ヨハネ福音書12章20-36

~さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。 この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、「先生。イエスにお目にかかりたいのですが」と言って頼んだ。ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イエスに話した。すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現わしてください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。」そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話したのだ」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためにではなくて、あなたがたのためにです。今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。そこで、群衆はイエスに答えた。「私たちは、律法で、キリストはいつまでも生きておられると聞きましたが、どうしてあなたは、人の子は上げられなければならない、と言われるのですか。その人の子とはだれですか。」イエスは彼らに言われた。「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」イエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠された。~


こぞってエルサレムの入城の後、世を上げて皆あの人のところへついて行ってしまったではないか、というパリサイ人の言葉が今となっては、預言のようになってしまい、ここで、 ~さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。~ というこのギリシャ人までも、イエス様の教えを乞いに今やって来てるんです。 だから、ユダヤ人だけではなく、異邦人にまでイエス様のところに人々が集まっていったことが、いよいよ、彼らは自分で何を言ったか分からないけれども、預言めいてしまっているんです。 この過ぎ越しの祭りの巡礼のためにやって来たこのギリシャ人は一体誰であるかと言えば、 別に海を越えてやって来たギリシャ人とは限らない。サマリア地方には、もうギリシャ人の町はあったし、そこにギリシャ人たちが住んでいたので、まあサマリアの所から巡礼に来た人と思われるし、そして、その人たちは毎年来ている。多分神を敬う人と呼ばれている人たちですよ。ユダヤ人のように完全にユダヤ教ではない、割礼を受けているわけではないけれどもこのイスラエルの信じている神様を信じ、1年に1回過ぎ越しの祭りを祝いに、毎年巡礼する、神様を信じて敬っている人たちが、ここに来ているギリシャ人だと思われる、と解釈されているんです。 このギリシャ人がイエス様の所に訪ねてきた理由というのは、このヨハネの福音書には書いていないけれども、他の福音書には書いてあり、宮清めの祭りの時に、イエス様が宮に入られて、鳩を売る人や両替人の市場の台を壊して怒った、その場所が異邦人の庭です。 異邦人と言うのは、このユダヤ人と同じようには宮の中に入れないんです。だから、宮の外の庭に異邦人の庭と言うのが設けられていて、遥か遠くに宮を眺めて巡礼に来ていたんです。そしてその異邦人たちは、鳩を売る人や、両替人の台をイエス様が壊して、神の家は万民のために、異邦人のためにも祈る、神の祈りの家ではないのかということを聞いていたギリシャ人、宮にも入れず、ユダヤ人から差別を受け、そして巡礼のために神を敬ってはいたけれども、近くに寄れなかった人がこのイエス様が異邦人のためにも祈る祈りの家だっていうのを聞いて、ギリシャ人がイエス様のところへ、もっと詳しく、その教えを聞こうとして今やって来ている人たちなんです。 そしてこの異邦人たちがピリポを通してまた、アンデレを通して、「会いたいと言っています。」「お話を聞きたいと言っています。」とイエス様に話したところ、ヨハネの福音書は、このギリシャ人とイエス様が会ったっていう記述はないんです。その後、直接会ったとか、直接会って話をしたという描写はなく、いきなりイエス様がこの言葉をおっしゃるんです。


~すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。~


とおっしゃっているんです。栄光を受けるときが、いよいよ来たって言ったのは、ギリシャ人たちがイエス様を訪ねてきてから、イエス様がそれを言っているんです。その前にはカナの婚礼の時に、宴会の最中葡萄酒が切れてしまったときに、イエス様のお母さんが、「もう葡萄酒がありません。」と言ったとき、「女の方、私の時はまだきていません。」と言っているし、また仮庵の祭りの時、イエス様の兄弟たちが「そんなに人前で業を見せたいなら、公の、仮庵の祭りのエルサレムの所に行って、皆の前で自分を明らかにすればいいではないか。」という嫌味に対しても、イエス様は、「まだ私の時はきていません。」とお答えになっているんです。 でも、今日の本文でいよいよイエス様がご自身の時が来た、栄光を受けるときがもう来たのだ、ようやくここから、物語がスタートするかの如く、異邦人までがイエス様の教えを乞いに来た時になり、とうとう私の時が来たのだと、おっしゃっているんです。


~まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。~


ご自身の時は、どういう時に行われるかと言えば、自分が死ねば豊かな実を結ぶし、私が天に上げられると、自分のところに全ての人を引き寄せることができる、と今、お答えになっているんです。だから、死ねば多くの人が救われるんだ。というのが、ご自身の時という表現をしているけれども、この時の人たちが、イエス様の言っていることが理解できないんです、当然。そして2世紀頃においても、この文献の中にユダヤ人対キリスト教学者の論争した文献があるんですが、そこでも、もし、イエス・キリストが人の子と呼ばれるメシヤであるならば、彼が十字架で、しかも木の上で呪われて死んで終わった筈がない。キリストは死んで弱弱しく、敗北した姿の筈がない。だから、彼はキリストではない。と論争している書物があるんです。ユダヤ人対キリスト教の学者が論争している。その『人の子は』っていうのは、ダニエル書を引用しているんです。

ダニエル書7章13-14 ~私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。~

ここで、ダニエルの7章13-14で、『年を経た方』方向というのは、永遠の方向に導かれて、 そしてその方は全ての権威が与えられ、永遠にその国は滅びることがない。これが、イエス・キリスト、メシヤに対するダニエルが見た幻です。そしてこれを引用して、永遠に生きる方が十字架で死ぬはずがない。と言って、2世紀の頃、ユダヤ人とキリスト教の学者が論争しているんですけれども、ここでもギリシャ人たちは、「あなたがメシヤなのか?」と質問している時に、私が死んだら、その栄光が現れ、私が死んだ時に人々が私の所へ呼び集められる。と言っていることを、このギリシャ人たちも理解しません。 何故なら、その後ギリシャ人はこういう風に答えるんです。「私たちは律法でキリストはいつまでも生きておられる、と聞きましたが、どうしてあなたは、人の子は上げられなければならない、と言われるのですが?その、人の子とは誰ですか?」と、やはりこのギリシャ人たちが質問しているんです。あなたがキリストなら、なぜ死ななければならないんですか?キリストは永遠に生きると書いてあるではないですか。それなのに、何故あなたは上げられると、死ぬというのですか?とこの人たちが聞いているんですね。だから、当時でもまた2世紀の頃でもですよ。本当に人が、イエス様が死んで多くの人が救われるという事を理解していない。この事を信じることができなかったんです。今でもですよ。昔から今に至るまで。でも、イエス様がそうおっしゃるんです。私の時がやっと来たんです。私の時がやっと来て、私のひと粒の麦が地に落ちて死んで、十字架で死んで、そうした時に多くの栄光が現れ実を結び、私が甦って天国に入った時には、さらに全世界に、異邦人にまで、ユダヤ人だけではなく、異邦人、しかも2千年後の私たちに至るまで、ですよ。時間関係なく、多くの人がイエス様に集められていく。それが私の時が来たんです。という説明をしているんです。それなのに、聞いている人たちが信じることができない。 でも、ここでイエス様がおっしゃっているキリストとは誰なのか。イエスはこの十字架で死ぬために来ている。これが、メシヤの仕事だったんです。イエス様が直接言う言葉で、


~今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現わしてください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。」~


イエス様がこのように天の父に祈っているのは、ヨハネの福音書ではゲッセマネの祈りと同じことを書いているんです。ゲッセマネの祈りは、ヨハネの福音書には書かれていません。イエス様が最後石ころを転がせるほどの距離で、ヤコブやペテロやヨハネの前で最後の祈りをする、あの祈りです。その時にも、「私は悲しみのあまり死ぬほどです。」十字架に架けられる前、イエス様が祈るゲッセマネの最後の祈りはペテロたちに告白しますよね?私は悲しみのあまり今死にそうだ、と。そして、天の父よ、どうかこの杯が私から遠ざかりますように。 それでイエス様が祈って、「いいえ、あなたのみ心のままにしてください。」と祈るときに、 御使いたちが天から下りてきて、イエス様を力づけたというのが、他の福音書では、ゲッセマネの祈りとして表現されています。でも、ヨハネの福音書はゲッセマネの祈りは書かれていないんです。でも、第2のゲッセマネの祈りをイエス様はここで、なさっているんです。 宮清めの話もヨハネは省いているんです。両替人を倒した話は。でも、そこで見ていたギリシャ人、異邦人たちが、宮には入れないあの異邦人たちが、イエス様に訪ねてきているお話はヨハネだけに書いてあるんです。そしてゲッセマネの祈りの場面も、ヨハネは書いていないけれども、ここで、ヨハネはゲッセマネの祈りをもう一度再現するように書いてあるんです。そして、「私の心は騒いでいる。私は悲しみで今死ぬほどです。」と言って天の父に祈る、父よと呼ぶところも同じで、「どうかこの杯を私から遠ざけてください」と、「この時から私をお救いください」と同じことを言っているのです。でも、「どうかあなたのみ心のままに、あなたの栄光を現してください」という言葉と、「父よ、御名の栄光を現してください」は同じです。そしてイエス様はここでは、これを言うんです。「いいえ、この為にこそ私はこの時に至ったのです。」イエス様ご自身の仕事を明らかにするんです。当然イエス様はこのように祈ってはいるけれども、この仕事は天の父、神様が永遠の前から決めていて、定められている仕事だから、イエス様から取り除かれることは絶対ないんです。もう決められていて、神様が定めたお仕事ですよ。その為にだけに、イエス様は来ているんです。だから、イエス様としては「この為だけに、私はこの時に、今日に至っている。」と告白しているんです。だから、絶対変われない仕事。でも、イエス様も渋々嫌々じゃなくて、自分ご自身自らもこの仕事のために来ているんだ、とおっしゃっているんです。 だから、メシヤとは誰ですか?キリストとは誰ですか?イエス様はこの事をするために来られたメシヤなんです。そして、天から声が聞こえたっていうお話も、他の福音書でゲッセマネの祈りで、御使いたちが下りてきて、イエス様を力づけた、というのと同じですよ。何故なら、


~そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。」そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話したのだ」と言った。~


確かに周りの人はその声が聞こえているんですよ。だけど、雷の声のように聞こえて、或いは御使いたちがしゃべっているのじゃないのか、と言ってるけど、その内容は聞こえてきていないんです。神様が声を出しているのは、天から声が聞こえているのは分かっているけれども、内容が他の群衆には分からない。でも、確かに天の父は栄光を一度現したし、今まであなたが死人を甦らせ奇跡を行ったときも私は栄光を現してきたけれども、ラザロを甦らせる時も天の父よ、栄光を現しください、とイエス様が祈った通りに栄光を現していましたよ、今までだって。イエス様が来られて、数々の栄光が、天の父の栄光が見られましたが、でも、『私はもう一度栄光を現そう。』とお答えになってるんです。それは、どうかこの時のために私は来たので、天の父の栄光が現されますように、どこに?十字架の上で。そして私は現す、と天からの応えがきて。人々には聞こえないけど、あのゲッセマネの祈りと同じように、すぐに天の御使いが下りてきたようにです。今、すぐに神様からの声が聞こえて、この仕事はイエス様一人で決めたことではなく、天の父が決めていて、そして天の父が喜び、天の父が栄光を受けるために。そしてイエス様もそのために、渋々嫌々ではなく、この事のためだけに私は来たという、神様のご計画が明らかになっている。そして、


~イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためにではなくて、あなたがたのためにです。今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。~


この声が聞こえたのは、イエス様のためではなく、『わたしのためではなく、あなたがたのためである』それは、もう既にこのような天の父の声が聞こえたにも関わらず、数々の奇跡を見たにも関わらず、確かに数々の福音を聞いて良い知らせを聞かされたにも関わらず、イエス様を憎み、拒絶し、殺そうとし、信じなかった者は裁かれるって言っているんです。その裁かれる時が来たんだ、と。もうその時間がきましたよ。そして、その者たちは天国から完全に追い出されるんです。ですから、今まではイエス様が忍耐に忍耐を重ねていたけれど、イエス様の時がとうとう来て、私はこの日のために私は来ているとおっしゃり、そして、神様ももう一度栄光を現すとおっしゃている、『その時』とは裁かれる時です。信じない者が裁かれ、イエス様を殺そうとするものが裁かれ、天の御国から追い出されるその時が来たんです。イエス様が十字架に架けらえて死ぬという事は、その全ての支配権がイエス様に全部移っていくからです。


~わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」~


これは、復活したイエス様ですよ。3日後に甦ったイエス様が、その後、天国に帰られる時には、イエスキリストによって、異邦人も、次の世代もその次の世代も、イエス・キリストを信じた者が一つに集められていく。時間を超えてイエス様が全部これを完成される。どこで?十字架の上で。もう、私の時がきて、神の栄光の時がきて、そしてこの為だけに私は来ていて、その時に信じた者は救われ、信じなかった者は裁かれるんですよ。どの時代の人でもです。この時に、この日に裁かれてるんです。もう既に裁かれてるんですよ。何故?イエス様がそうおっしゃったからです。そして、信じた者はもう既に天国に入ってるのと同じ、神の子となるんです。それがどの時代の人でもです。そしてその後にイエス様が、ご自身がどのような死に方でその事を、栄光を現すかをおっしゃった後に、35節、


~「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。~


と言っている、この闇があなたがたを襲うことのないように、という『襲う』は追いつく、という意味です。その追いつくは、勝つという意味でもあって、この『追いつく、襲う、勝つ』という言葉は聖書に2箇所しか出ていないんです。この単語は。特別な単語らしくて、その2箇所の単語は、ここと、どこに出てくるかと言うと、ヨハネ1章5節の


~光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。~


この『打ち勝たなかった』という勝つという所と、ここでしか書いていないんです。 だから、イエス様に闇は勝てなかった。だけど、あなたがたには闇は勝つかもしれないって言ってるんです。確かにイエス様は闇の中で輝くために来られ、そしてサタンや暗闇の力はイエス様に勝てなかったですよね?死を打ち破ったイエス様に誰も勝てないし、死もイエス様に勝利することはできなかった。でも、あなたがたは、光のある間に一生懸命光の中で歩みなさい。何故なら、その闇があなたがたに追いつき勝って、あなたを呑み込んで滅ぼさないためだ、という事ですよ。そして、


~やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。~


これは、もう闇だから前が見えないでしょ。ゴールが分からない。何をしていいかが分からない。何を失敗しているかも、何が正しくて、何が悪いのかも分からない、行方不明者のようなものでしょ。それは、滅びなんです。ユダヤ人の言葉でいうと。あなたがたが滅びないように、です。闇があなたがたに勝たないように、光がある間に、一生懸命信仰生活をしなさい、と言っているんです。


~あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」~


だから、私を信じなさい。何故なら闇があなたがたを襲うこともあるから。イエス様が十字架架かって、死んで甦ってそれを信じたからと言って自動的にずーっと光の中にいるとは限らない、と言っているんです。ずーっと闇があなたを打たないとは言っていないんです。私たちが『光がある間に』というのは、私の生きてる間もそう、イエス様が再臨するまでの間もそう。だけども、魂の死だってあるじゃないですか。生きていながら死ぬこともあるんです。肉体は生きていても心が死ぬことが、私たちの間にありますよ。だから、福音が語られ、イエス様から警告が与えられ、そして祈りなさいと言われている間に、一生懸命そのことに従いなさい。これをイエス様がおっしゃているんです。 そして、ここで肝心な、本当の肝心なメッセージの内容はこうです。


~まことに、まことにあなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。~


今日の教えはここが本当に肝心です。重要です。イエス様が死んでひと粒の麦になって、本当に人々の罪が赦され、イエス様の復活の後に多くの者がイエス・キリストを信じて、イエス様のところに行きますよ。多くの実を結びます。でも、その後言ってることが大事なんですよ。自分の命を愛する者はそれを失うんです。この世の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る。『自分の命を愛する』『自分の命を憎む』っていう事が一体どういうことなのか。ユダヤ人の中では、一人の男性が二人の妻を持つことがありました。そして人間ですから、二人の妻が居たとしても、より一層愛して、より一層心がいく相手がいます。それを愛する妻と言いますよ、それに比較して愛されていない方を憎む妻と言うんです。それは、憎んだからじゃないでしょ?憎んだら結婚なんかしないじゃないですか、そもそも人は。だけども人間だから、甲乙があるじゃないですか?より一層好きな方がいるんですよ。だから『愛する妻』『憎む妻』っていう表現をしています。それは、他の箇所でもですよ。二つのものを選ぶときに、イエス様はこう言いますよ。「人は富と神を両方愛することはできません。一方を愛し、一方を憎むからです。」 だからここで、愛する、憎むというのは、二つのものを選ぶ時ですよ。二つのどちらか一つだけを選ぶとき、その選択するときに、選んだ方は愛してる方で、選ばなかった方は憎んでいるもの、という解釈ですよ。だから、あなたがこの世を愛し、自分の考えを愛し、自分の感情や自分の考えを壊すこともなく、ただ自分がやってきた経験が大事で、自分の安全や安定が大事で、人に非難されたり、失敗しない事が大事で、人から褒められることが大事で、そっちを愛するなら、イエス様の方は憎むことになるっていうことです。 私たちがいつ、イエス様を憎むなんて言いました?言いませんよ。いつ、お金よりイエス様を憎いって言いました?違うでしょ、どちらも憎いんじゃなく、どちらの主人にも仕えることはできませんよって言ってるんです。どちらか、他方を軽んじ、どちらか一つだけを選ぶ、どちらも選ぶことはできない。

だから、一つだけ選ばなくちゃならないんです、私たちは。そのどちらかを選ぶのは、私を、自分の命を憎む方を選びなさい、ですよ。自分の命を憎む方を選ぶ人は、何をする人?『私に仕える人』ですよ。そして仕える人は、「私について来なさい、わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。」自分の命を憎む人、すなわちイエス様に仕える人ですよ。ここは、牧師とか平信徒の区別はないですよ。キリスト者なら、誰でも自分の命を憎むべきです。そしてイエス様に従いなさいは、他の箇所でもずーっとイエス様がおっしゃてますよ。「あなたは自分を捨て、十字架を背負って、私について来なさい。」は、他の箇所でもイエス様はずーっとおっしゃてます。「死人は、死人に任せて私について来なさい。」これがイエス様がいつもおっしゃていることです。 これは殉教ももちろん意味しますよ。イエス様は当然死なれたじゃないですか。だけど、他の殉教者もいますよね。キリスト教にはたくさんの殉教者がいますよ。その殉教者の血で教会が建てあがってきたのは、まことの事ですよ。本当の歴史的事実です。殉教者の中には、本当にローマ時代に獣に、ライオンに、その牙で死んだ人たちが大勢いて、アンテオケの司教も、当時ローマで、ライオンの牙で殺された殉教者ですが、その人はこう言っています。「私は神の聖いパンである」ひと粒の麦を引用しているんです。私がこの、神の聖いパンであるなら、ライオンの牙にも呑まれよう、です。だから、ひと粒の麦が地に落ちれば、たくさんの実を結ぶ。というのをその殉教者が最後に語っているんです。その他にもたくさんの殉教者がいますよ。ステパノもそうです。ステパノの殉教も、その一粒で、サウロと言う青年がパウロとなり、偉大な宣教師、偉大な使徒となっていったし、このようにヨハネ・ペテロ・ヤコブの間でも、ヤコブは最初の殉教者になったし。たくさんの、そして12人の使徒たちは全員殉教者でしたよ。そしてその上に教会は建ってきたんです。ペテロの殉教の地にローマ・カトリックが建てあがったと言われるほどです。 そのくらい殉教の血で、日本でもそうだし、どの国でも、殉教の血によって教会は建ってきていますよ。これが、間違いない預言になり、イエス様がおっしゃったことがそのまま、イエス・キリストに集められていくように、教会がイエス・キリストをほめ讃えるようになるっていうその預言通りに、なっていますよ。キリスト教の歴史は、ずーっと殉教の血の歴史です。

でも、ただそれだけではないんです。ここで自分の命を憎むというのは、肉体の死だけを言ってるわけではないでしょ。イエス様に仕えるということですよ。イエス様に仕えるは、一体誰にですか?隣人に、です。何故ならイエス様はこう言いますよね。裁きの時、右に羊、左に山羊を置いて、私は裁くようになりますとおっしゃった後に、右に羊たちに向かってこう言います。「あなたは私が病気の時見舞ってくれたし、裸の時、上着を着せてくれたし、食べ物がない時、食べ物を与えてくれたから、あなたは、私の右に。御国に入り、そして私の相続、天国の相続者となりなさい。」と言ったときに、左側で裁かれた山羊たちはこう言いますよね、怒りながら「いつ、イエス様が裸の時服を着させず、いつ、イエス様が病気の時看病もせず、いつ、イエス様がお腹が空いた時食べ物を上げませんでしたか?私たちは生涯イエス様に仕えましたよ。」と言ったときに、イエス様はこう言うんです。「私の名の故に、この小さいものにしたことが、私にしたことです。」とイエス様はおっしゃています。だから、ここで言う『イエス様に仕える』は、教会の奉仕だけを言ってる訳じゃないし、伝道活動や祈りや礼拝のことだけ言ってる訳じゃなく、目の前の、私の隣人について言っているんです。そこに仕えなさい、ですよ。 その本当の意味と言うのは、私たちがやっぱりキリスト教の原理を知らないと、この隣人に仕えることにもまた、人間的な感情が入ります。人間的に、何か施しをし、人間的にボランティア活動し、子供たちの送り迎えをしたり、ご飯を作ったりする事が、隣人愛なのかっていう錯覚がきますよね。だからこそ、キリスト教の教理を理解していないと、何もかもが間違っていくんです。全てが過ちになるんです。何故なら、イエス様がここで言っているのは、私は十字架に架かって、死んで甦ることによって、天の父の栄光が現れ、そして多くの人がイエス・キリストに集められる、ですよ。それが、私の仕事で、天の父の望みだったんです。とイエス様がここで語られています。その事が人間にとってどれだけありがたいことだったのか。サタンの子で、滅びの子ですよ。元々汚れて、邪悪だから、神の怒りに触れて、裁かれて地獄へ行くしかない。例外なく人間は、何も善がないんです。自分から何の正義も隣人愛もないんです。持っていないんです、私たちには。勝手にやってる我儘な、感情的な愛情は自分勝手なものであって、本当の愛ではないんです。持っていないんです。それは神がわからないからです。だから裁かれ、神の怒りに触れるしかない、この存在が、イエス様が死んで、私たちの罪を全部背負って、神の懲らしめを受けて、私たちの病を癒し、罪を癒した。あの行為がなければ、イエス様の十字架のあの事件がなければ、人間は誰ひとり、誰も救われなかったんです。誰も神に会えなかったんです。いいえ、神がいることが分からないんですよ。イエス・キリストが仲介者になってくれているから、私たちは神がいることが分かっているけれど、イエス様が私に信仰をくれて、信じる心をくれたから、分かったけど、イエス様がこの聖霊をくれなければ、イエス様が神だっていう事さえ分からないんです。私たちは堕落してるから。神さえ分からないんです。

でも、その事ができるようになったのは、イエス様の十字架の死という、この工程がなければ、私たちは神さえ分からなかったんです。信じるどころか、いることも分からない。それだけ鈍く、本当に邪悪なんです。神を信じることが自ら絶対できないのが人間ですよ。いいえ、神に逆らって反逆したいのが人間なんです。 ただ、漠然と神を信じる事なんて絶対できないんですよ、人間には。太陽見て、星を見て、神はいるだろうって信じれるほど、人間は素直で聖くはないんです。イエス・キリストを主と告白しなければ、神が分からないんです。分かると言っても、本当は分かっていないんです。この世には勘の鋭い人も、第6感、悪霊たちを天使たちを見る人がいるかもしれない。でも、神を知ってる訳じゃないんです。それさえも、神を知ってる訳じゃないんです。どんなに人間がこの世で見えるようになって、この世で聞こえるようになっていたとしてもですよ。悪霊の声が聞こえていようと、神が分かるわけじゃないんです。神が分かるのは、イエス・キリストによらないと無理なんです。だから、十字架の死、そして死んで甦って、信じる信仰、信仰そのものが、恵みです。奇跡じゃなくて、信じたこの信仰そのものがプレゼントだったんです。これさえ、イエス様が死ななきゃ来なかったんです。イエス様が三日三晩土の中に入ってくれなければ、私たちにはこの地獄の門、死の支配からの解放なんて無かった。無ければ、神が分からないんですよ。 だから、十字架のひと粒の麦。イエス様の死、イエス様の復活は、人間にとってどれだけありがたい事なのか。それを分かれば、私が隣人愛をしないわけにはいかないんです。 イエス様が十字架に架かられた時には、神としての栄光は隠されました。イエス様は肉体着てても、全知全能であられたし、肉体があって隠れていただけで、創造主だったんですよ。何でもできる神様だったんですよ、肉体着てる、その間でもです。でも、隠し、見せず、死にまで従順されて、墓の中まで入ったんです。罪人の一人に数えられ、呪われた木に処刑されてるんですよ。このイエス様が全部お捨てになって、栄光をお捨てになって成されたこの業が本当に私の救いであるなら、メシヤの道が、ひと粒の麦になる道であったなら、それを信じたキリスト者が同じ道を行き、自分を捨て、イエス様と同じ道を行き、隣人のために自分を死なせ、自分を殺し、自分を捨てることは当り前のことではないのか。 愛情や感情で、誰かの送り迎えをしてご飯を作って、何か自分が目立って、愛されて、理解されて目立とうとするのは、隣人愛でもなんでもないし、キリスト教じゃないんですよ。 イエス様がまず、ご自身を捨ててくれたから、救われた命なんです。そしてイエス様を知れたんですよ。だから、信じた者が、そこに従ってくるのは当り前なんです。だから私に仕えるために、従いなさい。自分を捨てなさい。自分の命を憎みなさい。そうすれば命を得るんです。これがキリスト教の教理ですよ。生まれながらの人間の本性は、本当にイエス様がなさったことが分からずに、無理解、無神経さ、鈍さ、傲慢さ、強欲さ、邪まなんです。十字架の教理、イエス様がメシヤであり、キリストだった意味。死にまで従順された意味。それが分からないと、その恵みが理解できないと、何もできません、人には。 だから私たちは自分からは何も出てこない、善がない、義も、正義もないんです。それを目立とう、分かってもらおう、見せようとすること自体が、サタンの性質です。自分で救われようとして、自分で義と認められようとするのは、イエス・キリストの十字架の死を無意味にする仕事です。だから私たちが今日祈るのは、何のためなのか。今日私たちが何のために集まって、礼拝するのかを考えなきゃいけないんです。ただ、場所があるから、時間が経ったからじゃないんです。この恵みによって、私たちはするんです。アーメン。

Yokohama Glory Church

イエスは言われた。 「わたしは、よみがえりです。いのちです。 わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者は、 決して死ぬことがありません。 このことを信じますか。」 ヨハネ11章25,26節

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