ヨハネ福音書12章37-50

~イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。それは、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現わされましたか」と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見ず、心で理解せず、回心せず、そしてわたしが彼らをいやすことのないためである。」イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。しかし、それにもかかわらず、指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。また、イエスは大声で言われた。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです。また、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです。わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。」~


イエス様が、私の栄光の時が来ました。それは一粒の麦が地に落ちて、多くの実を結ぶためです、と説教された後36節の最後に


~イエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠された。 ~


イエス様はこの説教の後からは身を隠されるんです。そして、この身を隠された後大衆の前にそのお姿を現すのは十字架の上だったんです。ここからイエス様はご自身の身を完全に隠され、この前も言ったようにこの次の日から苦難週に入り、最後の説教だったんです。 そして金曜日、十字架にイエス様が晒される時、大衆はもう一度イエス様を、最後に見るんです。イエス様はその準備のためにも身を隠されるんです。そしてイエス様が身を隠されたにも関わらず、今日の37節は、ヨハネの回想シーンがずっと入るんです。37節


~イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。~


から43節


~彼らは神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。~


と、ここはその当時というよりは、1世紀末、ヨハネが福音書を書いた時に、ヨハネが思い返し、そしてその時は悟らなかったけど、後から悟って、そして書いたんです。 そして次のところで、44節


~また、イエスは大声で言われた。~


と言われているのが、続くんですよね。そして、たくさんの学者がイエス様が身を隠されたのに、大声で話すのはおかしい。と言って辻褄が合わない。だからヨハネの福音書が歴史的に信用がおけない、という判断をされているのですが、ヨハネは度々、本当にイエス様が大切な説教をする時、或いはラザロよ出て来い、という時には、『大声で』っていう表現をしているんです。実際に大声出したかどうかではなくて、イエス様が重要なメッセージをする時、ヨハネは『大声で』っていう形容詞を入れているんです。だから、ここでもおかしいですよね?身を隠したのに、大声でって。もう聞く大衆がいないんですよ、身を隠されているんですから。大声で話すはずがないんです。だから、ここで『大声で』っていうのは、ここからお話しされる内容がとても重要だ。という表現なんです。


~わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです。また、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです。わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないためです。だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。」~


もう既にヨハネの福音書の別な箇所でイエス様が説教されている内容なんです。ここで、新たにお話されている内容ではないんです。大衆の前でメッセージをしているわけではなくて、ヨハネが1世紀末に福音書を書くときに、ここは、むしろ総まとめなんです。イエス様の奇跡も説教も終わったので、ヨハネにしてみれば、振り返り、イエス様がおっしゃったメッセージの大切な部分を抜粋してここに載せている。復習の意味で、メッセージの最後のまとめで重要な部分を書いている。だからもう既に大衆も弟子たちもこのみ言を聞いていて、知っている。だから、これを念頭に今日のメッセージが何かを読まなきゃいけないというんです。だから、はじめに、36節にヨハネの回想が入って、イエス様が大声で言われたっていうメッセージが出てくるのは、順番としておかしいという。ともあれ学者が言いたいのは36節以降、これを入れるべきだった、とかいう話です。 でも、このヨハネの福音書は他の福音書と違って、1世紀末にヨハネが回想し、悟り、その時は分からなかったけれども、という、本当にその当時だけではなく今の私たちにも、そして1世紀のクリスチャンにも、分かるように書いているんです。だから、学者がごちゃ混ぜに書いているとよくヨハネの福音書を評価するけれども、ごちゃ混ぜに書くほど愚かではないんですよ、ヨハネは。その他の福音書では分からなかった、まだ悟っていなかった所をヨハネは説明までしてくれているんです。だから1世紀末のそのクリスチャンの状態でもあるんです。当時のキリスト教の状態でもあって、イエス様の生存中の状態とは違うことも書いてあります。でも、誰が聞いても分かるようにヨハネは、この総まとめを書いているんです。だからここで、ヨハネの回想が最初に入っているんですよ。 そしてその身を隠された後、今読んだところは、イエス様がもう既にメッセージされている内容で、ここは念頭に置いて、ヨハネの回想を聞きなさい。ということです。だからイエス様が遣わされた理由、イエス様が話されたのは、全部父の命令だった。わたしから話したことではない。という、天の父のメッセージがこういうものだ、と。そして今から話すヨハネの回想をどうしてここに入れたのか?を、私たちは今日学びます。


~イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。~


ここがとても重要なんです。ヨハネは、多くのしるしを見たんです、たくさんの奇蹟を。 でも、信じなかった。は、当時のイエス様が生存されている時だけではなく、1世紀末のユダヤ人に対してもそう言っているんです。1世紀末のクリスチャンも、結局信じなかった。イエス様が死んで甦った話を全く信じなかった。そして『多くのしるし』っていう所は、ヨハネ20章でももう一度語ってるんです。


ヨハネ20章30-31

~この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。~


この書には書いていないとヨハネは念を押しています。ヨハネは他の福音書に比べると、奇跡的な話は少ないんです。ヨハネは全部見て、憶えてはいるけれども、ヨハネの福音書は6つか7つくらいの奇跡しかないんです。他の福音書より、圧倒的に奇跡的な話を省くんです。わざとです。忘れたんではないんです。ヨハネはわざと6つ、7つの重要な奇跡的な話しか入れずに、こう言うんです。これ以外の多くのしるしをイエス様は行われた、実際は。でも、誰も信じなかった結果、多くのしるしでは、多くの奇跡では、誰もイエスを信じないで、むしろ、イエスを殺す方に、段々傾いていった。だから、私は6つか7つの奇跡しか書かなかった。何故ならそれで十分信じることができるからです。奇跡で人が信じるのではないからです。それを1世紀末のヨハネだから言えるんです。何故なら多くのしるしを見たユダヤ人が信じなかったのに、奇跡を見なかった、6つ、7つの奇跡しか聞いていない異邦人が救われたからです。これを私たちは簡単に理解して、「あぁ、そうそう。」って私たちは無知で浅はかで、理解しないから、「そうだよね、ユダヤ人は裏切ったんでしょ。」と、他人事のような理解ではだめです。ユダヤ人にとって、メシヤが呪われた木の上で十字架で死ぬっていう事は到底信じられない、というのがユダヤ人の意見ですよ。メシヤなら、武力的に政治的に勝利し、その上永遠に生きてなきゃならない。死ぬ、はあり得ないんです。でも、イエス様が言っているメシヤは、ひと粒の麦が落ちて、多くの実を結ぶために私は来て、私の栄光の時がきましたって、おっしゃってるにも関わらず、多くのしるしを見ても、イエス様が死んで、多くの者が救われるってことを信じることが、ユダヤ人には本当に難しかったんです。 だから、多くのユダヤ人が信じなかったんです。奇跡を見ながらですよ。だからヨハネは、奇蹟を見ていない異邦人が救われていって、今の私たちもユダヤ人じゃないのに救われているじゃないですか。福音の言葉で私たちは救われているんです。だからヨハネは6つ、7つで十分だって言うんです。しるしを見て信じるわけじゃないからだって言うんです。

だから多くのしるしを他にもイエス様は行われたけれど、この書物には書かなかった。何故?信じるのは福音の言葉によるからだ。そして、ヨハネが書く、ここからイザヤ書が引用されるんですが、このイザヤ書を引用するのは、マタイ・マルコ・ルカもします。しかも、ここはパウロが何度も引用しているんです。このイザヤ書を引用しながら、何故ユダヤ人は、こんなにも信じることが出来なかったのか。異邦人は信じることができたのに、何故、旧約聖書をこれだけよく知っていて、救い主をこれだけ熱望して渇望してきて、これだけ神に熱心な国が、熱心な民族が、熱心な民が、これだけ多くのしるしを見て信じなかったのに、異邦人が、旧約聖書も分からなかったし、メシヤなんて待っても居なかったのに、何故異邦人が信じれたのか、ということが、このイザヤ書の引用で、マルコもマタイもルカも引用して、そしてパウロにおいてもここ、引用しているんです、何度も。そしてパウロが引用するときは、こうですよ、ユダヤ人が頑なにされたから、異邦人が救われたのだっていうところで、パウロは引用しています。


~それは、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現わされましたか」と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見ず、心で理解せず、回心せず、そしてわたしが彼らをいやすことのないためである。」~


ここは、他の福音書でも全員が引用して、1世紀末のクリスチャンはユダヤ人に向かって、これを引用するんです。そして、ここのイザヤ書を引用するときに、イギリスの説教者のバークレーっていう人がここを解釈するときに、こう解釈するんです。このユダヤ人が信じることが出来なかったのは、神が彼らを、見ることができずに、聞くこともできずに、まるで神が絶対信じることができないようにさせたなんて、あり得ない。神様はそんなひどい神であるはずがない。ここは、そんな解釈ではなくって、この不信仰を神様がご自身のお働きの中で、使われただけだ。という解釈をしているんです。パウロもそう言っている。とか、彼は言ったけれども、この榊原先生はそうではない。このバークレーっていう説教者の言う全ての解釈が違っているわけではなく、この彼が書いた説教の書物は今も、牧師先生たちにたくさん引用されてはいるけれども、でも、ここの解釈は間違っている、と言っているんです。この、神がそんなことするはずがない。ただ永遠に全てのご計画を知っている神様が、不信仰を用いて異邦人を救った、的な内容だっていうのは、ヨハネは言っていない。と榊原先生が言うんです。少なくてもヨハネはそんな風な書き方はしていない。何故ならその後、イエス様のメッセージでもあるんですよ。


48節。

~わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。 ~


神は審判される、とヨハネが次の48節で説明していますが、でもそれ以上に、このイザヤの引用をさらに、ヨハネが自分の解釈でこう言っているんです。


~イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。~


こういう風に説明が、ヨハネだけは加えられていくんです。イザヤの引用がされたのは、イザヤがもう既にイエス様が肉体を持って来られる前の700年も近い、1000年近くも前のイザヤが、もう既にイエス・キリストの栄光を見たからだ、と言っているんです。そのイエス・キリストの栄光はユダヤ人が言っている、武力的政治的勝利をもたらす王でもないし、肉体を永遠にまとうイエス様ではないんですよ。イザヤが見たイエス様はどうですか?十字架に架かるイエス様を見ているんです。だから、イザヤ書にはあるじゃないですか、彼には人に褒められる姿はなかった。彼の打ち傷で我々は癒された、をもう預言しているじゃないですか。イザヤが見たイエスは、十字架に架かっているイエス様なんです。人からあざけられ、鞭うたれ、釘さされ、そして十字架に架かり、処刑されるイエス様を見ているんです。そして、そのイエス様が死んで、甦ることで本当に多くの霊魂が救われる。実際のイエス・キリストを見てるんです。そしてその実際のイエス・キリストの栄光を見ているんです。だからイザヤはこの預言をした。とヨハネははっきりとこう書いているんです。だから、バークレーが言っていることは間違いだ、ということですよ。まさか、神がそんなことをするはずがない。という、バークレーの解釈は間違いだ。だから、実際にこのイザヤの箇所を読んでみます。


イザヤ6章8-10

~私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」すると仰せられた。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返っていやされることのないように。」~


ここがさっき引用された所なんです。でも、ここで重要なのは、『わたしは誰を遣わそう』と神様が採用試験をするんです。私は誰を使って、誰を遣わそうか、と言ったときにイザヤが、自分の熱心で「私はここに居ます。私を遣わしてください。私の口を神の口とし、私の手を神の手としてください」とイザヤは本当に神様を幻で見て、そしてイエス様が採用試験を、誰を使おうか、と言ったときに、「はい!はい!私がいます。」と言ったんですよ。その時に神がおっしゃったことは、


~「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』~


と言うんです。あなたは行ってごらんよ。しゃべってごらん。口を開いて真理を語ってごらんよ。益々人は聞かないから。あなたが語れば語るほど、聞くことはない。彼らの目を閉じ、耳を閉ざしたのはわたしだからだ。と言っているんです。あなたが真理を語れば語るほど、あなたが真実を語れば語るほど、あなたが神からのメッセージを言えば言うほど、この民は反逆してくるだろう。何故?私がそれを止めたからだ。 ここを他の箇所でも、たくさん引用していますよ。当時のキリスト教が、ユダヤ人に向かって。益々頑なにし、益々聞かないように、見えないようにした。それは、わたしだ。だから、先ほどヨハネがイエス様がおっしゃったメッセージの総括のところで、私の言葉があなたがたを裁く。その裁きはもう始まったんだ、ユダヤ人に。というのをヨハネは言いたいんです。その説明がその後も書かれるんです。


~しかし、それにもかかわらず、指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。 ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。~


ここをヨハネが、イザヤ書を引用した後に、説明も加えているんです。 そしてまた、ここで学者たちが言うには、このイエス様が生存中、当然イエス様が死刑にされることは、サンヘドリンに決められました。サンヘドリン議会で決められたけども、イエス・キリストを信じる者をユダヤ教から追放するという御触れはまだ出ていない。それが出るのは、1世紀末です。だから、ヨハネがこの福音書を書く当時は、大勢の者がユダヤ教から追放されます。そして完全にキリスト教とユダヤ教の決裂がありますよ。 でも、当時、何度も言っているように、ペテロたちはまだユダヤ教のやり方を守っています。完全にキリスト教になっていくのは、マルコの部屋以降ですけれども、だからまだイエス様が死刑にされず、十字架に架かる前に、サンヘドリンがイエスを語ったものは、信じた者は、追放するという御触れは出ていないんです。 この御触れは、1世紀末の話なんです。でも、何故ヨハネがここの説明でこのことを書くかと言えば、事実サンヘドリンの中にこの当時イエス様を信じてる人が多かったからです。追放される、ことはなかった。まだこの当時は。イエス様が生存中は。それは、1世紀末です。でも、イエス様が十字架に架けられるときに、サンヘドリンの中にイエスを認めているものはたくさんいたんです。もちろんその後の1世紀末のユダヤ人達に対しても、同時に語ってはいますが、多くの者がイエス様の奇跡を見て、信じているんです。多くの者がイエス様の福音を聞いて信じているんです。しるしを見て多くの者がイエスを信じた、と。 サンヘドリンの中にも、イエスを多くの者が信じていた。でも、彼らは告白しなかった。何故?パリサイ人を恐れていたからだ。その理由は何ですか?神よりも自分の名誉を選んだからだ。というヨハネの説明書きがここにあるんです。だから、さっきイエス様の総括のメッセージを念頭に置いて、イザヤが説明していることを聞かなくてはならないのが、ヨハネの福音書の特徴なんです。その当時は分からなかったけど、1世紀末のヨハネには色んなん事がわかり、イエス様が十字架に架かって死んだこと、甦ったこと、何故イエス様が来たのか、イエス様ははじめっから神であられた、父とおられた、その方はみ言葉だった。そして光としてこの世に来たのに、この世はこの光を受け入れなかった。何故なら、この世は闇で、光が来て自分の闇が明らかにされるのを嫌がったからだ。光のところにくるのが嫌だったから、彼らは闇に留まっていたかったからだっていう説明がヨハネ1章にある通りです。彼らは闇に留まっていたかった。 イエス様を信じていながら、死刑台に上がるイエス様を止めてはいないんです。イエス様が死刑にされる時に、そこに黙って座っているんです。サンヘドリンの議会で十字架刑だって決められた時に、彼らは何にもこたえることがなく、そこに参加しているんです。信じていたのに、彼らは自分の口で告白し、自分の行動には移さなかった。だから、ヨハネはその当時にもこういうユダヤ人が居て、1世紀末にも居て、或いは1世紀末の方がもっと多かったと思うんです。一旦キリスト教に入っていながら、まあ、日本語で言えば隠れキリシタンみたいなユダヤ人が大勢いて、彼らは生涯、この自分の口では言わずに、ただ、心で信じて、いいじゃないか、と言っていた。そのユダヤ人達に向かって、イザヤを引用して、ヨハネは警告しているんです。

そして、このことを聖書を解釈するある学者は、こう言うんです。完全な知識的信仰は、不信仰の極みである。クライマックスである。何故なら、彼らはその確信が、生活に現れなかったからだ。っていう解釈があるんです。だから、パウロがこう言っていますよね。「心で信じ、口で告白して義と認められる。救われる。」と言っているんです。ローマ書では。だから、心で信じた彼らは口で告白しなかったんですよ。イエスの名誉より、自分の名誉が優先されたんです。そして、今の学者さんが言ったように、ですよ。これは、信じただけで救われてはいない。心で信じたからいいじゃないかという知識だけの信仰は、不信仰のクライマックスなんです。不信仰の最高に上り詰めた場所が言う台詞がこれで。何故なら、確信が彼らにはなく、確信が生活に現われなかったから。だから、口で告白するっていうのは、ヤコブが言ってる、「行動のない信仰は、死んだ信仰」と言ってるのと同じことですよ。信仰は、救いは、恵みによった、賜物によるとは真理です。 人間自ら救われないですよ。人間自らイエスを主と告白できないんです。これは、聖霊によって、聖霊の力でなければ、天の父がこれを言わせなければ、イエス・キリストの十字架の血と死と復活がなければ、人間には分からないことなんです。自らイエス・キリストが主であり、神であることは分からないんですよ、アダムが堕落した以降本来の人間には。だから、恵みによっているんです。天からのプレゼントです。でも、信じたと言うのと、実際に救われたは違う、と言っているんです。だから口で告白しなかった彼らは、確信と救いがあるわけではない。何故なら、彼らには信仰の実がない。 だから、ヨハネの福音書は特別な説明の仕方が書かれてるんです。

確かに1世紀末に書かれた分、1世紀末のキリスト教の状態をも含めていますよ。だから、歴史的に1番信用のおけない福音書だと言われるけれども、でも、1番霊的な書物だとも言われているんです。1番霊的な書物なんです。だから、その前にイエス様が、「私の栄光の時がきた。それはひと粒の麦が地に落ちて、多くの実を結ぶためだ。」この十字架を聞きながら、イエス・キリストがここまで犠牲しながら、知識の信仰しかないのは、もう救いではないんです。イエス様が死刑台に上がるの知っていながら、その議会に参加しながら、何にも行動せず、何にも生活が変わらず、何にも手を上げない、犠牲しない。それはもう既に不信仰なんだ、っていう原理がある。というところを、ヨハネは今、書いているんです。そして、ここでもっと恐るべきことを私たちは理解しなければいけないんです。それを神がさせる。ここの極みはこれなんです。今日の本文の主の、主な内容は、これを神がする、ですよ。 彼らが見て信じて、奇跡を行って信じて、福音を聞いて耳で悟って、救われたり癒されたりしないために、神は閉ざすって書いてあるんです。何故?神の言葉を聞きながら、何もしない。ここで言いたいのは行動したとかしないとかではありません。このイエス・キリストの棘の道を行かなかったからです。当然私たちの力で信仰は持てないです。聖霊によらなきゃ無理なんです。自力でなんて出来る人は、この世でイザヤやパウロでさえ、無理なんです。不可能なんですよ。ただ、彼らは何を求めましたか?自分の名誉です。イエスの名誉ではなく。イエスの気持ちではなく。そして自分の安定で、他人の救いではない。 やはり、これを本当に神が裁くのだ。2度と彼らが悔い改めることのないように。という、イエス様の恐るべき審判は、私たちが生きている間から始まるのだ、です。死んで始まるのではない。生きている間に始まるのだ、が、このイザヤが語っている預言であり、ヨハネが説明している内容なんです。というのは、恐らく1世紀末には、こういうクリスチャンが大勢いたんだと思いますよ。何故ならその当時、本当に多くの人が獣の牙に裂かれましたよ。大勢のクリスチャンが財産を没収され、家を失くすんです。大勢のクリスチャンが牢獄に入れられ、1世紀末には、パウロも言っているように、ローマ8章で書いているように、ほんっとに厳しい時代ですよ。迫害が厳しく、極みに至るんです。その時に、逃げた自称クリスチャンが、おそらく大勢いたんでしょう。福音を捨てた人たち。でも、彼らは自分から捨てたんじゃなく、もうイエス様が閉ざしているんだ。と、ここで言っているんです。

それは、神が救われた魂は、神が保護し、助けるので、救いから落とされるわけがないからです。でも私達は、その神を恐れることを学ばなければならない。 パウロでさえ恵みから落ちるのを恐れるって言っているじゃないですか。パウロは反面、私は栄光の道を走り続け、栄光の冠が待っている。走るべき工程を走りぬいた、とも言っています。でも、そのパウロは、最後までこう言ったんです。福音をこれだけ語りながら、教理をこれだけ手紙に書きながら、「私も恵みから落ちるのを恐れている。」あのパウロでさえ、告白するんです。そのように。パウロは2000年に1度現れるか現われないかの宗教的天才だと言われています。でもどんな人間でも神の前では無罪ではない。神の前では完全な人がいない。正義もない、義もない。救われた後だって、神の前では誇れる者がいないんです。誰ひとり。誰ひとりですよ。 ただ全部が恵みにより、全てがプレゼントだった。全てが天から下ってきたものしか、この世には存在していないのに、イエスを選べないなら、十字架のイエスを最優先できないなら、どこに希望があるんでしょう。これは牧師とか平信徒とかの問題じゃないんです。宣教師だからでもなく、実際に宣教地に行って殉教するからでもなく、ですよ。自分の生活の中でイエスを選べない。ノンクリスチャンの前でイエスが選べない。全部自分の1日の間にイエス・キリストを優先できない。救われておきながら、恵みを受けながら、これだけよくしてもらいながら、これだけ恩知らずで、命に無頓着すぎます。その人の目を閉ざし、耳を閉ざし、心を閉ざすのは、神です。裁く神と教えられているのに、恐れもしないなら、回心もしないなら。悔い改める事も、立ち返って止めることもしないで、心で信じていればいいじゃないか、神はそんな恐ろしい事をするはずがない、というこの解釈でいけば、当然最後の審判の席ではどうなるのか。 宣教に宣教を重ね、鞭から鞭へ、盗賊の難、山の難、海の難を続けたパウロでさえ、恵みから落ちるのを恐れているんですよ。私たちはその1/100もやらないのに、ですよ。そんな厳しい環境に1/100も置かれていないのに、それでもイエスが選べないなら、2000年経とうが、何千年経とうが、イエスの裁きは不変ですよ。真理も不変。変わらないです。時代にもよらないし、国にもよらないんです。

イエスが語られた事は全て真実で、イエスが十字架に架からなければ人類は絶望だったんです。それ以外に救われる方法は人間にはないんです。そして、それ以外の福音はない。 たった一つの、たった一つの大切な、たった一つの命をないがしろにするなら、どの命が残るのか、ですよ。そこには、死と腐敗と地獄しかないんです。サタンが口を開けて待っていますよ。吠えたける獅子のように。腹ペコのサタンが四方八方を囲んで、私たちにとって死は、隣り合わせに存在しているんです。その死は肉体の死ではないですよ、永遠の死ですよ。イエスを選ばないってそういう事だっていうことです。イエスを優先できないって地獄を優先してしまうんです。そしてそれを、悔い改めないならイエス様が背中を押すっていうことですよ。イエス様の方で天国の門を閉ざしていくんです。 これが、私たち人間が本当に主を恐れなきゃならない理由です。生きてる間にも、もう既にその裁きがはじまるっていうことです。だから、どれだけ毎日、毎瞬間、注意深く目を開き、イエス様を優先しているかどうかを確認し、それでも弱い私たちです。だからパウロは、血を吐くほど罪と闘った、この惨めな私を救い出すのは一体誰なのか?イエス・キリストだって言ったじゃないですか。 今の私もそうですよ。このように牧師となり、毎日祈っていても、イエスを最優先しようとしたって、無罪になれないんです。獣みたいな、また私の神に逆らう反逆の、罪の習慣が私から出てきます。それを見て、私は悲しみ、「あぁ~あ…」と言ってへたり込むなら、私はここで終わりです。それでもパウロの言った血を吐くような闘いを、決して自分の中の反逆の罪をイエスを優先できない肉の自分の罪の習慣を、容認してはいけないと思います。人前でそれができないなら、口で告白できないなら、行動でそれができないなら、私はここで終わりなんです。そうすると、本当に私たちはどこへ行くの?何の希望があるの?私たちには、イエスを捨てた瞬間にもう、何の希望もない。何の希望もないんです。どんな努力も水の泡。

だから1日、毎日、毎瞬間、会社に行くとき、一人でいるとき、何をしている時でもイエスを優先してるかっていうチェックを、私たちが本当にするしかないんです。どこまで?血を吐くまでですよ。何故?私たちの罪の習慣は救われた後も放っておいてはくれないですよ。サタンと同じような、イエス・キリストに反逆する、その肉の罪性。イエス・キリストの定めたやり方を嫌いたいという思い。イエス・キリストが決めたことに逆らいたいという私たちの思いが無くなりますか?無くなりませんよ。一瞬たりともじっとしていません、そんなのは。 毎日私たちを襲ってきますよ。だから、私を許してはならないんです。私を信頼してもならないし、私の気持ち、私の考え、私の今の計画、今のやりたいことは、イエスに逆らうなら切り捨てるしかないんです。徐々に止めたり、明日やろうかなんていうのは、イエス様が明日あなたの耳を塞いだら、明日なんて、言っていられません。今言われたら、今なんです。今日って言ったら、今日。 このサンヘドリンの、パリサイ派の、イエス様を信じたけど言えなかった人の気持ちを考えましょう。どれだけ難しいんですか?サンヘドリンに入りながら、イエスを告白するって。それでもパウロはしたじゃないですか。それでも多くの弟子たちはやったんですよ。獣に裂かれても、彼らは最後までイエスを賛美しました。簡単ではない。どの時代でも同じです。大戦当時、第2次世界大戦の時、日本でも韓国でも中国でも、イエス・キリストを信じる者は殺されています。簡単なはずありません。イエス様が、神ご自身があの道行かれたのも、簡単ではなかったんです。棘の道、十字架の道、死ぬっていう事が、神にとったって、とんでもない犠牲でしたよ。でも、永遠の命と永遠の死なんですよ、選ぶのは。今、この世の何年間ではないんです。だから、イエス・キリストを選ぶしかないんです。 だから、困難でも今日救われても、救われて10年経っていても関係なく、今日、私たちはそれを選ぶしかないんですよ。子供であれ、老人であれ、イエス・キリスト以外救いがないからです。人間には。それ以外の救いの方法はないんです。だから、道、真理、命はイエスだけっていうのは、そういう事なんです。 「いやいや、待ってください。難しいんです。」という言い訳をやめましょう。弱い私が一体何ができるんです?イエス・キリストにしがみ付いてなければ、何もできません。苦しくても心でイエス様の助けを信じ、口で告白し、祈るしかありません。アーメン。

Jesus Christ Glory Church

イエスは言われた。 「わたしは、よみがえりです。いのちです。 わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者は、 決して死ぬことがありません。 このことを信じますか。」 ヨハネ11章25,26節

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