カルヴァン キリスト教綱要Ⅵ
イエスキリストは何故重い十字架刑という呪われた死に方をしたのか?
それはアダム以来、人間は魂の死のゆえに罪を犯すことが必然となり、神の厳命である律法を順守できる者が一人も存在できなくなったからだ。
律法違反は即ち死刑に値する重罪だった。だから動物の命を自分の代わりとするため、罪を犯す度にいけにえが必要とされたのだ。
人間にとってそれはとても重荷で苦痛なのは当然だった。
カルヴァンはキリストについてこう語る。
-我々は罪に定められて死んでおり、また滅んでいるため、我々を罪から救
う救い主となるために、贖い主の職務が彼に課されたー
キリスト教綱要第二篇16章
キリスト教の教理は、神とは唯一であるが、神は人間を救う方法として、三位一体という方式をとられた。
三位一体とは、同じ神であるが、三つの位格があるという意味で、それは本質は一つのままで、それぞれ別の違う役割を持つ、三つの存在方式という意味だ。
天の父なる神と、人としてこの地に現したイエスキリストと、聖霊(神の霊)だ。
三人の神がいるのではなく、神の職務としての役割が違うのだ。
イエスキリストとは神の一位格、一存在方式をとられた神だが、完全な人間としてマリアから生まれた。それがイエスキリストの職務だったからだ。
イエスは弟子達や苦しむ者達にこう言った。「重荷を負う者は私に来なさい。私が休ませてあげます」
これは人間の一般的苦しみではなく、律法による重荷だ。
イエスキリストは死ぬことが職務だったため、肉体が必要だった。それは永遠に繰り返される動物を犠牲にして、生きなくてはならない人間の罪からの解放が目的だった。
だからイエスキリストが十字架で死ぬ間際、最後に語ったのは、「完了した」だった。
それは律法の完成を意味する。神が人として死ぬことで、二度と罪のためのいけにえが必要ではなくなるためだ。
二千年前に起きたこの事件は、罪からの解放を宣言した。
イエスキリストはその職務を果たすために、この地で生まれ、三十数年人間として暮らし、十字架で死ぬ瞬間まで、完全な肉体、痛覚も持った人間として生きた。
それこそが人の魂の死から救うための代価だったからだ。
キリスト教の真理とは、人間的な感情で理解できるものではない。神を知るには人間はあまりにも無知だ。
だから聖書は順を追って説明している。それでも簡単ではない。何より罪からの解放感を味わうには、人間が罪深い存在だと飢え渇いていなければ無理だろう。
だからカルヴァンは人間の罪、自由意思を失ったことが何なのか説明をした。
私は感情的なクリスチャンを信用しない。そういう人は自分の都合の良い神を作り出しているとしか思えない。
人間が神をコントロールできると妄信していて、神がどんな存在なのか知っていないのに、自分は神を知っていると思い込んでしまっている。
12月は多くの人がクリスマスを祝っている。過ごし方は自由だろう。パーティーするのを否定しない。
しかし多くの人の、クリスマスは孤独であることを思い知らされるという悲痛な声に、私は応えたい。
イエスキリストが誕生したのは、人の罪による重荷からの解放のためだった。だから孤独は不幸ではない。
クリスマスの意味は、この世の重圧を受け苦しんでいる人を救うために、神が人類に与えたプレゼントなのを覚えてほしい。
聖書はこの時代を、終わりの時代だと語っている。魂にとっては最も死と闇に覆われている時代だと。
カルヴァンキリスト教綱要を読んだ人に、イエス様がこの終わりの闇の時代に、みなさんの希望の光となることを祈ります。
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