ヨハネ福音書8章48-59

~ユダヤ人たちは答えて、イエスに言った。「私たちが、あなたはサマリヤ人で、悪霊につかれていると言うのは当然ではありませんか。」イエスは答えられた。「わたしは悪霊につかれてはいません。わたしは父を敬っています。しかしあなたがたは、わたしを卑しめています。 しかし、わたしはわたしの栄誉を求めません。それをお求めになり、さばきをなさる方がおられます。まことに、まことに、あなたがたに告げます。だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません。」ユダヤ人たちはイエスに言った。「あなたが悪霊につかれていることが、今こそわかりました。アブラハムは死に、預言者たちも死にました。しかし、あなたは、『だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を味わうことがない』と言うのです。あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのですか。そのアブラハムは死んだのです。預言者たちもまた死にました。あなたは、自分自身をだれだと言うのですか。」イエスは答えられた。「わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光はむなしいものです。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。この方のことを、あなたがたは『私たちの神である』と言っています。 けれどもあなたがたはこの方を知ってはいません。しかし、わたしは知っています。もしわたしがこの方を知らないと言うなら、わたしはあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、わたしはこの方を知っており、そのみことばを守っています。あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。」そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。{そして彼らの間を通り抜けて進み、通り過ぎて行かれた。}


今日ユダヤ人とイエス様が論争しているんですが、「あなたは一体誰ですか?」という論争です。そして、それはもうずーっとこの8章で続いてる事なんです。そして、イエス様が言ったのはこうです。「あなたは悪霊に憑かれているサマリア人だ」と言ったときに、51節


~まことに、まことに、あなたがたに告げます。だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません。」~


というのは、イエス様が言った言葉で、またユダヤ人達は大変怒りに燃えていくんです。『わたしの言葉を守れば決して死をみない』というイエスの言葉通りに腹を立てているんです。結局物理的な死のことで、彼らは更に怒りを増長させているんです。

ユダヤ人という民族は、確かに頭がいいです。そのまま律法を、百何条もある律法を暗記してしまうし、詩編は勿論のこと旧約聖書をそのまま暗記させてしまうんです。だから、言葉の1行、1行をすごい大切にするし、言葉の端端を全て丸暗記していく民族です。だから、言葉通りにいつも論争しているんです。この8章はずーっと。言葉の揚げ足をとって、言葉をもって、イエスといつも論争しているんです。ユダヤ人にとって言葉で何を言ったか、何を言っていないかっていう事だけで論争しているんです。だから、ここでイエス様が「わたしの言葉を守るなら、死をみない。守らないなら、死ぬだろう。」と言っている言葉も、言葉通りに彼らが解釈しているんです。そうすると、彼らはこの世の知識人であったとしても、もう既に宗教人ではないということです。宗教は言葉だけでは限界があるんです。何故なら、『全知全能の神』『宇宙万物を創造した神』これは、人間の人知で知り得るはずがないんです。この神を知るために言葉は媒介されています。神と人間の間に言葉というものは当然使われています。この『言葉』で聖書は書かれているし、この『言葉』で人は聖霊の感化を受けて聖書を書いているんです。だから、当然この言葉は使われています。そして、これ以外に方法がないと言えば、方法がないんですけれども、問題はこの『言葉』ではなく、言葉による『背景』が重要になってくるんです。この『言葉』の本当の内容、本当の思想、本当の意味です。それが宗教人です。だけど、ここで言葉通り、物理的な『死』だけにこだわっているとするなら、彼らはもう宗教人ではないんです。だから、ここを見ると、ユダヤ教といのが、もう宗教ではなくなっているんです。既に人間のコミュニティなんです。だから、公民館のようなものになってしまっているんです。神殿の中が。もう自分たちの生活において、コミュニティという形をとるだけのものになってしまっている。だから、この『言葉』だけでいつも論争しているんです。でも、『言葉』というものは、そういうものでない事をパウロが言っています。


第1コリント2章11,13

~いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。~

~この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。~


人のことでさえ、本当に知っているのは、その人の霊である、ましてや神のことにおいては、神の霊以外、神を知っている者はいないとパウロは言っているんです。ここで、理解するのは言葉ではないと言っているんです。だから、パウロはこう言いましたよ。神の国は言葉になく、力にあると。その意味なんです。だからユダヤ人はもう既に背景が分からないという事自体が神の霊とは関係なく、宗教人ではなくなっているんです。ここでは、只のこの世の教えを教えている者に成り下がってしまっているんです。だから、「わたしの言葉があなたに留まらないなら、わたしとあなたは、何の関係もない。あなたは死ぬだろう。」と言われている事に、「あなたはやはりサマリア人であり、悪魔だ。」という判断をしてしまいます。「あなたは、決して預言者の一人ではない。あなたはもう悪魔の子であり、サマリア人だ。」という表現をしているんです。この『サマリア人』は放浪の以後、ユダヤ人の血を守らず、移民たちとの混血で、異国人の血が混じっているので、彼らを異端呼ばわりしているんです。この『異端』といのは、ユダヤ教の主流ではないという意味です。完全な異国人でもない、この主流から外れた宗教の異端者という意味なんです。サマリア人というのは。だから、ラビ達の言葉によると「ラビ的に律法を学ばなければ、その人はサマリア人だ。」という言葉があるんです。だから、律法の先生、律法の教師たちから律法を学ばなければ、その人はサマリア人だ。という事は、この宗教から外れた、異端の宗教。違う宗教の人間達。勝手に聖書を利用し、勝手に礼拝をし、勝手に私たちと違う礼拝方法を行ってる人達。というのが、サマリア人っていう意味なんです。だから、イエスの事をユダヤ教の主流から外れた者、異端。そして、我々とは違う悪魔の子。という判断をされているんです。そして、「あなた方は全くわたしの言葉が留まっていない。」というイエスの言葉で始まっているんです。この論争は。


~わたしは父を敬っています。しかしあなたがたは、わたしを卑しめています。~


ここは、わたしは父を重んじている、でも、あなた方はわたしを卑しめている。という言葉をイエス様が言っているんです。そして、今言った言葉で、「あなたはやはり、悪霊に憑かれていることが今こそ、はっきり分かった。何故なら、アブラハムも死に、預言者も全部死んだのに、あなたはそれよりも先に居たというのか。」という次の論争に入っていくんですが、この「わたしは人間など重んじていない」と言っているんです。「わたしは天の父だけを重んじて、それを優先にしてるし、その教えだけを守っている。」と言っているんです。でも、イエスがここで言っているのは、神だけを重んじ、人間を軽んじてる、という意味ではないんです。その天の父が何をしているかというのがその後に続きます。54節


~「わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光はむなしいものです。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。この方のことを、あなたがたは『私たちの神である』と言っています。~


このユダヤ人達が父とも呼び、全能なる神とも呼び、創造主と呼んでいる、この神は、イエスに栄光を帰す事が望みだって言っているんです。天の父は全ての栄光はイエスに帰すことを望んでいる。そしてわたしは、この父の栄光を重んじている。わたしは、わたしに栄光を帰したりしないし、そんな事を望んではいない。でも、父がわたしに栄光を帰すことを望んでいる。という風にイエス様はそこで答えています。そして、この父は全てを裁かれる方だって50節にあるんです。わたしはわたしの栄誉を求めていません。それを求めるのは、天の父であり、その方は裁く方である。審判主である。だから、天の父が求めているものは1つです。イエス・キリストに栄光があることです。そしてその方は全てを裁く方です。だからわたしは、わたしの名誉を求めているのではなく、父の名誉を求めているんです。父を重んじ、父の栄誉を第1に求めています。その父のただ一つの唯一の願いは、全ての被造物がイエス・キリストに跪き、イエス・キリストを褒めたたえることだ。と答えています。それで、この神は裁く神だ。全ての基準を知っている。全ての裁きを公平に行う能力がある。全ての人間の善し悪しが分かる方。そしてそれを裁く権利のある方。その父に、わたしは全ての裁きを任せている、です。わたしは誰も裁かないけれども、わたしは天の父を全てに重んじているから、その天の父がやるべき全ての裁きに人間の善悪を委ねている。そして、その父の一つの願いは、全てがイエス・キリストが基準であること、です。このイエス・キリスト、すなわち、わたしが全ての基準だと言っているんです。このわたしを卑しめるか、このわたしの言葉に留まるかが、全ての基準だって言っているんです。この論争はとても難しい論争です。このわたしの御言が基準だと断言されます。それは、天の父がそれを望んで、イエス・キリスト本人も天の父の望み通りにしていると、言っています。これが、今ユダヤ人との論争なんです。このイエス・キリストが人間の全ての価値、基準の中心に居る、です。だから、このイエス・キリストが語った言葉が、人間が父に裁かれる基準になる、です。だから、イエス・キリストを褒め称えるか、逆らうか。イエス・キリストを認めるか、否定するか。イエス・キリストに従うか、不従順するか。イエス・キリストの御言葉が私の中に留まっているか、留まっていないかという、それが神の基準だって言っているんです。それを今イエス・キリストがはっきりとご自身の言葉で語られています。そして、それはわたしの言葉を守るものは、死を見ない、です。でも、この『守る』っていう所で、カルヴァンはこう言っているんです。『守る』は、「はい、はい。」「そう、そう。」「うん、うん。」と言って聞くようなものではない。これは、心の奥深くに仕舞い込み、宝のように大事に守り、そして実践するもの。これが、この神の言葉を守るものです。ただ、聞いて、ノートに書き、録音し、「ふむ、ふむ。」って言って、何度も聞きました、なんていうものではないんです。心に仕舞い込み、大事にし、宝のように愛おしく、愛し、そして実践する、です。それが、神の言葉に従っている、留まっている、です。だからそれをしない者は留まってはいない、です。何度も何度もこの8章で繰り返されていることです。そしてこの言葉が、全ての基準だって言っているんです。そしてそれを見て天の父は裁くと説明します。そしてイエス様はその裁きを天の父に全部任せている。このわたしに聞かなければ、あなたは死ぬと仰いました。絶対的な神性を言っているんです、イエス様はここで。だけど、彼らはその言葉が分からない。物理的な死だけを言っています。彼らの理解は、このイエスの言葉を聞いたら死なないで、このイエスの言葉を聞かなかった者は、今ここに、存在してない。今このエルサレムの周辺に居て、イエス様の言葉を聞かなかった者は肉体が死ぬ。やっぱり悪霊。こんな教えはサマリア人に違いない、なんです。言葉だけで、言葉しか分からない。或いは、言葉さえも分かっていない。こういう状態に今ユダヤ人がいるんです。もう完全に宗教人じゃないんです。彼らの考えはこの神を知るっていう事に、言葉だけで十分と思っています。とんでもないですよ、言葉だけで神が分かるっていうの。それは、人間のコミュニケーションもおんなじなんです。言葉だけで人間は、コミュニケーション取れませんよ。だから、今、あまりにも言葉が堕落したもので、ボディタッチでコミュニケーションするっていう類いなものへいってしまったんです。このボディタッチはなんですか?体だけです。心でコミュニケーションが取れない。しかも、互いに全く理解し合えない。

昔の人はこの言葉を超えてコミュニケーションしていたんです。目と目で。魂と魂で。心と心で分かり合うっていう事を、昔の人は、まあ全員とは言わなくても、していたんです。でも、今の堕落した人達は、言葉も堕落し、精神も堕落し、全てが堕落しているから、言葉を使っても、何を使ってもコミュニケーションが取れない。コミュニケーションは、そんなボディタッチでもないし、言葉でもないし、それを超えた魂でやるものです。パウロがさっき第1コリントで言っているように、人の霊も霊で知るし、神の霊はまさに聖霊によらなければ、知ることはできない。だから、霊魂と霊魂なんです、本当の付き合いというものは。だから、コミュニケーションが取れないんです。聖書を読んでもわからないんです。このユダヤ人たちのように。という事はもう、宗教人ではなくなっているんです。霊の世界ではないんです。霊の世界の住民ではないんです。ただ、言葉尻をつかんで、言ったか言わないか、証拠を見せるか見せないか。昨日それを言ったでしょ、言わないでしょ。そんな事を繰り返しているんです。ユダヤ人とイエス様は。そして、やはり通じない場合、相手を悪魔にし、そして通じないコミュニケーション、通じない人はもう、切り捨て、全く無関心になっていくという。これが、今の言葉の堕落の状態ですよ。だから、聖書を読んでも分からないし、メッセージを聞いても分からないし、どんな偉大な書物を読んでも分からないんですよ。神が分からないだけじゃなく、もう何も分からないんです。何もコミュニケーションが取れない。相手が何を考えているのかも分からない。自分を表現するのも、何もできないんです。これが今の状態です。酷い状態です。しかも、この当時より今はるかに酷い状態に陥っていると思いますよ。そして、イエス様がわたしの言葉が基準だと言っています。この基準を守らなければ、天の父があなたを裁くだろう、です。この天の父が裁くのは、正当であり、公正なんです。不正がないんです。これはずーっと、イエス様がユダヤ人に向かって語っているんです。それを言うと、やっぱりあなたは悪魔ですね。今こそ分かった。


~アブラハムは死に、預言者たちも死にました。しかし、あなたは、『だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を味わうことがない』と言うのです。あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのですか。そのアブラハムは死んだのです。預言者たちもまた死にました。あなたは、自分自身をだれだと言うのですか。」~


こういう風に反論していくんです。ユダヤ人たちは基本的にこうやって反論します。サマリアの女の時もそうでした。井戸の水で、「その水をわたしに飲ませてください。」と言ったときに、「あなたはヤコブよりも偉いのですか。」と聞くんです。ユダヤ人の基準なんです。あなたはアブラハムよりも偉いんですか、モーセよりも偉いんですか。あの素晴らしい預言者たちよりも偉いんですか。だからここでも、「あなたはあの偉大な私達が父と呼んでいる、アブラハムよりも偉いのか」と聞いているんです。そしてイエス様は答えるんです。


~あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。」~


そして彼は言うんです。「あなたは50歳にもなっていないのに、あなたはアブラハムを見たのか?」そしたらイエス様はまた答えられます。


~「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」~


この『いるのです』は、「あるのです」なんです。本当の訳は。わたしはそこに在りて在るものだったというのです。死を見ることがないというのは、観察する必要がないという意味なんです。だから、イエスの言葉が留まると、この世の環境などが意味がなくなるという意味です。意味がなくなってしまうんです。死んだり生きたり、食べたり、飲んだりすることにあまり意味がない。それがイエス様の御言葉だっていう事です。決して肉体が死なないなどとは、言っていないんです。死の意味がなくなる。死というものが、あなた方にとって恐怖というものでなくなる。永遠なものが素晴らしいものだ。それがイエスの言葉が留まるなら、分かるようになる。そのイエスの言葉が留まった預言者たち、アブラハム、その数々の預言者たちが、このイエス・キリストを喜んでいたと、言っているんです。イザヤはこう言っていますよ。イエス様が来られる、1000年、800年前の人ですよ。私達は彼が到来する、彼の事を喜ぶっていう、表現をしています。イエス様が肉体をまとって来られる、遥か前ですよ。でも、それよりもっと前に存在したモーセはなんて言っているか。詩編90編2節、これはモーセが作った詩です。


~山々が生まれる前から、あなたが地と世界とを生み出す前から、まことに、とこしえからとこしえまであなたは神です。~


「あなたは神です」という所に、あなたは、在るもの。とモーセは言っているんです。この山が創られるというのは、地球が創られる前、宇宙万物が創られる前から、あなたは在りて在るものだった。モーセは何を言いたいんですか?あの柴で見た、わたしはヤハウェの神であった。その在りて在るもの。あなたのお名前は何ですか?わたしは在りて在るもの。その在りて在るものは、この宇宙万物が創られる前から存在していた、とモーセは、イエス・キリストをうたっているんです。このモーセが生まれたのだって、イエスが来る遥か2000年前です。そのモーセがうたっているんです。ヤハウェの神はそこに存在していた。でも、本当は宇宙万物が創られる前から、彼は存在していた。そして、イザヤもそう預言しているし、旧約の預言者たちは全てがそうやって預言しているんです。そして、イエス様はその預言に向かって、そのモーセに向かって、わたしはモーセよりも偉大なものだと表現しているんです。わたしはアブラハムが居た時から、在りて在るものだ。わたしは神と等しいものだ。わたしはモーセよりも、アブラハムよりもヤコブよりも、イザヤよりも遥か昔から存在して、在りて在るものだ。だから、当然その預言者よりわたしは遥かに偉大だと言っています。だから、彼らは石打しようとしました。ただ、この論争だけで、腹を立てているわけじゃないんです。わたしは彼らより偉大だ。わたしは彼らより前に存在していた。わたしは彼らがいたときにも存在していた。そして、わたしは今も存在している。そしてその事はアブラハムが前もって喜んでいた。と言ったからです。

このアブラハムはマムレの木の下でイエス様を見ているんです。その時、イエス様は天使の姿を借りて現れました。アブラハムは「主」と呼んでいます。アブラハムは主が来られたって言っています。その主は天使を遣えて来ていました。でも、その3人は天使のような姿をしていたけれども、旅人だったんです。そしてそこを通り過ぎようとしている時に、「少しお待ちください。私のテントで休んで、ご馳走を食べていってください」と言って、イエス様とそのとき、アブラハムは目と目を合わせていますよ。でも、アブラハムが喜んでいたのはその時じゃないです。あのマムレの木の時も喜んだけれども、今のこの時を喜んで自分が旅人であったことを認めているんです。ヘブル書に書いてあります。アブラハムやエノクやこの全ての旧約の人たちは、この日をみて信仰をもって喜んでいた、ですよ。それは何ですか。イエス・キリストが救い主として来られることを、です。

当然マムレの木の時も喜んでいたでしょう。でも、彼が本当に喜んだ理由は何ですか?必ず救われる、イエス・キリストが到来し、救い主が到来し、ヤハウェの神が到来した時、私達は救われることを喜んだんです。これを今ユダヤ人たちに向かって話されているんです。そのアブラハムはこの到来を実際に天国で見ているかとか、そういう事じゃないです。紫の衣を着たお金持ちは地獄へ行き、そしてラザロはアブラハムの懐に居て、問答しています。その問答しているところに、アブラハムは天国にいますよ。そのアブラハムがイエス様が来られた2000年前に天国で、わぁーって喜んでるのか、そうではない、と言っています。そうではなくて、その日を夢見て、もう彼は既に喜んでいた、です。そして、イザヤもその後1000年後にイエス・キリストを見て、喜んでいたんです。モーセも、あなたは、在りて在るものと喜んでいたけど、モーセは2人称を使っていたけれども、イエス様は、わたしは在りて在るものは、1人称を使っているんです。絶対的に、『わたしは』1人称です。モーセは2人称を使っていたんです。「あなたは」だったんです。でも、イエス様は、わたしは、その時もいたし、いまもいたし、これからもいる。何故なら復活したイエス様が弟子たちに向かって、「あなた方は聖霊を受けたら、地の果てまでわたしの証人となりなさい。わたしはあなた方と永遠に居る」ここも、「在る」ですよ。そのときもわたしはいる、です。未来永劫わたしはいるけれども、今ユダヤ人と論争している時もいるけれども、アブラハムの時代にもいたけれども、モーセの時代にもいたけれども、という意味です。当然彼らよりも偉大だ。何故なら彼らは死んだから。わたしは死んではいない。そこにもいたし、あそこにもいたし、ここにもいる。これが『エゴ・エイミー』です。単独で独裁で自分自身で存在する者という表現なんです。1人称なんです。他の者は全て、偉大な預言者は死んでいなくなった。でも、わたしは今もいる、そして、後にもいる、です。だから、ユダヤ人たちが怒っているんです。神と等しいものと今、語っているからです。これをイエス様が、今ユダヤ人と論争しています。だけど、言葉で言ったり、やり返したりしているので、言葉しか聞けない、言葉さえも聞けないこの人たちは、イエスが何を言っているか、さっぱり分からない。ただ、神を冒涜している人にしか思えない。神を汚している人にしか思えない。もう宗教人ではない。これが人間で、この世の人です。すなわち悪魔の子供でしかない、状態なんです。この状態が神を知ることができず、人とのコミュニケーションが取れず、自分しかしらず、自分のことさえも分からない。これが今、起こっているんです。8章の中で。イエス対ユダヤ人の間で。この前の週でも言ったように、悪魔の子と神の子で分かれていくんです。分離していくんです。何故?神の言葉を知って、宝のようにそれを抱え、実践するのが神の子供です。その子供達は、ハレルヤ、アーメンと言ってどれだけ喜ぶでしょう。ホサナ、ホサナと言って、どれだけ喜ぶのか。マタイ達は、このイエス・キリストが到来して、救い主が来られた、と表現しているけれどもヨハネの福音書は違うんです。この方は到来したんではない、と言っているんです。はじめからいた。ヨハネ1章見たら分かります。この方は初めからいた。と強調しているんです。エゴ・エイミーを強調しています。処女マリアから生まれ、やっとメシヤが来たんじゃないんです。他の預言者たち、他のマタイやマルコやルカはそう表現しても、ヨハネは違うんです。初めから居た、です。彼ははじめから居た、神と共に。それは宇宙万物が創造される前から。モーセの時代にも、アブラハムの時代にも、そして後の時代にも。黙示録を書いたヨハネはその何千年後の話を書いた時も、ヨハネは、「居た」です。ずーっと居たんだ、です。その言葉が留まらない限り、この方を褒め称えない限り、その方を否定するならば、死を見るしかないし、その言葉が留まるなら、死を見ないで済む。その死を見ないというのは、さっき言った通りに、肉体の死がないわけじゃない。もう、それが意味をなさない、です。この世の人は死が、最後の最後の幕切れであり、最大のものであり、死そのものは恐怖であり、人生の全ての価値を占めるものなんです。でも、この神の言葉が留まったものには、死なんて価値がないんです。ただ、天国に入る門に過ぎないんです。これがイエス・キリストの言葉が留まっている人。でも、これは御霊によらなければ、悟ることも聞くこともできないと、パウロは言っています。そのためにイエス・キリストが十字架に架かって聖霊を送るっていう作業をしてくれました。その聖霊が来なければ神が分からないからです。だから私達はこの恵みを受けているという事です。にもかかわらず、聖霊を受けても聞こえない、言葉が通じない、ただ言葉尻を捉えているだけで、本を読んでも、聞いても分からない。何を読んでも、どんな手を使っても分からない。という事はこうです。この言葉は嫌いなんです。何度も言ってるように。この教えは自分の腹の中にあるものと違うんです。異質なんです。嫌なんです。拒絶なんです。だから、入らないんです。自分自ら拒絶しているからです。自分の意志なんです。自分の感情に合わないんです。自分の計算とも合わない。自分の計画と全く合わないんです、イエスの言ってる事。全く嫌なんです。反比例しているし、絶対的な拒絶なんです。そして悪魔が囁いていることが大好きです。優しくて穏やかで裁かれず、非難もされず否定もされず、あなたはいい子で、あなたは幸せで、あなたは能力がる。あなたはかわいくて、モテモテで、皆があなたをほめている。悪魔の言っているこっちの囁きが大好きなんです。イエスの言っている、あなたは惨めで、貧しくて、無能で、あなたは悪魔の子だって言われている言葉が嫌いなんです。だから拒絶でしょ、当然。

私達の間に、教会に何故愛がないんですか?過去にあなた方が親に愛されなかったから?過去、人から非難され愛されなかったからですか?誰も助けてくれなかった。優しくしてくれる人がいなかった。でもこれが理由じゃないんです。これは、愛がない理由にはならないんです。少なくてもクリスチャンにおいて、それができないのは信仰がないからです。イエスの言葉がないっていう事です。この感情はイエスの言葉でしか勝てないんです。この私達の悪魔の性質、サタンの性質、この手足に残っている罪の性質、これに勝てるのは、神の御言葉しかないんです。過去の何かじゃない。過去の誰かじゃない。言葉じゃない、境遇じゃない。さっき言ったように死を乗り越える、神の御言葉は、物理的なものじゃない。環境が変わるとか、能力が突然起こされるとか、自分が有能になるとかじゃなくて、そんなものに意味を持たせない、持たない。神の言葉というのは、そんなものではない、という事です。だから、そんなものではない神の言葉に、相手に対する憎しみや怒りがあるはずがないんです。それはもう、当然超越していくものです。だから、神の言葉があるという事はそういう事です。感情なんて問題じゃなくなっていくんです。物理的に死はあります。感情も物理的にはあるでしょうよ、肉体があるうちは。でも、それが問題ではなくなる、が神の御言葉です。御霊がすることです。聖霊が宿った、私達への恵み、プレゼントです。でも今だ感情を抱えたままで、それを押さえ付けることができないと言うならば、神の御言がないという事にしかなれないんです。これが原理です。あなた方はこのみ言葉を感情で聞いてはならないんです。知識で聞いてもならない。真理として聞くんです。怒っているなら、愛がないなら、御言葉がない証しです。過去の誰か、過去の何かではないんです。いつまでもそれに囚われているなら、一生涯ここから抜け出せないんです。愛情に満たされた人が愛があるんですか?愛されなかった人が愛がないんですか?それではイエス・キリストの十字架の死は無意味になります。パウロの言っている、もし、その正義が、義が、行動によって認められるなら、キリストの死は無意味だっていうガラテヤ書2章21節になってしまいます。

これらすべては、御言葉と恵みと真理と御霊によって自由になるものです。過去の何かではないです。過去の誰かでもないし。それをいつまでも続けるなら、あなた方に御言葉が留まっていないっていう原理を知るしかないんです。何故?拒絶したからです。あなたは、あなたの都合が優先です。あなたの便利さがもっといいし、あなたはあなたが愛されていれば、全てOKなんです。原理は私とは関係なく存在するものです。原理は私の環境とか境遇とか感情と、全く無関係に存在するものです。第3者としてその原理を見るしかないんです。その働きは御霊がするんです。イエス様の言葉をそのまんま丸ごと受け入れて宝物のように大事にして、愛おしくなり、実践する、です。これが、イエス・キリストを認めた人。出来ない人は、イエス・キリストを認めてない人っていう原理が起きるんです。イエス様が今日ユダヤ人に向かって話されている通りです。

彼がどうであれ、彼女がどうであれ、私がどうであれ、信仰は乗り越えていくものです。それとは無関係にやっていくんです。彼が何と言ったか。彼女が何と言ったか。彼がどういう行動をし、彼女が私に何をしたかなんて、関係がないんです。そのために、私達は御言葉を読むし、イエス様とコミュニケーションとるために必死に祈る者です。

私達にとって重要なものは、イエス様とのコミュニケーション、イエス様への信仰、私の中に真理を守り通すことです。

私達の中にある憎しみ、怒り、裁く心、そして妬み嫉妬を止めるのは、その人の信仰しかないんです。イエス様とのコミュニケーション、イエス様の御言葉をどれだけ大事に宝のようにするか。そして、それをどれだけ喜ぶか。この恵みをもらったことがどれだけ感謝か。イエスの十字架はどれだけ私にありがたかったのか。このプレゼントは、もう他に、どんな価値にも代えられない。死も、他人が私を責めるどんな言葉も、この恵みには打ち勝てないんです。という事が信仰です。その信仰が、全ての怒りを抑え付け、妬みを抑え付け、復讐心を抑え付ける力です。だから、マタイの貧しいものってそういう事でしょ。恵みを知ったら、貧しくなるんです。イエス様が言っています。やもめと裁判官の話。人を人とも思わず、神を神とも恐れない。この原理は、神を重んじるものは人をも重んじる。神だけ重んじて、人を見下すっていう事は霊的な原理で起こらないんです。人を人とも思わない人は、神を神として恐れない人です。神を神として敬い恐れる人は、人にもする、です。何故?人が好きだから?NO! 家族が好きだから、NO! 私が貧しいからです。私が罪深いのに何故隣人を、他人を見下せるんですかっていう原理がくるんです。そうすれば、神を重んじるっていう事は、私が神の前で罪深い、イエス・キリストでなければ私は救われなかったって本当に思っているなら、隣人は私より低いはずないでしょ。私が一番底辺にいる貧しいものであるなら、それ以下に見下す人が存在しません。ただ恵みによったって思っていれば、誰も見下さないんです。顔がいいとか、能力があるとか、ここ、何の関係もないんです。だから、イエスが留まる、留まらないっていう、これら全ては最後には実践で表していくんです。だから、クリスチャンは光であり、キリストの手紙であり、キリストの墨であり、キリストの香りであるっていうのは、その影響を与えていく人です。これが実践する人です。実践がないなら御言葉が留まっていない。留まらない理由は、自分とイエス様の考えが違っている、です。これにおいて、祈るべきじゃないんですか。この自分が何を逆らって、神の御言葉のどこが嫌いで、どこを嫌がっていて、だから留まっていないということを悔い改めるしかないじゃないですか。どこを嫌い、何を拒絶し、何をそんなにイエスに反発しているか、だから実践もできないっていう、この結果を見れば自分が何が足らないか一目瞭然じゃないですか。

祈りは、感情では無理です。言葉だけ言ったって祈りにはなれないんです。ここは肚わたから出てくるからです。心からです。イエス様に逆らっていたら、絶対祈りなんか出てこないんです。御言葉がないと何にも出てきませんよ。偽りの祈りになるんです。だから、悔い改めは重要です。神殿に入る前に至聖所に入る前に、まず水で洗い、手足を洗い、そして羊の血を塗り、次に装束を着て冠をかぶり、帯を、金の帯を締めていくんですよ。徹底した武装をしていくんです。十字架によって。そして至聖所に入り祈るんです。イエス・キリストがいなければ、私達は神に裁かれます。その人の中にイエス・キリストの御言葉がなければ、裁く神は私達に敵対してくるんです。私の中にイエス・キリストがおられるのを、ご覧になった神は、怒りを持って裁いたりしません。これは旧約からずーっと同じように語られて、何一つ違う事はないんです。旧約から黙示録まで全部イエス様のその血を見て、裁く者たちが通り過ぎていくんです。そして私達が裁きから免れるんです。審判から免れていくんです。そしてみ言葉が留まった者はは、死に意味や価値を持たせないんです。そして私達はその日を、本当にアブラハムが、まだ来ていないイエス様を生きがいとして喜んだように、私達もその喜びをもって礼拝するんです。イエス様が再臨しているかのごとく、もうその日が来ているかの如く、喜びを持って礼拝するんです。主よ、来てください。栄光をもって来てください。神の国を、あなたの御名を、あなたの精神、思想・哲学、聖書の言葉をここで成就して下さいっていうのは、あのアブラハムが喜んで、モーセが喜んでダビデが詩編であれだけうたったことではないんですか。これが、祈りです。私達が何かの利益のためにしているようなものじゃないんです。彼らがかの日を夢見て、生きがいにして喜んで歌った、あの歌です。誰がどんな悪い性格かなんて、計る必要がないんです。それは裁く神に任せておけばいいんです。

クリスチャン同士が憎み合っていたら、ノンクリスチャンの中で塩の役割を果たせません。私達が何のために信仰生活をしているのか。勝利というものが何か。イエス様とは一体誰なのか、もっと理解しなければなりません。感情を出すのは簡単です。失望し、落ち込み、暗い顔を人に見せ、簡単で、誰でも一瞬のうちにやります。でも、それがどういう事かを、よく考えてやるべきですよ。何故なら最後にその言動で裁かれていくんです。

選択に結果責任が伴うんです。後回しにしてはダメです。イエスが創った世界、聖書に書いてある、憎しみも怒りもない、涙も悲しみもないような世界は、聖霊によって可能なんです。この地でも。だから、闘うべきなんです。サタンの国と。サタンの性質と、サタンの考えと闘わなきゃ、この神の国は一生立てあげられませんよ。それを曖昧にうやむやに簡単に扱ってはいけないんです。自分の感情を簡単に表に出してはいけないんです。抑え付け縛り付けて、絶対的に外に出さない、です。

それを口で、「はいはい。そう、そう。」は簡単。重要なのは実践です。空論じゃないんです、信仰は。だからこそ、信仰成長は一昼夜ではいかない。何年もかかりますよ、それは。何年もこの闘いは続きます。でも、あきらめるんですか?止めるんですか?恵みによってこれが可能なんです。能力じゃない。過去でもない。ましてや外見の何かじゃないし。学歴でもないんです。神の国、神の栄光のためにできる最善を尽くすだけです。今からでも闘うしかありません。今日、今、この瞬間聞いてもやれないなら、どんな方法も手法もないです。イエス様がもう1回来て十字架に架かることはないんです。今日、聞いて、この瞬間にやり始めるしかないんです。何度でも、です。何度でも。主に従うことを自分の中で何度でも決断していくしかないんです。そして決別していくしかないんです。自分の中のサタン性と。イエス様にそれを願い続けましょう。アーメン。

Jesus Christ Glory Church

イエスは言われた。 「わたしは、よみがえりです。いのちです。 わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者は、 決して死ぬことがありません。 このことを信じますか。」 ヨハネ11章25,26節

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