯受け続けたのは明らかです。そうでなければ殉教など出来ません。火の聖霊が何年か毎に降っていなければキリスト教は絶滅したはずです。 歴史の分岐点には必ず聖霊のバプテスマが天から下っています。初代教会の使徒達はもちろん、宗教改革も然りです。そして私達のこの時代は終わりの時代です。 罪と堕落の最終形態と言えます。自由だと言う中で、自分が罪深く堕落した存在だということを自覚できないほどの麻痺した時代だからです。 どの時代よりも神を必要とせず、自分で何でも選択できると思い違いをしてしまっています。最も恐ろしい時代なのです。 だからこそ約束の雨が必要です。それははじめの雨と、終わりの雨を降らすとおっしゃった主の約束の雨です。 その時見る人は見て、聞く人は聞きます。しかし見えない人は見えず、聞こえない人は聞こえません。そして主はこの地にもう一度来られるのです。アーメン。
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