ヨハネ福音書19章1-16
~そこで、ピラトはイエスを捕らえて、むち打ちにした。また、兵士たちは、いばらで冠を編んで、イエスの頭にかぶらせ、紫色の着物を着せた。彼らは、イエスに近寄っては、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」と言い、またイエスの顔を平手で打った。ピラトは、もう一度外に出て来て、彼らに言った。「よく聞きなさい。あなたがたのところにあの人を連れ出して来ます。あの人に何の罪も見られないということを、あなたがたに知らせるためです。」 それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を着けて、出て来られた。するとピラトは彼らに「さあ、この人です」と言った。祭司長たちや役人たちはイエスを見ると、激しく叫んで、「十字架につけろ。十字架につけろ」と言った。ピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、十字架につけなさい。私はこの人には罪を認めません。」ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。この人は自分を神の子としたのですから、律法によれば、死に当たります。」ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れた。そして、また官邸に入って、イエスに言った。「あなたはどこの人ですか。」しかし、イエスは彼に何の答えもされなかった。そこで、ピラトはイエスに言った。「あなたは私に話さないのですか。私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。」イエスは答えられた。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きい罪があるのです。」こういうわけで、ピラトはイエスを釈放しようと努力した。しかし、ユダヤ人たちは激しく叫んで言った。「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです。」そこでピラトは、これらのことばを聞いたとき、イエスを外に引き出し、敷石(ヘブル語ではガバタ)と呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。その日は過越の備え日で、時は第六時ごろであった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「さあ、あなたがたの王です。」 彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」祭司長たちは答えた。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるため彼らに引き渡した。~
この19章1節は、その前のところで、訴えている祭司長や下役の人達は官邸の中に入って来ないんです。官邸の外で、イエスを死刑にしろと、わめき大騒ぎして、官邸の中はイエス様が静かに捕えられているという場面なんですが、祭司長達は身を穢さないために、過ぎ越しの祭のパンが食べられなくなると困るので、異邦人の所へは行かない、或は死体に触れないという類のもので、外に居るんです。でも、その彼らは身を穢さないという、その事を一心に守り、熱心に狂気するぐらい守っているにも関わらず、その命令を下した、その律法をくれた真の神イエスは殺そうとしている。という皮肉な場面なんです。必死に戒めを守り、必死に穢れまいとして過ぎ越しをしようとし、必死に神を礼拝しようとし、必死に神殿の建物を守っていますが、必死に供え物を供えて、そのパンを食べようとしていますが、彼らは真の神は殺そうとしているんです。このすごく皮肉な状態が官邸の外と内で行われているんです。そして、他の福音書にはない、ヨハネの福音書だけに書かれているその場面がこの19章にはあるんです。
他の福音書では、十字架に架かってローマ兵士達もそれに同意しているかのごとく書いていますが、ヨハネの福音書だけは、イエス様が、イエス・キリストを死刑にした責任はユダヤ人にあるのか、ローマ人にあるのかという比較が書かれて、ヨハネは訴えているんです。その最も罪深かったのはどっちなのか?というヨハネの福音書には特徴があるんです。そして結局、死刑宣告したのがローマ人であっても、イエス様は、訴えた、あなたに引き渡した方がもっと罪が重い。と仰っているところをみれば、ユダヤ人に圧倒的に責任がある。イエスを殺したのは、ローマ人の方ではなく、ユダヤ人だ。というのをヨハネは明らかに明確にしたいんです。その為にピラトがイエス様と外との間を行ったり来たりしています。そしてピラトが4回もイエス様の死刑を止めているんです。「この人に罪は認められない。」「この人に罪は認められない。」を何とかイエス様を死刑にしないようにというのが、4回もピラトの口から出ているんです。そこをヨハネは、ここを死刑にさせたのは、ローマ人ではなくユダヤ人だ。というのを強調したい。他の福音書とはそこがまた違う、ということです。
そして、この19章は作者が何を言いたいか、言いたかったか、という事をみて、この19章を読むべきなんです。
~ピラトはイエスを捕らえて、むち打ちにした。また、兵士たちは、いばらで冠を編んで、イエスの頭にかぶらせ、紫色の着物を着せた。彼らは、イエスに近寄っては、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」と言い、またイエスの顔を平手で打った。ピラトは、もう一度外に出て来て、彼らに言った。「よく聞きなさい。あなたがたのところにあの人を連れ出して来ます。あの人に何の罪も見られないということを、あなたがたに知らせるためです。」 それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を着けて、出て来られた。するとピラトは彼らに「さあ、この人です」と言った。~
ここで、ローマ人達はイエス様をムチ打って、紫の衣を着せ、棘の冠を編んで、そして、平手打ちまでして、嘲笑し、これをローマ人がした、と書いてあります。そして他の福音書でもそのような、類似した事が書いてあります。だけど他の福音書では、ピラトも一緒に嘲笑ったかの如く書いているんです。でも、ピラトはそのイエスを連れてきて、「さぁ、この人です。」と見せた、と表現しています。祭司長達にみすぼらしく、ムチ打たれ、棘の冠も被らされ、嘲笑され、平手打ちをされ、ボロボロになった状態を、ユダヤ人に「さぁ、この人です。あなた方が王と呼んだこの人です。」とピラトが見せた、とヨハネは、ここを強調したいんですが、ピラトは何とかしてイエスの死刑を阻止しようとしている。そしてユダヤ人達に何とか説得しようとしている中で、何故これをしたか?と言えば、ピラトの場合、これは、ここまでしたのだから見逃してやりなさい、という事です。さあ、ユダヤ人達、こんなにも処罰を受けたので、みすぼらしく、嘲笑われ、そしてユダヤ人の王と呼ばれている人がここまで悲惨な状態になり、異邦人の手で平手打ちまでされ、罵倒までされて、もう満身創痍にまでなっている姿を見たから、あなた方の怒りはもう治められるのではないですか?むしろ、もう同情してあげましょうと、このムチ打ち刑は死刑の一端ではなくて、死刑を止める為のピラトの演出だった。というのが、ヨハネの福音書では、他の福音書とはまるっきり違う言い方なんです。これは、他の福音書では、死刑される前の、余興としてムチ打たれた。という如くに書かれているけれども、ルカとヨハネはそうではなく、特にこのヨハネは、ムチ打ったのだから、もう死刑にしなくていいですよね?だからユダヤ人にわざとその惨めなイエスを見せて、もうこの程度で止めたらどうですか。とピラトは訴えている。だからこそ、バラバを解放しようか?と言いますよね?この過ぎ越しの祭で特赦があって、一人は解放しなければならない約束があって、それを強盗したバラバの方ではなくて、イエスの方を釈放しますと言いたい。あの手この手を使ってイエスを釈放しようとした。だけど、ユダヤ人達はその後、「ダメだ、十字架につけろ。十字架につけろ。」と言っています。それをヨハネの福音書だけは、死刑の前のムチ打ちや嘲り、平手打ち、王様の衣装を真似た紫の衣、そして嘲笑、冠の代わりの、棘のトゲトゲの冠を被らせたのは、もうこの程度で止めておきたいという意図だったんです。死刑の前触れではなかったんです。何とかユダヤ人の怒りと妬みを抑えて、もう同情に持ち込む方向に何とかピラトはもっていきたい。それがヨハネの福音書の特徴なんです。
~祭司長たちや役人たちはイエスを見ると、激しく叫んで、「十字架につけろ。十字架につけろ」と言った。ピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、十字架につけなさい。私はこの人には罪を認めません。」~
ピラトはまたここで言うんです。「私はこの人に何の罪も認められない。」だから、このムチ打ちが死刑の一端ではなかった。何とか、もうムチ打ったのだからもういいではないか。この人には罪がない。死刑にするほどの何の罪も見当たらない。と、またピラトはユダヤ人達に訴えています。
~ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。この人は自分を神の子としたのですから、律法によれば、死に当たります。」ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れた。そして、また官邸に入って、イエスに言った。「あなたはどこの人ですか。」しかし、イエスは彼に何の答えもされなかった。~
と、書いてある通りに、ユダヤ人達は神を冒涜した罪で、この人は神の子だと言ったとし訴えている。これが律法を犯した罪だと言います。でも、ピラトにおいては、イエスが神の子だと自分で言っているのを聞けば聞くほど、怖いんです。それは、イスラエルが望んだ救い主のメシヤが怖いのではなく、その時ローマ人でさえも、迷信や妄想があります。神々がいたし、その神々を拝んでいたし、だから、その神からの天罰や神からの呪いが怖いんです。イエス様がメシヤだと認めているのではなくて、妄信や迷信がピラトにもあります。その当時、誰でも神々を怖れていた時代ですから、だからもし、これが神と関わっているなら、怖いんです。ましてや奥さんが「嫌な夢を見た。」と言っているんですから。どれだけ今、神に関する事で、死刑にするのが、自分の手で彼を殺すのは、怖くて仕方がない。どちらにせよ気分のいい裁判ではなかったんです。それで、ピラトは何とかイエスを殺さず、ムチ打ち程度で終わらせ、バラバではなく、イエスを釈放して、何とか自分はこの件に関わりたくない。善人として、善い心からではないんです。ただ、妄信的に神が怖くて、天罰が怖くて、自分にそれが下るのが怖くて、ばちが当たるのが嫌だから、何とか逃れたいんです。この場面でピラトは神を敬うのとは、また違う。ただ妄信的な恐怖です。ただ漠然とした天罰への恐怖から、何とかイエスと関わりたくはなかったんです。だから、真理とは何ですか?と聞く時に、答えを聞かなかったのです。本当にイエス様が神の子かどうか知ろうとしたら、真理とは何ですか?と言った後、イエスが言おうとすることを聞くはずです。でも、彼はそれを聞きたくない。怖いんです、本当の事を知ることが。そして、今もイエスを助けたいのは、漠然とした天罰への恐怖です。自分の身を守ろうとしている位のものです。だから、ヨハネはこのポンテオ・ピラトが善人だったと言いたい訳ではない。この人がイエス側についた、救い主を求めていたと言っている訳ではなく、ポンテオ・ピラトがどういう心境でこれをしているかは、関係なく、神が何をしているか?をヨハネは書きたいんです。神がこの裁判でどのような立場に立っていたか、を書きたいんです。ポンテオ・ピラトが一番恐れている『神の子だと言っている』という言葉が全く恐怖となって、もう一回「死刑にしろ、あなた方で何とかしろ」と言った割には、また官邸の中に戻って来て、イエスにまた聞くんです。
~「あなたはどこの人ですか。」しかし、イエスは彼に何の答えもされなかった。~
余りにも怖くて、何処から来たか気になって仕方がない。あなたは、神なのか、神ではないのか、ハッキリしてくれ。私は天罰を受けたくない。あなたとは、関わりたくない。というのを彼は思っているんです。でも、ヨハネの福音書では何度も何度も言っているように、「あなた方はわたしが何処から来て何処へ行くのか分からない。決してあなた方は知る事はできない」とイエス様が一貫して警告を与えているんです。決してあなた方はわたしを遣わした方も分からないし、わたしが何処から来たかも分からないし、また何処へ帰るのか、あなた方は絶対に分からない。とイエス様が言っておられます。すると今度は、ポンテオ・ピラトは、「あなたは私に何も答えないのか?私はあなたを死刑にも出来るし、釈放も出来るのに、私の権力に何故すがらない?」と言います。私は何とかあなたを釈放しようとしているのに、何で権力のある私の前で、弁明したり、言い訳したり、命乞いをしないのか?とピラトはここで怒りが露わになるんです。私に弁明すれば、私はあなたを救えるのに、何であなたは自分が神か神ではないのかをハッキリしてくれないのか?
~イエスは答えられた。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きい罪があるのです。」~
決してあなたはわたしを殺す事も、生かす事も出来ません。この権威は天から下っていて、天の父の御業であり、計画であるから、あなたには何にも出来ません。とイエス様が答えるんです。それは、イエス様がその前に仰ってます。「わたしは自分から命を捨てている。そして自分から命を得るのだから。わたしの命を奪えるものは、誰もいない」ヨハネはこれを言っています。ピラトがどうとか、誰がどうとかを言いたいのではない。誰もメシヤを知らないし、弟子達でさえイエス様を捨てているし、誰も分からないんです。イエスがしている事を理解していない。だから、イエス様だけがこの業をしている。イエス様が何をしているかをヨハネは書きたいんです。ピラトをかばいたい訳じではなくて、彼はただ、妄信的に、迷信的に恐がっていただけで、何一つ神を敬ってはいなかった。でも、ヨハネはここで、だけどピラトは、皮肉にも神に使われてはいると言いたいんです。それは以前からヨハネの福音書だけにある特徴なんです。知ってはいなくとも彼は神の手の中であった。イエス・キリストの話が、なんてひどい話だ、と聞けない人達が、「わたしが何処から来て、何処へ行くのか、あなた方に分かる筈がない。わたしの行く所にあなたは絶対来られない」とイエス様が言っているのは、天国の話です。あなた方は絶対天国に入れない。あなた方は絶対救われない。イエス様が預言されていることに、彼らは言います。「彼は一体何処へ行こうとするのか?ギリシャ人の処へ行って、ギリシャ人に宣教しようとしているのか?もうユダヤ人は聞いてくれないから、外国人の処へ行こうとしているのか?」でも、それは皮肉にも預言になってしまうんです。実際にキリスト教はギリシャ人の方へ行き、結果的にユダヤ人が捨てられて、異邦人が救われていきます。彼らは知らないで言ってしまったけど、それが預言にされます。というのが、ヨハネの福音書の特徴です。それ以前に、大祭司のカヤパが、「イエス・キリストを死なせる事によって、一人が死ぬ事で、私達が救われるなら得策ではないか。」と言った時も、ヨハネは何て言いますか?彼がその年の大祭司であったから、彼はイエスがどのように死ぬか、預言したのである。ここでも、皮肉な事に妬みからイエスを殺そうとしている彼らは、預言してしまうんです。イエス・キリストの十字架の御業を。それだけではありません。彼らは、律法によって石打の刑にする権利があったにもかかわらず、ローマ人の手で死刑にさせています。「私達にはその権利がありません。」とローマ人に渡します。それは、神様がどのような死に方をされるか示されたとヨハネが書いているように、彼らはまたしても、預言の道具にされているんです。石打で死んではならないんです。モーセがしたように上げられなければならなかった。その為には十字架でなければいけなかったんです。でも、十字架刑に出来るのは、ローマ人だけです。だから、彼らは最も卑劣な事をしながら、神の道具に使われている。これがヨハネの福音書の訴えです。ピラトもその一人です。怖がって震えて、何とかイエスを釈放しようとしているのは、メシヤへの敬いからではない。彼は天罰をただ怖がっていただけの事。でも、あなたはわたしに、何も出来ません。とイエス様に言われるんです。あなたには、何の権威もない。これは、天から下って来ているので、わたしはわたしで、命を自分から捨てて、わたしは命を自分から得るから、あなたには何も出来ませんと言った後、沈黙されます。もう、イエスはピラトにも、ユダヤ人にも何にも喋らないんです。その何にも話さないイエスに向かって、ピラトはこう言うんです。「さあ、この人です。イスラエルの王です。」と紹介します。皮肉なことです。嘲って、皮肉で言っている言葉なんですが、預言となります。「さあ、この人を見なさい。あなた方のメシヤです。あなた方の王です。」という予言をピラトはしています。自分がその気があろうが、なかろうが、神様の道具に皆使われているんです。それが、ヨハネの福音書の特徴です。「さあ、この人は」という引用はどこからきたか、
イザヤ53章1-8
~私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。~
彼は痛めつけられたけれども、口を開かない。イエス様はこの通りにしているんです。どれだけ嘲られ、どれだけ平手打ちをされ、ムチ打ちにされようが、彼は決して口を開かない。そしてみすぼらしい姿で、人の前に曝される。この姿は、一体誰かというと、待ち焦がれたメシヤ像なんです。メシヤは必ずこうやって現れますと、すでに預言されているんです。なのに、ポンテオ・ピラトはみすぼらしいイエスにわざとさせて、わざと打ち傷によって血を流させ、わざと冠を被せられ、嘲られて、本当に悲しい目に合わせています。でも、この預言を成就させちゃうんです。イエス様は口を開かない、をそのまま成就させてしまうのです。だから、ポンテオ・ピラトはユダヤ人を説得しようとして、この人だ、と言い、ポンテオ・ピラトはユダヤ人達から死刑の訴えを取り下げさせるために鞭を打っています。自分に天罰が下らないよう、何とかしてはいても、ピラトは結局預言してしまう。「さあ、この人があなた方の王です。もうこの地に来てしまった」というイザヤの預言の成就。メシヤはこうやって来ると予告されて、メシヤは必ず痛めつけられ、傷つけられ、私達の咎の為に代わりに神に懲らしめられ、地の底に行き、死に渡され、そして彼には全ての栄光が与えられるという預言が、全く完成していくだけなんです。どれだけ人間がイエスを救おうと画策しても、どれだけ人間がイエスを殺そうと企んでも、結局イエスが考えている計画通りにしかいかないんです。そして彼らは全部預言の道具にされている。邪悪な心を持っていようと、妬みや嫉妬があろうと、ただひたすら神の道具なんです。ただひたすら、神の計画が前にいくんです。弟子が去ろうと、弟子が今イエスを信じていなくても、弟子がイエス様に従っていなくても、誰も理解していなくても、神の計画だけが行われていく。これを、ヨハネが言いたくて書きました。そして、その通りになったんです。だからこそ、イエス様はもう黙るんです。何を言おうと、何にも分からない人間に、これ以上何を話しますか?そして、メシヤというのは、そうような姿でやって来ると、人間に最初から教えています。メシヤはこのような姿であなた方の処へ来ます。これが預言だったからです。王のような姿で来るとは、言っていません。みすぼらしく、悲しく、そして神に懲らしめを受け、そして羊のように黙っている。静かにやってくるのがメシヤ像なんです。そして、とうとうピラトは宣言します。「さあ、この人です。あなた方の王です。」これに誰が弁明できますか?人間は誰一人、もう弁明できなくなるんです。その通りに神が働いているからです。これがヨハネの福音書の特徴。ヨハネの福音書だけが本当に明確に書いている真実です。
ただ、イエスだけが働いた事。ただ、神の計画だけが遂行され、人間など預言の道具に使われているだけのこと。ユダヤ人は、イエスを殺す張本人だったけれども、その殺しに使われている道具にすぎません。ヨハネはそう説明しています。ユダヤ人こそ、イエスを死刑にする道具として用いられて、神を信じ、神を待ち、メシヤを待っていた者が、イエスを殺すことになってしまった。ローマ人ではなく、ユダヤ人の方に罪が重かった。クリスチャンはここを、注意深く気を付けて、警告として受け止めなくてはいけないんです。
~こういうわけで、ピラトはイエスを釈放しようと努力した。しかし、ユダヤ人たちは激しく叫んで言った。「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです。」~
そして、もし、これを死刑にしないなら、あなたはカイザルに逆らう者。私達には、この人は王ではない。私達の王はカイザルだ。とここも彼らは軽々しく口に出してしまっています。それが、その後歴史がどうなるか?などと考えもしないんです。私達に、イエスという王はいらない。カイザル、この王で十分だ。そのためその後、もうピラトはどうする事も出来ません。カイザルから派遣されている総督だから、カイザルに逆らっては何も出来ない。だからもう、とうとうイエス様を引き渡してしまいます。そして引き渡した後に、ここがヨハネの福音書の特徴の特別なとこです。
~その日は過越の備え日で、時は第六時ごろであった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「さあ、あなたがたの王です。」~
前回話したように、この日は安息日の前日だった。そして、安息日にイエスは死刑になったというのが、この物語の中心ですが、ヨハネは第六時だった、と書いてあります。これは、昼は十二時間という時間の観念です。だけども、マルコの福音書によればイエスが十字架に架かったのは、朝の九時から昼の三時と書いてあって、六時であれ、九時であれ、三時間のずれがあります。その時間のずれは何故起こっているのかというと、この時代の時間は腕時計がある訳ではありません。だから、一般の人は日の出から日没までの間の時間を計っているんです。でも、ローマ人の時間は夜中から夜中の間なんです。だからローマ人にとっては、一日は二十四時間。そして普通の庶民達は、日の出から日の入りまでだから、約十二時間の時間しか計っていない。しかも、それが一、二、三と数えるのではなく、第三時、第六時、第九時という区分けだったんです。基本的には、一刻、二刻、三刻、という時間の数え方があった。だから、日没は何時だろう?とか、今、昼頃か?という、大体の感覚です。大まかな時間を言っているんです。でも、その大体の時間であれ、ここはこんなに時間差があるのか?ヨハネの福音書だけ何で昼の十二時というのか。マルコは午前九時から三時まで十字架に架かっていたと言っているのか?この差の原因は、マルコは、ムチ打ちの刑をされているところから数えているんです。ヨハネは、十字架の死刑宣告の時間を言っているんです。だから、ヨハネはムチ打ちは時間に入れていない。このムチ打たれた、この場面は十字架の時間の中に入れていない。マルコは、十字架の死刑というのは、ムチ打ちも含まれている。という時間の計り方なんです。だから、ポンテオ・ピラトやローマ人達がムチを打ったのは、死刑の一興だったと解釈している。でも、ヨハネは、このムチ打ちはピラトがイエスを釈放しようとしているもので、死刑とは別のものだった。だから、時間のずれが生まれているんです。だから、ヨハネにとっては、死刑とは十字架に架けられている時間を言い、マルコは、その死刑はムチ打ちから始まったと時間を計っているので、この時間のずれがあるんです。当然、その当時ハッキリした時間がないから、大体の時刻というのは、確かにあります。そして時間の計り方が皆違ったんです。それも腹時計ではなく、日を見てというのは、曇りの日もあれば、雨が降った日もある。そしたら、日の出から日の入りというのは、やっぱり曖昧になっていきます。しかも、それが一刻、二刻、三刻という数え方なら尚更の事。でも、ここでずれた理由は、ハッキリと分かれます。ヨハネはこのムチ打ちは、死刑にさせまいとしたものであって、マルコは死刑の一環だった。という書き方なんです。ヨハネだけが違う。ピラトはイエスを救おうと何度も試みている。そして、ここで重要な事は、ユダヤ人が殺したんだと言いたいんです。ローマ人ではない。マルコはローマ人が殺したみたいに言いたいのかもしれないけど、ヨハネは違います。いいえ、イエスを殺した責任は、はるかにユダヤ人の方が大きい。それは何故か?官邸に入らなかった、あのユダヤ人を見てください。身を穢さない為に、我々は律法がある、律法を守っている。我々は一つの神、天の父がおられると言っていた民族。そして、メシヤを待っている。私達に救い主が来る事を知っていると、言っている人達が、殺したんだ。それを信じていない外国人が殺したのではなくて、律法を守っている、聖書を知っていると言い、礼拝を守っている為に穢れた事はしないし、ノンクリスチャンとは付き合わないし、ノンクリスチャンと関わりを持たない。穢れないため、悪霊が来ないため、私が礼拝するため、祈るため、と言っているクリスチャンが、イエスを殺したんだと言いたいんです。恐ろしい警告なんです。イエスを知らない人は、イエスを殺す理由がない。イエスを殺すのは、イエスを知っている人達しかいない。ヨハネはそれを言いたいんです。ヨハネの福音書だけがそれを明確にします。
~彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」祭司長たちは答えた。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるため彼らに引き渡した。~
裁判の席についた「あなた方の王です。」というピラトの言葉は皮肉なんです。王が裁判の席に着いた、と言っているのと同じなんです。『王様万歳』は、『ホサナ!ホサナ!イスラエルの王』その方が裁きの座に着かれたを表現しています。でも、裁かれるのは誰ですか?イエスではなく、自分なんです。それを言った本人達。でも、言ってしまいました。我々の王が来て、裁きの座に着かれた。でも、彼らは何て言うんですか?「十字架につけろ。」です。王が来て、とうとう裁きの座に着き、王の玉座に着いたにも関わらず、彼らは何て言うんですか?「王を殺せ。」です。そして最後にもっと恐ろしい事を言うんです。「我々にはカイザルの王しかいない。」ヨハネが福音書を書いた時はどういう時代か分かりますか?そのカイザルが、ユダヤ人を皆殺しにしているんです。その時にカヤパ達、大祭司の職は失われたんです。祭司長は、誰も存在出来ない。その時に祭司長職が終わったんです。神殿が跡形もなく壊されました。ユダヤ人は抹殺されたんです。そして、エルサレムはローマ人の国になりました。そして、イスラエルという国が全く消滅した瞬間です。その上に、エルサレムは進入禁止になったんです。ヨハネがこれを書いたのは、ギリシャです。エルサレムではありません。ヨハネは二度とエルサレムに帰れませんでした。散らされたんです。全てのユダヤ人達が、キリスト教者達が、散らされて、それを見ているヨハネは、この福音書を書いているんです。
言った通りに我々は、イエスを王と迎えない。我々の王はカイザルだ、と言ったそのカイザルは、その人達を皆殺しにしました。そして、イエスは裁判に着き、「あなた方は絶対わたしの所に来られない」と言われているんです。彼らは一体何をしたんですか?律法を守ります。礼拝を守ります。祈っている私達は正しいに決まっている。私達は選ばれた民、選民だ。だから、イエスを殺せと言いました。そして、異邦人は何とか阻止しようとしている。だけど、クリスチャン達は最後までイエスを殺したい。これが、ヨハネの福音書の皮肉なんです。何をしているか、見なさい。あなた方が今何をやっているのか考えろ。イエスを抹殺しているのは、ノンクリスチャンの方ではないんです。クリスチャンがイエスを抹殺して、決してイエス様が表に出ないようにし、王にさせないんです。王は誰ですか?クリスチャン自身です。そして、自分が裁きの座に着いているんです。そして、隣人を裁き、ノンクリスチャンを見下し、そして自分こそが選民だと言っているのは、一体誰ですか?ユダヤ人ですか?違います、クリスチャンです。そして自分達の王だって言った者に殺されるんです。この人は王ではないと言った張本人が裁かれるんです。これが私達の未来です。いえ、もう既に行われている現実です。実在なんです。これから起こる事ではなく、もう、既に起こっている事です。だから、『神の家から裁きが始まる』は、ユダヤ人から裁きが始まったのを見れば分かります。神の家の民はユダヤ人達だったんです。イスラエルこそ神の国、と自称していたんです。そして、自分達こそ選民だと言っていた者達から、イエス様は裁き始めました。そして、福音は異邦人に移されました。では、今は?同じです。神の家から裁きが始まると言っています。自称クリスチャン達から裁かれていくんです。クリスチャン達からイエスに離され、絶滅させられていくんです。そして、残りの信じてない者に、最後福音がいくんです。これが歴史の史実です。史実なんです。現実に起きている事。ユダヤ人はこの後、跡形もなく殺され、祭司長はその職が二度と持てなくなるまでにされ、神殿は、崩壊したんです。自分達が王と呼んだカイザルに、滅ぼされます。そしてこの人は王ではない、と言ってイエスを抹殺して、結果イエスから裁きを受けるんです。私達がしている事と同じです。
礼拝を守る為に人の魂を殺すんです。祈る為に人を裁くんです。教会の奉仕をする為に隣人を突き落しているんです。そして、イスラエルの王と言いながら、裁判の席に着いたのは、自分です。真の王ではなく、イエスではなく、自分です。隣人に対して、判断するのは神ではなく自分にさせます。これこそ、ヨハネが皮肉って、他の福音書とは全く違う書き方をしているんです。何故?ヨハネが生き残った最後の時代は、そうなっていったからです。多くの回収したキリスト者が、もう一回ユダヤ教に戻っていて、イエス・キリストを信じると言った者が、簡単に迫害に負けて、イエスを捨てて、残った者が数少なかったんです。そしてほとんどのキリスト者が散らされたんです。同じ所ではもう居られなかったんです。全員迫害から逃げる為に、全員が異国に散って行った。神の国に残る事が出来なかった。でも、私達の時代に必ず来ます。教会が崩壊し、教会に残れるクリスチャンは居なくなり、全員散らされていく。また、必ず繰り返されます。主が来られる前に起きます。教会の建物は、教会ではありません。建物に繋がっているから、神の国に繋がっている訳ではないし、「主よ、主よ。」と言う者が救われる訳ではない。私達こそイエスを抹殺してしまう立場にいる、イエス・キリストを妄想して、迷信にして、偶像礼拝にする事が簡単にできてしまう人間達なんです。どれだけ自分に厳しく、どれだけ自分に注意深く、どれだけ自分自身を律していなくてはならないのか。いくら講壇からメッセージが伝えられても、その人本人が聖霊様と交わっているかどうかは、生きている間に誰も分かりません。誰が離されて、誰が繋合わせられているか、絶対に目には見えないんです。イエスの裁きの座に着いた時にしか、明らかにされません。だから、私達は毒麦と良い麦が同じ所にいて、その判定はされていません。誰にも分からない。だから、誰にも裁く権利がない。誰も裁く能力をもっていない。裁くあなたが裁かれている。一体誰を裁くんですか?誰を非難するんです?誰を判断するんです?ユダヤ人みたいになってはいけないんです。二度と戻れません。でも、教会には属します。自称クリスチャンは続けています。礼拝も続けています。祈りもやります。聖書も勉強していきます。これは、生きている間には、イエス様は明らかにしません。誰にも分からないようにしていきます。イエス様ご自身で言いました。「毒麦を抜いてはいけない。良い麦と一緒にいさせなさい。最後まで」です。最後まで一緒にいます。生きている間に違うと言われる事もないんです。裁きの座につかなければ、誰にも分からない。これがイエスの裁きで、本当の裁きです。或は生きているうちに裁きが始まる事を目で見ることもあるかもしれません。死んで始まるのではなく、すでに始まっています。だから、私達は自分自身を甘やかしてはいけない。自分の力で救われたと自惚れてはいけないし、私は救われて当然だと思ってはいけないし、人を裁いていいなんて、思う事自体、もう間違いなんです。言語道断です。判断さえ許されていないのに、なぜ隣人を簡単に裁き、隣人を勝手に判断し得るのでしょう。私達が軽々しく口に出来ることではないんです。裁きは王だけが出来る。平民の私達が出来る筈がないんです。クリスチャン達は全くの誤解をしているんです。全ては聖霊様が働かない限り、聖霊がイエス・キリストと繋げてくれない限り、聖霊がみ言葉を教えてくれない限り、聖霊が私の中で満たしてくれない限り無理なんです。人は誰も救えません。聖霊に依らなければ、その人に働く聖霊でなくては、み言葉は入らないし、救いも受けられないんです。天から下らなければ無理です。だから私達は跪き、低頭し、謙遜になり、貧しくなり、悲しみの人で義に飢えた、柔和な者になっていないと、誰も神に満たされないんです。
イエスを全く知っていないのに、知っていないことがわからないんです。
それが一番恐ろしいと思います。だから弱い私達は祈ります。神様がわかるように、従えるように、愛せるようにと、信仰を持って願うのです。
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