ヨハネ17章9-19
~わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった者たちのためにです。なぜなら彼らはあなたのものだからです。わたしのものはみなあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。そして、わたしは彼らによって栄光を受けました。わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。わたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためです。わたしは今みもとにまいります。わたしは彼らの中でわたしの喜びが全うされるために、世にあってこれらのことを話しているのです。わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。~
この祈りは、『大祭司の祈り』と言って、主の祈りと似てはいても、イエス・キリストにしか出来ない祈りであり、イエス・キリストだけが祈れる祈り。今回も大祭司の祈りが続けられていて、9節で「わたしは彼らのためにお願いします」ここからは、弟子の為に聖別していくし、弟子の為に執り成して行くところなんです。聖書のみ言葉というのは、私達の信仰の先輩たちが、この聖書のみ言葉で、人生を変えられていっているんです。その証は数限りなく、証されていて、聖書のみ言葉を読んで人生が変わった人は大勢います。その中でも主の僕になっていった、有名になっていった人達の中でも聖書の一句が、生涯その人の人生を変えた一句になっていく。これが聖書のみ言葉の力なんです。榊原先生もそうですけれども、特にジャン・カルヴァンはアウグスティヌスという学者を引用する事が、多くて、だから、私はアウグスティヌスの本を読んだことはないけれども、この人が学者の中でも聖書の解釈において、信頼されているということは分かっているのですが、このアウグスティヌスは初めから信仰が篤かったのではなくて、自分に余り信仰がない事を悩んでいた時期もあって、どうして自分にはこんなに信仰がないのか。何故ハッキリした確信がないのか。という時に、聖書を読みなさいというハッキリ聖霊の声を聞いて、聖書を開いた時に、ローマ書を頂いて、そのローマ書を読んだ時に、本当にアウグスティヌスは熱い涙を流し、聖霊が自分の中で働くのを感じ、そして、その聖句、ローマ書の聖句が生涯、彼の信仰を支えているんです。それだけではなく、英国の有名な詩人も、人生でとても苦境に立たされて、自分の部屋で悩み苦しんでいる時に、机の上にあった聖書を開いた時、彼もまたローマ書の一句を頂いて、本当に熱い涙を流し、人生が変わったんです。イエス・キリストが自分の救い主だという事が本当にハッキリ分かり確信できたのです。この世の苦境を乗り越える熱い力を貰っていったという証があります。そして、1500年代にスコットランドで宗教改革をした有名なジョン・ノックスという人がいて、その方は自分がこの世を去る時に、この大祭司の祈りを妻に読んでほしいと、頼んでいるんです。この大祭司の祈りのヨハネの17章は大祭司の祈りですが、彼の人生もこの17章で変えられているから、だから最後にこの聖句を読んで欲しいと頼んでいるんです。 このように、宗教改革をした人達、或は本当にイエス様の僕として、最後まで従い、使命を全うした人達も必ず聖書が彼らの人生を変えている。その時に聖霊が働き、聖書の箇所は違ったとしても、この聖書の言葉が必ずそのクリスチャン達の人生を変えているのは間違いがなく、そして、イエス様が人を使われる時は、聖書のみ言葉でその人達を訓練されるのは、もはや疑う余地がありません。その聖書の中で、イエス様がこの大祭司の祈りをヨハネ17章で語られている中で、ここからは、弟子達に向かって執り成しているんです。弟子達に向かって執り成している箇所は、今日の9節からで、
~わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった者たちのためにです。なぜなら彼らはあなたのものだからです。~
というように、今からお願いする事は、この11人の為だとおっしゃるんです。イエス・キリストの弟子で、一人は堕落していったので、この11人の為にわたしは今祈っている。これはだから、弟子達の為に祈っている祈りなんです。そして、この世の為ではないと、明らかにイエス様が、今執り成しているのは、全ての人ではありません。あなたがわたしにくださった人達。今では11人の弟子です。この人達の為にイエスは祈られます。だから執り成しは、誰にでもされる事ではない。イエス・キリストが今も御坐の上で執り成すとは、慰めの一句のように思うかもしれないけれど、そこもまた、自分勝手な解釈は許されない。イエス様は、神が与えた者の為に祈る方です。そして、ここで祈っているとは、世の為ではない。世の為といえば、色んな人がいるから、複数形な表現をしているように見えても、ここは、単数形です。神のいない自立した社会のことです。神のいない自立した社会の為に、わたしは祈らない。わたしが祈る相手は、あなたがわたしに下さった、その人達の為に祈ると、ここで完全な区別をしています。だから、イエス・キリストが万民に愛を注ぐ神だということを錯覚し、キリスト教を博愛主義だと考えることが、間違いなのがここでよく分かります。博愛主義のように、誰に向かっても優しい神ではないし、貧しくて苦しい人の味方ではないです。無力でこの世で蔑まれ捨てられた人の味方ではないんです。神が与えた、イエス・キリストに与えた人達の味方なんです。ここは、神を人間扱いしてはいけないところです。だから、イエス様が最後の大祭司の祈りをされている時に何を祈っているかは、よく聞かなければならないんです。私の感覚のイエス様を壊さなければなりません。自分主義の、自分勝手な自分中心のイエスをあなたの内から、切り捨てるしかないんです。神は神の仕事をなさいます。人間側は関与できません。神のいない世界ではなく、神の下さったもののために、わたしは今から執り成しをします。
~わたしのものはみなあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。そして、わたしは彼らによって栄光を受けました。~
よくこの世でも、あなたの物は私の物、私の物はあなたの物。とよく使われる言葉でありますけれど、イエス様がここで語られているのは、神様のものは、わたしのものです。そして、神様の物は神様のものであり、イエス・キリストのものだと言っています。だから、神様のものは、わたしのものです、と言える方は、只お一人なんです。イエス・キリストだけが言えるのです。だから、マルティン・ルターはここで、これを言えるのはクリスチャンではない、イエス・キリストだけが言える。だから、イエス・キリストしか出来ない大祭司の祈りなんだと言っています。でも、あなた方はいつも神のものは自分のものだと勘違いしている。その勘違いと自惚れと、本当に間違ったイエス・キリスト像を今日中に壊すしかありません。神のものはあなたのものではありません。神のものは、神のものです。神のものは、イエスのものです。あなたのものは、たった一欠けらも存在していないんです。だから、ここでの大祭司の祈りは、よく聞かなくてはならない、という事です。 『わたしは彼らによって栄光を受けました』イエス様が今言っているのは、弟子達です。この11人は未だに鈍く悟れません。イエス・キリストが語る事が分からないし、この執り成しも彼らは今現在の時点では分かっていないんです。この鈍い11人の弟子に、『わたしは今、栄光を受けました』と宣言されています。その事は一体何かと言えば、神がもうそれを保証されています。彼らは確かに悟っていません。十字架の上のイエスを、全員で裏切っています。そして散り散りに自分の仕事に戻ったんです。そして、今言われている事さえ分かっていないんです。でも、この11人の為にイエス様は今、何て言いました?「わたしは彼らの為に祈ります」そして、彼らは間違いなくあなたから与えられた者。だから、わたしは栄光を受けました。と既にもう宣言されます。まだ起きてもいない事を、先に語ります。それは完全な執り成しです。そして、絶対にこの11人はわたしが責任を取る。だから、あなたのものは、イエスのもの。神が呼んだ11人はもう既にイエスのもの。だから、イエスはこの11人から栄光を受けました。と仰っているんです。その通りに弟子達のことを最後までイエスは責任を取る。それは彼らに信仰がなくならないように。これが、イエス様が今、彼らを執り成しているという意味なんです。今現在はわからなくても、途中で信仰を失くすような、まだ危うい、本当に弱々しい、未熟で未完成で、彼らは何一つまだ悟りがないけれども、わたしはあなたから貰った者を、わたしは最後まで責任を取ります。何故なら、もう既にわたしは11人から栄光を受けていますから、と仰っているんです。今現在の話ではなく、これはイエス様の執り成しです。だからイエス様がそう言った相手は、必ずそうなるということです。
~わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。~
ここでも仰ってるように、わたしはもう父の元に帰ります。イエス・キリストが、もうこの11人の前に現す事はないんです。そして、わたしは居なくなりますが、この事は、わたしと父がまた以前のように一つとなるためであり、そして、彼らも一つとなる為です。そのようにイエス様が今、執り成しているんです。今イエス様が何を執り成しておられるのか? それは神との完全な和解を言っているんです。この11人は、もう神と敵対する間柄ではなく、神から裁かれる相手ではない。何故なら、イエス・キリストの中に11人が入ってきたので、本来イエス・キリストと父とが一緒におられたように、この11人が神の元に入ってきたからです。そして、私達が一つとなる為です。これを今、イエス様が11人に執り成しているんです。私達が一つとなるために、この世からわたしは消えていなくなるけれども、それは、むしろ一つとなる為だ。最後までイエスから11人が離れていかないように、神の敵対する相手にならないように、真ん中に立たれ、十字架に架かるイエスが仲介者とならなければ、絶対神と和解できないので、だから、わたしの中に一旦11人を受け入れ、そして神の元に帰る時に神とイエスと弟子達が一つとなる為だ。と言っているんです。
~わたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためです。~
イエス様は初め12人の弟子を選択されて、一人は滅んでいった。でも、それは聖書が成就するためだ。と書いてあるように、イエス様が失敗したのではありません。12人選んで、一人は滅びていった。まるでこれは、イエス様の選択のミスなのかと考える事は間違いです。初めからその一人は神が呼んでいない。聖書が成就しないという以上に、初めから神の書物の中に名を記していないからです。だから、これはイエスの失敗ではない。教育の失敗でもない。選択の失敗でもないんです。初めから神が呼んだのは、11人だったんです。そして、一人が滅んでいくのは、初めから聖書が成就するためだ。初めから神がその一人は選んでいないという事です。選びという単語を今現在のクリスチャンの多くは嫌います。神はそんなに横暴なのか?などと、今のクリスチャンでさえ、受け入れがたい教理です。でも、もしそれを言うなら、あなたは一体何者ですか?創造主で、全知全能な、神のすることを全て知っていますか?と問い返されてしまうんです。私達がここで明らかに知らなければならないのは、神と人間が全く違うという事をまず、この聖書を読む前に、念頭に置かなくてはなりません。わたしの感覚とか、博愛主義的に神は存在すべき、全てのものに平等であるべきで、そして苦しんでいる人の、神は味方になってもいいのではないか。その感覚では神のことは知ることができません。神が人を選ぶとは、『神の選び』は、人間側の能力で決められていないんです。人間側の状況、才能や見かけや性別、国籍、これらは全く無関係なのです。それは人間には誰も神に応えことはできないし、神が報いなければならない人間が存在してはいないんです。自分から神を愛し、知れる人間は、この世に存在していないんです。誰も彼もが神に逆らい、生まれながらの罪人は神の敵でしかないのです。人間はそういう存在です。だから、神が選んで救うという道しかありません。救いとは、罪人を神が憐れむというものなんです。博愛主義や可哀想だから救われた訳ではないし、能力があり金持ちだけが救われている訳ではなく、私達罪人は、神が憐れまなければ、神が恵みを施さなければ、神がそれを天からプレゼントでくだされなければ、誰も救われません。神が決めて、始められるのです。それこそパウロの言う『恵み』なんです。
~わたしは今みもとにまいります。わたしは彼らの中でわたしの喜びが全うされるために、世にあってこれらのことを話しているのです。わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。~
イエス様が最後、天に昇られる前にこの事を執り成し、この事を話した意味があります。イエス様の最後の執り成しが何かを知らなくてはいけない。だから、ヨハネはゲッセマネの祈りは書かなかったんです。ここでヨハネは、全て、イエス様が最後に残していったみ言葉を書き記しているんです。思い返して、あの時、最後の晩餐の時に、イエス様が何を仰り、何をされたかをヨハネは記憶し、この内容があんまり重要だから、ヨハネの福音書だけに、大祭司の祈りが入ってきているんです。そしてその、大祭司の祈りの中で、本当に、わたしの喜びが全うされる為に、この事を話しているのです。イエス・キリストが喜ぶのは、たった一度しかないんです。後は悲しみの人で、憤りそして、泣いているイエス様しかおられない。その描写しかなかったのに、ここで初めて、わたしは喜んでいる、そしてそれは、生存中にイエス・キリストが語っている事です。ゲッセマネのように、この死の盃をわたしは飲むのか、飲まないのか、ではなく、ここではもう、死は克服されているんです。もうイエス様は死の事を語っておられないんです。死んで甦って、昇天され、そしてわたしと神とが一つとなり、この弟子が一つとなる。その喜びで満たされているんです。この大祭司の祈りは死など克服した先の話をしています。このイエスの喜びは、一つとなるためです。皆がわたしの名前で礼拝をする、わたしの名で祈る時が来たからだ。それは神の名が明らかにされるためだからです。父の名がわたしに与えられたように、そのように人々がわたしを知るようになったから、わたしは喜んでいる。今まで人は、神の名前を知りませんでした。でも、いよいよ神を見るようになり、神を知るようになり、神の御名で礼拝するようになったから、この喜びが全うされるために、わたしはこの祈りをしている。だから、今から架かる十字架の死は悲しいのではなくて、もう克服した喜びです。その栄光をお受けになる事が喜びである。十字架で死ぬ事はわたしの喜びである。イエス様が、このヨハネの福音書で大祭司の祈りを、明らかに11人の弟子に聞かせているんです。わたしの喜びは十字架で死ぬ事だ。それはわたしが、父の元に還り、そしてあなた方がその中に入って来られるようになるためだ。わたしと父の中にあなた方も一つとなるためだ。そしてそれは、わたしにとって唯一の、この、肉体持ってこられたイエスにとって、たった一度の喜びなんです。そしてこれを、わたしがここで祈る為に、あなたが聞く為に、わたしは今祈っている。だから、ヨハネはこの事を書き残したのです。 それは、もう既に弟子達がこの世のものでないから。というのが14節で明らかにされていて、「彼らをこの世から取り去ってくれというのではなく」もうわたしがこの世のものでなくなったので、彼らもわたしの中にいれられたから、もう既にこの世のものでなくなってしまう。だからこの世は、11人の弟子を憎むでしょう。でも、それは彼らの肉体が今すぐ死ぬという事ではない。この世から離されてはいるけれども、この世で死ぬと言っている訳ではないんです。まだ死んではならないんです。この11人は神様の時がまだ、この人達を天国に連れていく時はまだ来ていない。だから、この世から離したのは肉体を殺す為ではないのです。クリスチャンは度々このような、死にたい、祈りをしています。まず、モーセが余りにも頑なな民。何度教えても、分からない鈍い民に向かって、もう十分で、もう嫌です。もう私を連れていって下さい。もう私はこの民を導くのは疲れました、とモーセは言っています。またエリヤも言っています。「もう、十分です。」「私一人で神を拝んでいる。私一人ぼっちで礼拝してきたけれども、もう私は疲れ果てました。もう連れてって下さい。」ヨナもそうです。ニネベはイスラエルを皆殺しにしたんです。しかも、全く残虐なやり方で。そのニネベはヨナにとっては、自分の親の仇、自分の家族の仇です。そして、殺人軍団なんです。そこへ宣教に行けと言われて、ヨナは苦しくて辛いので、逃げました。でも神は絶対にニネベに連れていきます。そしてトウゴマが枯れた時言うんです。「もう嫌です。もう私は死にたい。」その時神様は殺さないんです。彼らがどんなに死にたいと言って、どんなにこの使命が苦しいと言い、どんなにもう私は十分だと言っても、神の方で連れて行かないんです。11人の弟子は全員殉教しました。でも、イエス様がこの世とは違う存在にしてしまったけれど、今は絶対死なせません。神様が神様の仕事をして、彼らがそれを全うするまでは絶対に彼らを、自殺さえ許さないんです。何故?神と一つとなる為にです。 神様は神様の仕事をするために選んでいるから、神様は神様の仕事を全うさせるまで、どれほど本人が死にたいと言っても、必ず神様は神様の仕事をなさいます。それをここで私達は汲み取らなければならないんです。甘い考えを捨てましょう。本当にその幼稚で子供っぽい考えでイエスを見るのは止めるしかないんです。神様は神様の仕事を全うする事に最善を尽くされます。弟子達が死にたいと言って死なせる訳ではありません。生きたいと言って生き延びさせる方ではないんです。そして、今、イエス様が執り成しているのは、彼らをこの世から連れ出す事ではない。ある人はクリスチャンをこう表現します。『異国の地に居たって、そこはまるで祖国のようであり、祖国の地にあっても、そこは異国の地のようであり、彼らはこの世の全ての事をしていて、でも、この世のものではなく、彼らは肉によって生きているけど、肉によって支配されていない。何故なら彼らの国籍は天国にあるから。』クリスチャンをこう表現しているんです。クリスチャンと言うのは、そういう者だと言っているんです。この世で生きていながら、この世には支配されず、肉で生きていながら、肉で生きていなくて、どの地にいようと、そこで、地に根を下ろしてはいないんです。まるで寄留者のように旅人のように生きている。正にイエス様が執り成すのは、そういう11人になるように、この世に居ながら、この世から取り去る事はしない、食べて飲んで仕事をさせない訳ではなく、この世の税金を払わせ、この世の指導者、この世の権力者に従わせているんです。でも、この世のものではなく、わたしのものだと言われます。これが今11人に対するイエス様の執り成しなんです。この世のものではないけど、この世に残していく相手です。これがイエスの弟子たちです。そしてそれは、『わたしがした事』わたしの中にいるからと言っているんです。
そして、~悪い者から守ってくださるようにお願いします。~
この悪い者というのは、この世で迫害する人や、人を見捨てたり、裏切ったり、悪意を以ってする、そういう人々を言ってはいないです。主の祈りと同じで、「私達を悪より救い出したまえ」の悪と同じです。基本的にここの悪は、悪魔の事を言っています。サタンや暗闇の力です。ここで言っているのは、もう彼らはこの世の者ではない。でも、この世の支配者の悪魔から彼らをお守りください。と、祈っている。ここは主の祈りと全く同じなんです。悪魔の四方八方からの攻撃、その悪です。この悪は、イエス・キリストと一つになる事を許さないんです。イエス・キリストと分裂させ、イエス・キリストから離し、教会を壊し、教会を分裂させる力は、悪魔からくるんです。色んな人々から守ってくれと祈られている訳ではなく、悪魔から守ってくださいと祈っています。だから、あなたの仕事がなくならないようにとか、教会の皆で和気あいあいと仲良くなり、教会で皆同じ力を持って、手に手を取り合って、それを守ってくれるように祈っている訳ではありません。人間の悪意とか、人間からくる迫害から守ってくれるよう、頼んでいません。悪魔からの誘惑です。この悪魔はイエス・キリストと一つとなる事を嫌がり、その事を攻撃し、イエス・キリストから離す事だけを基準としている存在です。そこから守ってくださいとイエス様が言っているのであって、あなたの生活を守ってくれとは祈っていないんです。この世で生きながら、この世の人ではない。肉でありながら、肉に従わない。どこに所属していようと、国籍は天国です。私はイエスのもの。これがクリスチャンなんです。 教会とは建物ではありません。天の御国は目で見える物ではありません。そして、それは必ずイエスのものでなくてはならない。この世から全く存在を消しているのではないんです。この世でありながら、イエスの教会なんです。この世に属しながら神の宮なんです。私達の祖国は天国なんです。 教会は病院ではなく、戦場です。どこよりも厳しい場所です。何処よりも厳しい要求。高い要求をされます。この世の習慣の甘えと、自己憐憫を続け、慰めを求めるところではありません。イエス様が行かれた道を行くからです。
~わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。~
ここで、『聖め別って』とは、聖別することです。これは、この世では使われない言葉で、『聖別』という単語はないです。そして、聖めも、ここで使われている『聖』という漢字は、この聖別は私達の内側が悪意と妬みと酷い穢れから聖められるという聖別ではないです。厳密に言ったら、個人的な事を言っていないんです。聖められなさい、そういう事ではありません。今、イエス様は11人を聖別しているんです。この世との聖別です。それが何によって?神のみ言葉、真理によって聖別してください。これが、今祈りの中心です。内側の人間が持つ、汚い、悪意からの聖めではなく、真理によって完全に別の存在になるということです。その真理とは、神の名を明らかにしたから、聖別するということです。そして、真理とはあなたの言葉と仰ってるのは、神の名は一体何かという説明で、その神の名こそ真理なんだと言っています。神の名こそ、ここでいう聖別です。真理であり、イエスであるんです。神のみ言葉で聖別してくださいとは、何を言っているのか?
~あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。~
世に遣わすが、聖別です。私達の複雑で、悪魔的なこの気持ちを聖めろという祈りではありません。すでに、聖められた者という前提の元での、聖別です。救われるための聖とは言っていないんです。ここの聖別は真理に依ってです。福音によって聖別してください。これは、使命を言っているんです。ここは、11人に新たな使命を与えているんです。何故?イエス・キリストは遣わされてきました。それは天の父から遣わされたように、わたしがこの世から去るので、父の元にかえるので、わたしの死後の話をされているんです。イエス・キリストの十字架の事件の後を言っています。復活して昇天された後、ペンテコステ以後、彼らを聖別してください。使命を与えてください。使徒という名前はここから来たんです。遣わされる者。そして後にこの11人は使徒と呼ばれます。この11人を使徒と呼んだのは、イエス様のこの大祭司の祈りからと、言われています。遣わされた者。イエス・キリストが遣わされたように、わたしはこの11人を遣わす。だから、使徒の称号はこの11人とパウロしかいません。使徒と呼ばれた人は、今に至るまでこの人達以外にいません。イエス様が直接遣わしているんです。この世に向かって、そして、聖別して下さい。彼らは何を携えていったのか?福音を携えて行きました。イエス・キリストを証しするために、この世に出てった人達です。だから、使徒が行く所に聖霊が下っていったんです。パウロが行く所に、ペテロが行く所に火の聖霊が下っていったのは、遣わされたからです。何処にでも降った訳ではありません。使徒が福音を、真理を、イエス・キリストの名を語った時に火の聖霊が下ったんです。何故?遣わされたからです。それは、ここでイエス様が祈ったからです。彼らはわたしのもの。聖別してください。真理に依って。私の名によって。あなたのみ言葉によって。これは使命的な話です。聖めという問題ではなく使命が与えられる事です。使徒として、神の仕事をするために。今、区別してくださいと祈ったのです。
~わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。~
ここでイエス様が、ご自身を言っておられます。最初にわたしが聖別されます。そして、彼らも聖別してください。という順番です。イエス様は罪がありません。イエス様自身は聖められる必要はないんです。でも、わたしが聖別されるとは何ですか?『死ぬ』という事です。わたしが今から、十字架に架かって死にます。だから、彼らもそうして下さい。この使徒達は、この事も負わされるんです。もう自分の好き勝手に、自分の我が儘で生きられないんです。復活したイエス様が、ペテロに「わたしの羊を牧しなさい」と言いました。あなたはわたしに従いなさい。あなたは、もう若かった頃のように生きられません。以前のような生涯は送れません。わたしに従わなければなりません。ここでペテロは殉教すると言われたのです。ペテロは必ず殉教しなければなりませんでした。何故ですか?イエス様が最初にそれをなさったから、11人はその道に従うのです。この世に遣わした、真理に依って聖別した、道です。イエスと同じ十字架の道をいく人達です。イエス・キリストが十字架背負って死んだように、彼らも十字架背負って死んでいくという使命なんです。だから、11人は全員殉教し、パウロも殉教しました。その後の多くの選ばれたキリスト者達は殉教していったんです。わたしがいった道。十字架の道を、行かせる相手です。これがあなたの使命だ。わたしはあなたを遣わす。これは、キリスト者達に向かっている言葉です。当然この時に仰ってるのは、使徒達であったとしても、キリスト者に向かって、言っている言葉です。「わたしに従いたいなら、自分を捨て、十字架を背負い、ついてきなさい」イエス様が全ての者に仰っている事です。これが、イエス様が遣わされ、弟子達が遣わされ、これからあなたも遣わされたいなら、そうしなさい。『自分を捨て』が最初です。肉体だけの死ではありません。エリヤ達が望んだ、死にたい、苦しい、もう殺してくれというものではあのません。イエス様は、そんなものは受け入れません。イエス様が言っておられるのは、わたしが決めた時に、わたしの仕事を行い、わたしが連れていく時に、連れて行くことです。人間側が決めることはできません。生きたいとか、死にたいとか、人間の事情は含まれていません。わたしのもので、わたしが、遣わし、わたしの名と、わたしの真理と、わたしの言葉で聖別し、わたしが使命を与え、わたしがそれを全うするために力をわたしが与え、悪魔からもわたしが守り、殉教の力もわたしが与え、それを全うできるように、全部備えて、準備させ、方法も与え、道も示し、それを与えるのはわたしだ。教会を建てさせ、福音を宣べさせ、全世界に行かすのもイエス様がした事です。人間がした事はないんです。人間側から思い起こしたこともないし、知った事もないし、聞いていた事もないんです。 始めから神がすべてしておられるのに、何で人間は自分がしたかの如くに考えることができますか。自分をわきまえ、神は神として高めなければなりません。救われた私たちは神を礼拝し、ほめたたえるために造られたのです。祈ります。
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