マタイ5章1-12  ~貧しい者は幸いです。~

~この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。「貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしない悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。~


今日から山上の説教、ロイドジョンズ牧師の本を土台にマタイの幸福の指針についてメッセージを始めたいと思います。なになには幸いである、という山上のイエス様が語られたこの説教のことを幸福の指針と呼びます。 どのようにしたら幸せになれるか?という神様の教えです。そしてイエス様がこれを語ったのが40日40夜断食をし、悪魔の誘惑に打ち勝って、そして宣教を始められて、初めにこの説教が語られるのです。しかもイエス様が始められるときこう言います。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と言ってこの山の上で大勢の人の前でイエス様が教えを始めるんですけど、その一番初めに「心の貧しい人は幸いです。天の御国はあなたのものだからです。」とおっしゃっています。そして以前の私のメッセージの中で天の御国のことは説明しました。イエスキリストが支配する場所、天国がこの地上に来る、ということです。


でもマタイがなぜ初めにこの福音書の山上の説教を持ってきたか?ユダヤ人にとって神の国への誤解があったからです。自分達は神の国の民だと思っていたんです。エルサレムが神の国だと思っていました。でも、今ここでイエス様が言っている天の御国は、ユダヤ人たちが思っているような神の国ではありません。王が支配するのではなく、このユダヤ人が支配してダビデのような街を造ることが彼らにとって神の国でした。でもここでイエス様が言っているのはその神の国ではなく、天国がすなわちこの地上に、イエスキリストが、神が支配する国がこの地上に来る、統治する場所だっていうことをイエス様は、「天の御国が近づいた。」と言っています。だから神の国、天の国をみなさんがこの地上楽園と誤解したらこの山上の説教を理解できないし、幸福の指針は理解ができません。

そして今日から一部礼拝ではこのロイドジョンズの書いた本を基本に語ります。この本に忠実に一部礼拝は語っていきます。そして二部礼拝はそれをもっとくだいた説教にしていきたいと思います。


幸福の指針についてまずロイドジョンズが、何を原則として、この御言葉を聞く前に私たちが知らなければならないかを語っています。

まず、この幸福の指針の数が、議論的に7つか8つか9つかという議論がありますが、その議論は大切ではないと言っています。重要なのは数ではなく、キリスト者について何と言っているかを知ることが大切だ、と言っているんです。この幸福の指針を聞くことによって一番大切な1番目の原則、これはこの福音書、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書、すべての流れがそうですし、パウロが書いた手紙もそうです。全部この福音書の流れを沿っています。そしてこれは間違いなくクリスチャンに語っているのであって、ノンクリスチャンに語っているものではない、ということです。その原則として1番目、すべてのキリスト者がこのようになれという点を語っています。2番目の原則、全てのキリスト者がこれらの全てを表すように召されている、です。この幸福の指針は、すべてのクリスチャンがそうなりなさい、と言っていることです。3番目の原則。生まれつきの性格ではなく、完全に恵みによって、聖霊の働きによってのみつくりだされる気質を言っているんです。そして4番目の原則、キリスト者と非キリスト者の間の本質的で、徹底的な違いを指摘しているのです。このキリスト者は、キリスト者となればなるほど、イエスに似れば似るほど、ますます非キリスト者とは似ない者となって、この世とは違う者になっていく。それがすなわち天の御国なんです。そしてこの幸福の指針は、議論ではなく、理論ではなく、性格について、精神面について語っているということです。律法的なことではなく、行いによるものではなく、内側のことを語っているんです。だから今から語るロイドジョンズのこの幸福の指針についてみなさんがそれを基準によく理解してもらいたいと思います。

では、第1番目の貧しい者は幸いである。今日はこの1節だけをロイドジョンズの本からメッセージしていきたいと思います。ここで言うのは、心の貧しい者は幸いです。心なんです。『明らかにこれがこの後に続く全ての幸福の指針を解く鍵となるからである。これらの幸福の指針には、疑う余地もないほど極めて明解な順序がある。』これが出だしです。ですから幸福の指針が7つか8つか9つか、これは問題ではなく、1番最初の心の貧しい者は幸いです、が1番重要だと言っているんです。これはものすごく秩序を持った順番で、順番は変えられないんですよ。なぜ?第1番目の心の貧しさが最初になければ、次の幸福の指針は理解ができないからです。だから、この幸福の指針で重要なのは初めであって、終わりじゃないんです。だからいくつかは関係ありのせん。この心の貧しいというものが理解できない人間には次の幸せはもらえないということです。そうやってロイドジョンズはこの御言葉を語っています。『これがなくては天国または神の国に入れないからである。神の国には心の貧しくない人はただの1人もいない。これはキリスト者のつまり天国の市民の根本的な性格である。そして他の性格は全てこの性格の結果として現れてくるものであることとも言える。心の貧しいという意味をさらに説明すれば、その本当の意味は、空にする、ということである。これに対して幸福の指針の他のものは、満たされていることの現れであることがわかるであろう。私たちはまず空にならなければ、満たされることができない。』です。幸福の指針の中の第1番目、心の貧しさは、私たちの内側を空にするんです。

2番目の幸いである、は満たしていくんです。だから一旦空にしなければ次のものが入ってはきません。神様もこう言いました。古い皮袋に新しいぶどう酒は入ることができないと。そして聖書は常にそのことを語っています。常に福音書にはこの両方がある。倒すことと起こすことである。老いたシメオンがイエス様がお生まれになった時にこのように言います。「この子はイスラエルの多くの人が倒れ、また立ち上がるためにさだめられています。」と。イエス様が幼子の時にも預言はそう言っています。倒すことが立ち上がらせることに先だっているんです。『罪の自覚が常に回心に先行しなければならないというのは、福音の本質の一部である。キリストの福音は、解放する前にまず罪の宣告をする。これは明らかに根本的な事実である。』まず罪の自覚なしに祝福がないんですよ。罪の自覚なしに解放も自由もありません。まずここが先だと言って、キリスト教の福音はまずここから教えなくてはならないと言っているんです。『この幸福の指針以上に完全に信仰のみによる義認の教理をのべた言葉は1つもない。』です。この山上の教訓以上に完全な信仰による義は書いてない、ということです。これは信仰の教理なんです。この山上の教訓はそれほどこの福音書の中で1番重要な鍵なんです。他の全ての幸福の指針の基礎です。心の貧しさは、全てこの後続くものの土台となっています。『この第1の幸福の指針は、山上の説教をあなたや私が自分自身の力で行えるもの、独力で実行できるものというような観点からのあらゆる考え方をたちどころに断罪する。』です。自分の力ではこの山上の説教は行えないということです。

今世紀初頭には、非常にもてはやされたこの説教は、今世紀牧師たちがたくさん引用しています。どのようになったら幸せになれるか?です。『引用してきました。人々は神の国をもたらすことについて話し合い、常にその引用聖句として山上の説教を用いた。彼らは山上の説教を自分達の力で実行に移せるかのように考えた。彼らはこれを説教しなさい、そうすれば人はただちに進んでこれを実行に移すであろう、と言った。けれどもこの見解は誤算である。そればかりではなく、これは心の貧しいことについての根本的な命題をもって始まる山上の説教を根底から否定するものである。言い替えるならば、山上の説教は、私たちにこう告げている。ここにあなたが登るべき山がある。あなたがよじ登るべき高峰がある。あなたが登るようにと命じられたこの山を見た時、まず最初に悟らなければならないことは、自分は登れない、ということである。自分自身は登るためには全く無力だ、ということである。そして自分自身の力でどんなに登る努力をしても、自分の無能力を理解していないことの確証を見出すにすぎない、ということである。山上の説教が、自分が変わらないままですぐに実行できる予定表であるという見方を、この幸福の指針は冒頭から非難している。』です。自分がこの性格になれる、自分の努力でこのような生活を送れる、という間違いをまず知らないとこの山上の説教は何一つ理解できない。

だから第1回目の心の貧しさを理解するということがすごく重要だ、と言っているんです。 『心の貧しい者は幸いである』、ここから皆さん良く聞いてください。とても厳しい指摘だけども、とても私はアーメンです。これを貧乏の賞賛だとみなそうとする人が多いんです。貧乏は幸いである。クリスチャンはこれをすごく引用してきます。『けれどもこの考え方は明らかに誤っている。聖書は貧乏自体が良いことだとは教えていない。生まれつきのままの貧しい人は、生まれつきのままの富んだ人よりも天国に近いということはない。』ここから重要です。『貧しさには何の功績も長所もない。』これを貧乏だ、金持ちだと言っているんではないんです。なぜでしょう?『世的な精神の虜になっていないという意味での貧しいこと、つまり富に依り頼まないという意味での貧しさについて語っていることが一点の疑いの余地もなく明らかになるであろう。』です。多くの金持ちが富に信頼するのと全く同様に、貧しい人で富に依存している人が多いんです。これがあったらいい、あれがあったらいいと貧しい者は言います。そして持っていないから持っている人を妬み嫉妬します。このような状態なら幸いではないんですよ。そういうわけでこの貧しいとは、貧乏そのものではありえないんです。私たちのこの幸福の指針を理解するときに、貧しいというのは物事じゃないんです。物を持っている、持っていないということではない、心の問題を言っています。『主がここで言おうとしているのは、心である。心の貧しさである。言い替えるならば、究極的には人が自分自身に対する態度なのである。金持ちか貧乏かということではない。』多くのクリスチャンはここで本当に貧しいのは幸いだと引用しているんです。それは全く間違いだと言っています。

『心の貧しさとは世から称賛されないばかりか、かえって軽蔑される状態である。幸福の指針で語っている以上に世的精神と世的見解に対して著しい対象を示しているものはない。』この世ほど自分を信頼し、自分に確信をもち、自己表現への信望を強調することはないんです。『この世の文学作品を見ていただきたい。そこでは出世したいなら、自分自身を信じようと言っている。この考え方は現代人の生き方を絶対的に支配している。』事実キリストの福音の外にある全生活を支配しているとも言えるんです。『自分を表現し、自分の力を誇示し、また自分を信じることで成功していく。』です。心の貧しいとは、イエス様が言っているものは、絶対この世の賞賛を浴びない、ということです。この世はいつもつまり自分を表現することに専念します。自分を信頼し、自分に生まれつき備わっている力を自覚する。そしてそれらを世に見せる、知らせることで熱中していくんです。そして自信と確信と自己信頼のなかでやっていきます。『この根本的信念にたって人間が御国をもたらす力を持っていると考える。これが議会、律法だけで完全な社会が作り出せるとするあの致命的な前提の根拠となっているのです。』それは、自分の力で自分を表現して自分を信頼するという信念は、共産主義がやってのけたんです。法律、決め事で社会を変えられると思ったんです。

でも共産主義は敗北しました。その思想はこの地上でうまくいかなかったんです。だからそのことで社会を変えることは絶対不可能だ、ということをこのロイドジョンズは言っているんです。『今ここで明らかにしようとしているのは、私たちは他の人の前にいることを考えているのではなく、神の前に立っていることを考えていることである。人が御前にあって徹底的な心の貧しさ以外の何かを感じているなら、それは究極的にはまだ神と直面していないことを意味している。これがこの幸福の指針の意味なのである。』これは、私たちがいつも人前に立って行動しているんです。神の前に立って行動しているという感覚がありません。それはあなたがまだ神と出会っていないということです。神と出会っているならどんな時でもどんな場所でも私は神の前に立っているという自覚があるんです。人の前にいつも立っているんです。神と直面していないということになります。『だから幸福の指針は今日の教会でも人気がない。』この説教は人気がないんです。クリスチャンたちに。なぜ?『先に私は今日の教会における非常に多くの事実と、過去の特に清教徒の時代に事実であったことがらとの間に、驚くばかりの明白な対照の見られるのは残念なことであると述べた。そのとき私の心にはこういう思いがあった。今日の教会において、個性についてのあの愚かしい話題ほど非キリスト教的なものはない。説教者の個性について噂をしあい、この人はなんとすばらしい個性の持ち主だろうと、言い方をする傾向にあなたは気づいているだろうか。ついでながらこのように言う人々が個性と定義づけるらしいその方法を見ると、全く情けなくなる。それはほとんどの場合純粋に身体的で肉体的なことであり、外見の問題なのである。』です。

皆さんが説教者に向かっても隣人に向かっても個性と呼んでいるものは外見的なことで肉体的なことである、と言っているんです。そしてそれは今日の教会でも横行していることをすごく残念だと言っているのです。心の貧しさはそれとは違うんです。何度もこの先生は強調しています。『聖書があらゆるものの中で最高の価値と認めているもの、すなわち謙遜を正当に評価しない傾向さえあることにしばしば気づかされる。』聖書が語っている貧しさは、謙遜なんです。個性じゃないんです。そして謙遜こそが力であると、聖書は全体的に語っているのです。しかし、クリスチャンでさえこれを正当に評価していないんです。ここに心の貧しさを理解できないクリスチャンの姿があるんです。『神の偉大な働き人、伝道者、キリスト者たちの活動に関する記録を見ていただきたい。彼らがどんなに自分を表面に出さずに隠していたかということに目を見張らせられるであろう。しかし今日ではこれとは全く反対に、広告と写真とが前に掲げられているのである。』以前の使徒たち、以前の宣教師たちは絶対自分を全面に出したりしません。でも今はどうですか?写真を出し、広告に出し、名前を売ります。これは心の貧しさとは正反対なんですよ。なのにこれを個性と語っているんです。

ある記事はこう書いてあります。『こう語ったあとで私は次のことに気づき、興味を覚えた。というのは、週刊誌キリスト社に、フランクゴードン司教がエミーカーマイケルに賞賛を捧げていることである。そこで彼は、あんなにも自由に絵や写真を数々の著書の中に駆使している彼女が、自分自身の写真は全然掲げていないことを指摘している。』です。エミーカーマイケルというのは、私は他の本で読んだんですけど、イギリス人でインドに宣教に行き、そのところで本当に孤児たちをたくさん助けて孤児院をたくさん建てました。その孤児たちは売られていた売春宿から引き取ったり、その時の僧侶たちにもて遊ばれた小さなこどもたちを引き取って、エミーカーマイケルがその子供達を育てたんです。それがもう何十人に至って、イギリスでも全世界でもこのエミーカーマイケルのしていることは有名になって行きました。でも、この方が言っているのは、そのエミーカーマイケルは子供たちの写真や孤児院の写真は出しても決して自分の顔を出したりしなかったんです。なぜ?これこそが心の貧しさなんです。謙遜なんです。聖書で言っている。『パウロは自信や確信や安心を持って舞台に乗り出したのではない。また、偉大な人柄者らしい印象を与えたのでもなかった。むしろ人々は彼について弱々しく、その話しぶりはなっていない。第2コリントに書いてある通りです。』と言っているんです。パウロにおいても、自信満々に出かけたことは一度もありません。だから人々はパウロを見て口ほどにもない、弱々しいと言っているんです。

『心の貧しいとは、臆病や神経質になれという意味ではない。また勇気を欠くことでも、引っ込みがちで弱々しくなることでもない。』またここでも人は勘違いして、心の貧しさは引っ込み思案、臆病、小心者になること、のように錯覚をしていると言っているんです。先にこの幸福の指針の教えは、どの一つも生まれつきのままの性質ではないことを強調しています。この先生がある時街に出かけて説教しに行ったんです。そこの教会員の執事が一人、この先生を車で迎えに行きました。そして、会ってすぐ先生のカバンを持ち、そして本当に甲斐甲斐しくその先生を車に乗せて送り迎えした時に、この人はこう言うんです。「私は教会で重要な仕事もできないし、能力も才能もないし、わたしのできるのはこのような運転やカバン持ちをすることだけです。」と、彼は謙遜になったつもりでこの先生にそれを言ったそうです。でも先生はそんな甘い方ではないのでここで名前まで明白にしてその人を指摘しています。どのように指摘しているか。『自分の心の貧しさを誇り、それによって自分が謙遜でないことを証明しているのである。それは自分ではちっとも感じていないのに感じているように見せかけることである。これは今日では昔ほど強くはないにしても多くの人々が直面する危険なのである。』自分は何もできません、自分は才能もないし、あれもないしこれもないし、それが謙遜だと思っていますよ。でもロイドジョンズに言わすとそれは謙遜ではない、と言っています。謙遜なふりをして人前でそれを見せれば見せるほど意識しているんです。そしてそれは謙遜ではないんです。

そして外見だけで人を見てはいけないということが書いてあります。『彼が自分について、あるいは自分がどういう印象を与えるかについてあまりにも大きな関心を持っていることを明らかにするにすぎない。私たちはこのようなことに関心を持つべきではなく、心に関心を持つべきである。』外見ではなく、もっともっと心に、自分の心に関心を持てと言っているんです。ここの心の貧しいとは何度もそれを繰り返しています。文学においても心の貧しさを誤解した文学がたくさんあると言っています。アラビアのロレンスっていう物語の中で、その主人公は名前を変え、そして仕事を変え、そして最後はバイクの事故で死んだときに人々は彼を賞賛したんです。自分を放棄して模範となった、と文学は彼を賞賛しています。そして誰もが彼は謙遜な人だと言っているんですよ。でもここの心の貧しいは、自分の名前を変え、偽って自分を殺し、自分のものではないもう一つの性格や個性を持っているかのように装って生活しなさいという意味ではない。このようなことは非キリスト教的なんです。自分の名前を変えたり、性格を変えたり、謙遜なふりをすることは非聖書的なんですよ。非福音的で非クリスチャン的なんです。そしてこの世はそういうことが大好きなんです。そしてこのような文学はクリスチャンでさえ感動させ、この世の全員を感動させていきます。でもそれは違うと言っているんです。『心の貧しい人とは、大きな犠牲を払う人であったり、修道士のように生活とそれに伴う困難と責任から逃げて退く人であると考えようとする誘惑である。しかし、これは聖書的な生き方ではない。心の貧しくなるために生活から逃れる必要はない。名前を変える必要もない。それは自分の心の領域に属することなのである。』です。自分を犠牲してムチ打って修道士のように仕事やこの世から退きそれで謙遜だと言うのは違うと言ってるんです。それは聖書的な生き方ではないと言っているんですね。その現場でその場所で自分のあるものの中で、心の問題を言っているんです。それなのに多くの人はそれを誤解していると言っています。

聖書にはたくさん謙遜な、心の貧しい人がたくさん出てきます。まず旧約聖書でギデオンがそうです。ギデオンが神に選ばれた時、神に何と言ったんでしょう。「いいえ、それはできません。私は最も弱い部族の最も小さい家族に属しています。」彼は神のまえでそのように言ったんです。でもそれ以上にモーセがそうでした。『モーセの心は課せられた任務に自分がふさわしくないことを深く感じ、自分の不十分さと至らないところを良く知っていた。』です。モーセは神に選ばれ、神に用いられる時に自分がそれにふさわしくないこと、その任務に就く自分ではないことを深く感じていたんです。そしてまたこの心を持っているのはダビデでした。ダビデはこう言います。「主よ。わたしが何者なのでわたしの元においでくださるのですか。」『と述べた心の中にあったこのような事態は信じられなかったのでダビデは驚いたのである。』ダビデは神に呼ばれたときあまりにも驚いたんです。なぜ?自分は決してそれにふさわしい者ではないと本気で思っていたからです。またイザヤがそうでした。イザヤは同様な心を持っていました。なぜならイザヤは幻を見た時にこう言います。「私はくちびるの汚れた者。」神様の前でそう告白しています。これらの人たちが心の貧しい人たちなんです。そしてその心は新約聖書の使徒たちにも見られます。特にペテロがそうです。ペテロは自信に満ち溢れ、典型的なこの世的な考えを持ち、自分自身を主張する人でした。でもイエス様に会った後、彼は変えられたんです。彼は後に晩年に第2ペテロの手紙にこう書いています。パウロを賞賛、賛辞しているんです。パウロとは敵対したときもあります。でも彼は晩年パウロを賞賛しているんですよ。認めているんです。『彼が大胆な人でなくなったのではないことは注目に値する。』です。『彼の本質的な個性はそのままである。しかも同時に彼は心の貧しい人だったのである。』ペテロの性格はその前と少しも変わっていないんです。それでもパウロを認めました。なぜ?心が貧しい人だったからです。性格が無理に変えられたんじゃないんです。

だから心の領域をずっとここのロイドジョンズは言っています。『心の貧しいというのは、使徒パウロにも見出すことができる。彼は豊かな才能に恵まれていた。明らかに彼自身生来の自分の才能を自覚していた。しかし彼の手紙を読むと彼はその生涯の終わりに至るまで高慢と戦い続けなければならなかったことがわかる。』です。『才能のある人は大抵その才能を自覚しているものである。自分に物事をする力のあることを知っている。パウロもそれを知っていた。あの偉大なピリピ人への手紙第3章で彼は自分の肉の頼みについて語っている。張り合いと言われれば何者も恐れないというような様子である。彼は自分の誇れるものを列挙している。しかし彼がダマスコへの途上で主に出会った時、これらの全ては損となったのである。これほど優れた才能を持っていたパウロがコリントに行った時によく恐れおののいていたのである。彼の中にはこの態度が一貫している。だから彼は福音宣教の務めを続けていく時にこのような務めにふさわしい者はいったい誰でしょう、と問うのである。もし自分こそ十分であると思える権利を持った人がいるとすればそれはパウロである。しかし彼は、自分は不十分であると考えていた。なぜなら彼は心の貧しい人であったからです。』彼ほど自慢できる資格を持って人がいません。生まれた家、部族、家系、お金、富、知恵、知識、才能、持っていないものが彼にはひとつもありませんでした。国会議員だったんです。にもかかわらず彼は、自分は心の貧しい人だと言って、ちりあくた、損だと言ったんです。自分が持っていたそのすべてのものは損でちりあくたでごみだって言ったんですよ。そして彼は最も偉大な心の貧しい人だったんです。そして私たちの主イエスキリストにこれが一番見られるんです。主イエスキリストの人格がそのようなものでした。

『主イエスキリストの生涯を仰ぎ見る時にこのことは最も良くわかる、良く伺うことができる。主は人となった。主はご自身に罪深い肉と同じような形をとったのである。主は神と等しかったがご自分の神としての大権を(大いなる権利)欲出しなかった(誇示しなかった)。主はこの地上にいた間、神でありながら人として生きようと決めた。その結果は主ご自身の次の言葉のようであった。「わたしは自分からは何事も行うことができません。」これが実に神である方の言葉なのである。「わたしは自分から何事も行うことができません。」主はまだ語っている。「わたしがあなたがたに言う言葉はわたしが自分から話しているのではありません。わたしの内におられる父がご自分の業をしておられるのです。」わたしはなにもできない。全く神に依り頼んでいる。確かにその通りであった。主の祈りの生活を見なさい。主の祈った祈りを見つめ、主が祈りに過ごした時間を心に深く刻みなさい。その時主の心の貧しさと主がいかに神に依り頼んでいたかがわかるのである。』です。イエスキリストほど心の貧しい謙遜な方はおられないんです。この方が私たちの最も模範なんです。神ご自身だったんです。神だったんです。なのに人間になっただけではなく、人間として生きる間も自分からは何もしなかったんです。毎日祈り、毎日神に依り頼のみ、毎日神だけに従っていったんです。それは私たちに模範を示すためでした。心の貧しさを私たちに理解させるためだったんです。『そして以上が心の貧しいことの意味である。神の前に自分は何者でもないことを意識していることである。心の貧しいとは神の前に出て自分の徹底的な貧しさを厳しく知ることである。』私達が一番できないことです。それは自分の心を厳しく知ることがないんです。これが全ての原因です。『自分の生まれつきの素質に信頼を置かないことを意味する。自分がある家系に属しているという事実に信頼しない。ある民族や国籍に属しているという事実を誇らない。生来の気性という土台に頼らない。この世における生まれながらの立場や自分に与えられていると思われる才能に信頼しない。自分の持っている金銭や財産を頼みとしない。自分の受けた教育、卒業した特別な学校などは誇りとするべきものではない。これらはパウロがちりあくたであり、更には偉大なもののための邪魔ものであると思うに至ったものである。なぜならこれらには彼を征服し支配する傾向があったからである。私たちは生来の個性とか、知性とか、一般的あるいは特定の能力などの賜物には依存しない。自分の道徳性、行為、善行には信頼を置かない。これまでの自分の生活やこれらの生活にわずかばかりのものを頼ろうとはしない。パウロが思ったのと同じようにそのことを考えるのである。これが心の貧しさなのである。それらのものから完全に解放され、それらがひとつとして残っていてはならない。

ふたたび繰り返すが、心の貧しいということは自分は何者でもなく、自分には何もないということを悟り、完全な服従を持って神を仰ぎ、神とその恵みと哀れみに徹底的に依り頼むことである。』です。言葉の通りです。説明の必要がないです。みなさんはパウロと比べそのわずかばかりの資格もないのにどれほどこれを誇っています?何一つ残してはいけないんです。そして厳しくチェックしろと言っています。心の貧しさなしに次の幸福はないんですよ。次に山上の説教で与えられるあの満たされていく幸福は何一つ与えられないんです。なぜ?私達の心は高慢でいっぱいだからです。空になっていないからです。

『では人はどのようにして心の貧しい者となることができるであろうか。その答えは自分自身を見つめないことと、自分で自分に何かをしようとしないことである。ここに修道院制度の誤算がある。この気の毒な人々は心の貧しい人になりたいと思って、わたしは社会から出ていかなければならない、わたしは自分の肉を犠牲として捧げ苦行を負わなければならない、自分の体を不具にしなければならない、と言った。これはとんでもないことである。こんなことをすればするほど益々自分自身を意識するようになり、心の貧しくない者になってしまうのである。心の貧しくなる道は、神を見つめることある。神について聖書を読みなさい。神の律法を読みなさい。神が私たちに期待していることを見つめなさい。神の前に立つことを考えなさい。それはまた主イエスキリストを見つめることであり、福音書に見られるキリストを見ることである。そうすればするほど使徒のある反応が理解できるであろう。』心の貧しいということは修道院生活ではないんです。自分の体にムチを打ち、犠牲をすることで自分の心が貧しいと思っているその事態が高慢なんです。ますます自分の善行、自分がしたこと、自分が苦行したこと、がんばったこと、努力したことを誇るんです。何一つ神の前には立っていません。そういう人は必ず人の前に立っているんです。それらは人の評価を要求する態度だからです。『自分の絶対的な貧しさと空虚さとを感じないで、真に主を見つめることはできない。』です。これが最後ロイドジョンズの語った言葉です。そして最後にこう歌っています。『御許にたずさえていくものはわたしの手にはない。ただあなたの十字架にわたしは寄りすがるのみ。空虚、絶望、裸、そしていやしい私。けれども主こそはすべてを満たしたもう方。しかり私の必要の全てを主の内に見出す。ああ神の子羊。私は御許に行く。』です。 アーメン 

Jesus Christ Glory Church

イエスは言われた。 「わたしは、よみがえりです。いのちです。 わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者は、 決して死ぬことがありません。 このことを信じますか。」 ヨハネ11章25,26節

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