ヨハネ福音書10章1-10

~「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。しかし、門から入る者は、その羊の牧者です。門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」イエスはこのたとえを彼らにお話しになったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。~


~まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。~


と羊の囲いについて、そして、イエス様が『私は門だ』と言っている、10章の1-10です。ここの羊の囲いに門から入るっていう『囲い』というのは、私達が想像するだだっ広い広場に木とか石で囲いを作ってその中に羊がいるという意味ではなくて、これは、中庭と言う意味で、イエス様が十字架に架けられる時、ピラトの邸宅で裁判を受けて、ペテロがそこで3回もイエス様を否定したとこ、あそこが中庭なんです。その中庭を言っているので、ここでの囲いと言うのは、1軒の家の中にある屋根続きの真ん中の広い所、所謂、今現代の私達が住んでいる庭なんです。この庭に門から入らない者、だから石垣をちょっと越えて、木の柵をちょっと越えて、入るとかいうのではなく、その人の家の門を入らないで、ことわりもなく囲いに入って来た人です。そう軽々しくぴょんぴょん跳ねて入れるような所じゃなく、1軒の家の中庭に勝手に入るという意味なんです。でも、私達は遊牧民も知らないし、また羊を飼っている人達が近所に居ないし、基本的にユダヤ人の遊牧に関する事がよく分からないというのは、私達アジア人の考えです。だから、私はあるクリスチャンのご主人に聖書の話をする時にこう言われました。「遊牧民の歴史の書物である聖書を、理解できないのは、自分達は羊を飼ったことなどないから、この例え話を理解するのは難しい」と言われたことがあるんです。だから、ノンクリスチャンはもちろん、クリスチャンという人達でも、この羊を飼うという例え話。イエス様がしょっちゅうなさる羊飼いの話は、私達にとって、あまり身近な話ではないし、あまり、浸透する話ではない。だから、この羊飼いっていうものが何か、という事を私達がある程度知識として知っておかないと、イエス様が言っている例え話がよく分からない。だけど、この羊飼いには色々あるけれど、パレスチナ地方の羊飼い達は、他の地方の羊飼い達とはまた違う特徴があるんです。このパレスチナの羊飼い達は、基本的にヨーロッパ、私達が絵画で見るような、その羊飼い達とは違うんです。それは、地によって荒地なんです。岩地だし、そして洞窟や穴とかがあるので、でこぼこした場所で羊を飼っているという、地域によって差があるから、パレスチナの羊飼いは、他の羊飼いとは違うとも言えるんです。そして、ある旅行者がこの羊飼い達を観察して、パレスチナの羊飼い達を見たところ、この羊飼いが雄叫びのような、動物的な言語のような、或は歌のような、或は悲鳴のような、そんな声を発しているのを聞いたんです。そして、その羊飼いがその声を発した時に、羊達は、むしゃむしゃと草を食べていて、下を向いていたけれども、羊飼いの声を聴いた瞬間、顔を上げるんです。でも、すぐに動いたりはしない。でも、羊飼いは声を上げたら、もう歩き始めるんです。そしてもう1回羊飼いが雄叫びのような動物のような、恐ろしい声を出した時に、1匹か2匹かが顔を上げて、その羊飼いについていくんです。そして、他の羊達はまだ食べている。でも、羊飼いはどんどん先に行っちゃうから、段々見えなくなっていって、丘を越えて見えなくなった時にまた羊飼いが声を発するんです。そして1匹か2匹の羊はちゃんとついて行っているんです。そうすると、やっと全ての羊が顔を上げて、メェメェ言いながら羊飼いについて行って、きちんと、もう羊飼いは見えないけれども、その声に従って羊の群れが段々ついて行ったっていう一人の旅行者が本を書いたものがあるんです。そして、もう一人のパレスチナに行った旅行者が見たところによると、今度は同じく羊飼いが居たんです。そして、その声を旅行者が真似てみたんです。でも、同じ声を発しているような真似をしたけれども、たった1匹も羊が自分の方にはついて来なくて、そしてやっぱり羊飼いの声にだけ従って行ったっていう本があって、そして、また別のスコットランドの旅行者が、パレスチナの羊飼いを観察していた時に、洋服を貸してくれと言って、羊飼いの洋服を上から下まで全部着て、そして自分の背広を羊飼いの方に渡したんです。そしたら、やはり声でついて行って服装ではついて行かなかったっていう、3人の旅行者が、パレスチナの羊飼いを観察した内容を、総合的に合わせてみても、この羊飼いの声を聞いて、しかもその声は特殊で、どんな人の声もついて行かない。そして、見えなくなっても、この羊飼いの声を辿ってついて行く、そして服装を変えたとしても、どんな格好しても、この羊飼いの声以外には、誰にもついて行かない。というのが、これが現実に実際に、事実的に、パレスチナの羊飼いの特徴。羊の特徴なんです。そして、ヨーロッパとか牧畜をしている他の地域での羊飼い達は、この方法で羊を育ててはいないんです。むしろ、羊飼いは後ろからついて行くんです。先に羊を行かせて、洩れた羊、迷子になった羊がいないように、羊飼いは後ろをついて行くのが普通のケースです。そこは、地が平坦で危険が少ないので、それが可能なんです。でも、さっき言ったようにパレスチナ地方では、地理的に安全ではないから、まず羊飼いが杖でつついて、安全な道を見つけて、その安全な道を後ろから羊に来させる。だから、羊飼いが必ず羊の前にいなきゃならない。そして、声を発していなければならない。それが、パレスチナ地方の羊飼いの特徴なんです。だから、イエス様のこの時代ももちろん、遊牧民ですから、羊飼いの例えは耳慣れた話です。でも、今私達がこの羊飼いの話を聞くときには、何か優しいイメージが、良い所へ導く食べさせて飲ませてくれる、優しいお爺さん的なイメージがありますけれども、実際の旧約聖書の羊飼いは、そんなに優しいイメージはないんです。まず、イスラエルの北を攻撃してきて、それを支配してしまったアッシリアの大王の事だって牧者と呼んでいるんです。そして、バビロンのネブカデネザルに対しても、大羊飼い、と表現しているように、専制君主であり、実際の暴君たちに対しても、『羊飼い』と呼んでいるんです。だから、旧約聖書において、羊飼いは、私達のイメージした優しくて、憩いの水場にも、牧場にも連れて行くような、ただ単に優しい人というよりは、王的な、支配者的な意味をもたらしているんです。そして、牧者、この羊飼いは、旧約聖書でもたくさんこの単語が出てきます。エゼキエル書においても、この羊飼いにおいては、書いてあるんです。


エゼキエル34章1-6

~次のような主のことばが私にあった。「人の子よ。イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して、彼ら、牧者たちに言え。神である主はこう仰せられる。ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。わたしの羊はすべての山々やすべての高い丘をさまよい、わたしの羊は地の全面に散らされた。尋ねる者もなく、捜す者もない。~


ここでいう、祭司達や預言者、旧約の指導者達を羊飼いと旧約聖書では呼んでいます。そして、22節、23節


~わたしはわたしの群れを救い、彼らが二度とえじきとならないようにし、羊と羊との間をさばく。わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。~


ここで、祭司達、預言者達が神の言う事も聞かず、わたしの羊を養わないので、神ご自身が羊を養うという、神ご自身が牧者となるという事を語っている、その次に神が選んだダビデも牧者で羊を養うと言っているように羊飼い、牧者と言うのは旧約時代、祭司長で預言者そして、神ご自身が羊飼いであったし、そして神の選ぶダビデのような王も羊飼い、だから旧約聖書での羊飼いというのは、専制君主もそうだし、リーダー達においても羊飼い、そして神ご自身においても羊飼いと呼んでいるんです。その羊飼いがこの羊を養って引っ張っていくっていう今日の10章なんです。そして、囲いの門から入らないで、他の所を乗り越えてくる者は、盗人で強盗です。と言っているし、わたしは門番と何度も言っている、そしてその門から入らない者達は強盗で盗む者だとイエス様が言っている。この羊飼いは誰なのかと言う議論で、紀元1世紀から2世紀ごろに異端が出てきたときも、こういう風に言っていたんです、この羊飼いについては、この羊飼い、盗人で強盗というのは、誰の事を言っているのかという所で、1世紀か2世紀末の頃には旧約聖書の預言者達だと言ってる人達がいたんです。どんどんこの理論が浸透していき、結局イエス様が来る前の、時代的な時間的なイエス様が来る前の羊飼いと言われている名称、旧約聖書で羊飼いと呼ばれている人達は、みんな盗人で強盗だという風に言っている理論があって、でも、それは違うと言っているもう一方の側は、ここでいう盗人と強盗は、新約聖書において盗人で強盗って表現されている人は一体誰かっていうと、イスカリオテ・ユダを献金を着服した強盗で盗む人って言われているし、イエス様が十字架に架かるときピラトが解放しようとしたら、バラバを釈放しろって言っている人を強盗と呼んでいるんです。そして、その人達が盗人で強盗だ。と表現しているのを見れば、ここで言う盗人で強盗は、旧約聖書の預言者のはずがない。今イエス様が語っている、今現在、この盗人と強盗は存在している。過去形で存在していました。盗人と強盗は存在していました。という過去形でイエス様がしゃべっているわけじゃなく、今現在、進行形で目の前にその人達はいると語っているのを見れば、旧約聖書の人達のはずがない。それは、今でいう異端呼ばわりです。旧約の預言者、祭司、王達を盗人で強盗だというのは、時間的な事から違います。これは異端だ。と言う風に言われている中で盗人で強盗、この例え話をパリサイ人達が聞いて、律法学者達が聞いているけれども、彼らはイエス様が何を言っているか分からなかった。羊飼いの例えが分からない筈がないんです。ユダヤ人は基本的に遊牧民ですから、羊飼いの例えが分からない筈がない。彼らが分からなかったのは一体何かと言うと、羊の門であると言っているイエス様の事が分からない。『わたしは門である』と言われる単語は旧約聖書にあまり出てこないんです。『わたしは羊飼い』という単語は出てきても、『私は門だ。』という言葉は出てこないから、このパリサイ人や律法学者はイエス様が何言ってるか分からない。羊飼いの例えだけだったら、すぐに私達以上に何言ってるか分かるけれども、『わたしは門』という所で引っかかってしまって、分からないんです。そして、その門に入らなかった者達は盗人で強盗だ、とイエス様が今呼んでるんです。基本的に羊飼いは朝目覚めて、朝日が昇る前に囲いの方に行って、羊を導き、牧場や水のほとりに連れて行くんです。だから、ここで言っている強盗はこの羊飼いが行く前、夜、朝になる前、夜に柵を越えて、石垣を越えて勝手にその人の家に入ってきて、羊を盗んでいく人達の事を言っているから、現在の社会でその者達がいるという意味において、新約聖書においては、まず、イスカリオテ・ユダが盗人、イエス様の献金を盗んでいた。そして、強盗のバラバ、殺人を犯したバラバが、釈放されたバラバが盗人。と言われているけれども、しかし、その当時のユダヤ教のリーダー達をイエス様が盗人だ、強盗だと言っているのが正しい。という理論なんです。そして、何を言っているか分からないという彼らと、イエス様の論争中なんです。そして、この盗人で強盗、今も現在も居て、イエス様が話している最中に居ますと言っている盗人で強盗達の例えを言っている。その後使徒行伝で何度もイエス様の一団、イエスの弟子達だと言われている人達がイエスをどんどん語っている時に、この者達を捕えようかどうかと、ユダヤ教の方で議論や裁判に掛けている時にガマリエルという人がこう言うんです。「先ごろ暴動を起こした人が男だけでも400人を、連れて偽りの集団を作って、自分はメシヤだと言っていたけれども、人間から出たから彼は殺されて、そして四散された。そしてガリラヤのユダという人が集団を作って、自分はメシヤで救い主だと解放運動のリーダーだと言ったけれども、その人達もまた死んで、そのグループは解散したので、私達は軽々しく手を出してはいけない。これが人から出てきたものならば、彼らは自然消滅するだろうとガマリエルが使徒行伝で議論の最中に言うんです。その当時、イエス様が生存している当時の前後においたって、暴動する輩たちがたくさん出現していたんです。だから、偽預言者、偽解放者、偽救いのリーダーと言って、そういう者達はその当時いっぱい存在していました。それは何故かといったら、ローマ帝国に反対する、ユダヤ解放の運動の一つですから、当時は沢山の人が祭司の中からも生まれてきて、暴動を起こし、革命を起こし、反乱を起こしている人達が大勢いたんです。でも、その人達は結局偽預言者、偽メシヤという表現をしている。ここで言っているのはその人だと言う学者もいるけれども、ここで榊原先生はそうではない、ここで言っている盗人で強盗は、そういうバラバとか暴動を起こした人を例えで言っている訳ではない。それは、この聖書を読んでみると、10節の

~盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです~

という所で盗人がどういう人か、殺したり、っていう所では供え物を、いけにえを供えるという意味なんです。だから、単に殺すっていう意味よりも、聖書の祭司たちが獣を屠って祭壇に捧げるという意味なんです。ただ殺すんじゃなく、捧げものをする時に羊を殺すという意味なんです。だから、この例えはむしろ、9章で起きていた盲人の裁判もそうです。この盲人の裁判は、目を開けたのはイエス様だ。と言った瞬間にユダヤ教から追放されるんです。神殿から追い出されたんです。それをイエス様が皮肉って言っている。という事です。むしろユダヤ人達は自分達に教会の権威があり、権力がある、神の権威は自分達にある。だから、自分達には裁く資格がある、権威があると言って、この盲人を勝手に追い出しました。だから、イエス様は、でも違うんだ。むしろ、わたしの羊を間違った偽預言者、盗人、強盗からわたしは自分の羊を取り戻した。という意味なんです。だから、祭司達と律法学者やパリサイ人は神に捧げている、私達は神の代弁者、私達は神に仕えている者と言っているその者達は、本当の神の羊を追い出している。本当の神の羊達を殺している。だから、むしろバラバや暴動を起こした人を盗人だと言っているんではなく、旧約の人達を盗人だと言っているのではなく、イエス様が誰を、誰に向かって強盗だと言っているのかっていうと、供え物をしている人達。いけにえを捧げている人達。その人達が勝手に自分勝手に神でもなく、神の代弁者としての仕事も全うもせず、勝手に神の羊を追い出し、神の羊を傷つけ、神の羊達を殺して、そしてイエス様がそれを拾っている。真のわたしが羊飼いだっていう絶対的なイエス様の方がわたしこそ羊飼いだ。と言っているところなんです。ですから、ここで9節


~わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。~


という所で、『出入りし』というのは、安定した生活という意味で、イエス様に救われたものが、悪魔にいったり、神にいったり、信仰をもったり失くしたりっていう出入りして、揺らぐっていう意味ではなくて、安定した生活を送れるんです。『わたしの門を通れば』『わたしの、イエス・キリストの名を通って救われた者はもう2度と殺されたり、盗まれたりすることはない。わたしは、それだけ養う神である。』というイエス様の絶対的な権威を今、主張されているんです。そして、盗人は、ノンクリスチャンの解放運動を言っている訳じゃなく、イエス様が来られる以前の旧約の人達を言っているんではなく、今現在、目に見えて神に捧げているという人達に向かって、「あなた方は強盗だ。」とイエス様が言って、「わたしこそ、真の羊飼いだ」と今おっしゃっている。絶対的なイエス様の権威を言っている。でも、パリサイ人達には、この羊飼いの例えは分かるけれども、イエス・キリストが門で、その門を入らなければならないという事が全く分からないんです。その意味が全然理解できないんです。彼らには。何故?神の声が聞こえないんです。彼らには、神が言っている羊飼いの本当の声が聞こえない。聞こえたのは誰ですか?盲人です。盲人には聞こえたんです。真の羊飼いの声が。そして、イエス様は取り戻すんです。殺人者から、強盗から。盗まれた羊を取り戻しているんです。彼らは自分達では正しくて、律法に沿って、聖書に沿って、その罪深い盲人を追い出しているつもりでいるかもしれないけど。単なる殺人者だと言われてるんです。単なる盗人、強盗で、本当に羊飼いではなく偽物だ。とイエス様に言われているんです。だから、誰を例えて言っているというならば、神様の前で仕事をしていると言っている者達に、今イエス様が、あなた方こそが盗人で強盗だ。わたしの声を全く聞くことができず、何よりもイエス様の門を潜っていない。横から不法で入ってきた者達と、イエス様が断言し、パリサイ人達を否定しているんです。あなた方は神の僕達ではない。何故なら、もしそうなら、わたしの声が聞けた筈だ。わたしの声に聞き従っていく筈だ、と言っているんです。

第2スイス信仰告白っていう、ヨーロッパにはウェストミンスター教会でも『信仰告白』という箇条が何個もあって、第2スイス信仰告白っていうのがあって、榊原先生はその書物を全部読んでいて、この箇所はその信仰告白をその教会、その教団、その教派は、何と言っているかっていう例えで、第2スイス信仰告白において、『真の教会とは』という信仰告白がある中で、この『真の教会』とは、キリストを頭と徹底する、が、第1にきています。教会の頭はキリストで、キリスト以外頭はいない。が真の教会。そして真の教会のもう一つは、わたしの教会こそ、この教会こそ、正しい真の教会だ。と誇る教会を真の教会とは認めない、です。じゃ、真の教会とは一体どんな教会なのか。聖書のみ言葉を正確に、清純に忠実に正直に語る、説教されている、そのみ言葉が徹底して従われている教会を真の教会と認める、が、第2スイス信仰告白の箇条なんです。本当の教会は、イエス・キリストが語ったみ言葉に忠実について行き、従っていき、語られている、その場所が真の教会で、キリストを徹底的に主とし、王とし、頭としている所が本当の教会で、自分こそ、こんな正しい事をして、こんな色んなイベントをし、大きくし、大勢の人数がいますよ。だから、私こそ正しい教会です、という事ではない、という、この第2スイス信仰告白があるように、イエス・キリストを通さなければ、決してそこは、イエス様の養う羊の群れではない、という事です。このイエス様は、「わたしは門です。」と強調しているけれども、他の所では、「わたしは真理であり、命であり、道である」と語っておられる。だから、わたしを通してでなければ、天の父の所には、誰も、一人も、行けないっていう事です。イエス・キリストこそが、神様へ導くルートだって言っているんです。このルート以外に方法が1個もない。道もないって言ってるんです。そのうえで道よりももっと重要なのが門なんです。イエス様へ辿り着くまでは、色んな道があります。皆救われた事情は違うんです。棄てられた人、病人の人、死ぬ瞬間、そして不幸があったり、何かがあったりして、イエス様に辿り着く道は色々な道があるかもしれないけど、門は1個しかないって事です。この門を通って狭い1本の道に行くことがイエス様の、羊飼いの所、イエス様が養う囲いの中なんです。だから、ここでは安定した生活があり、安心があり、平安があり、真の喜び、真の救いがある、とイエス様が言っているんです。「わたしは真の羊飼い。わたしを通さなければ、誰もここには入れません。」絶対的なイエス様の権威を言っているんです。だから、パリサイ人達は何を言っているか分からないんです。羊飼いの例えなら分かるけれど、この門を通す以外神の所へ行けないという事は、彼らに全然理解できない。何故?イエス様の声が聞こえないんです。聞こえていたら従うんです。それが羊飼いと羊の関係なんです。これがパレスチナの遊牧民で、実際に現実に起こっている羊飼いと羊の関係なんです。羊飼いが声を発したら、絶対に1匹残らずついて行くんです。これが、真の羊飼いと真の羊の関係。だから、わたしの声が聞こえないのは、元々強盗で盗人で、わたしの羊ではない。とイエス様が今言っているんです。そしてこの事は一体どういう事だって言ったら、イエス・キリストのみ言葉に従う、それが羊であり、イエス様の声が聞こえる羊である。それをする教会が真の教会である。というのが、ここの10章の1節から10節で、イエス様が門であるという意味なんです。

これは、教理で原理です。でも、実際の羊はそれについて来ていない。聖徒一人一人にみ言葉が留まっていない。ある人が榊原先生に手紙を送って、「今、異端が沢山教会の中に入ってきて、日本基督教団ではそれを徹底して教えているけれども、何故こっちの教派ではそれを徹底して教えないのか。教えるべきだ。異端と闘うべきだ。」っていう丁寧な手紙が送られてきた時、この先生のコメントはこうです。「それよりも、教えた、教えない、よりも、そんなに簡単に偽預言者、盗人、強盗が教会の中に入って、それについて行く羊の方が不思議でならない。何でそんなに、何で簡単に、そんなに引っ掛かり、そんなに簡単に騙されてついて行くのか。羊飼いの声でもないのに。」と言って反論しています。

これは、牧師だけがすることではない、という事です。聖書の原理、聖書の教理、聖書の教え、イエス様の語られた純粋な、純正な、このみ言葉を聞く、聞けない、留まっているか、留まっていないかは、牧師だけがする事ですか?という事です。牧師がどんなに正しく語っても、その羊達が聞き取れないなら、どうする事も出来ないんです。次には、この牧師達が偽預言者になっている事がいっぱいあるっていう事です。確かに、本当に正しく教えない牧師がいっぱい居て、本当に正しく教えない教師達がこの時代にたくさん居て、異端は沢山いるけど、異端以上に、もっと怖いのは、正しい正当な主流のクリスチャン達でさえも、ちゃんと教理を教えていない。これは、現実です。牧師がそれを出来ていない。教師達が出来ていない。でも、それは誰のせいにも出来ない、が、回答です。聖書を読み、祈っているなら、羊の方でも聞き分けなければならないんです。偽預言者だけの責任じゃないんです。自分達もイエス様の門に入っているかを、確認しなければならない。イエス様に従っているかを確認しなければならない。イエス様の声を聞き分けられているかを確認していなくてはならないっていう、牧者だけの責任ではない。勿論偽牧者達の裁きは厳しいでしょうけど、偽教師達のその裁きはイエス様の前で重いでしょうけど、でも、これを全てとは言い切れないんです。羊の方で何故聞き取れないのか、です。

信仰告白によるように、正しいのは、キリストが頭で王であり、主であって、イエス様の主権は全てである。という事と、このみ言葉に従っていくことが、本当の救いだっていう信仰告白があるなら、これをしなければならないっていうのが、現実です。「嫌だ、嫌だ」と言ったって、「難しい、難しい」と言ったって、「私は出来ない。私の性格上は。信仰がないから。まだ私にはよく分からないから」といくら事情を言ったって、『これが救いだ』というなら、『これが教理だ』というなら、当然これ通りにしか動かないんです。これ通りにしか進まないし。どんなに人間側が言い訳しても無駄なんです。人間側が救いを決めている訳ではないから。神側が決めていることですから。神がこうだと言えば、これ以外に救いの方法はないし、ルートもないんです。イエス・キリスト以外に入れないって言ったら、入れないんです。これを、「いやいや、私は科学的に。哲学的に。勉強的に。知識的に入っていきます。」無理なんです。どんな道もないんです。狭き1本の道。イエス・キリストという門。それが真理であり、命であり、道であるっていうのは、それ以外父の所へ行けないって言っているのは真実です。原理は、教理は、それ以外存在していないんです。この世にも。どの世にも。地獄にも、天国にも。これ以外存在していないんです。

イエス様が宇宙万物を創造し、銀河を創り、み言葉で全てを支配し、今重力で全てを押さえつけているのは、神のみ言葉が押さえつけているんです。重力が秩序を作るのではなく、神の知識が全ての宇宙の秩序を守り、み言葉が今も運営し、嵐を起こし、嵐を鎮めている。それはもう、余りにも偉大な力です。これをだから、奇跡と呼ぶなら奇跡でしょうけど、それより異常な奇跡が、尋常じゃない奇跡が、こんなにサタンの色に染まりに染まり切った、あんまりにも堕落した霊魂がイエス・キリストを信じて救われる事がよっぽどの奇跡です。私はそれを実感します。この宇宙万物の秩序よりも、遥かにこっちが奇跡です。十字架の血が遥かに奇跡であり、遥かに大きな力なんです。どんなに偉大なパワーだとしても、イエス様にとって、それ程難しい事ですか?もっと複雑で、もっと困難で、混とんとして、もっと大変なのが、邪悪な心を持った人間の方です。神に逆らい、自主的に自発的に神を裏切る、この人間たちの、こっちの方がよっぽど、これらが救われた事がよっぽど奇跡です。その奇跡を有難く思ってないから、人は神に逆らうんです。

吸血鬼のアニメで、こういう風に科学者が言うんです。「吸血鬼は確かに食べるために人を襲い、殺し、血を飲むけれども、人間よりは純粋だ」と言うんです。人間の名誉心。保身の方がよっぽど汚いって言うんです。それはただのアニメの言っている台詞ですけれども、私はそれを実感するんです。純真とは何か、純粋とは何かです。それを考えた時、複雑極まりないです。この人間の心の中は。本当に純粋を保つっていう事がどれ程難しいのか。この人間においては余りにも最初から汚れていて、強盗で盗人で、悪魔的で、悪魔の性質が大喜びで大好きで、そっちしか目にとまらず、イエス様の方に全然行きたくない、反逆したいっていうこの人間においては。み言葉が留まれないのは知能ではなく、この心なんです。捻じ曲がり、嘘をつき、保身の為には人を突き落とし、自分の名誉とか地位の為には、欲しいものの為には人殺しをするという、この人間の本質が問題なんです。

ロイド・ジョンズ先生が何度も言っているのは『救い』は私達が闘って受けるわけではない。努力せず、強盗のまんま、殺人者のまんま救われるんです。『信じれば』です。だから、神のプレゼントとしか、言いようがない。でも、門から1本の狭い道に行くには、私が闘うんです。信仰を持って自分の心と、です。自分の罪に悲しんでる者はイエス様が満たすんです。私の自力じゃなく、イエス様の思いで、その事が可能になっていくんです。だから、問題は私が決して自分の罪を認めていないことです。従う気がないんです。反逆していたいんです。逆らっていたいんです。何の為に?私の為に。「わたしこそ神で、わたしこそ、あなたを救うもの。わたしこそヤハウェ、天から下ったもの。十字架であなたを救ったもの。」この声が聞こえるならば、私はどう思うとか関係なく、乗り越えてイエス様の方へ行くんです。そのためには信仰が必要で、聖書を知る知識が必要なんです。

私個人からは良いものなんて出てこないんです。私からはイエス様に反逆したいっていう悪意しか、本能的に持っていないんです。それを徹底して、嫌だ、闘いたいと考えるのが、これが信仰です。

だけど、盲人はイエス様の声を聞いたんです。彼は言いました。罪人が私の目を開けるはずがない。彼は預言者だと思う、神から遣わされたと思う。と言うこの盲人は、ユダヤ教から追い出されても、イエス様の羊の群れになり、イエス様の門を通って入って来ました。彼は聞きました「あなたは誰ですか?」そして「わたしこそ、主だ」と聞いた瞬間、イエス様を礼拝しました。砕かれて、イエス様の前で跪き、彼は本当にイエス様を礼拝したんです。だから入って来れたでしょ?正規な門を入って来たんです、彼は。でも、ユダヤ教達は悔い改める事をせず、イエス様の群れのリーダーだと思い込んでるんです。それをイエス様は泥棒であり、盗人だって言いました。これは私達クリスチャン全員への警告です。

多くの人は嫌なんです、自分が砕かれたり、否定されたり、惨めな気分にさせられたり、自分の感情通り、思い通りに出来ない事が、本当に嫌で、これに逆らいたいんです。悔い改めることができません。自分の自我を壊し、感情を壊し、考えを全部壊してイエス様に従うのが羊であり、これが門です。

だから、祈るんです。この門を入り、狭き道へ行くために、この美しい本当に崇高な道へ行きたい、その道を行きたいから祈り、その道を行きたいから聖書を読んでいるんです。

私達は自力で何にも出来ないんです。自分から進んで良いものは出てこないんです。私の考えは何時も卑劣なんです。だから、聖書を読み、聖書の偉大な方に、聖書の語る美しい方に、イエス様の品性の方に行きたい、活きたい、生きたい、が常に乾いてなくてはならないんです。それを自分の感情で埋めるのは、もう強盗です。自分の達成感、充実感が欲しいのは、もう違う事です。違う道です。他の道です。広い門なんです。イエス様の道は貧しくて、飢え乾いて、悲しんで、行く道です。自分の余りの能力の無さ、無力で罪深く、悪魔的なこの性質を悲しんでいくべき、悲しんで行くところです。

貧しいものは幸いだと聖書にあります。神が満たすからです。悔い改めた者だけに平安が来ます。天から下って来ます。自力では平安は得られません。だから祈り、神の助けを求めるのです。人にとってそれ以外の方法で幸せになる道はないのです。この世の平安は一時であり、イエス様の下さる平安は永遠に続くからです。アーメン

Yokohama Glory Church

イエスは言われた。 「わたしは、よみがえりです。いのちです。 わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者は、 決して死ぬことがありません。 このことを信じますか。」 ヨハネ11章25,26節

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