ヨハネ福音書9章35-41

~イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。 そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」~


この9章全般的に見ると、盲目の話が出てきて、まるで1日か2日の出来事のように書かれているけれども、この盲目が裁判の結果イエスを証して、イエスをかばったので、神殿から追い出された後、直ぐ彼を探してパリサイ人の見ている前でこの言葉を交わしたとは到底思えない。何故なら当の本人です。トラぶっている当の本人のイエス様が、現れてパリサイ人の前で神殿から追い出された人をつかまえて話すという事を直ぐに行ったとは思えない。これは、しばらく経ってイエス様が彼を見つけて話されたっていう事が自然だという事です。これはあくまでもヨハネが紀元1世紀末頃に福音書を書いたと言われているように、1世紀末のクリスチャンにおいて、教訓を得られるようにイエスを受け入れた者が、この神殿から追い出され、ユダヤ教から追い出されるっていうのは、1世紀末の頃で、今私達クリスチャンに対しての教訓である事は間違いない。という事が、この9章を通して分かると思います。そしてこの盲人がイエス様と出会った時に、イエス様が「人の子を信じますか?」と言っている『人の子』という名称からすれば、メシヤを表わす時の人の子は珍しい。キリストと呼ばれたり、ヤハウェと呼ばれている事がメシヤである証なのに、ここでは『人の子』という単語を使っている。けれどもユダヤ人にとっては、珍しい話ではなく、旧約の時からメシヤに向かって『人の子』と呼ばれている箇所があります。


ダニエル書7章13-14

~私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。~


ここでダニエルが言っているように、メシヤに向かって『人の子』という単語を使っているのをみると、この盲目は『人の子』という人は一体誰で、どういう人なのか、という質問を返している訳じゃないんです。『人の子』がメシヤであり、キリストであり、救い主、ヤハウェという天から降りてきた方である事は、このダニエル7章を聞いたとこのあるユダヤ人にとっては、分からない事ではなかったんです。この『人の子』というのは、審判を行うために来られる救い主というのは、ユダヤ人の中では知られた名称、単語だったので、『人の子』というのが意味が分からないと言った事ではないんです。『人の子』とは一体どこのどなたですか?と聞き返しているんです。そして、イエス様が「それは、わたしだ。」と答えているところです。この「『人の子』が私だ」と言ったイエス様を盲目が見るとき、盲人は初めてイエス様を見ているんです。この目が見えないときイエス様が突然来て泥を塗って、シロアムの池に行って、あなたが洗えば治ると言った時、イエス様を見てはいないんです。この盲目はこの時目は見えないんです。目が開いて初めてイエス様と会っているんです。だから、盲人にとってイエス様が誰か分からないのは、当然です。「あなたは誰ですか?」と聞くしかないんです。そしてイエス様が「わたしは人の子だ。」と答えているんです。この盲人は目が見えなかったんです。ずーっと。イエス様が泥を塗っている時でさえ、目が見えなかったんです。そして、目が見えるようになった時に、この盲人は初めて目が見えたんです。それまでは物乞いをしていた乞食でした。この世というのは、この盲人にとって恩人です。いつも施しをくれ、寄付をくれる人。そして自分が乞食をしている時、頼めば何か恵んでくれた人達がこの世だったんです。だから、この盲人にとってこの世は、自分を助けてくれる相手だったんです。で、たちまち目が見えるようになった時、この盲人に何が見えたかというと、初めには人が見えたんです。その人々は何を言ったんですか?「これは、元乞食じゃないか。今見えるようになった。でも、本当は乞食だったのか?違う人じゃないのか。」と嘲笑うだけで、良かった、良かったと喜んでくれる人は一人もいなかったんです。次に見たのは誰ですか?宗教人達です。居丈高に傲慢極まりない、形式主義のユダヤ教は偉大な宗教と思っていて、盲人の時にはこのユダヤ教こそが、私達を救ってくれる宗教だと思っていたのに、目が開いてみたら、本当に自分のことしか分からない高慢な高ぶった人達だったんです。そして次に見たのは親です。親も初めて見たんです。親はどういう人でした?自分の息子の事を売ってしまったんです。自分の名誉や自分の命惜しさに「私はこの息子が息子であることは知っているけど、この息子に聞いてくれ」と言って、自分が神殿から追い出されるのが嫌だから、息子側に立たず、息子をかばう事もしない、冷たい親が見えたんです。そして最終的には神殿から追い出す宗教人。本当に神が分からないかのように、イエスの事も分からないのか。盲人の目が開いたという事さえ信じないのか、という宗教人しか彼には見えなかった。彼の目が見えない時には、とっても良い人達だったんです。この世は。自分に恵み、憐れみを与え、金銭をくれる、施しをしてくれる、憐れんでくれる相手だったんです。そして自分を教えてくれる宗教人は偉大に違いない。立派に違いないと信じて疑わなかったんです。でも、目が見えるようになった瞬間に見えたものは、人間の汚さでした。この世の汚さでした。そして、もう一つ見えたのが、自分の目を開けてくれたイエスだったんです。この2種類が盲人に初めて見えたんです。そしてこの盲人が、この世を知った時に、救い主を知ったんです。この世を知るっていう事が救い主を知るっていう事は、とても大事だという事です。ナポレオンの時代にフランスでは、合理主義が流行りはじめた。だから、フランスで突然合理主義的な考えが一般の人の中に入ってきて、民衆の中には合理主義的な、自分は知識人だという人達がどんどん議論好きになって、議論している時に、ナポレオンが知識人の中の討論に入っていったんです。そしたら、この知識人達は、こう言うんです。「このイエス・キリストは神なのか。果たして人間なのか」と言った時に、「もう人間に違いない。人間以外の何物でもない」という結論に至った時に、ナポレオンは立ち上がったんです。「諸君!」と話し掛けて、「私は人間が何物であるか知っている。だから、イエスが人間である筈がない。」と答えたんです。ナポレオンは人間の愚かしさ、そして無知、人間の汚さを知っていたので、もし、それが人間であるなら、聖書で書かれているこのイエスが人間な筈はない。とナポレオンは答えた。でも、知識人達は、このイエスは、人間でしかあり得ない。と答えているんです。だから、人間を良いもののように、まるで頭がいい者のように、素晴らしいもののように思っている者には、イエスが分からない。イエスが見えないんです。でも、人間を知ったナポレオンは、このイエスが人間である筈がない。人間はもっと愚かしい筈、もっと汚いはずだ、という議論をもって、そんな事はあり得ないだろうと答えるんです。そのようにこの盲人は、盲人の時には世間が見えない。人間が分からなかったんです。でも、目が開いた瞬間に見えたのは、人間の本当の姿、親の本当の姿が見えたんです。宗教人の本当の姿が見えたんです。そして初めて救い主が見えたんです。そして、これをジャン・カルヴァンはどう解釈しているかと言うと、「この盲人がもし目が見えるようになって、このユダヤ教に属して、神殿の中にずっと居たならば、彼は段々とイエスを忘れ、イエスが分からなくなり、「イエスを十字架につけろ!」と叫んだあのユダヤ人と同じになっていただろう。と解釈しています。この盲人は追い出されて初めて救い主が分かったのであって、このサタンの会衆に属していたならば、彼は永遠にイエスが分からなくなった筈だ、です。それは、この盲人だけではなく、マルティン・ルターもそうです。彼がローマ教皇に逆らった時には、まだカトリック信者だったんです。そしてローマ教皇に向かって、「あなたは間違っている。あなたは宗教人では既にない。」とこの95箇条を門に貼り付けた時にはまだ、彼はプロテスタントを立てる気は全くないんです。まだ彼だってカトリック信者だったんです。でも、教皇は怒り狂い、罵り、呪った末、教会から追い出したんです。その時にイエスが働き始めたんです。その時に彼の心は熱くなり、イエス・キリストに従う事をハッキリと明確に理解したんです。追い出された後なんです。そして追い出された後、マルティン・ルターを通し、またカルヴァンや色んな弟子達を通してプロテスタントが立ち上がったんです。それがイエス・キリストの御業だったんです。だから、カルヴァンに言わせれば、もし、教会から追い出されなければ、こんな御業は起きなかっただろう。この嘘の世界、宗教の偽りの世界、儀式だけしかやらない、イエスも分からない、サタンの会衆に入っているならば、もう誰もイエスを見ることは出来なくなる。追い出されたが故に、イエス・キリストは働き始めたんだ。そうまでして、イエス・キリストはご自身を現そうとする神なのだ。という解釈です。この盲人がユダヤ人に迫害され、追い出されなければ、救い主を見ることは出来なかった。そして、イエス様も「あなたは人の子を信じるか」と問いただした時、この盲人は、まだ誰だか分からないんです。裁判の時、イエスとは誰かと聞かれた時、イエスとは、私の目に泥を塗り、シロアムの池に行って洗えと言った人だ。が始めの答えだったんです。そして、私の目はその時開いた。これがイエスへの答え。でも、宗教人達がああでもない、こうでもないって言い始めたら、彼はこう次に答えたんです。「彼は預言者だと思う。」と答えるんです。そして宗教人達が彼は罪人だ、罪人の言う事を聞くものは罪人だ。安息日にそんな事を犯すわけがない。本当の宗教人はそんな事はしないのだ。と形式の事ばかりを言っている時に、とうとうこの盲人は何て言ったんですか。「彼は神に遣わされた人だ。神に遣わされていなければ、盲人の目を開くなんてあり得ない。罪人の言う事は神が聞くはずがない。」と言って、彼はとうとう神に遣わされた人に違いない。とハッキリ言って追い出されているんです。でも、まだイエス・キリストが目の前に来たときに誰だか分からない。「あなたは『人の子』を信じるのか。」と言った時、『人の子』とは一体誰ですか?と聞き返しています。まだ分からないんです。「それは、わたしだ。」と言った時に、彼はイエスを拝したと書いてあります。この『拝した』というのは、礼拝したという意味です。この礼拝したという単語はサマリアの女の所で出てくるんです。霊と真をもって礼拝しなければならない。という時の礼拝なんです。サマリアの女の時もそうでした。キリストが来たら全てを明らかにして下さいます。あなたは預言者だと思います。確かにあなたは霊的な人でしょう。でも、ヤコブより偉いんですか。私は今、キリストを待っているんです。キリストが来たら私に全てを教えてくれる筈だ。と言った時にもイエス様は、「それは、わたしだ。」と言って霊と真をもって礼拝するときが来たのだ。と言った時の礼拝で、その時サマリアの女も初めてイエス様を礼拝するんです。だからイエス・キリストが見えるまで礼拝できない、という事です。以前盲人はイエス・キリストを礼拝した事はないんです。目が見えた後も礼拝なんかしていないんです。目が見えた後もイエスが目の前に現れた後も、「あなたは誰ですか?」と聞いています。サマリアの女然りです。どうやって礼拝するのかわからず飢え乾いていたんです。それは誰か、キリストが来たら教えてくれる筈だって待ち望んでいました。でも、イエス・キリストが目の前に来ても誰だか分からないんです。礼拝できないんです。誰だか分からない神にどうやって人は礼拝するのですか?この盲人は、『わたしだ』とイエス様が初めて言ったとき礼拝しました。だから、この盲人が追い出され、目が開き、イエスが誰だか分かった時、初めて盲人は礼拝しているんです。これが、この箇所の一番重要な所です。

イエス様はマルコの福音書でも唾を吐いて盲人を癒す場面があります。その盲人を癒す所では、始め唾をかけて癒しますがまだぼんやりしか見えない。人のようなものが見えてそれは木のように動いている程度だったんです。そして、イエス様はもう一度盲人の目に触れた時には、ハッキリ見えます。と盲人は答えるんです。イエス様はハッキリ見えるまで働く神だという事です。この盲人がイエスとは誰だか分からないけれど、目が見えるようになって、世の中がどんなに汚く、人がどんなに汚い、宗教人達がどんなに汚いか見えるようになった。でも、イエスを見えている訳じゃない。そして、イエス様が現れた時、初めてイエス・キリストだと分かって礼拝しているんです。イエス様はここまで働く神だ、という事です。ここまで働いていなければ、イエス・キリストを礼拝することができない、という事です。だから、黙示録にこうあります。救われた教会のクリスチャンに向かって警告がきたんです。「あなたは平安で喜びでイエスを礼拝し、賛美して祈っているというけれども、あなたは本当は貧しく悲惨で、とても卑劣で盲目で近視眼だと言っているんです。あなたにはイエスなんか見えている筈がない。だから、目薬を入れて早く悔い改めろ。熱心に悔い改めろ。急いでイエス様の前でへりくだれという警告が聖霊から来るんです。見えていないから、イエス・キリストが分からない。礼拝さえしていないという事です。だから、イザヤ書にこう書いてあります。異邦人、神の名を主と呼ばなかった者から神は見いだされ、その異邦人が神を礼拝するときが来るっていう表現があります。正にその通りなんです。宗教人の目には隠されて、異邦人の目には神が見えるようになる。これが今正に盲人がしている事です。彼は盲目だったからこそ、イエスが見えるようになる。という答えなんです。これが、イエス・キリストをどのように礼拝するかっていう事を警告と忠告を与えているんです。そして、その後、イエス様とパリサイ人の会話が始まるんです。


~「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」~


イエス様はここで、「私は審判するためにこの世に来た」とおっしゃっています。でも、これは意地悪いように言っているんじゃないんです。第一義的に「わたしはただ裁くためだけに来た」と言っているわけではないんです。「わたしはむしろ、この世を救いに来ている」です。じゃあ何故イエス様が裁くために来たとここで、表現しているのか。イエス様的には救いに来ているんです。でも、イエス様が来たが故に、光が来たが故に、真理が来たが故に、本当の神が来てしまったが故に、悪魔の子が、暗闇の子が分離されてしまうからです。イエス様がそれを裁きに来たんではなく、救いには来たんです。それは間違いがない救いの教理です。でも、悪魔の子、悪魔を慕い、恋い慕い、悪魔の考えに同調し、悪魔の考えが大好きな暗闇の子。宗教人達、キリスト者と言われている偽物はむしろ、分離されるという事です。真の神にです。真理から外されてしまうのです。それまでは、ごっちゃまぜで居るんです。神の子も悪魔の子も。ある団体の一つに加わっていたり、ある街に一緒に住んでいたり、ある一つの所に一緒に住んでるんです。でも、本当の光、本当の真理、本当の神が来たときには、審判が起きてしまうという事です。暗闇の子はイエスを十字架に架け、殺し、迫害する事を準備していました。もう既に、イエス様はその事をご存知です。だから、裁きに来た、と言われます。分離されて、真理から外されてしまうからです。そしてその後の会話としては、「私たちも盲目なのですか。」と当然パリサイ人達が怒り狂います。盲人がいる事は前提に喋っています。霊的に盲目で、神が見えない、罪深い者がこの世にいることをパリサイ人達は知っています。聖書を通してそれは教えられていました。そして、自分達はこの盲目を教える教師、暗闇の光だと思っていたんです。そして盲目の導き手っていう自分の自負があります。自分は見えている。確かにこの世には、見えない盲目の罪深い者が居る事を私は知っている。でも、まさか、それが私ではないですよね?と言い返しているんです。まさか私達が盲人なのですか?と反問しているんじゃないんです。この文法は、まさか、私達が盲人ですか?いえいえ、そんな事はないですよ。全否定で答えているんです。私達が盲人の筈がない。何故?私は見えているし。私は今まで罪深い者達を教えてきて、律法の分からない者には律法を教え、神の分からない者に、神を説いてきたんだから、私が盲人の筈がない。確かにこの世には盲人が居るけれども。と主張しているんです。でも、イエス様は「そうですね、あなたは盲人ですね。」と答えると思っていた、この人達は拍子抜けします。「あなた方は確かに盲人ですね。」とは言わず、その裏の裏をかいて、「そうです、あなた方は確かに見えています。」と答えるんです。でも、こう続きます。「見えているからこそ、あなたの罪は残ったんだ」と決定的な裁きが行われてしまったんです。この『罪が残るのです』というのは、罪が溜まるのです。罪が消えないんです、という意味なんです。この人達は、自分は見えている。神を知っている。私は祈っている、什一献金をした。教会の奉仕をしている。熱心に祈ってきた。私は我慢したし、犠牲したし、牧師に仕え、牧師から言われて否定された時も黙って、私は従ってきたと言っているから、あなたの罪は残されたと言われてるんです。あなたの罪は決して消えない。決定的な裁きです。イエス・キリストの名を汚しても許される。しかし、聖霊を冒涜した時には、許されないっていう、その罪は一体何かっていうと、盲人が癒され目が見えるようになる。罪深い者が赦されて奇跡を味わい、恵みを受けた後に、イエス・キリストを否定する者は赦されない。です。この奇跡を見ながら、恵みを見ながら、この真理を知りながら、聞かされていながら、祝福を受けながら、尚イエス・キリストを否定するならば、もう一度イエス・キリストを十字架に架ける事になる。でも、まさかそんな事はない。とパウロは言っています。もう一度イエスを十字架に架ける事はあり得ないんです。という事です。恵みを受けて、それでも否定する場合に、罪が残る、罪が溜まってしまう。その罪は消えなくなる、です。これが今日の9章で語っている事です。そして、それを習慣的に何年も続けた場合に悔い改めることが出来なくなるんです。一番恐ろしいのが前にも言ったように悔い改めることが出来ない事がクリスチャンにおいて一番の恐れです。一番の裁きの基準です。そして、これが恵みか、恵みから落ちているかの分離する理由なんです。何故?これがキリスト教の教理だからです。罪が赦される。これが救いの教理。キリスト教の教理、十字架の教理、真理なんです。だから、ここに自分が本気で罪深いと思っていない、砕かれない心はイエス・キリストが見えない、聞こえない。分からない。そして、礼拝できない。これがこの9章の語っているストーリーなんです。そして1世紀末のクリスチャンにおいて、イエス・キリストから離れていった弟子達が大勢いる中で、ヨハネがここで警告している理由なんです。だから、ヨハネはここでも警告しているけれども、ヨハネの第1の手紙でも、兄弟を憎む者が神を愛する筈がない。と警告をし、黙示録においては、あなたは見える、見えると言っているが、本当は盲目である事が分からないと言っているんです。

私達は本当にイエス・キリストが見えていなければ、イエス・キリストを礼拝さえ出来ないんです。だけど、教会に来て礼拝しているっていう現実と事実がある場合、私は見えているって言うんです。私はイエスを知っている。私はイエスに祈っている。私は聖書を読んでいる。私は信じている。これは形式でイエスを知り、知識だけでイエスを知る場合です。それは、人間なのか神なのかっていう事が分からない、その漠然とした盲目となっているぼやけたイエスです。最初に盲人が1回目は分からない。まるで木が歩いている如く影のようになっている。次に癒された時、ハッキリと人間と分かったというように、ハッキリと目が見えていなければ、イエス・キリストは分からないという事です。そして、イエス様の本当の御業、神の国の御業、神の国の仕事、神の目的は、これがハッキリ見えるようになるまで、イエス・キリストが働き続けるという事です。これが、聖書が言っているイエス・キリストの救いの教理なんです。だから、知ったのに盲目になり、聞いた後に近視眼になり、知っているのに堕落していく場合に、今日という日に悔い改めず、今という時に悔い改めず、今はこんな性格だから、なんて言っている間になくなるんです。チャンスが。イエス・キリストの呼んでる声が聞こえなくなるんです。イエス様は聖書を通して僕を通して、牧師を通して、CDを通して、インターネットを通して、どれ程イエス様が叫ぶんですか?救われろと。「わたしの所へ来なさい。わたしの荷は軽いから。」と。そして初めは「アーメン主よ。」と救われる時には、「アーメン主よ。」と言います。盲目であっても、信じれば救われるんです。イエスが誰であるか知らなくても、その人が救い主と聞いて信じたなら、私は救われるんです。これが、キリスト教の教理です。でも、誰か分かった後に従わない。誰か分かった後にもやらない。誰か分かった時も自分自身が主人公でいたい。今度また盲目になり、近視眼になっていくんです。それを習慣的に生活で毎日やって、悔い改めろという神の声も無視し、神の前で高慢極まりない態度をするなら、私達は盲人だと言われるしかないんです。イエス様が来たときに、裁かれるしかないんです。イエス様は裁きに来るんではなく、救いに来ます。でも、イエス様が来たら、悪魔の子はイエス様の方へ来れなくなります。イエス様が裁いて離したんではなく、自らが悪魔の方に行ってしまうんです。これが霊的な世界で起こる事です。誰も止められない。イエス様も止めない事実なんです。だから私は裁きに来た。あなたがむしろ盲人であって欲しかった、です。イエス様の人格、イエス様の考え、イエス様の計画は無視しておきながら、私はこう思う、私はこうだ、と言い続けるなら、コミュニケーションは取れません。「あなたは救い主です。」という言葉に責任をとっていないんです。「私の主。王の王。偉大な主」と言いながら、従わないなら、私の言葉に何一つ責任をとっていないんです。王の考えに賛同し、賛成し、喜び、感謝し、礼拝していく場所です。私の慰めや励ましや、私の生き甲斐の為に賛美があるわけじゃないし、自分の考えを優先することは礼拝ではありません。あなたが手を置けば病人が癒されることだってあるでしょう。でも、イエスを礼拝していることとは違うんです。イエスを礼拝していなくても、賜物が来て、力が来たとき、あなたは奇蹟を体験します。あるいは住むところもくれます。でも、あなたは礼拝していますか。あなたは人の子を信じますか。と言われた時、あなたはどう答えるのか、です。それが審判の席で行われるんです。あなたが望んだのは力ですか、と自分の心と向き合うしかないのです。人にどうやって上手く伝道するかよりも、まずあなたが砕かれ、悔い改めて、罪を本当に悔いて、イエス様の前で救われた事を喜ぶことが大切です。常に私はどうなりたい、私はどう考えている、私はこう思っているが優先ではありません。私達クリスチャンは魔法で一気に望むことを手にする事なんてないんです。人を助けることも救う事も同じです。人前でイエスを認めないなら、天でも認められないと聖書に書いてある通りです。他人にこれだけ無関心で、隣人に手を延ばさないで、自分のことしか思えないなら、何も与えられません。これは、この世の原理でも同じ。やってもいないのに、欲しいからといい、手に入ることはあり得ないんです。救いは、恵みです。賜物です。これに感動し感謝する者が、神を礼拝します。そして神を礼拝する者を、神が守ります。

神の国がこの地に現れることは信じる者の最大の幸いです。だから神様の仕事は神が成功させます。私達はそれを喜び従います。その一番の理由は、『救われたから』です。罪が赦された、これ以外の理由はない。誰においても。神がこの地で現れることがクリスチャンの望みでなければならないのです。これが、神様が創造した理由。創造の目的なんです。ここからはみ出しても、何もないです。全ての者が膝を屈め、イエス・キリストを褒め称える、それが神様が人を創った理由です。救われた私達が悔い改めもせず、高慢な態度を神に取り続けてはいけないのです。罪が残り、あなたが見えると言ったその瞬間に、あなたの罪はもう二度と赦されないからです。悔い改めることができなくなる裁きがきます。私達の思った通り、考えた通りに裁かれるんです。悔い改められないのは人のせいや、環境のせいではありません。悪魔のせいですか?違います。私達の幸いはこの地で受けるものではなく、天国で報われるためのものです。この世で何一つ受けなくても、イエス・キリストに従い、本当に喜んだ人は大勢います。インドに昔、カルタル・シングという人がいました。彼には恋人が居ました。金持ちだったんです。財産がいっぱいあったんです。それを棄て、若くしてで宣教に出ました。そしてイエスを証しして殺される時にこう言いました。「私は1万回生まれ変わっても、1万回イエスの為に死んだとしても、後1万回殉教と拷問が繰り返されたとしても、私はイエス・キリストに恩返しなんか出来ない」と。その後、彼が死んだことを知り、彼を追い出した家族は救われました。彼にとってこの世の幸せは、真の幸せではなかったのです。イエスを礼拝するのは、見える人だけです。以前は心の盲目だったけれど、今は見える人だけ。そして、イエス様を見たら、言われなくても悔い改めはじめます。自分の中の汚れや、どれだけイエス様に失礼ない態度をとって来たのかと思い知ります。これが、イエスを礼拝するっていうことです。自分の為の宗教にならないように戦うべきです。何と闘うのですか?他人とですか?何の為に祈っているんですか?主に従うためです。自分の心を叩いて神の国の為に生きるためです。幼児から卒業して、大人のクリスチャンになり、甘えてばかり、神に要求ばかりする、赤ちゃんではなく、孝行息子、娘になっていくべきです。この地上で汚されてしまったイエスの名誉の回復のためにです。何故ですか?私を唯一救ってくれたお方だからです。この方以外私達を救える方はいません。

混沌とした病んだ時代に、この暗闇から救い出し、私達の目を開かせてくれる方は、イエス・キリスト、この御方だけが私達の救い、そして唯一の希望です。アーメン。

Jesus Christ Glory Church

イエスは言われた。 「わたしは、よみがえりです。いのちです。 わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者は、 決して死ぬことがありません。 このことを信じますか。」 ヨハネ11章25,26節

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