ヨハネ福音書9章1-12

~またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。近所の人たちや、前に彼が物ごいをしていたのを見ていた人たちが言った。「これはすわって物ごいをしていた人ではないか。」ほかの人は、「これはその人だ」と言い、またほかの人は、「そうではない。ただその人に似ているだけだ」と言った。当人は、「私がその人です」と言った。そこで、彼らは言った。「それでは、あなたの目はどのようにしてあいたのですか。」彼は答えた。「イエスという方が、泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい』と私に言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」また彼らは彼に言った。「その人はどこにいるのですか。」彼は「私は知りません」と言った。~


今日のこの9章では生まれつきの盲人の目を開いたお話なんですが、ここで弟子たちは、途中から盲目になったのなら、その人の罪かもしれないけど、こんな風に生まれついて不幸なのは誰のせいか、が知りたくて、これは本人ですか?親ですか?と言ったとき、イエス様が「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神の業がこの人に現れるためです。」と答えているんです。これはクリスチャンじゃなくても、どの人でも生まれつき、或いは突然不幸が訪れたり、不具になったり、病気になったり、何かの離別があったりした時に、何かの天罰だろうか?と考えるんです。そして、天罰か?何の罰か?何の報いかって考えるときに、普通の人は過去を振ります。或いは先祖がひどい罪を犯してこうなったのか?或いは過去に一体自分が何の罪があり、何の間違いがあったから、こんな不幸が訪れたんだろう。と、人は過去を振り返る。過去に問題を探す。過去にこれに似つかわしい問題を探したいんです。そして過去に犯した問題と、或いは失敗と今起こっている不幸を天秤にかけて、釣り合っていれば、「まあ、しょうがない。」釣り合っていなければ、不平不満と、「何で自分だけ・・・」でも、基本的に釣り合いたいんです。この不幸は私にだけ来たんではなく、過去何かの失敗、何かの出来事によって釣り合うだけの何かの原因があったのだと、自分を納得させ、説得して、この不幸を受け入れようとするのがこの世の常、この世の方法なんです。宗教に問わず人間が自分の中でやっている事。でも、イエス様が答えたのは、過去じゃない。と言っているんです。今でもないんです。これは、未来に関しての出来事だ。と言っているんです。この天秤は人間の天秤と、イエス様の天秤が違うっていうことが明白なんです。人間は過去の何か、過去の誰かと、今の不幸を較べて同じく、同じ分量で起きていると思いたい。でも、過去ではなく未来と天秤をかけろ。とイエス様は言っているんです。そして、未来における事こそが、この不幸を意味づけ、目的づけさせることができる。と言ってイエス様は、これを未来に向けてあなた方は受け止めなくてはならない。と言っているんです。でも、この未来は一体何かというと、イエス様が言っている「神の栄光のためです。神の御業が現れるためです。そして、このわたしが遣わされたものであり、昼の間にその仕事をしなければなりません。必ず夜が来るからです。」と説明しているんです。この事は未来において変わることができる。そしてその問題の元凶また根拠は、過去にはない。しかし、無条件に未来にこれを変えることができる、とは言っていないんです。ここに神の業を、遣わされたものの業を、神の仕事を、神の望むことをした場合に、この不幸は、未来に他のものに変えられる、です。無条件に黙っていて、この不幸が幸福に変えられるはずがない、という事です。この世の人達は全て天秤にかけ、人と比較し、過去と比較し、他人と比較し、この自分の不幸を計算したいんです。でも、神様の天秤、神様の計算はそんな所にはない。過去にはない。これは未来において起こり得ること、なんです。そしてこれは、他のローマ書においては、『神を愛する者には神が働き、全てを益に変える』という言葉があるんです。これが、『昼間の間に働かなくてはならない』です。でも、無条件に全てに神が働き、益に変えるわけではない。ここに条件があります。『神を愛する者』です。神を愛する者においては、この不幸な出来事、突然の交通事故、突然の病気、突然の痛み、突然の離別、突然のリストラ、突然の災害・災難、災い。全ては益に変えられる、です。

これをある神学者はこう言うんです。この出来事を益に変えるという事は、ウェストミンスター教会の信仰告白の中にある、質問応答の中にある、

「神の御業はどのように行われるのですか?」という質問に、答えがこうなんです。

「それは、神の創造と摂理から始まっている」です。

この不幸が未来変わることができる、神が働ければ益に変わる、この不幸が幸せに変えられるっていうことは、いつ始まったのか?宇宙万物の創造の時から今に至り、未来に至るまでの摂理の中に隠されている。摂理の中に答えがある。摂理の中に鍵があるというのです。だから、神が創った宇宙万物、神が創った運営の仕方、そして創造した被造物の中に答えがあるんです。だから、全ての全歴史に答えがあるという事です。という事は、この歴史の中で不幸が幸福に変わり、過去からきている全部の不幸が神の御業に、神の栄光に変えられる、というのは、未来永劫、過去から未来永劫のうちに答えがあるのだから、神の御業を今現在、全て知り得ることができない、という事です。

神の計画、神の青写真、神の願い、神の要求、神のなさりたい喜ぶことは、今現在で全て分かることは、被造物には無理だって事です。今、1/2或いは1/3、或いは1/5分かっているかもしれない。でも、突然起きた不幸、突然起きた出来事、問題は、神の摂理、運営の仕方の中に、歴史を導く神の御手の中にこそ、その答えがある。だけど、その答えを今すぐ、全部100%理解することは不可能だって事です。だから、この摂理、道理、原理の中で答えを見出して、そして信仰をもってそれを喜ぶっていう事が神の栄光、神の喜ぶこと。神の御業、そして神を愛する者たちがすることなんです。だから、ヘブル書にはこの信仰者達はまだ見ぬことを喜び、生きがいとし、最後まで寄留者だと思っていた。この地上で起きている出来事、この地上で生きる術、この地上で起きてる全ての幸・不幸は、この寄留者、旅人の間であって、後に来る未来に関しては、今ここは喜ぶべきこと。という解釈なのです。だから、神が働いて益にする。

何故、この人にこんな不幸が起きたんですか?何故、この人が突然交通事故で死んだんですか?何故、突然癌になったんですか?何故、突然離婚ですか?何故、突然人に捨てられたんですか?何故、突然リストラなんですか?といったときに、これは過去から探すんではなく、これは未来、そして神の摂理、神の道理、神の原理の中で、見出していかなくてはならないんです。そしてそれは、昼の間に働いていなければならない。何故なら、ヨハネはこう言っています。「神は世の光であった。」「わたしは世の光である。」と表現しているんです。そして、世の光は、十字架に架けられ死んだ後には、こう言うんです。「あなた方が世の光である。」です。イエス様が十字架に架けられ、昇天された後には、クリスチャンに向かって、「あなた方は世の光、あなた方は世の塩だ。」って言っているんです。だから、イエス様がこの世を照らしたように、今度クリスチャンがこの世を照らしていかなくてはならない。その光の役割を果たした時に、子孫或いは自分の数年後、或いは他の人に、この神の栄光が現れる、です。今、この状態だけで判断することはできない、です。今これだけで神の仕事は分からないんです。子孫の間に、自分とは関わらない誰かに、次の未来を担う者に、残されていくもの。この盲目は乞食でした。その次も乞食であるかもしれない。次の子孫も乞食かもしれない。次の子孫も無知かもしれない。でも、その事で他の人を救うことだってできるし、神が働けば、他の歴史の摂理の中では、他の働きを起こしているかもしれない。他で影響を与えているかもしれない。それは、私の目に見えないかもしれない。すぐには分からないかもしれない。でも、これは神の栄光のために起こったのは間違いがない。でも、これを栄光に誰でも変えられるわけじゃない。ずーっと不平不満を言い、愚痴をこぼし、暗く、神に向かって文句を垂れ、そして人を裁き、人のせいにし、自分が無能で無力で、誰からも評価されない事をひがんで、劣等感に陥り、ぐちぐちと文句言ってるい穢者は、後も同じなんです。後は、もっと酷い状態にあるかもしれない。その人はずっとその状態でいるしかないんです。これは、昼の間に世の光として、クリスチャンとして、他の人に本当に影響が与えられるだろうと信じて、今は無いけれども、信仰で見て、信仰で確信し、信仰で希望を持って、信仰で耐え忍んだ時に、後に神が栄光に変えるんです。それは10年後かもしれない。20年後かもしれない。或いは、見たこともない子孫で起きるかもしれない。或いは、他の国、他の誰かかもしれない。これは神が決めること。神の摂理、神の歴史が決めることなんです。だからこそ、神に従う人間は、神に用いられ歴史を作るです。歴史は神が一方的に計画した通りに動きます。

神の決定、神の言葉は虚しく返ることはありません。神の御計画は虚しく終わることはないんです。完全な神の計画は、いつか神の時に成就します。人間自ら堕落し、神への不信仰でこの世は汚されています。そして、神に従った者はこの不幸を神が益に変えるし、この世の塩の役割を果たします。だけど、そこで神に逆らった者達は、子孫までも呪われるんです。何代も、3代も、4代も、呪われるんです。十戒の中の「あなたが罪を犯せば3代、4代までも父の咎を子が負わなければならない。」という律法があります。その律法があるが故に、今弟子は、この不幸が親だったのか、本人だったのか聞いているんです。何故なら本人が罪を犯すはずがないでしょ。生まれた時から盲目です。おぎゃーって生まれた時から盲目。何の罪を犯せるんです?そんな生まれたばかりの赤ん坊に。だから、生まれたばかりの赤ん坊が盲目で、それが罪という現実が現れているのならば、これは先祖ですか?と言うしかなかったんです。弟子達には。この神様の3代、4代呪われるっていう言葉をもって、弟子達はそれをイエス様に聞いている。でも、イエス様の答えは、いいえ。過去にはなく、未来にあるんです。未来、神がこれを益に変え、光の間に働くものを、神を愛する者には、神が働いて全部有益に、利益に変えてくれる。という弟子達の質問にイエス様が答えてくれているんです。そして5節~わたしが世にいる間、わたしは世の光です。~と言った後に、地面につばきをして、泥を作り、その盲人の目に泥を塗ったんです。

古代の昔から、傷口に唾を塗るっていう事は、どの国でも迷信があるし、そしてまた、治ったという言い伝えがあるのだから、この聖書においてイエス様が唾を使ったっていうことにおいては、その迷信と同等に扱う人達がいる。ましてや他の福音書でも、イエス様は唾を使って治している場面がたくさんあります。でも、ここでイエス様が使ったのは、唾だけじゃなく、唾と泥だったんです。そこに、イエス様の言いたい、或いはヨハネの福音書が言いたいことがあるんです。

ローマの皇帝、何代目かのローマの皇帝がアレキサンドリアの街に行った帰り際に、2人の腕に障害があり、盲目の人が、神のお告げがあって、この皇帝の唾を塗ったら、目が治り、皇帝の足で踏みつけられたら、手が治るっていう神のお告げがあったから、どうしてもやってくれ、としつこく訪ねて来た人がいた時に、皇帝は困り果て医者を呼び、どうしたらいいものか?治る筈がない。こんなのあり得ない迷信だと言った時、医者は「そのままにしておけばいいんじゃないですか。もし、皇帝の唾で治り、皇帝が踏んで腕が治ったらそれで良し。皇帝の栄光になるけれども。もし、治らなくても彼らが恥をかくだけだから、一旦やってみたらどうですか?」という医者のアドバイスで、皇帝が実際に唾を目につけ、腕が萎えている人を足で踏みつけた時、治ったっていう言い伝えがあるんです。こういう伝説はいっぱい他の国でもあって、唾を塗ったら治ったっていう、そういう言い伝えがある中で、この福音書で書かれている、イエス様が何故唾を使ったのか、その迷信を利用して、この盲人を治そうとしたのではないか。と言っているけれども、その皇帝でさえ、唾で治るなんて誰も思っちゃいない。そんな皇帝みたいな凡人でさえも、唾で盲人の目が開かれるなんて、思ってもいない。そんな迷信、そんな根拠がない事を、医学が発展してない時でさえ、そんな事誰でも分かる事実なのに、イエス様がそんな迷信を利用してやるはずはない。ましてや、これで唾で治るってやってしまえば、唾で治るっていう印象を人に与えてしまう。そしたら、皆がイエス様というよりは、迷信、人の教え、言い伝え、奇跡の方に目がいってしまう。で、イエス様がこの時は唾と泥を使ったのは、この唾は泥を作るための、ただの代液に過ぎなかったと言えば、今度は泥で治るっていう事になってしまう。だけど、この泥で治るっていうのもあり得ない現実です。泥で治るなら、誰でも泥んこを使って病気を治せばいいけど、そんな事する人は誰もいないんです。だから結局、唾でも泥でも、これを治すっていう事はイエス様が言いたいことではないて事です。こんな迷信をイエス様が人に信じさせるはずがない。じゃあ、何故、こんな必要もない、余分な事を、しかも面倒くさいことを、しかも、こんな遠回りなことで目を治したのか?という事になる時に、ここに、泥を塗って次はシロアムの池で洗い流すっていう七面倒くさい事を、この盲人にさせたっていう事。しかも盲人はここに唾を使っている事なんて分かってないんです。見えてないんだから。何を使ったかは分からないけれど、ただ、泥を塗られて、池に行って洗えと、言われているだけなんです。それをイエス様が何故ここでしているかというと、ナアマン将軍もそうだったんです。ナアマン将軍はらい病でした。そして彼は大将軍でした。王様に気に入られている、王様の右腕。そしてそのナアマン将軍はエリシャの所へ行って、「このらい病を治して欲しい」とエリシャの所を訪ねて来た時に、エリシャは戸口にも出てくれないんです。こんな有名人が来たのだから、エリシャが喜んで門口に来ると思ったら、この人は来てくれない。しかも、弟子が来て、この弟子に言わせたんです。「ヨルダン川で7度身を洗いなさい。そうすれば、あなたのらい病は治る。」と言った時に、ナアマンがすごく怒ります。ヨルダン川より、自分の国の川の方がよっぽどきれいだ。こんなどろどろの泥水の、こんな川で洗うよりは、自分の国のきれいな、あの澄んだ川で洗った方がよっぽどいいじゃないか。俺をばかにしている。私はエリシャが来て、患部に手を当て、呪文のようなものを唱え、霊媒のようなやり方で治してくれると期待して、遥々ここまで来たのに何ていう酷いことをしてくれるんだ。と怒って帰ろうとした時に弟子が、難しい注文をしたら、あなたは絶対にやったはずです。何故こんな簡単なことが出来ないんですか?それで治ったらどれだけいいですか?と言われた時に留まって、ヨルダン川で7度洗った時に、本当に赤子のようなツルツルの肌になって、らい病が完全に癒された話が旧約聖書にも出てくるけれども、その時も同じです。そんな事しなくても、エリシャが手を置けば治ったかもしれない。そんな七面倒くさいことを言わなくったってナアマン将軍を治すことは神には可能だった。じゃあ何故、この盲人にも、ナアマン将軍にも、池に行って洗えだとか、泥を塗ったりとか、色々な注文をするのか。という事は、これは神がそう言ったから、従いなさいです。神はどんなやり方で治す事も可能です。どんな風にしたって治す事ができるんです。何故、人それぞれに違う方法で治し、人それぞれにまた違った形をとられるのか。何故泥なのか、何故唾なのか、何故池なのか、何故湖なのか、って言った時に、そこには意味がない。そこで治しているわけじゃない。その湖の水が効いてる訳じゃない。唾や泥が薬となっている訳じゃない。これは、イエス様がおっしゃったから。神の御言だからそうしなさい、なんです。だから、この言葉に従った者に奇跡が起こり、そして神の栄光が現れ、そして癒しが起きるんです。だから、神が語ったことに従うっていう事が、昼のうちにしなくてはならない事であり、神を愛する者達がしなくてはならない事。ここでは奇跡の方法が重要ではないし、起こった奇跡が重要ではなく、イエスこそ、です。イエスこそそれが出来るお方。イエスこそが完全なお方。イエスこそが癒し主。イエスこそが救い主。イエス様がここで言いたいことは、そこなんです。何の方法で、どんな奇跡では関係がないんです。ましてやここだけなんです、『生まれつきの盲人』と使っている単語は。他でも出てくるけれども、この9章で何回も出てくるんです。その後、パリサイ人の裁判の時だって、「この人は生まれつきの盲人だったのか?或いは途中から盲人になったのか。或いは生まれつきだったのか。或いは途中からなのか。」何回も、親まで呼び出すんです。親まで呼び出して、盲人は、いつから盲人になったのかっていうのを、くどくど、くどくど、この9章は言うんです。この福音書だけなんです。生まれつきの盲人。生まれた時からの盲人。赤ん坊の時から盲人だった。というのが、この箇所だけなんです。それはヨハネは意識して、そのようにここをずっと書いています。旧約聖書で、偉大などんな預言者も盲人は治したことがないんです。そして、聖書全般において、盲人は罪人の象徴なんです。罪人というのは、神が見えない、神の言葉が分からない。人が分からない。自分の魂の闇が分からない。自分の罪が分からない。全く分からない、全く見えない。全く、全然、悟れない。というのを盲人に譬えて話してるんです。だから、ここで完全に生まれつきの盲人という事を強調しているのは、生まれつき神が分からない。生まれつき罪人。生まれつき汚れている。生まれつきサタンの子。生まれつき何一つ悟れない者。というのを強調しています。そして人間とはそういう者です。そして、旧約では誰一人目は開いていないんです。それは旧約に盲人の目を開くのは一体誰なのか、という預言が何度も、何度もされているんです。この罪深いものの目を開けるのは、一体誰なのか。


イザヤ42章6-9

~「わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握り、あなたを見守り、あなたを民の契約とし、国々の光とする。こうして、見えない目を開き、囚人を牢獄から、やみの中に住む者を獄屋から連れ出す。わたしは主、これがわたしの名。わたしの栄光を他の者に、わたしの栄誉を刻んだ像どもに与えはしない。先の事は、見よ、すでに起こった。新しい事を、わたしは告げよう。それが起こる前に、あなたがたに聞かせよう。」~


この盲人の目を開くのは、神であり、遣わされた者、ヤハウェの神、天から下ったもの、在りて在るものが盲人の目を開く。という預言が旧約聖書にはたくさん出てくるんです。だから、どんな預言者も盲人の目を開いたという事は聞いた事がない。そして今イエス様が生まれつきの盲人を敢えて開かせるんです。何故なら盲人というのは、実際の肉体の目が見えない状態ではなく、イスラエルにおいても、誰においても罪深い、本当に罪の象徴で、神が分からない、鈍い、卑劣な心を言っているんです。だから、この卑劣で罪深い、神の分からない、まるで異邦人のような、動物のような、犬ごときのような、そんな者の目を開くのは神しかいない。遣わされた者しかいない。ヤハウェしかいない。救い主しかいない。キリストしかいない。メシヤしかいない。という事を強調しているんです。だから、『遣わされた者』という意味の池で洗ってるんです。ここで、シロアムの池と書いて(遣わされた者という意味である)という( )が付いている。他の池でもイエス様は病気を治している。でも、このシロアムの池は、ここでヨハネが(遣わされた者)と説明します。シロアムの池で洗わした理由です。この盲人の目は開いたことが過去1度もなかった。そして預言者達は、この盲人の目を開くのは神しかいない。そして遣わされているメシヤしかいない。そのメシヤが来た時に盲人の目は開かれる。という預言者の言葉。そして、シロアムに行って、あなたの目を洗いなさい。というのは、この遣わされた者だけが盲人の目を開くことができる、という強調なんです。このシロアムの池で盲人が目を洗うというお話は、後に逃げ惑って、地下に潜って礼拝する人達が、地下で礼拝する時、このシロアムの池で盲人の目を洗っているっていう絵を描いています。しかし、シロアムの池で盲人の目が開かれたっていう絵を描いた根拠は、洗礼式の状態なんです。だから洗礼式の絵として描かれているんです。だから、シロアムの池で生まれつきの盲人が、目が開くその瞬間、池で洗っているっていうその瞬間は基本的には洗礼式っていう認識を、後のキリスト者達は持っているんです。そしてここを神学者達が解釈する時には、盲人というのは罪びとの事。そしてその罪人は全人類の事。そしてその罪人をイエス・キリストの洗礼で目が開かれるようになる。これは洗礼式の強調だ、と解釈している通りなんです。だから、遣わされた者という( )が加えられています。遣わされたイエス・キリスト、天の父が立てた御子、唯おひとり。その神から出た神。そして世の光。この方こそが闇から光に、目の見えなかった者が見えるように、悟らず神が見えなかった者が、悟って神が見えるように出来るこのお方は、唯おひとり、遣わされたイエス・キリストだけである。という洗礼の強調から、このシロアムの池で盲人が癒されるというその意味だったんです。だから、ヨハネはここで、それを強調している。イエス・キリストだけが罪人を救うことができ、イエス・キリストだけが目を開かせることができ、イエス・キリストだけが世の光である。闇を照らす事ができるのは、この方しかおられないんだ、という事をこのシロアムの池の譬え、盲人の目が開くことにおいて、ヨハネは強調しているし、またイエス様もここでそれをおっしゃりたい。だから、ここの箇所でイエスしかいない。イエス・キリストこそ救い主。イエス・キリストこそが私達の全てという事を強調しているんです。

そして、盲人、盲目の者が池に行って目を洗った瞬間、開くんです。見えるようになって。そうすると、周りがあたふたします。これは誰だ?乞食だった人か、以前盲目だった人か。という噂が全般的に流れて、誰が開けた、その人はどこにいる?一体その名前は誰だ?という事がここで強調されていくんです。だから、ここで目を開けたのはイエス・キリストで見えるようになった。をここで、強調したいんです。見えるようになった。イエスが見えるようになる。これを強調したいんです。この盲目を開けられるのは、そしてこのイエス様の、神の御業、栄光、力によって、盲人は神を見ることができる。一体これは、誰だ?それはイエス・キリストだ。という事をここで、強く強く、ヨハネは語ろうとしているんです。読んでいる人達がだんだん誰だ?一体誰が?どうして?こんな奇跡が、預言者もやれなかった事、旧約の誰もできなかった事を一体誰がしたんだ?それは神から遣わされた唯一の神、唯一の光、それがイエス・キリストだったんだ、という事をヨハネは強調している。だから、イエス・キリストこそ、光であるという事を、ここで強調するために、「わたしは世の光である。」とご自身が自らおっしゃり、そしてこの盲人は、神の栄光のためで、神の御業のためにこの人が盲人だった。と言っておられ、これこそ、イエス・キリストしかいないんだって事です。全ては神の光があるうちに。必ず闇が来るということをここでまた、強調しています。永遠に光があるわけじゃないし、ずうっとイエス・キリストが待ってくれるわけじゃない。そしてこの不幸が未来に変わり、益に変わることは、イエスを心から愛した人だけ。イエスの仕事を心から従順した人だけ。その者だけが不幸が神の栄光に変わるんです。『誰でも』じゃないんです。誰の目も開くわけじゃないし、どの人の不幸も治るわけじゃない。ずーっと不幸、より一層不幸っていう人がこの世には大勢いて、より一層見えなくなり、より一層神が分からなく、より一層神を理解できない者だって大勢いるんです。大勢出てくるはずです。これは、誰でも、と言っていないんです。光のある間、です。夜が来る前。神の御業を信じた者だけ。神の栄光に従った者だけ。神を愛した者だけ、この不幸が幸せに変わる、です。

そして、私達はこの洗礼が、イエス様が死んで甦ったことを信じて、古いものが死に、新しく生まれ変わっていなければ、誰もイエスを見ることはできないと理解します。誰も、です。誰も、水と聖霊によって新しく生まれ変わってない人は、イエス・キリストが神である事が分からないんです。盲人のままです。生まれついた罪人でしかあり得ないんです。だから私達が自動的に何もしなくても、何でもタダで、神様はこの不幸を治してくれるだろう。この病気を治してくれるだろう。神様は仕事をくれるだろう。最後まで養ってくれるだろうと、思ったら大間違いです。誰でも養うわけじゃない。誰でも病気が治るわけじゃない。誰でも、あなたの願ったそんな望みと希望が叶うわけじゃないんです。これは、本当に神を信じた人。たとえ従ったとしても自分の生きている間とは限らないんです。後の時代、次の時代。或いは他の国、或いは他の全く知らない他人かも分からない。だから、この神の栄光は歴史の中にしか存在しないし、神の創造の摂理の中でしか存在していないんです。誰に見合ったものがあるなんていうのは、神しか分からないし、この報いは神だけができるんです。そして罪人の目を開けるのは、イエス・キリストしかいない。遣わされた、神から出た、神しかいない。ここを強調しているんです。

私達が勝手に願って、自分だけのイエス・キリストを作り上げるのは、大間違いだって事です。神はこの歴史の中でしか働かないんです。神は神の作った真理の中だけで働いてるんです。神は道理や原理の中でしか働かないんです。神は律法の中で働いているんです。神は聖書で語られたその言葉の中だけで働くんです。だから私達が信仰がなければイエスがしている事が分からないんです。信仰の目で見なければ神が分からないんです。罪人の目で、不平不満と怒りと妬みと嫉妬と、自分の成功、自分の評価、自分の何かの幸せに執着して、妄想している者には、イエス様の真の恵みや愛がわかる筈がないんです。歴史の中で、全世界で動くものの中で、後の子孫の中でしか理解できないんです。だから、信仰によって救われるっていう福音なんです。見ることによってではなく信じて救われるんです。これが、私達が聞いてきた福音なんです。真理なんです。信仰がなければ、誰も主を告白できないんです。『信じて救われる』です。これはキリスト教の教理、真理です。そして、あなたの起きてる不幸は、後の未来のために、神の栄光のために益にされるんであって、あなたが罪を犯し、あなた自身の失敗やミスであなたが蒔いた種による不幸は、神が何でもしてくれるわけではありません。全部神のせい、全部悪魔のせいではあり得ないんです。従う者にはそれを全部神の栄光に変えることができるとおっしゃてるんです。

私達が砕かれ、本当に砕かれた時です。自分の罪を悔い改めた者が目が見えるようになるんです。本当に自分の罪に、本当に思い悩み、悔やんで悲しみ、貧しくなった者がイエス・キリストが見えるようになるんです。その人が神の国を相続するんです。天国という所は、そういう者が、そういう盲人だった者達が、見えるようになって入っていく所です。

私は盲人ではなく、見える者で、私はそんなにミスを犯してない、私は頑張ってきた、熱心に生きてきた、そんなに悪いことはしていない。私は他人の足を引っ張ったことはない、私は十分に良いことをしてきたと思っている人が、むしろ盲人だっていう事です。盲人のまま入れないんです。天国には。イエスが分からないんです。一生涯不平不満と堕落したまんまでしか居られないんです。だから、あなた方が今日、目が見えるんですか?見えないんですか?イエスが分かるんですか?分からないんですか?もし、今日分からないなら、あなたは砕かれていないんです。今日も高慢なんです。今日も傲慢で、神のせいにしてるんです。あなたのその不幸を。「私は弱いから」とか「私の環境がこうだったから」「はじめからクリスチャンじゃなかったから」「教える人がいなかったから」とか。やはり、どう考えても違います。本当に全ての人間は卑怯です。だから、どんなにクリスチャンになったと言っても、神のくれた恵みが分からない。神から受けた恩が分からない。返す気もない。自分の栄光で手一杯。自分の名誉回復だけで手一杯なんです。そしたら、見えない。ましてや神の恵みなど、分かる筈がないんです。目の前の人間にしてもらっている恵みや恩恵が分からないのに、見えない神がどんなに良くしてくれているかなんて、誰が分かるんですか。盲目なままです。だから、神に栄光が返せないです。神もその人の起きている災害、起きている不幸を益には変えないです。これは恵みだと分かる信仰が大切です。これを本当に神のお蔭で、神の一方的な憐みだった、一方的な神の賜物、一方的に神だけがこれをなさることが出来たと、本当に砕かれた者だけが、後に神がご自身の栄光に変えるんです。人間は本来神の恩も感じない。自分しか思わない。汚れた罪びとです。

これを今日の御言で私達が理解しなくてはなりません。学ばなければならない。そしてこれをアーメンと受け入れなければならない事です。そして、そこでまだぐずぐずしているなら、もう2度と回復できない夜が来るんです。これが今日のテーマなんです。夜が来る前にあなた方は目を開く以外にないんです。砕かれて悔い改めて、神に栄光を返すことが全てです。そして、それが人間の本当に目の見える、本当の幸せなんです。

祈ります。

Yokohama Glory Church

イエスは言われた。 「わたしは、よみがえりです。いのちです。 わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者は、 決して死ぬことがありません。 このことを信じますか。」 ヨハネ11章25,26節

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