ヨハネ16章17-28

~そこで、弟子たちのうちのある者は互いに言った。「『しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る』、また『わたしは父のもとに行くからだ』と主が言われるのは、どういうことなのだろう。」そこで、彼らは「しばらくすると、と主が言われるのは何のことだろうか。私たちには主の言われることがわからない」と言った。イエスは、彼らが質問したがっていることを知って、彼らに言われた。「『しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る』とわたしが言ったことについて、互いに論じ合っているのですか。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。これらのことを、わたしはあなたがたにたとえで話しました。もはやたとえでは話さないで、父についてはっきりと告げる時が来ます。その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。それはあなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられるからです。わたしは父から出て、世に来ました。もう一度、わたしは世を去って父のみもとに行きます。」~ ~イエスは、彼らが質問したがっていることを知って、彼らに言われた。「『しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る』とわたしが言ったことについて、互いに論じ合っているのですか。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。~


と、弟子達の声にならない心の質問にイエス様が答える。あなた方はわたしが去ると、十字架で死ぬと、そして居なくなると、嘆き悲しむが、もう一度喜ぶことができる。それが、イエス様の答えです。でも、この嘆き悲しむっていうのは、当時喪に服した時、プロの泣き屋がいます。特にそれは女の人が多いのです。葬式の日に泣き仕事をする人。その人達が泣く、大声で叫んで泣く。という意味なんです。だから当然これは、喪に服している。だから、葬儀で悲しむ、という意味だから、告別式で起きる事。なので、当然イエス様が死ぬだろうという予測は皆がしている。その時にあなた方は、その泣き女達のように、大声出して、叫んで、悲しんで、泣くでしょう。その、泣く意味をイエス様の事を考えての意味ではなく、イエス様の迫害が、今度自分に及ぶと言う不安で泣くでしょう。とイエス様に今叱責されているんです。さっき心でつぶやいたことを、聞きたいけれども、知りたいけれども、知ったらどれだけの重荷が自分に課せられるだろう。と思った時、躊躇して聞けない。次は嘆き悲しむだろう。としても、イエス様の事を考えて嘆き悲しむのではなく、次に及ぶ自分の迫害。自分の困難、自分の悲しみ、自分に訪れる問題。その事であなた方は嘆き悲しむでしょう。とイエス様に、弟子達の本性、本音を暴かれてしまうんです。ただイエス様とさよならするから、決別するから、見えなくなるから悲しむんではなく、今まで自分が大臣になろうとしていた夢も崩れ、イエス様について行ったら、何か得する事がある、イエス様を利用して自分が権力を握れるかもしれない。という夢も崩れ、そしてイエス様にくっついていれば、皆にちやほやされるのに、その夢も崩れ、それどころか、イエスの弟子だという事で、殺されるかもしれない。追放されるかもしれない。ましてや鞭打たれ死刑にされるかもしれない。色んな妄想が始まると、弟子達はもうイエス様どころではなく、ただ、自分の問題だけが悲しく、ましてや、もう食べられなくなるだろう。生活出来なくなるだろう、職を失うだろう、ポジションを失くすだろう、身分がまた底辺な漁師に、今までイエスの弟子だという事で大威張りしていたのが、また身分の低い漁師や田舎に帰って何にも出来なくなる、自分に対しての悲しみなんです。イエス様がこれから十字架に架かるという、その意味での悲しみではない。あなた方はわたしが居なくなると、そうやって自分の事で手一杯で、自分の事しか考えなくなるだろう。しかし、あなた方の悲しみが喜びに変わる時がくる、とイエス様が今希望を与えています。その喜びは、例えで、と今度イエス様が例え話をしていくんです。


~女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。~


という子供を産む例えでイエス様が、もう一度喜びが回復される。それは、女が子供を産む時と同じだ。今、あなた方はわたしと一緒に、わたしが死ぬ事で、共に苦しみを受けているでしょう。しかし、子が生まれてしまえば、そんな悲しみは、一瞬にして忘れてしまいます。イエス様が、その悲しみが、喜びに変わるという例え話を今、している。でも、この例え話は旧約の時から度々、書かれています。男の子が生まれる。それは、もちろんメシヤ誕生の、ユダヤ人だけ、イスラエルだけに、与えられた約束です。あなた方に男の子が生まれる。その方はメシヤでイスラエルを救いに来る、イスラエルの王である。といわれている、男の子です。イスラエルの中で、子を産むという例え話はたくさん出てきます。特にこの


イザヤ66章

~聞け。町からの騒ぎ、宮からの声、敵に報復しておられる主の御声を。彼女は産みの苦しみをする前に産み、陣痛の起こる前に男の子を産み落とした。だれが、このような事を聞き、だれが、これらの事を見たか。地は一日の陣痛で産み出されようか。国は一瞬にして生まれようか。ところがシオンは、陣痛を起こすと同時に子らを産んだのだ。「わたしが産み出させるようにしながら、産ませないだろうか」と主は仰せられる。「わたしは産ませる者なのに、胎を閉ざすだろうか」とあなたの神は仰せられる。エルサレムとともに喜べ。すべてこれを愛する者よ。これとともに楽しめ。すべてこれのために悲しむ者よ。これとともに喜び喜べ。あなたは、彼女の慰めの乳房から乳を飲んで飽き足り、その豊かな乳房から吸って喜んだからだ。主はこう仰せられる。「見よ。わたしは川のように繁栄を彼女に与え、あふれる流れのように国々の富を与える。あなたがたは乳を飲み、わきに抱かれ、ひざの上でかわいがられる。母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められる。あなたがたはこれを見て、心喜び、あなたがたの骨は若草のように生き返る。主の御手は、そのしもべたちに知られ、その憤りは敵たちに向けられる。」~


ここでイザヤが預言しているのは、当然メシヤです。私達に必ず救い主が来る。その救い主が来られた時、イスラエルを解放してくれる。というのと同時に、イスラエルという国が再建される。この国がもう一度神の国になる。だから、子を産むというその男の子は、メシヤでもあるし、神の国でもあったんです。そしてイスラエルの預言者達は、この比喩をたくさん使います。あなた方に男の子が生まれる。そして、その子が生まれたら、喜びに満たされ、慰めを受けるだろう。何故ならシオンという国が建ち、エルサレムという国が建ち、そこにメシヤが来られるからだ。イスラエルの王が現れるからだ。これが、ユダヤ人にとっての慰め、希望だったんです。イエス様が今弟子に言っているのと同じなんです。あなた方は今自分の問題で、自分の迫害や、これから起きるだろう、色んな出来事で、嘆き悲しんで、喪に服すような激しい痛みにあっているかもしれない。でも、それは、子供を産む前に女が陣痛起こすのと同じだ。子供が生まれたら、本当にあなた方はその悲しみを一瞬にして忘れ、慰められるだろう。というのは、当然ペンテコステで起きた事件の事です。ここでのイエス様が仰ってるのは、聖霊のバプテスマです。イエス様が死んで、三日後に甦って、天の御国に昇天されたら、死なれた日から50日目にマルコの部屋に火の聖霊が下ります。その火の聖霊が下った時に、あなた方は喜ぶだろう。何故なら、男の子が生まれます。何が生まれたんですか?初代教会が生まれたんです。イエス様がここで仰ってるのは、あなた方から私は去るけど、もう一度来る。どういう形で来るのか?火の聖霊で来られたイエスが、火の聖霊で何をしたか?教会を建てたんです。その教会を建てるという事は、私達が建物を建てようかというのとは、次元が違います。キリスト教が存在しない時代、イエス・キリストを初めて聞く人達しかいない時代、今まで全員がユダヤ教だった時代、或は多種多様な神々を拝んでいた時代、キリスト教という宗教が誕生した事もない時代、その時代に、「わたしがもう一度来たら男の子が生まれます」は神の国が生まれます。今度は旧約の時の不安定なエルサレムではないし、旧約の時に外敵から奪われるようなシオンではない。二度と壊される事がない、二度と滅びる事がない、本当の神の国、本当の男の子が生まれます。そして、それは実現しました。本当に初めて、人類史上初、キリスト教の教会が、小さなエルサレムの外れの、小さな家で生まれ始めるんです。それがペンテコステの日だったんです。イエス様が今仰ってるのはその事です。当然、肉体的にはわたしは見えなくなります。当然、わたしはあなたの側には居られません。見えなくなります。去って行きます。でも、あなた方が一旦は悲しむけれども、喜ぶんです。何故?「わたしがもう一度来るからだ」と仰って、そしてわたしが何をするのか?あなた方が望んだ、あなた方が待ちに待った神の国が来るからです。それは、エルサレムでもなく、山でもないんです。何処でもなく、あなた方の中に神の国が来るからです。それは、決して消えないんです。そして、何処かに行かなくてもいいし。動物の血を持って行かなくてもいい。そういう礼拝儀式は終わって、今度は霊と真によって、礼拝する時が来るんです。サマリヤの女に言ったその事が成就するんです。サマリヤの女に言いました。ユダヤ人達はエルサレムに行かなければならない。あなた方は、分からないで、名もない神に、山へ行って、供え物を捧げて、何をしているのか?誰に礼拝しているのかも分からないで、ただその事をしている。供え物をただ捧げているだけだ。これからは、霊と真をもって礼拝する時が来るんです。そして、もう来たのです。天の父はそういう礼拝者を求めているんです。とイエス様がサマリヤの女に言います。それが成就するのは何処ですか?マルコの部屋で、ペンテコステの日に、本当に来るんです、神の国が到来します。私達の心の只中にです。その時に、私達は、もうエルサレムとか、教会の建物という次元ではなく、私の霊と、聖霊が一緒になって、イエス・キリストを礼拝する時がくるのだ。これが霊と真の本当の意味です。私の霊も、聖霊も、一緒にイエス・キリストを証しする日。それは、ペテロが言いました。「私の霊も証しするし、聖霊も共に証する。」誰を、ですか?イエス・キリストを、です。使徒行伝でペテロが大胆に言います。 あのように不安定だったペテロが、あれだけ怯えていた弟子達が、あれほど確信が持てなかった人達が、ペンテコステの日には、火の聖霊を受けた時には、もう怖れがないんです。何で怖れがないんですか?あれだけ嘆き悲しみ、自分の問題でイエスどころではなくなり、自分の迫害や死について、自分の身分について或は立場について、あれだけ、悩み苦しんでいた者達が、ペンテコステの日に、一切の悩みを乗り越え、一切の恐怖を退け、ペテロはどうしましたか?牢獄も死も恐れなかったんです。あれだけ十字架の前で逃げ回り、あれだけイエス様の前で無理解な事ばかりして、何度もイエス様に叱られていたペテロが、そして、質問をしつこくしてる弟子達が、それからはたった一度も質問をしなくなるんです。どうしてですか?聖霊が確信させ、確証させ、自信を持たせ、勇気を持たせるからです。イエス・キリストが神であるという事をです。だから迷う事がなくなるんです。今までは迷っていたんです。本当にイエスは神なのか?死んでしまったら神ではないのではないか。色んな恐怖があって、そしてその迫害が怖いんです。でも、もう迫害は怖くない。何故なら自分はイエスと共にいるという、イエスが私と共にいて下さるという確信があるから、ペテロは人間の言う事を聞く必要がない。私は神に従うと言って、鞭打ちを怖れなかった。投獄をも怖れなかった。以前はあれほど怖れていたのに。彼らは変わったのです。そして、ペテロはすぐに大胆に伝道し始めたんです。もう迫害が怖くないからというそれ以上に、イエス・キリストが神だと確信を持ったからです。そうやって、男の子が生まれた。神の国が生まれたんです。それこそ、神が始めからなさりたかったこと。イエス・キリストがそれこそ、十字架に架かった理由。そうなんです。神の国がこの地で建ったのです。それは主の祈りの初めの祈りです。あなた方はこう祈りなさい。「天の父が崇められますように。御国が来ますように。」御国が来たんです。そう祈れと言われたし、イエス様がその約束を果たされたんです。それが、キリスト教の始まりです。この時代のギリシャの哲学者は有名です。でも一般的にはこの時代、もうギリシャ、エジプトにおいては、哲学など無いに等しい。獣と人間が一体となって、石でも神、虫でも神になりえるエジプトの哲学は世界から物笑いにされていました。その当時、ギリシャでは哲学者達が幅を利かせている時代。そのギリシャの哲学者達は何て言っていますか?結局のところ何も分からない。むしろ何故だろう?と問い返しているし、哲学において、神はどういう存在なのかと、誰も確証が持てない時代。どんなに宗教をやっていても、哲学的には人間とは何か、と語られていても、結局答えが分からないという時代に、それが漁師で無学で、無知で無教養で、教育も受けた事のない、十数人の者達が、突然あまりにも自信満々に教会を建ててしまったのです。余りにも、確信を持って、強い意志を持って、教会を建て始めたのです。それが何だったんですか?神の国だったんです。その時ペテロ達は喜び踊ります。喜び、賛美します。金銀は私にはないけど、イエスの御名を与えよう。そう足なえに言います。癒された者たちも喜び踊ったんです。それは、神の国が到来したからです。そして、イエス・キリストがまた戻ってきたからです。憂いが喜びに変わったその瞬間です。女がその前は陣痛で苦しむが、その生んだ後は、一人の命が誕生したから、喜ぶだろう。今、喜んだんです。教会が建ったから。神の国が到来したからです。イエス様が戻ってきたから。霊と真をもって今度は永遠に、イエス様と共に住むようになったから。彼らは憂いから喜びに変わったのです。それをイエス様は約束されたのです。最後の晩餐の夜に。しかし、教会が建つとしても、パウロはこう言っています。


ガラテヤ4章19

~私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。~


パウロはティモテに向かっても、「我が子よ」と呼んでいます。ガラテヤの聖徒に向かっても、「我が子よ」と呼んでいるんです。パウロは子供を生んでいるんです。それは霊的な子供です。パウロが伝道して、種をまき水を注ぎ、そして聖霊様が教会を建てて下さり、ガラテヤの教会が建ったんです。その人達に向かってパウロは「我が子よ。」と表現している。でも、このガラテヤにパウロが手紙を送った時どうだったか?福音から離れているんです。イエス・キリストの教会が建てられたにも関わらず、福音から離れ、福音でない、イエス・キリストでない神を崇め始め、偶像を始め、分裂を始め、党派心に燃え、教会が分離し、キリスト教の教会ではなくなり、教会が罪に、汚物にまみれてしまって、真の福音がまるで語られず、そしてパウロが訪れた時の教会とは全く違うものになってしまった。そしてパウロが、「私はあなた方のためにもう一回生みの苦しみをしなければならない。また、もう一度あなた方を執り成さなければならないのか。」私が福音を語り、あれだけイエス・キリストの花嫁として整えたはずなのに、こんなにも簡単に裏切るのか。こんなに簡単にもイエスから離れてしまうのか。と嘆いているんです。私があなた方を伝道して、そして聖霊が本当にここに教会を建ててくれて、男の子が生まれました。しかし、その男の子はイエス・キリストから簡単に離れてしまい、汚物にまみれ、罪にまみれているのを見て、パウロが嘆き悲しんで、私はもう一回一からあなた方を教育し直さなければならないのか、と嘆いて、手紙を送っているんです。当然偽兄弟達が入って、パウロが教えていないキリスト教が入ってしまい、イエスではない教えが入ってしまっていて、だから、もう一度一からやり直さなければならないと、パウロが言ってるように、男の子が生まれて喜んだけど、結局、生まれても、イスラエルもそうだったし、エルサレムもそうだったけど、そしてこのガラテヤの教会もまた、腐敗し始めている。そしてパウロは、もう一度生まなければならないんですか?と言っているんです。イエス様が、「男の子が生まれる」というのは、基本的にはもうメシヤが来られた後なので、イエス様が仰ってる男の子は『教会』です。キリストの体です。神の国です。それをイエス様がこの弟子達に「もし、神の国が到来するなら、あなた方は喜ぶだろう」という事が、このイエス様の表現なんです。


~あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。~


とあるように、その日が来たら、わたしがもう一度戻ってきたら、あなた方はもう二度とわたしに質問をしない、と言っているんです。今までは、ずっと質問ばかりです。何を言っても、分からない。何を語っても弟子達は「えっ!?何言ってるの?」「どうして居なくなるの?」「どうしてもう一回来るの?」「何で例え話ばかりで話しているの?」という、もう訳分からないと言っていた弟子達が、ペンテコステの日以来、二度と質問しない。二度と何でですか?と言わない。助け主の聖霊が来たら、イエス・キリストを教え始めるからです。イエス様が目で見えていた時には分からなかった、この神様が語っていても悟れなかったんです。だけど、心の中に聖霊が来られたからです。当時は小さな聖書ではないです。羊皮紙に、巻物に巻かれて、特別な人しか持っていない。まだ新約聖書もなく、旧約聖書さえ、誰も手軽に持てないそんな時代に、誰も質問しなくなる。もう教えられなくても分かるようになる。疑問がなくなる。それがペンテコステなんです。これだけハッキリ聖書を語るんです。確信もって皆に説明出来ます。誰が教えたんですか?聖霊です。キリストの証人として立たせ、牢獄も、死も怖れず、どんな迫害も怖れないほどの、強い確信を与えてくれます。だから、あなた方の悩みや苦しみや悲しみが、喜びに変わるというのは、聖霊によったのです。だからといって迫害がなくなりました?いいえ。あなたの国籍は天国に移されたから、この世はあなた方を嫌います。だから、迫害は終わりません。増していくんです。彼らは何故、自分の迫害に悩んで悲しんで嘆いていたのに、何で喜びに変わったのか?環境が変わったのではなく、理解が変わったんです。理解の仕方が変わったんです。考え方が変わったんです。感じ方が違うんです、もう。同じ事が起きて、それより酷い事が起きても、価値観が変わったのです。肉体の恐怖がなくなった訳ではありません。何か痛みに強くなったのでもないんです。以前と変わらない。では何が変わったのですか?聖霊に力をもらったのです。考え方がイエス中心になったんです。それは、聖霊がイエスを教えてくれているからです。人間そのものは変わってないんです。でも、憂いが喜びに変わる。それが、聖霊の働きです。私の力ではなく、聖霊が助けてくれる。それが、ペンテコステで降った火の聖霊、通常の聖霊ではなく、火の聖霊です。彼らが立ち上がったのは、火の聖霊が下ったからです。


~まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。これらのことを、わたしはあなたがたにたとえで話しました。もはやたとえでは話さないで、父についてはっきりと告げる時が来ます。~


この喜びに変わった時、天の父は何処ですか?見せてくださいなどとは言わないんです。


~その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。それはあなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられるからです。~


ここでいう、「あなた方はわたしの名によって求めなさい」は祈りなさい、です。これからは、イエス・キリストの御名で、祈りなさい。そして、今まであなた方の事を天の父に祈りましたとイエス様は仰って来たんです。弟子達に向かって、あなた方の為にわたしはわたしの父に祈りました。いつもこういう表現をされました。でも、あなた方はイエス・キリストの御名で祈らなくてはならない。そうすれば天の父があなた方を愛し、祝福して下さる。その祈りに応えて下さる。もはやわたしは父にお願いしたりはしません。今までと違う事を言われます。ローマ8章『誰が私を罪に定めるのですか?私の為に死んでくださり、甦り、神の右の座につき、今も執り成して下さる方がおられる。イエス・キリストは今も執り成してくれている。』ここを肉体的イエス様を想像して、イエス様が跪いて、父に祈っているという事を想像してはならない。これは、たった一度、歴史的に、イエス・キリストが死ぬという事です。イエス・キリストが死んだ事で、人類の罪が赦されて、神と和解し、天の父を「アバ・父」と呼び、神の子供となり、天国の相続者となったということです。十字架に架かられ、死んで甦ったのは、私達の罪が赦され、敵対していた神と和解をし、滅ぼされる神の怒りに触れていた私達が裁かれることなく、子とされた瞬間、二度と神に憎まれないのです。それは、天の父があなた方を愛してくれるようになるからだ、とイエス様が仰います。イエス様は十字架の上で「完了した」と仰いました。イエスが父にお願いしなくても、罪が赦されたんです。イエス・キリストを通さなければ、神が私達を赦してくれることはないんです。イエス・キリストの十字架なしに、神が私達を子と呼ぶことはないんです。イエス・キリストを、この一回きりの執り成しを抜きにした神の愛は何処にも存在していません。そこは、神の怒り。神の裁きしかないんです。神が愛して、子として下さり、そしてそれを執り成すイエスという表現は、たった一度、イエス様が十字架に架かった。この事件なんです。そして、その事件はたった一度だけ起きるんです。何度も起きないんです。そして、それ一度だけで十分な力です。過去も現在も、そして未来における全ての人を救う力です。 このたった一度、イエス・キリストが十字架で死ぬという行為が、どれだけ偉大で栄光で、どれだけ私達に恵みだったのか。そして、これは神の無償の愛だったんです。だから私達は自分に都合のいい聖書解釈をしてはいけないんです。 私達は救われた後も、悩みがあり、弱く、迷い、不完全です。だから必要なのは忍耐です。イエス様に祈り、聖霊様に助けてもらわなくては倒れます。でも、イエス様が心の中におられ、この聖霊様はわたし達から決して離れません。私達は最後まで孤児ではないのです。 この希望と約束を信じて感謝しましょう。アーメン。

Yokohama Glory Church

イエスは言われた。 「わたしは、よみがえりです。いのちです。 わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者は、 決して死ぬことがありません。 このことを信じますか。」 ヨハネ11章25,26節

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