ヨハネ福音書20章11-18

~しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った。イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。」マグダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかりました。」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。~


日曜日の朝、墓は空っぽだった。そして、それをペテロとヨハネが証言していて、しかし、この時彼らはイエス・キリストが甦った事は信じてはいます。それは死体がないので、イエス様が言っていた通りに甦ったのかもしれないという程度です。だから悟らず帰って行ったんです。それが何かは分からない。彼らは仕方がなかったんです。新約聖書を読んでいないんです。私達のように復活した後どうなっているか、何が起こったか、キリスト教はどうやって立てあがったか、などという歴史も分からない。だから彼らはイエス・キリストが死人の中から甦った、程度には信じていたけれども、その復活の本当の意味が分からないので、彼らはまだ何一つ悟らなくて、帰って行って散っていくんです。また、イエス・キリストが十字架に架けられて散らされた時と同じように、また散らされていく。そして一旦誰もいなくなったのに、マグダラのマリヤ一人が今戻って来たんです。そして、墓の前でシクシク、シクシク泣いているんです。そして、イエス様がマリアの前に現れたその事件が書かれているのが今日読まれたところです。 この十字架に従って行った女達は、よく評価されますけど、でも、彼女達は悟っていたのか、という意味では何も悟っていないんです。それは男の弟子と同じ。男の弟子達も悟らず、十字架から恐怖のあまり逃げてしまった。女達には、恐怖はあったけど乗り越えていた。地位とか名誉とかは顧みず、十字架の前に居た。捕らわれる事を恐れてはいなかった。確かにそう。確かにイエス様への思いは凄く烈しいものがあったでしょう。でも、悟っていたか?いいえ、です。イエス様の葬りの時には後ろで見ていただけだったのです。アリマタヤのヨセフという隠れクリスチャンがニコデモと二人で葬っただけで、女達は何一つ手を加えてはいない。安全な時にまた墓に戻ってきているだけです。では、女達は何を一体シクシク、シクシク泣いているのか?この女達は悟ってもいないのに男の弟子より勇気があって、悟ってもいないのに十字架まで何一つ脇目もふらずつき合って、聖書が分かりもしないのに、「イエス、イエス」と言っている彼女達の本性は一体何なのか?です。今日の本文ではイエス様がその事を暴いておられます。イエス様が現れているのに、マリアには分からない。泣き腫らして何も分からないんです。もう、感情に溺れているんです。そして、「イエス様の死体がない、私達は誰が持って行ったか分からない。」と言っていたマリアが、ここでは、「私に死体を返して、私の主は何処へ行ったんですか?私にそれが分かるように教えてください。私が引き取ります。」もう一人称なんです。私達とは呼んでいないんです。『私』がイエス様を見つけ、『私』がイエス様を引き取り、『私』がイエス様に会いたくて、『私』が悲しくて、『私』が沈んでいます。もう完全に感情に溺れている状態です。だからイエス様が分かるはずがないんです。何も真実が見えないんです。何にも聞こえない。あの勇気は何だったのか。十字架まで従った、あの女達の勇気は一体何だったのか?「主よ、主よ。」と泣き叫ぶ彼女達の本性は一体何か?泣いて、イエス様が目の前に居るのにも分からない。悟らない。知らない。じゃあ、彼女達は男の弟子よりどこが優っていたのか?優っている筈がありません。イエス様が見えないんですから同じです。彼女の目が開いたのは、イエス様が声を掛けてからです。イエス様のお言葉が彼女の目を開いてくれたんです。彼女がイエス様を見て、はっと気付いたんではなく、イエス様の方で開いてくれたんです、盲目なマリアの目を。そして、やっとイエス様が分かり、ラボニ(大先生)と最高に高める名称、「ラボニ。」と跪くんです。でも、イエス様に「何故泣いているのか?」と聞かれます。「誰を捜しているから泣いているの?何でそんなに泣いているのか?」天使にも「何故泣いているのか?」と聞かれ、イエス様にも「何故泣いているのか?」と聞かれているんです。そして、「泣いていてはいけない」と咎められて、そして「しがみつくな」とここで言われているんです。「わたしは甦ったので、男の弟子達のところへ行って、あなたは伝えなさい」という使命を受けました。確かに復活の朝、一番最初に出会ったのも女達。そして、弟子達に伝えるようにと、伝達の役割は果たしました。でも、彼女達が男の弟子より優れていたのか?聖書的に言えば優れてはいないです。 確かに女達と言うのは、数に数えられない、ユダヤ教の中でも、ユダヤ人の中でも、女という存在は本当に権威がないんです。何一つ権利もなければ、力もない。そして、仕事して自分で生きる事もできない。確かにこの世では誰からも相手にされない存在です。そういう誰からも相手にされない、見捨てられた、何も持っていない、地位も名誉も何一つ自由にならない、この身分でいたから、イエス様がそこを回復してくれたので、それは嬉しいはずです。男の弟子よりも。はるかに、です。イエス様によって人生を変えられた、という意味で言えばおそらく男達よりも、はるかに女達が改善された筈です。でも、これは聖書でいう福音的な教理とは全く関係ありません。感情的な部分です。彼女達が十字架まで従ったのは感傷に他ならないんです。自分が不幸だったけど、ましな生活ができた。以前は見捨てられたけど、それでもイエス様のおかげで自分達も皆に交わり一目置かれている弟子達のお世話ができる。世間に認められイエス様のお世話が出来る。その群れに加えられた。今まで独りぼっちだったのに、仲間ができた。惨めだった境遇が改善された。女達が従った理由は、ここしかないです。何も悟っていないです。だから今、「私の主、私の主、私に返して、私が、私が・・・」もう周りが全く見えていません。「私を救ってくれた主、私を愛してくれた主、私を不幸から回復してくれた主、仲間外れだった私がこうやって皆の前で意見できるところまで上り詰められた。私を、私を。」女達がしたのは、ここしかないんです。だからその後、福音を伝えたのは男の弟子達です。それは男が優れていたからではありません。一方的な『神の選び』です。だから、男も女も。弟子も、弟子じゃなくても、誰も彼もが分からなかった、悟らなかった、従っていなかった。ただ、これだけが一つの真実です。全ての人間が、です。男も女も、誰も悟ってはいなかった。この業はただお一人、イエス・キリストだけがなさった業。イエス様が声を掛け、聖霊を送らなければ、何も起こらない。だから、今、私は天に昇っていないので、わたしにしがみついてはならない。当然これは、聖霊降臨の事を言っています。 聖霊降臨と言っても、聖霊成就とは違います。もう既にイエス様が十字架に架かって死んだことを信じ、イエスが救い主と信じたその瞬間に、聖霊は内受しています、信じた者の内に。だからここで言う通常に言う聖霊はもう受けているんです。マグダラのマリアも、ペテロも。というか、もっと明確に言えば、救われているんです。でも、彼らは悟っていなかった。火の聖霊を受けるまでは。特別な恩恵がなければ、たとえクリスチャンといえども、イエスが分からないっていう事です。救われた後も、男も女も関係なく、特別な恩恵なしには、イエス・キリストが分からない。新約聖書が分からない。旧約聖書が分からない。主の成さっている事が分からない。主の救いが何かが分からない。十字架の御業の本当の意味が分からない。聖霊が内受してもすぐには分からない。それがこの姿です。女は感情に溺れ、男は恐怖に怯え。ただ、これを右往左往しているだけ。誰も分からない。だから散らされるしかなかった。誰もイエスの所に来られない。まともに悟れない。旧約聖書で語られている預言を、全く理解しない。これが、『人間の姿』なんです。人間の誰も例外なしの姿。それを私達はあまりにもひどい誤解の元に生きているんです。誰が?むしろクリスチャンが、です。ノンクリスチャンではありません。彼らは錯覚ではなく初めから信じていません。むしろ信じていると言うクリスチャンが錯覚しています。「私の主、私の主。」を連呼しているんです。だから、主よ、主よと言った人が救われない、とイエス様が言っています。どんなに奇跡を行っても、どんなに病人が癒されても、どんなに食べて飲む、会社に行く、仕事が与えられたという奇跡が起こっていても、どんな風に改善されていても、理解できているのかと言えば必ずしもそうではない。人間は例外なくそうです。ここにイエス様が復活された後にも、弟子達は悟らないんです。私達は人間をいいもののように解釈していきますよね?ここで女はまるで信仰があったかのように、女はまるでどんな恐怖も乗り越えてイエスのために命を懸けたかの如く。これを読み返せば分かりますよね?そんな事ではなかったことが。「私の主、私の主。」です。それまでは、『私達の』と呼んでいたのに。もう感情に溺れた人間など、ただ感情にしがみ付き、感情に溺れ、感情に埋没しているだけです。何にも見えないんです。目の前にイエス様がおられても、聖霊様がどんなに働いていようと、御言葉が今日、聞かされても、何にも分からない、何にも聞こえないんです。何にも悟れない。これが人間です。何にも分からないんです、神のことなんて。何故ですか?ジャン・カルヴァンが言っている、人は堕落して、腐敗して、神に逆らう以外何も人間は自ら出来ない。もう、ここで明白なんです。もう説明がいらないくらいです。自発的には絶対に出来ないんです。 でも、私達は自由意志というものが蔓延ってしまっているんです。まるで自分に自由意思があるかの如く。存在しているかの如く。教会の中にも、メッセージの中にも、含まれてしまっている。何故なら、イエス様の恩恵なしには何も出来ないと言いながら、この事をしましょう、あの事をしましょう、と言う時には自分がまるで善を行う意志があるかの如く、善を欲する意思が自分の中にあるかの如く、考えています。それを行える力が自分の中にあるかの如くに、行動しているんです。口先だけで、イエス様の恵みと言っています。何故私達はそんな事を繰り返すのか?ジャン・カルヴァンが五百年前に言っています。自己愛という病気を避けろ、と。自己愛という病気は誰でも持っているけど、どういう病気かと言えば、何も見えなくなる。まず、第一に『何も見えなくなる』正常な判断が何一つ出来ないんです。その上に、現状以上の自己評価を高くしてしまう。これが本当にどの時代にも蔓延っています。腐敗して、堕落した人間が行き着くところは自己愛なんです。その自己愛こそ、感情です。今マリアが沈んだところは、自己愛からくる感情です。主ではないんです。イエス様の成さった業ではないんです。神の栄光でもなければ、神の国でもないんです。陥ってしまったところは何処ですか?自己愛。感情に沈んだんです。それは、もうどの時代にも存在しているんです。アダムが堕落した以降は。全ての人に存在している。そして、それを病気だってジャン・カルヴァンは言っています。一番恐ろしい病気です。でも、この自由意志というものが、本当にあるのか、ないのかは、論争の的なんです。昔から今に至るまで。人間の中に自由意志があるのか、ないのか。それはこの世の人はあると当然いいます。人間には善を行おうという意志もあれば、悪を行おうとする意志もある。また、善を行わないという意志もあれば、悪を避けるという意志もある、と彼らは言っているんです。そして教会の中でだって神の恵みとはいえ、自由意志はある。そのように、イエス様に従おうという意志は自分から発揮していなければならない。という事が教会の中でも語られてしまう。だからまるで、救いの業がイエス・キリストと私達の共同作業のように協力者のように、こんな風にあまりにも神の権威を下げてしまう。あまりにも神の栄光を地に落としてしまうんです。十字架の御業がまるでなかったかの如く、です。口先だけなんです、「十字架、十字架。」というのは、まるで自分との共同作業者のように、協力者のように考え、行動して、生活して、誇って、高慢になり、自慢しているこの自分が、どんなに十字架を無意味にしているかという認識がないんです。まるで自分の中にその善があるかの如く。でも、ジャン・カルヴァンが一番尊敬しているというアウグスティヌスだって、こう言うんです。「自由意志はある。」と言っています。その自由意志はというと、『神の義を行うには聖霊に依らなければ、神の恵みに依らなければ、絶対人間は神の義など欲する事も、行う事も出来ない。しかし、罪は強制されるのではなく、自発的にしている。』そういう時に、悪を行う自由意志はあると言っています。しかしアウグスティヌスが言うのは、厳密に言えば、罪についてだけです。罪についてだけは、強制されていない。自発的に行っている。それについての、自由意志はある。と、アウグスティヌスが言っています。何故なら、罪を犯したことから逃れる事は許されない。自分が罪を犯した事も神のせいにすることを絶対に許さない。自分が自発的に行った罪を、神の責任転嫁することは絶対に許さない、というアウグスティヌスの論理です。その時に彼は、『自由意志』と言う単語を使っています。でも、それ以外の人は、若干、人間には善を行う意志がある。少しは残された、というような曖昧さを残してしまっている。それは、本当に致命傷だったと、ジャン・カルヴァンは言っています。自由意志を邪悪な心の場合に語る事を、論争を避けるために反対はしない、と彼は言います。「しかし、私は出来るならこの言葉を抹殺したい。ましてや教会の中から『自由意志』という単語は抹殺せねば危険極まりない。」と彼は言っています。「どんな理由があっても、自由意志という単語を使うべきではない。」それほど、神の前で邪悪なんです。恐ろしい罠です。何故なら神の栄光を地に落とし、十字架の御業を共同作業のようにしてしまい、神の国を建てるのが、まるで私の意志も若干含まれているような、そのニュアンスが、どれだけ神冒涜の罪なのか、と彼は言っています。人間の中にそんな崇高なものなど、微塵もないんです。 アダムが堕落した以降、人間の中に腐敗と堕落、汚物と罪、それ以外何一つどんな義も、どんな善も存在していない。決して回復されない。それはイエス・キリストの十字架の血によって回復ははじまり、聖霊の恵みによって、魂の回復があったとしても、全ての者が同じというわけではありません。何より大切なのはそれ程、腐敗して堕落しているという認識が必要なんです。人間側に、少しの、自分の名誉があってはならないんです。少しも自分の徳があってはならないんです。だから、アウグスティヌスが言うように、またクリュソストモスもこう言っているんです、「本当の人間の哲学の中で一番重要なのは、遜りだ。」でも、それ以上だとアウグスティヌスは語っています。「このギリシャの学者が雄弁において一番大切なものは何かと問われれば、“発音だ。”もう一回問われるなら、“発音だ。”もう一回問われても、“発音だ。”と言っているように、キリスト教において、一番大切な規則は何かと問われれば、“一番に遜りだ。”と答え、“二番に遜りだ。”と答え、“三番に遜りだ。”と答え、その答えを遜った気持ちで私はまた、遜りだと答える。」これがアウグスティヌスの言葉なんです。その通りだとジャン・カルヴァンは言っています。キリスト教の教理の中で一番大切なのは、『遜り』。第二にも遜り、第三にも遜り、と言っているんです。何故?私達の内に善も義もないから。その徳を高めようっていう欲求する、欲する気持ちさえ持っていない。ただ、邪悪については強制されずとも、自発的にしている。何故?私達は生まれながら、もうサタンと同じ資質しかない。その本性から言えば、私達は罪を好んでするという事です。強制されて、縛られて、嫌々渋々しているわけではないんです。罪についてだけは、自発的にしている。そうやって生まれついている。これが、人間の本性の必然だと言っているんです。その事を教会の中でも曖昧にしたがる。全ての人間が曖昧にしたがる。何故?そうして、神に全部の栄光をかえしたら、自分が損するかの如く、自分に何もなくなるから嫌がって、自分に力がない事が嫌だから、自分に何か一つでも褒められる、評価されるところがない事が許せないから、これを人間は圧倒的に嫌うんです。圧倒的に。大多数、いえ、ほとんどが、全人類がと言っても間違いじゃないんです。嫌うんです。自分が無能って言われる事。無力だって言われる事。何もないって言われる事。絶望して失望しろと言われると、避ける以外は何もしない。ほとんどの人間が失望や絶望する事を一切嫌がる。自分に何かをとっておきたい。神に全部返すのは嫌だ。これが、クリスチャンであっても、絶対に抜けきれない人間の本性なんです。どんなに奇跡的に救われた後でもこれをする。と、ジャン・カルヴァンは言っています。 まさしく、今日のマリアを見てもそうなんです。救われたって、イエス様と寝食を共にしたって、十字架の御業を目の前に見ていたって、復活したイエス様が目の前に現れても、悟らないんです。感情に溺れている以上は。自分の無知を、全否定をしていない限り。自分にそんな、本当に徳を高め、善を行い、義を求めるような、そんなものが全く存在していない、と本気で思うところまでいくまでは、本当の深い神の恵みがわからない。真実の神の国は見えない。イエス・キリストの十字架の恵み、救いの本当の恵みは理解しない。悟らない。だから神に栄光が返せない。心からの真の礼拝が出来ない。聖書の求めている祈りが出来ない。神への賛美ができない。全部、自分の為にしか出来ない。これが全てです。そして私達は一体何をしているのかと、本当に考えなくてはならないんです。何をしているの?教会に来て。何をしているの?ただ歌って。ただの歌なら、カラオケと同じなんです。ただストレス発散して、大声出して、悲鳴を上げるように。マリアが今泣き叫んでいるように。「主よ、主よ。」と言って、今日苦しかったから、辛かったから、大変だったから、叫んだら何かスッキリするだろう。これでは神に失礼極まりないんじゃないですか?そんな雄叫びを主に捧げるなんて。悲しくて、弱くて、私達がそれをしてしまっていても、それが神に栄光をお返しするという行為なのか?後からでも考えなくてはいけないんです。全く見当違いなんです。私達がする事成す事が、全部的外れです。自分を全否定しない限り、この見当違いを続ける以外ないんです。そして、混乱と自己慢心に陥るだけです。それ以外何にもないんです。自己愛という感情は、邪悪そのものなんです。神に逆らうどころか、神の栄光を奪って自分が食べる行為を止めない。続ける、そこが居心地いい。 創世記のところに顕れるエデンの園の事件。アダムが創造されて、彼は完全な善なる自由意志を持っていたんです。彼には、本当に、正しい自由意志を使う力があったんです。創造された時は。だから、彼は園の中でどの木も食べて良かったんです。何故なら物凄く正しい選択ができたんです、彼には。それだけの理性と知性を神からもらっていた。本当に恵みだったんです。そこにあった命の木は、イエス・キリストを象徴しています。だから命の木の実はどんなに食べても良かったんです。だから命の木の実を食べている以上は、彼は死なないで済んだんです。イエス・キリストを現していたからです。では善悪を知る木の実は一体何だったのか?あれは、意志の選択の実だったんです。アダムは自分の意志で選択してしまったんです。神の意志ではなく、自分の意志で選択して食べてしまったんです。それは一体何だったんですか?完全な『死』だったんです。だから、エデンの園の地で起きた事件と言うのはそういうものだったんです。イエス・キリストの命の実を食べている時には、死なずに済んだんです。永遠に生きたんです。でも、善悪の知識の木の実を食べたその瞬間は自分の意志だったんです。神は食べてはいけないと言いました。神の命令は善です。自分の意志の選択こそが、何だったんですか?悪です。悪魔と同じ意識なんです。悪魔と同じ意志なんです。何ですか?神の意志よりも『自分の意志で、自分の力で生きる』です。 自分の意志で生きる。自分の選択で生きる。悪魔が誘惑したのはここです。あなたの力で生き、あなたの意志で選択をし、あなたが決定することが出来ますよ。悪魔はそうやって神に逆らってきたし、自分の意志で生きたかったんです。天上から堕落した天使たちは。それをアダムにも誘惑しました。でも、アダムは誘惑に堕ちたのではなくて、自分の意志で決めたんです。それが死をもたらした理由です。だから、私達に善を選択できる自由意志があるのか?と、問われるんです。腐敗と堕落と罪しかない私達に、そんな聖なる義なる自由意志など、アダムが最初に持っていた自由意志が、我々にあるのか、ないのかと教会で二千年、論争が続いているんです。あるのか、ないのか。救われた後は若干あるのではないか。イエス・キリストの血で救われたなら、私達にはあるのではないのか。こういう論争です。でも、エデンの園の完全なアダム。イエス・キリストの恵みだけを受けていて、神との恵みが自分のものではなく、これは神から貰ったもの。という完全な自由意志を持っていた時には、生きられていたアダムが、その恩恵ではなく、自分の力で判断したい、自分の意志で決めたい、としたその瞬間に堕落しているんです。エデンの園に居た時でさえ、不従順してしまったのです。だから、私達に自由意志などある筈がないんです。神の恵みと恩恵以外にこれを回復する方法が皆無だと言っています。絶対自力では無理です。自力での回復は不可能。ゼロ%です。自分の意志で決めたその瞬間に悪に傾いている。自分の意志で、自分の自由意志を駆使した瞬間に、もうサタンと同じ意志なんです。人はサタンと同じ意志を持っている。この認識がクリスチャンには本当に必要なんです。だからアウグスティヌスが必要なのは遜り、二番目には愛とは言ってないんです、『遜り』で、三番目には、信仰と言ってないんです、『遜り』と言ったんです。その答えをまた遜って答えると言っています。これはどういう意味かって言った時に、私に他の人より能力が多少ある、徳がある。でも、これを謙遜に受け止めて自惚れないように、控えめにしていなければいけないというものではないんです。或は、もう神の善が私の中にないから、理解もしていないのに、強制的に気の毒な修道士達のようにこの世を避けて生きるか、それでも、ないんです。遜りというのは。 『遜り』は、無理矢理することでもなければ、謙遜なふりをして、自慢しなければいいんですか?それを控えめにして、受け身にしていればいいのでしょうか?違います。神の前での自分の全否定です。『全否定』です。何にもない。何にも持っていない。私から何の善もない、という完全な否定です。その時に、貧しい者は神の国を見るだろう、というあのマタイの5章が成就するんです。その時にイエスが見えるようになる。イエスが現れるようになる。パウロが言ったように、「私が弱い時、主が強いのです。」と言った、あの御言葉が成就していくんです。私ではなく、神が現れる、というだけの事です。私はその時でさえ、無です。どんなに神が現れている時も、私は無なんです。全否定です。徳を高めていって、どんどん信仰が伸びて、人前でそれを控えめにするという問題じゃないんです。だから、神に栄光をお返しします。という信仰告白でなければ、私達はもうキリスト教ではなくなってしまいます。ジャン・カルヴァンは言っています。それを食べて、盗んで、自分のものにするなら、もうキリスト教ではない、と。厳しいですか?私はむしろスッキリします。聖書に書かれている事と合致するからです。これを理解した方がイエス様のおっしゃっている事が分かります。全部は無理でも、あのパウロが言ってる教理が理解出来るんです。 全否定をしてからです。だから、私達は全否定をし続ける事を望んでいなければならない。そうすれば、する程、聖書が分かるようになり、聞こえるようになり、イエス様が何を成さっているか、分かるようになるんです。教会はマグダラのマリアではないでしょうか?他の人よりは、多少教会の仕事はしたでしょう。少しは祈ったかもしれない。聖書を通読はしたかもしれない。でも、これは「主よ、主よ。」と言ったことと違いがあるのか。このマリアと何が違うんですか?多少勇気があっても、多少イエス様に従うような行動をとっていたとしても、このマリアと何が違うのか。このマリアは「私の主、私の主。」と叫んで、泣いて、イエス様が分からないんです。ありがたやって賛美してはいるけど、イエス様が見えないんです。私達と全く同じ姿です。 


エレミヤ17章5節

~主はこう仰せられる。「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわれよ。~


私はここを、はじめ、人間に頼るなという意味にしか理解していなかったんです。人間に頼らず、神様に頼れという御言葉なのかという認識を持っていたけど、でも、ジャン・カルヴァンの話を聞けば、そういう問題ではないです。もっと奥深いんです。『人間の内に何もない。』事を悟らなければいけないんです。人間の内には、善がない。人間の内に、肉の中にあるのは、『罪と悪』だけという意味なんです。他人に頼るな、教会に頼るなと、そういう類な事を言っているわけではありません。人間の内に頼れる、何か信頼できる、善とか義がない、という意味です。何故なら神こそ善、神こそ義、命、真理、道だからです。これ以外に方法がないという、もっと厳しい言葉なんです。肉の中には死しかない。神の中にだけ命がある。命なのか、死なのか、明白に言えば、人間は死なんです。神だけが命そのもの。右に行くか、左に行くかという選択じゃないんです。何かをするとか、しないとかいう選択でもなく、教会に行くとか、礼拝をするか、しないかという選択ではないんです。イエス・キリスト以外に命はない。救いはない。道もない。真理もない。その道は、私の全否定が前提です。神が現れた時だけ、主が働く時だけ、主の善が現れます。どんなにイエスが働いている時だって、どんなに聖霊が働いている時も、ペテロが言ったように、「私に信仰があるかの如くに私を賛美するな。止めなさい。」と。「まるで私が足なえを歩かせたように、まるで私がコルネリオを救ったように、そう考えるのは、止めなさい」働いたのは聖霊です。これを成さったのはイエス・キリストです。これを成さったのは神です。 このペテロの言葉こそ真理です。働いたのは誰ですか?その意志は誰の意志ですか? 神の意志。イエス様の十字架の犠牲のゆえに、与えられる聖霊の働き、力です。 私の意志も、力も使われてはいない。この全ての功績は、神の恵みである、イエスキリストの功績です。アーメン。 

Jesus Christ Glory Church

イエスは言われた。 「わたしは、よみがえりです。いのちです。 わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者は、 決して死ぬことがありません。 このことを信じますか。」 ヨハネ11章25,26節

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