ヨハネ18章1-11

~イエスはこれらのことを話し終えられると、弟子たちとともに、ケデロンの川筋の向こう側に出て行かれた。そこに園があって、イエスは弟子たちといっしょに、そこに入られた。ところで、イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた。イエスがたびたび弟子たちとそこで会合されたからである。そこで、ユダは一隊の兵士と、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たちを引き連れて、ともしびとたいまつと武器を持って、そこに来た。イエスは自分の身に起ころうとするすべてのことを知っておられたので、出て来て、「だれを捜すのか」と彼らに言われた。彼らは、「ナザレ人イエスを」と答えた。イエスは彼らに「それはわたしです」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らといっしょに立っていた。イエスが彼らに、「それはわたしです」と言われたとき、彼らはあとずさりし、そして地に倒れた。そこで、イエスがもう一度、「だれを捜すのか」と問われると、彼らは「ナザレ人イエスを」と言った。イエスは答えられた。「それはわたしだと、あなたがたに言ったでしょう。もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい。」それは、「あなたがわたしに下さった者のうち、ただのひとりをも失いませんでした」とイエスが言われたことばが実現するためであった。シモン・ペテロは、剣を持っていたが、それを抜き、大祭司のしもべを撃ち、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。そこで、イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」~


長い最後の晩餐の説教と大祭司の祈りが終わって、いよいよ、イエス様が捕らわれる時にきて、ユダが裏切る時が来たんです。そして、今日の18章はそのところが描かれています。ヨハネだけが、ヨハネの福音書だけが、他の福音書にはない描き方をしています。当然ゲッセマネの祈りがここで描かれてはいない。そして、他の福音書と違う点であり、表現が違う、私達がいよいよヨハネの福音書を続けて勉強していく中で、ヨハネが意味もなく、それを書いている事はないということです。そこには、本当にもっと深い意味が込められていて、だから他の福音書にはない書き方をヨハネはしているんです。当然これが、最後のヨハネの晩年の時書かれたものであって、その当時のクリスチャン達の状況の背景もあったりして、そして、イエス様が仰った時、自分にはその意味が分からなかったけれど、後になってヨハネが分かり書いている事が多いので、だからヨハネの福音書だけが他の福音書と違う深い意味を持っているのは、その遥か後にヨハネの福音書が書かれているからです。そしてヨハネがその後本当に色んな訓練を通って、悟った事が書かれているので、他の福音書に描かれていないものが描かれていて、他の福音書では奇跡的な事が多く書かれている中で、ヨハネには他の福音書にはない、イエス様がどういうお方であったかという事が書かれている。だから、ここでも他の福音書とはだいぶ違っている所があるんです。 今イエス様が大祭司の祈りが終わって、「ケデロンの川筋の向こう側に出て行かれた。そこには園があった。そしてイエス様が弟子達と共にそこに入られた。」とここに書いているのは、オリーブ山のふもととていうか、オリーブ山の事を言っているんです。そして、今でいうエルサレムではなく、この当時のエルサレムといえば、すごく狭いんです。山を切り取った城壁だったんです。そこで、多くの者が住んでいました。当然誰でも都に住みたいですよね?都に住みたい人がひしめき合っています。だから、エルサレムの中に庭園みたいなものを造れるはずはありません。庭があるはずがない。もうほどんど住居っていう状態の中で、ここでは、「園があった」と書いてあるから、オリーブ山は郊外。その当時ではエルサレムの郊外という意味です。そして、宮というか、神殿の周りに肥しを蒔くことは許されていないです。肥しは穢れたものです。だから、神殿の周りで肥しを蒔くことは、その当時で律法でも許されていない。だから、庭園を造る。花を植える。という事が肥しを蒔かなければ咲かないような処で、エルサレムの城壁の中でそれが行われる筈がないんです。だから、庭園を造ったのは城壁の外です。でも、当時でもエルサレムと言うのはひしめき合っていたので、住居といえば、当然お金持達が郊外に住み庭園を造るということは、その当時からあり得ます。だからここで、オリーブ山に園があったというのは、当然個人の私有地です。囲いがあるから、イエス様が出て行かれた、入られた、という単語があるのだから、イエス様がこの庭園に入ったり、出たりしているという事は、囲いがあるからです。だから、オリーブ山の園に、その庭園には、囲いがあった。だから、誰かの私有地だったと考えられます。そして、他の福音書で見ると、過ぎ越しの祈り、最後の苦難週の時には、宮で教えられた後、夜になるとオリーブ山に行って、寝ておられたんです。夜になると、オリーブ山に帰って来て、また昼間になると宮に行って教えていた。というのが、他の福音書で書いてあるのを見ると、ここはおそらくゲッセマネの園であった。場所的には、ゲッセマネの園であり、イエス様がその日だけそこに居たのではなく、その1週間、過ぎ越しの祭がある間は、宮で教えられ、夜はオリーブ山へ帰って来た。という事が窺えるんです。だから、イエス様が入って出て行かれたのは、1週間ずっと弟子達とこの生活をしていたんです。だから、ゲッセマネでイエス様が祈っている間中、弟子達がウトウトと寝ていて、祈りなさいといくら言われても、寝てしまっていたのは、ここで、寝る事が習慣になっていたからです。そして、ここがあるお金持の私有地だったという事が考えられる中で、それ以前過ぎ越しの祭でも、ある人の2階の部屋を借りているところをみると、イエス様を支持する人が居なかった訳ではないんです。弟子の他にも、当然お金持ちの人達がイエス様を援助していたのは、想像できます。だから、過ぎ越しの祭をした部屋を貸しているのも、お金持ちがイエス様に提供しているし、この庭園を貸している人がいます。そしてイエス様が毎回ここで、帰って来て寝るようにと、ここの庭園は好きに使っていいと承諾を受けていて、提供しているお金持ちが居るはずなんです。だからこの郊外は私有地です。イエス様がここで毎回、寝ておられる事、当然ユダは知っていました。ユダもここで寝ていたんです。だから、ユダが軍隊を連れてきて、イエス様の居場所を知っている事は簡単な話だったんです。だから、ヨハネの福音書には、ゲッセマネの祈りがないけれども、ここがゲッセマネの場所であった事は明白なんです。


~そこに園があって、イエスは弟子たちといっしょに、そこに入られた。ところで、イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた。イエスがたびたび弟子たちとそこで会合されたからである。~


というのは、さっき言った通りです。ユダもずっとここで寝起きを一緒にしていたからです。そして、そこでユダは一隊の兵士と祭司長、パリサイ人達から送られた役人たちを引き連れて、灯と松明と武器を持って、そこに来たと書いています。他の福音書では、祭司達、パリサイ人達がイエス様を捕えに来たと、表現しているんです。でも、ヨハネの福音書だけは、1個隊が来ていたと言っています。パリサイ人や祭司長達、という表現をしていないんです。1個隊だから、ローマ人達です。軍隊を持っているのは、ユダヤ人ではなく、ローマ人です。だからヨハネの福音書だけは、ローマ人の1個隊が来ていたと、表現しています。その一個隊というのは、600人編成です。だから、600人も来ていたんです。しかも、600人と云えば100人隊長1000人隊長がローマ人にはいて、600人から1000人を引き連れているのは1000人隊長の方です。だから、ここでは、最高幹部の1000人隊長が来ているんです。そして、1000人近い600人の兵士が来ているんです。他の福音書では武器や剣を持ってイエスを捕まえに来た。と表現しているにも関わらず、このヨハネの福音書は探しに来たという、違う表現をしているんです。捕えにきたのではなく、1個隊がイエス様と今まさに向き合っているんです。しかも、イエス様はほんの11人の弟子しか居ないのに、こっちは600人を超えた兵士達が来ていて、しかもそれはローマ人達で、しかもここは、武器を持ったとは書いていないんです。松明や灯りを持って来ているんです。そこも他の福音書と表現が違います。捕まえるための剣などを持っていないんです。松明を持っていたんです。それは、後で説明しますが、ここが他の福音書と違う表現です。


~イエスは自分の身に起ころうとするすべてのことを知っておられたので、出て来て、「だれを捜すのか」と彼らに言われた。~


と書いてあるように、探しに来た。しかも、他の福音書はユダがイエス様に口づけするんです。ご機嫌いかがですか?とイエス様に口づけします。そして、ユダが口づけした者がイエスだという合図だから、パリサイ人や律法学者から送られた者がイエスを捕まえに武器を持って来た、と表現をしているのに、ここでは「誰を探しているのか」とイエス様の方から向こうに聞いているんです。向こうの方から捕えに来て、ユダが口づけした人がその人だという合図もなしに。イエス様の方で積極的に、「誰を探しているのか」と訊ねているんです。ここが他の福音書とヨハネの福音書の違う所。イエス様が、「誰を探しているのか」という表現は、始めにバプテスマヨハネの所に多くの弟子達が居た時、イエス様に向かって、「この方こそ真の子羊。この方こそ天から来られた方。」と言った時に、アンデレともう一人の弟子がイエス様について行きます。その時にイエス様が振り向いて、「誰を探しているのか?」という表現で、「わたしを探しているんですか?」という表現なんです。だから、捕えに来たのではなく、イエス様の方からヨハネの福音書は、積極的に、「わたしを探していますか?」と訊ねて、「あなたが求めているのは、わたしですか?」と、むしろイエス様の方で積極的にこの事を聞いておられて、向こうが合図したり、捕まえに来たり、剣を持っていたっていう事を、ヨハネは一切書かないんです。イエス様の方で積極的に言っておられるんです。


~彼らは、「ナザレ人イエスを」と答えた。イエスは彼らに「それはわたしです」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らといっしょに立っていた。~


とあるように、ユダはここで何にもしていないんです。他の福音書でユダは積極的に口づけしに行くのに、ここではただ600人の兵士とイエス様と向き合って、ただ立っているだけです。何故なら、ユダの仕事はもうここで、終わっているんです。ここにイエスが居ることを知らせて連れて行くだけで、もう仕事が完了しているんです。誰がイエスで、合図した者がイエスだという事を、ヨハネは、それをユダがしたとは書いていないんです。ここでは、イエス様の方でユダは何も言っていないのに、「わたしを探しているのか?」と聞かれて、ユダはその事に積極的に行動をとっていないんです。ただローマ人と一緒にイエス様と対峙していただけです。


~イエスが彼らに、「それはわたしです」と言われたとき、彼らはあとずさりし、そして地に倒れた。そこで、イエスがもう一度、「だれを捜すのか」と問われると、彼らは「ナザレ人イエスを」と言った。イエスは答えられた。「それはわたしだと、あなたがたに言ったでしょう。もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい。」~


ここで二度も繰り返し同じ表現をしています。「誰を探しているのか?」「ナザレ人イエスを」そして、「それは、わたしだ」と仰った時に600人以上の一個隊、1000人隊長が率いる軍隊が一瞬にして将棋倒しのように倒れます。しかも、ここを又繰り返し、「誰を探しているのか?」とまた仰るんです。そして、「ナザレ人イエスを」と言って、「それは、わたしだとさっきから言っているではないか」と繰り返しこの事が強調されているんです。ここで、何度も言っているように、ヨハネの福音書は、ここで、「それは、わたしだ」と言っているのは、『エゴエイミー』と言っているんです。それは、ギリシャ語で、『エゴエイミー』、エゴイスト、わたしは自ら存在している唯一のもの。『わたしは唯一のものだ』という表現です。ヘブル語では、『ヤハウェ』『わたしはヤハウェだ』と答えている。日本語では、「わたしは、ある」モーセに語られた通りの名なんです。ここで、神の名だ。わたしは答える。だからその、神の名と言った瞬間に、それでもう、圧倒されて皆が倒れてしまうのです。それを何度も繰り返し語られるのです。私こそモーセに現れた神。わたしこそ、自ら存在しているもの。わたしが律法を授け、わたしがイスラエルという国をつくり、わたしこそが、あなた方を養ってきたものだ。わたしこそ、自ら存在しているもの。ここは、捕えに来ている訳でも、捕まえに来て、武器で脅している訳でもなく、イエス様の方から、「わたしだ」とご自身を現わしているんです。そして、ユダが口づけしたり、何かしるしをしたりという事が一切ないんです。ヨハネの福音書だけなんです。この表現をしているのは。ヨハネはイエス様が十字架に架かられるこの事件は、人間側など関係がない。イエス様の方で積極的になさっている事だ。だから、ヨハネの福音書は、わたしが、わたしの命を捨てて、わたしが、わたしの力で命を得ている。誰もわたしの命を奪う者はない。これを強調しているんです。イエス様がなさった事。これをヨハネの福音書だけは、この十字架の事件は、人間が捕えにきたり、磔にしたり、何か合図が必要だった訳ではなく、イエス様の方で、「わたしである」と答えておられるんです。だからヨハネの福音書だけが、他の福音書とは違う表現をここでしています。そしてイエス様はここでご自身の仰った事を引用するんです。それは、あなたがわたしに下さった者のうち、ただ一人をも失いませんでした、とイエスが言われた言葉が実現するためであった。普通なら旧約聖書が引用されるはずなんですが、ここでは、「わたしは、わたしの名で彼らを守ります」と言ったイエス様ご自身のみ言葉を引用しているんです。だから、誰も失われなかった。わたしが始めから、わたしの名で彼らを守る事をわたしが決めていたから。それでいて、ここでイエス様が「わたしだ」と積極的に仰っているのは、わたしがこの人達を守るから。そして、誰一人失われる事がないから。というのをヨハネは表現しているんです。


~シモン・ペテロは、剣を持っていたが、それを抜き、大祭司のしもべを撃ち、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。~


そして他の福音書で書いてないものが、ここで書いています。剣で相手を打ったのが、ペテロだと、名指しで出てるいのがヨハネの福音書だけで、その相手が大祭司の僕マルコスだと、名前が明かされているのも、このヨハネの福音書だけなんです。だから、ペテロ対マルコスがここで対峙していたことが明らかになります。しかも、そのマルコスは名前だけではなく、大祭司の僕だった。大祭司側の代表です。しかもマルコスというのは、『王』という意味です。だから、大祭司の代理ともいう、闇の代表者なんです。そしてペテロはイエス様の弟子の第一人者です。だからイエス様の弟子の第一人者と闇の代表が今対峙しているんです。それをヨハネの福音書だけが明らかに表現しています。だから今イエス様がなさっている事はこうです。光と闇が今、真向勝負しているんです。当然闇の代表はサタンです。そしてその前に、イエス様が今対峙しているんです。今600人と言う一個隊で、1000人隊長まで引き連れてきているんです。そこで、この福音書を見て、イエス様がクーデターを起こしたテロリストだという汚名が何世紀もあったんです。何故ならイエス様一人を捕えにくるのに、600人の兵士、1000人隊長が来る筈がない。だからイエス様側でもその位の人数が居て、彼らはクーデターを起こすためのテロリストだった、という話が何世紀も続いていたんです。でも、ここで明らかなのは、向こうの闇の力の軍勢は大勢います。だけど、彼らは武器を持ってきたのではなく、松明を持って来たんです。彼らは真っ暗闇ですから、光がないんです。だから、自ら人工的な光を持って来ているんです。武器ではなく。でも、その光でさえ、真の光が今目の前に居る時、やはり闇なんです。どんなに松明をかざそうと、どんなに人工的な光を輝かそうと、結局本当の光であるイエス様と向き合った時、彼らが闇である事がもう明らかで、マルコスはもう闇の代表。そして今対峙しているペテロは第一人者。イエスの弟子の第一人者なんです。そして今それを、イエス側と暗闇側が対峙している場面をヨハネは書いているんです。


~そこで、イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」~


と仰ったとき、いよいよゲッセマネの祈りと同じ言葉が出てきます。それは『杯』です。ゲッセマネの祈りでは、この杯をどうか取り除いて下さい。しかし、わたしの望みではなく、天の父の御心のままになりますように、というゲッセマネの祈りがあるんですが、ヨハネはそのゲッセマネの祈りを書かず、この杯をどうして飲まずにいられましょう。もう、死を覚悟した後の杯なんです。飲むか飲まないかではありません。もう飲む覚悟をし、闇の前に立っているイエス様なんです。そして、死を以って栄光を受け、わたしがわたしのいのちを捨てる。そして、わたしがわたしの力でいのちを得る。というお姿で立っておられて、他の福音書とは違う、もう勝利されたイエス様が書かれているんです。そしてペテロ対マルコスが対峙しているんですが、イエス様がペテロに向かって「止めなさい」と仰っている。ここで重要なのは、イエス様が「この人達はこのままで去らせなさい」って言っていることです。「誰を探しているのか?」「わたしこそ、ナザレ人イエスだ」と言った時、わたしがイエスであるから、他の弟子はこのまま逃がしなさい。この福音書はそう言っているんです。他の福音書では、イエス様が捕えられる時、皆十字架から逃げて、イエス様を捨てて行った。と表現している中で、ここだけはイエス様の方で、この人達を去らせなさい、逃がしなさい、と表現しています。だからここは、一体何かと言ったら、彼らの命は当然逃がせば保たれます。でもそれは肉体の命です。しかし、結局彼らはそのことでイエスを裏切るという霊魂の病にかかってしまうんです。そうですよね?剣を持って自分は最後までイエスの為に闘うと言っていた弟子達が、卑怯にも逃げたのですから。だからここでイエス様が逃がしてしまえば、肉体の命は助かります。でも、イエスを裏切るという行為を、積極的にイエス様が仰っているんです。「わたしを捨てて、あなた方は逃げなさい」イエス様が、矛盾した事を仰るんです。ヨハネの福音書だけなんです。この表現をしているのは。 というのは、第一には彼らは今、何も悟ってないんです。イエス様が逃がさなければ、物凄い大罪を犯すのです。ペテロが三回も裏切って呪ったんです。ここでイエス様について行く弟子は、イエス様を裏切り、ののしり、呪うという行為をするしかないんです。何も悟っていないし、何も力がないからです。この死を克服する、彼らにはその信仰心がまだないんです。だから、イエス様が十字架にかかり死んで栄光をお受けになる事が何かも分からない。だから、彼らをこのまま残せば、もっと大罪を犯していくんです。だからイエス様が今は逃がすしかなかったんです。そして、その上にこれが十字架の象徴だったんです。イエス・キリストが死ぬ事によって、弟子達が生きるという事の象徴でもあったんです。わたし一人が死んで、多くの人が生きる。これこそがイエス・キリストの十字架の救いの象徴でもあったんです。だから、去らせなさいと、ヨハネの福音書だけは、それを言っています。そして、ペテロに止めなさいと言うのです。剣を治めなさい。その本当の意味は、「あなたは、たとえ剣を持ってこの600人に勝ったとしても、誰も救えません」という意味です。 イエス側の兵士とローマ人側の兵士が闘えば、勝てる相手ではないのは明白です。このサタンを引き入れている闇の力は、人間では勝てないです。死の権威、罪というものは、ペテロが剣を以ってして闘っても、絶対に勝てる相手ではないんです。だから、止めなさい。あなたが何をしたって出来る筈がないんです。その前にヤコブとヨハネの二人の兄弟が、イエス様が栄光の御坐に就いた時、私達を右と左に大臣にして下さいとお願いした時も、イエス様がこう言います。あなたは、自分が飲む杯が何か分かっているのか?それは人間のする事ではなく、神がすることだ。と仰った時も、止めなさい。あなた方に出来る事ではありません。それは、神が決める事ですと言われたように、ここでペテロがイエス様の為に命を捨てましょう。と言っても、「止めなさい。あなたでは勝てませんよ」と仰ってるんです。この闇と闘って、勝てるのは、わたしだけです。この600人であろうと、1000人だろうが、10000人だろうが、どんな軍隊が来ても、これに勝てるのは、わたししかいない。わたしが十字架に架かって死んで甦る事以外に、勝利はない。と今仰ってるから、あなた方は今、わたしを裏切るしか出来ない存在です。だから、止めなさい。逃げなさい。と仰ってるんです。ここでわかるのは、イエス様が今、対峙しているのは、闇です。罪です。そしてそれは、どんな剣を持っても、救いには達成出来ないんです。どんなに命を懸けてイエス様が好きだといい、イエス様に従いたいと、どんなに激しく興奮しても、結局彼ら弟子達がしたのは、裏切りだけです。彼らが出来るのは、せいぜい裏切っていく事しか出来ないんです。だから、イエス様が止めなさいと言うんです。無駄な事です。わたしだけが勝てます。わたししか救えない。わたしが死ななければ神の栄光が現れないとおっしゃるのです。 ヨハネはイエス様でなければ無理だと強調したいんです。ただの十字架の事件だけではありません。イエス様以外に救いの道など、作れないんです。イエス様だけが真理なんです。エゴエイミ。「わたしは、ある」と言われる方が、ヤハウェの神でなければ、天から下ってきた神でなければ、誰も救われない。ペテロであっても、誰であっても、無理なんです。この闇の力に勝つのはイエス様だけです。というのが、今日のゲッセマネで起こった事件です。オリーブ山で起きた事件です。これを見た時に、私達の救いが、人間が何も関与していない事が分かるんです。第一人者のペテロも、ヨハネもヤコブも、何の役にも立たなかったんです。ただ、イエス様を裏切っただけ。そして、イエス様が逃がしているだけです。彼らが捕まえに来たのではなく、ユダがイエス様はこの人だって教えたのではなく、イエス様ご自身が、「わたしだ」と仰っただけなんです。イエス様が命を捨てたんです。イエス様の方で、ご自身で命を捨てているだけのお話です。誰もイエス様に手を出せない。救いもイエス様以外は出来ない。というのをヨハネは強調しています。それを考えると、私達が、「イエス、イエス」だとか、「主よ、主よ」と言っていても、実は何も分からないまま生きているんです。 あなた方は生活で、これを理解して生きていますか?全く生きてないんです。イエスが全てだと本気で思ってもいないんです。自分が全てです。自分の考え、自分の思い、自分の感情、自分のやり方。これが全部全てじゃないですか?ただ裏切る以外に何も出来ないんです。ただイエス様に反逆するしかない、その存在だという事の自覚もない。そして自分は、「主よ、主よ」と言っている。「私は祈っていますよ、それなりに。」「私はそれなりに教会生活が楽しいです。」まあ、私もそうですけど、全くふざけています。何をしたからと神の前でそんな大威張りで、生きているんでしょう。 ジャン・カルヴァンはこう言います。偶然はこの世に存在していない。全てが神の摂理だと。例えばある夫婦が山に出掛けて、離れ離れになってしまい、そして行き着いた洞窟で再び出会った時には、そこは殺人者の群れの洞窟で、結局再開しても、この殺人者たちに殺された。この事件を見て、人は、「偶然だ。」「運が悪かった。」と言う。でも、イエス様の許可なしに、こんな事は起きない。とジャン・カルヴァンは言っています。それが譬え敬虔なクリスチャンであっても、そこで殺人者に殺されたという現実は、偶然でもなく、悪霊でもないんです。イエス様が許可しなければ、そんな事は容認されないんです。という事は、全て神側がその事を配置しているんです。サタンさえ、イエス様の手の中でしか、動けないんです。ましてや人間如き、何が出来ますか?『救い』についても、イエス様しか出来なかったけど、雀が一匹地に落ちる事だって、イエス様の許可なしには出来ないんです。それら全ては、あなたの生活の中で起きている、その全ての事が、イエスの許可の元だという自覚が必要なんです。 では神は一体どういう神か?神は、呪う神でもあるのです。信じない者を無条件で愛してくれる神ではありません。祝福と死の権利を持っておられる神です。命を与えて取られる神です。そして神は、貧しい人と富んだ人をつくり、能力の有る人と無い人を作っていきます。だけど、神様は、神様が救う人間には恵みを施すのです。そして、全ての被造物はこの方の前で屈服するのです。そして、神の摂理を、私達がすべては分からなくても、神の計画なんです。神様は目的なしに、根拠もなしに、理由なしに、水一滴降らせません。全て目的があり、全て計画があり、全ては神の意志です。雨一滴降らせるのに、神様は理由があり、雨を降らさない事に理由があるんです。砂漠を創るのも神、豊富な食料を創るのも神なんです。我々の意志や計画では何一つなし得ないという事です。そして、サタンの攻撃を受けないで済む人間は、この世に一人も存在していません。神はこのサタンでさえ、屈服させます。何故ならヨブ記を読めば分かります。神は、このサタンについても許可しています。ヨブを攻撃して打って、財産や家族を取る事を。そして、サタンも神に一々許可をとっています。サタンの願いがどうであれ、神様が全てのものを使っているんです。全てのものを動かしています。そして、これ以外ないということが被造物の立場です。 私達が今日、ここで知るべきは、本当に人間は何もしていないということです。イエス様が「わたしがそれだ」と言われ、イエス様から積極的に命を捨てておられ、ペテロに「止めなさい」と言われます。私達は救いに何の関与もできません。私達はただ、主を裏切るしかない存在です。イエス様の第一人者の弟子でさえ、役に立っていないんです。ましてや私達に救いに何の役に立つんでしょうか?まして私達が救いに何の関与をしたんです?神以外は何も出来ないんです。神しか救いの道をつくれません。それこそ、偉大な恵みです。それで十分なんです。神が一方的になさった事です。その自覚が必要なんです。このヨハネの福音書はそれを語っています。『エゴエイミー』わたしが唯一の存在で、自らしている事。わたしがした事。神のエゴは善なんです。義なんです。神がなさる独断と独裁は正しいのです。道なんです。真理なんです。命なんです。十字架は人間の感情やそんな感傷でもないんです。ただ、イエス様と出会った事が恵みです。これ以外の福音はありません。これは神から恵みで与えられたのです。人からは何にも良いものはないのです。これが全ての答えです。祈ります。

Jesus Christ Glory Church

イエスは言われた。 「わたしは、よみがえりです。いのちです。 わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者は、 決して死ぬことがありません。 このことを信じますか。」 ヨハネ11章25,26節

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