ヨハネ15章18-16章4

~もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。もし彼らがわたしのことばを守ったなら、あなたがたのことばをも守ります。しかし彼らは、わたしの名のゆえに、あなたがたに対してそれらのことをみな行ないます。それは彼らがわたしを遣わした方を知らないからです。 もしわたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。しかし今では、その罪について弁解の余地はありません。わたしを憎んでいる者は、わたしの父をも憎んでいるのです。もしわたしが、ほかのだれも行なったことのないわざを、彼らの間で行なわなかったのなら、彼らには罪がなかったでしょう。しかし今、彼らはわたしをも、わたしの父をも見て、そのうえで憎んだのです。これは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ』と彼らの律法に書かれていることばが成就するためです。わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。あなたがたもあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです。これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。彼らがこういうことを行なうのは、父をもわたしをも知らないからです。しかし、わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、その時が来れば、わたしがそれについて話したことを、あなたがたが思い出すためです。わたしが初めからこれらのことをあなたがたに話さなかったのは、わたしがあなたがたといっしょにいたからです。~


最後の晩餐でイエス様が弟子に対する説教が、まだ続いているんですが、クリスチャン達はイエス・キリストに繋がっていなくては、何もする事が出来ないっていうのは、この前の葡萄の木の譬えでイエス様が仰った話で、今日はこの終わりの時、クリスチャンはどういう事になるか、という事をイエス様が話しておられるんです。弟子だからこそ、最後はどうなるのか、という事をイエス様が今、話しておられるんです。このヨハネの福音書が書かれたのは、知っての通り一世紀末。そして、イエス様が生存中には、それ程の迫害は起きてるわけではなかった。だけど、ヨハネの死んだ当時の一世紀には、いいえ、二世紀、三世紀の初めまでは、すごい迫害がユダヤ人の中で、そしてキリスト教の中で起こっている。その一世紀末にヨハネの福音書が書かれているから、ヨハネだけに書かれている、今、イエス様のみ言葉です。その一世紀末にクリスチャン達がどうなっていたかが、当然含まれているんです。今日のこの言葉の中に。そして、ヨハネがイエス様がこの最後の晩餐の時に仰った事を思い返して、書いているんです。 そして、この当時、一世紀頃、クリスチャン狩りはありました。当然パウロもクリスチャン狩りをしていたんです。熱心を以って、キリスト教徒達を探し出し、ダマスコまでわざわざ行って、そして探し出して、Wantedじゃないですけど、密告者まで勧誘してあぶり出していました。キリスト者がどこにいるかっていう密告をさせる事によって、そしてパウロのような熱心なユダヤ教徒達、或は異教徒たちが、キリスト者を探し出し、牢獄に入れ、拷問し、財産を奪い、そして殺している時代です。そしてそれはもう、本当に酷い殺し方をしているんです。獣に裂かれ、ほとんどの人が殉教していく時代です。その時にこのヨハネの福音書は書かれているっていう想定の元で、ここを読まなくてはならない。ほとんどのキリスト者が、そういう迫害を受けている時代。そして、その頃に、皇帝宛てに、ローマ皇帝宛てに、総督の手紙が今も残されていて、その総督達も当然キリスト教徒達を捕まえては殺す、或は捕まえては牢獄入れて、拷問させる、という仕事があった時に、送られている手紙で、クリスチャン達とわかっている者だけ投獄すればいいのか?或は隠れているクリスチャン全員探し出して、殺すべきなのかっていう、皇帝に伺いをたてる手紙があって、その中で、その総督の報告によれば、「そんな事までしなくても、今知っているクリスチャンだけ、投獄し、殺せばいいのではないのですか?」と書かれている手紙なんです。何故なら、ほとんどのクリスチャンが、キリスト教をもう辞めている。その当時になると、以前キリスト者だったけれど、2~3年経ったら辞めた人もいれば、もうキリスト教を辞めて、20~30年経った人もいれば、このような迫害を少しやるならば、ほとんどの人がクリスチャンを辞めると言ってきている。だから、見つけ出して殺す必要まであるのか?そして、その当時、一世紀から二世紀の時には、もう既に動物を生贄にするという儀式が再開されていて、ユダヤ教や、ローマ教的な、ローマの礼拝的な動物を生贄にする、その事がもう流行りだしていて、そこにほとんどのキリスト教が戻って来ていて、だから、その周辺に、動物を生贄に捧げる、動物を売る者達が、またどんどん増えて栄えている。だから、そこまで敢えて見つける必要なんかない。普通にしていれば、どんどんクリスチャンを辞めていくから。こういうやり取りの手紙が残されているんです。だから、その当時、一世紀末や二世紀、クリスチャン達は確かに殉教していました。そして、酷い迫害を受けていた。その時に大勢の人がクリスチャンを辞めているんです。だから、このヨハネはそれを見ています。そして、その百年後にクリスチャン達がどうなったか。教会がどこまで腐敗し、教会がどれ程堕落し、キリスト教が、もう本当に堕落して、離れていった仲間達がどれだけ大勢いたか。その状態を知っていて、イエス様の言葉を今、思い出しているんです。そこで、イエス様はこの事は初めから仰っていた。これが、やはりヨハネの福音書の特質です。


~もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。~


この迫害が起き、キリスト者が殺されて、教会が潰されているんだったら、この世があなたを憎んでいるとするなら、憶えていなさい。先にわたしをこの世は憎んでいた。というのは、順番的な事を言っているのではありません。先にイエス・キリストが十字架に架かって死んだから、あなたもそうです。という順番的な、先か後かっていう話ではなくて、この『先』というのは、第一人者、という意味です。この第一人者のわたしが、この世から憎まれたんです。第一人者というのは、『わたし、イエスが、クリスチャンの原型であった』ということです。キリスト教の原型、クリスチャンの元の形。それが、わたし。このわたし、第一人者が世から憎まれたなら、弟子達が当然世から憎まれるのです。何故なら、わたしが元の形の原型であるなら、あなた方は模型。わたしの模型。わたしの似た形。だから、あなたがたもわたしと同じく、この世に憎まれます。だから、順番的な事ではなく、この世がイエスを嫌ったなら、その模型の形である教会、形であるクリスチャンが、当然同じように扱われるでしょう。何故なら、あなたを、そこから、この世から引き出したのは、わたしだからです。あなたはこの世にいたけれど、その時この世はあなたを憎んではいなかったけど、わたしがあなたを引き出したので、この世はあなたを憎むようになった。何故?この世からしたら、クリスチャンは異質な存在になるからです。違う存在、全く違う、別な形になっているから、この世は、この異質、異物にどうしても、同じように違和感を持たずにはいられないであろう。当然この世とは違う存在になってしまっている、わたしが、あなたを引っ張り出したから、結果そういうことになる。何故?第一人者である、イエス・キリストは元々の原型。この原型はどうなったんですか?この世はこの原型がすごく嫌いでした。元々サタンが支配するこの世界というのは、イエス・キリストの真理が大嫌いです。だから、十字架に架けて殺すまでに憎んだのだから、イエス様が話す事全てが憎しみと怒りになって返ってきたのだから、当然クリスチャンがそうなるでしょう。何故なら、クリスチャンというのは、特別な存在ではなく、イエス・キリストの模型だからなんです。


~もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。~


さっき言った通りです。


~しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。もし彼らがわたしのことばを守ったなら、あなたがたのことばをも守ります。~


ここでまた、わたしの言葉がと仰ります。ヨハネの時代に、その総督が出した手紙にあるように、そのイエス様の言葉、真理、聖書の教理、そしてその事を内に留めて、それを守る者は結局絶対イエス様から離れてはいないという、葡萄の木の譬えです。絶対どんな迫害があろうと、死が迫っていようと、財産没収されていようと、命が奪われていようと、絶対イエスから離れる事はない。だけど、ヨハネの手紙でいう大勢の者が離れていき、ほとんどのクリスチャンが教会から出ていき、いいえ、教会そのものが潰れ、いいえ、教会そのものが腐敗している。もうここは、教会そのものが、イエス・キリストから離れていて、キリスト教そのものが、原型であるイエス・キリストと無関係な存在になってしまっている。というのは、この世ともう混じっているんです。この世と変わりがない状態になっている。その時でもイエス様にくっついている者、葡萄の木にくっ付いている枝、或はイエス様のみ言葉がその人の内に信仰に結びついている者、たんに知識に結びついているのではなく、信仰にみ言葉が、結びつけられている者は、最後まで私に留まるのです。何故?『わたしが、それをしたから』と主張されます。人間側がイエス様にしがみ付きたい。イエス様に本当に従っていたい、なんていう気持ちがあったからではないです。ここで、だからジャン・カルヴァンが言っているように、そんな人間はこの世に存在していないんです。イエス様の方で供給していない限り、絶対に人間側からイエス様に従っていたいという気持ちが湧き上がってはこないです。人間自らはそれは出来ません。ここで、ヨハネも、イエス様の方で選んでいるを強調しているんです。


~しかし彼らは、わたしの名のゆえに、あなたがたに対してそれらのことをみな行ないます。それは彼らがわたしを遣わした方を知らないからです。 もしわたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。しかし今では、その罪について弁解の余地はありません。~


当然ここでイエス様が「彼ら」と言い、「この世」と言っている人達は一体誰かと言えば、ここではユダヤ人です。最初に聖書が与えられ、そして律法が与えられ、神に選ばれています。この当時、イエス様が来られる日までは、イスラエル人しか正しい神の教えを知らないんです。神はイスラエル以外の人には誰にも現していないんです。そして、その神はイスラエル以外には誰にも律法を渡していないんです。そしてこの神は誰にでもみ言葉を与えていないんです。誰にでもご自身を現していないから、当然イスラエル以外の人達は知らなくて当然じゃないですか。だって、聞いた事も見た事もないっていうのは、神様が選んでいないんです。この当時まではイスラエル人しか選んでいないんです。ユダヤ人しか選抜されていないんです。そしてユダヤ人にしか聖書を与えていないし、ユダヤ人にしか神様の律法はなかったんです。だから、この世はわたしを憎んだ。そして、彼らという名称は、当然この当時ではユダヤ人です。律法がありながら、聖書がありながら、神が何度も彼らに現れて奇跡を起こし、モーセを通しても、大勢の預言者を通しても、奇跡を行って、見せたのに、彼らはイエス様が来られた後も癒しの奇蹟を見ているのに、死んだ者さえ蘇っているのに、イエス様がやらなかった奇跡がないくらいに、行われて、最初に見たのは、ユダヤ人達です。なのに、「彼らはわたしを憎んだ」これは、どういう事ですか?


ルカ12章47-48

~主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。~


ここに書いてある通り、この当時で言えばユダヤ人達です。これだけ多くの恵みを受けておきながら、これだけ先に教えられていながら、先に聞かされていながら、先に知っていながら、そして神の心を知っていながら、これだけひどく裏切るのなら、その人達の罰は異邦人の非ではない。そのユダヤ人達の裁きは、知らなかった者達より、酷く鞭打たれるだろう。何故なら神様は、多く与えて、多く教え、多く手をかけ、多く恵みを与え、多くの奇跡を与え、病気を癒し、聖書を教え、祈りを教え、色んなことを、この世に勝つ方法、サタンに勝つ方法を教えた者には、高い要求をします。高い水準で要求するんです。そして、他の人より当然多くのものを要求します。あなたが実をならせたか、見に来ます。そして、実があるか、ないか、検討します。そして、実が無ければ、何度も言われているように、わたしから切り離し、燃やされるしかない。だから、ユダヤ人にこの当時言われていることは、本当にユダヤ人だけに言っていることなのか。この聖書はただ、ユダヤ人に向かって、イスラエル人に向かって、ただ彼らだけに言われてる言葉なのか?違います。今は全世界に、です。何故?福音は全世界に入ったからです。 今、聖書が行き届かなかった国なんてないんです。宣教師が入ってない国はないんです。イエス・キリストという名前を知らない国がないんです。ほとんどの者が聖書が読めないのではなく、読まなかったんです。今は読めるように翻訳もされています。そのように、これだけ多くのものを与えられているこの時代、これだけインターネットを通しても、み言葉がこれだけ流されて、これだけ自由な信仰が持てるようになり、もうクリスチャンだからといって、この国では、少なくとも牢獄に入れられ、拷問を受け、死刑になる事がないのです。今は迫害だって、この日本で受ける迫害は、当時とは違います。それは、すでに多くをもう与えられているんです。これは、もう全世界例外なくにです。宣教師も入り、聖書が入っていって翻訳されているんです。届かなかった国も、届かなかった人もいないんです。それは、拒絶しただけの事。知らなかったのではなくて、受け入れなかった事です。そういう意味では、もう全世界が、この要求をされる、神が要求してきます。そして、弁明の余地がなくなったんです。ここではもう、イスラエル人っていう次元ではなく、全世界です。この世全てが、イエス様がこの二千年の間に、多くの者に読み書き教えたのは、どういう理由からですか?聖書が誰でも、読めるようになるためです。その為に聖書はどの国の言葉にも翻訳され、そしてたとえ宣教師を殉教させても、イエス様は全世界に送っているんです。いいえ、もうインターネットで聖書が読めてしまうのです。だからこそ、この全世界にもう課せられているんです。イエス・キリストは、この全世界に要求ができるんです。だからイエス様が裁き主として来られる時に、誰も弁明出来ないというのは、ここにあります。 だから、そういった者は知らなかったんではないので、聞いていて拒絶したので、多く鞭打たれる。多く、裁きを受けるんです。その中でクリスチャンは当然です。クリスチャンは聖書を聞かされているんですから。そして、その聖書を読んだんです。そして、説教を通して聞いたんです。そして、数々の奇跡をクリスチャンなら、誰でも何度か体験するはずです。誰でもこの神に食べさせてもらい、飲ませてもらい、着させてもらい、そして、本当に多くの恵みを受けていることを聞かされました。だから、多く要求する。だから、多く、それでも従わなかった者には、たくさんの裁きがある。これをだから、イエス様が、前もって弟子達に教えているんです。


~これは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ』と彼らの律法に書かれていることばが成就するためです。わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。あなたがたもあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです。~


そしてそれは、マルコの部屋で火の聖霊が下って、聖霊が弟子達の心に入った時、色んな事を思い返すんです。このようにイエス様が、クリスチャンは後に、どうなるのか?そしてその事をイエス様が弟子達には先に語っているんです。その弟子達に語っているから、「あなた方は後から、知るようになる。何故なら最初からあなた方はわたしと一緒にいたから」と言われ、あなた方とはもちろん使徒達のことです。ユダを抜いた11人を指しています。何故なら、初めからイエス様に選ばれて、初めっから三年から四年の間、使徒達はイエス様と一緒にいました。そして、この言葉を最初に聞いたのは弟子達です。だから、最初からあなた方は一緒にいたでしょ?だから、初めに火の聖霊がきたのも、この使徒達にです。全世界で、人類初、この火の聖霊が内側に入っていったのは、この使徒達です。ペテロをはじめ、この弟子達が、初めに聖霊を受けているんです。そして、初めにこのイエス様のみ言葉も聞いているんです。そして初めに三、四年も、イエス様の証人として、目撃者として、イエス様に初めから選ばれています。だから、あなた方は最初からわたしと一緒にいたから、御霊が来た時、わたしが今言ってる事、今、分からなくても、今は理解してなくても、後に聖霊様、この助け主が来られた日には、あなた方は知るであろう、わたしの事を。 ここで言っている聖霊は、ギリシャ語で『パラクレトス』この前言ったように、弁護士、或はヘルパー。でも、ここでは弁護士という意味を強調しています。何故なら、あなた方は後に迫害を受けます。会堂から追放されます。沢山の人から命を奪われます。その時に何を話すか、何を言うか、考える必要がありません。初めからあなた方はわたしの言葉を聞いたし、聖霊様があなた方にそれを教えるから、心配しなくても、あなた方はその時には、必ず証言をするでしょう。イエス・キリストの事を。必ずあなた方は証をするでしょう、わたしの事を。今このように、イエス様が弟子達に言っているんです。そして、その通りになるではありませんか。 マルコの部屋に火の聖霊が下って、ペテロとヨハネがイエス・キリストを語ったので、議会にかけられた時、ペテロはこう言います。聖霊様がペテロに語られた、と言い、そしてペテロは、「人間に従うより、神に従うべきではないのか?私はイエス・キリストを証言するけれども、私の内にいる聖霊も証言している。」ペテロはこう言っています。もう、その時ペテロには火の聖霊が下っているから、何を話すかなんて、迷っていない。あの無学な漁師ではなくなっているんです。もう、イエス様に逆らい続けて、無理解な事をしていたペテロではないんです。ここではイエス様が仰っている事を、聖書に書いている事が、ペテロには、もう分かるんです。それでペテロは牢獄の中で、大胆に、ユダヤ教達の、議員のサンヘドリン達に向かって、大胆に躊躇なく、恐れる事もなく、鞭打ちや牢獄や、死を恐れなかったんです。大胆にイエス・キリストを証しし、こう言うんです。「あなた方に従わない。私は神に従う。」もう、イエス・キリストを証するな、その福音を語ってはならない。ユダヤ教に教えられた教えだけをあなた方はやりなさい、と言われている時に、「いいえ、私は福音を語る事を止めたりしない。何故あなた方に従わなければならないのか。私はイエス・キリストに従う。」サンヘドリンに向かって、こんな大胆な事をペテロは言い出しているんです。イエス様が昇天されるまでは、全然分からなかったペテロが、火の聖霊を受けた瞬間に、もう、このサンヘドリンの言う事は聞かないんです。それまでどれだけ、ペテロは恐れていたことでしょう?戸を閉めて、震え、ユダヤ人を恐れ、迫害を恐れ、殺されるのを恐れていたんです。そして、イエス様を、十字架の上で三度も裏切りました。なのに、この時のペテロは、もう聖霊様が弁護士として、きちんと立っているんです。何を話すべきかペテロに教えてくれているんです。この弁護士が、こう語りなさい、と教えるので、内におられる聖霊も証言しているし、ペテロも証言している。というのは、クリスチャンの証言と、聖霊の証言とは、一致してなくてはならない。一致した時に、恐れがないんです。聖霊と一致しているから。御霊と一致しているからなんです。御霊が弁護してくれる時、人間は恐れを無くしていくんです。だからペテロは、あんなに震えおののいていたのに、あんなに恐がっていたのに、もうここでは、恐れてはいない。それはペテロが変わったのではないんです。ペテロは以前と同じ。何一つ変わっていない。変わったのは、内に火の聖霊がきている。それが答えです。


~人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。彼らがこういうことを行なうのは、父をもわたしをも知らないからです。~


彼らは熱心にそれをやりますよ。何故なら自分達こそ、神に仕えていると思っているから。彼らは一つも自分達が間違っている事を悟ったりしないんです。パウロがそうだったんです。イエス・キリストと会うまではどうだったんですか?熱心にキリスト教を迫害していました。熱心に探し出しては殺し、鞭打たせ、牢獄に入れていたんです。もう誰も真似の出来ないほどの熱心さです。この熱心に依って、あなた方を迫害するだろう。それは、前もってわたしがあなたに話したのは、あなた方が、それを前もって知って、それを思い起こして、武装する為です。これらの事が起こった時、驚いたり、驚嘆したり、退いたり、おののいたり、恐れないようにと、イエス様が、あらかじめ教えています。だから、驚く必要がありません。何故?第一人者、キリスト教を作り、土台となった、クリスチャンの原型であるわたしが、そうだったのではないのか。それなら、それに似た者達なら、同じようになるのは、知っていなさい。憶えていなさい。忘れてはならない。イエス様が何故これを遺言で弟子達に残しているか。絶対に起こるからです。でも驚く必要がないんです。そして、その時に、恐れる必要がないでしょ?それは助け主がくるからです。


~しかし、わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、その時が来れば、わたしがそれについて話したことを、あなたがたが思い出すためです。わたしが初めからこれらのことをあなたがたに話さなかったのは、わたしがあなたがたといっしょにいたからです。~


この事を話すのはイエス様がもう、離れていくからです。離れていくから、いよいよイエス様が話すんです。イエス様が三、四年、一緒にいるときには、イエス様は「あなた方まで迫害を受けますよ」とは、仰らなかったんです。死んでよみがえり、もうわたしの姿は見えなくなるから、あなた方が今度は、わたしと同じ道を行きます。でも、心配いりません。わたしがもう一度来るから、もう一度あなた方の中に戻って来るから、あなた方はこの話を先に聞いたけど、恐れる必要はない。 沢山の者がキリスト教から離れていく。それは、イエスを捨てて、という単語の、『捨てて』は、罠にかかる、という意味です。誘惑にあうんです。サタンと暗闇の力と、そして人間からくる迫害。そして、恐怖、そして様々な罠。その誘惑にあった者達が、一世紀末には、もうほとんど、落ちてしまっているんです。誘惑とサタンの手に。そして、この世にです。そこに、ペテロ達をはじめ、最後まで闘ったクリスチャンはごく稀れで、ごく少数で、ヨハネの時代は、やはり、イエス様が去られて、ペンテコステで火の聖霊が下るけど、それから約百年が経った後には、この火の聖霊がずーっと続いている訳ではないという事です。火の聖霊は、その使徒達や、コリントやエペソに、そして様々に、ローマに、火の聖霊が下っていて、大勢のクリスチャンが生まれました。だけど、火の聖霊は永遠に留まっている訳ではない。それは、一年で去る時もあれば、三年で去る時もある。でも、聖霊のバプテスマが、火の聖霊が去った後に、多くの者がキリスト教を辞めている。これが今、ヨハネが言っている事です。以前は「主よ、主よ。」と言っていたのに、迫害が起こると、残った者は本当に僅かしかいなかった。これが、今、ヨハネが語り、そしてイエス様が必ずその事が起きますと、そして必ず罠にかかりますと言っています。罠にかかるとは、榊原先生は、『自力ではもう無理』必ず死ぬという状態であると言います。必ず自力では、そこからは出て来れない。鳥が罠にかかったら、死ぬことと同じです。獣が人間の罠にかかったら、もう絶対生存は無理。そのようにサタンの手に完全にかかったら、もう出て来れない。そして、その通りに一世紀末、二世紀になって起きてしまっているんです。でも、その当時に、有名な哲学者が残している遺言書があって、彼は最初からキリスト者ではなく、後にキリスト者になったのだけれども、海辺を散歩してる時に、漁師の老人が、あなたに真理を教えてあげようと、イエス・キリストを伝えた時に、彼の胸の内はすごい熱くなって、そのイエス・キリストをその場で受け入れたんです。当然火の聖霊が下ったんです。そしてその人が、後から改宗した時には、当然殉教するんです。そしてその殉教がすごく有名な殉教となって、その彼の名が、殉教という言葉にも、殉教者っていう意味にもなったぐらい、しばらく後、殉教者は彼の名前を使う程だったんです。でも、その位有名な殉教者だったんだけれども、彼が最後にこう言うんです。何故自分がキリスト者になったのか。それは、本当にキリスト者が殉教する時、誰一人死を恐れていなかった。こんな事は絶対に尋常ではあり得ない。だからこそ、私もこのイエス・キリストを受け入れたかった。死を恐れない彼らは、この世の人ではない。と、この哲学者は言い残しているんです。そして、日本でも、聖書をものすごく熱心に学んだ、天皇家の一人がいたんですけれども、その人が何故、そんな風に東大の聖書学科に入ってまで、聖書を勉強したかというと、クリスチャンになったかどうかまでは、分かりませんが、戦中、沖縄で、白人の宣教師が本当に奥地にたった一人で、生涯宣教した人がいて、本当に尋常じゃない、この世の人とは思えない、そんなたった一人で、白人が、こんな島に、生涯自分の母国に帰ることなく、熱心に喜んで福音を伝えているのを見て、これは、普通の人ではあり得ないでしょ、と思って、聖書に、その秘密があるのではないか。と言って、すごくその聖書を調べた。という証があるんです。 そのように、クリスチャンがこの世の人とは思えない、クリスチャンがこの世の人とは全く異質、何か別な存在、になっているのを見て、どうして?何で?と考える人達がいるんです。やっぱりその人達に福音が語られたら、当然その人達はクリスチャンになっていって、だから、イエス様の弟子達が皆そうだったんです。全員、殉教しました。しかも、全員イスラエルではありません。トマスはインドで、ペテロだってローマで。皆散って行きました。そして、その所で、教会が立っています。そして、その場所から、また弟子達が生まれてきている。イエス様が命令した通りではないですか。地の果てまでも、福音を伝えなさい。そして、聖霊のバプテスマを授けなさい。そしたら信じた者には力が現れる。その力こそ、これです。死ぬ時に、死を恐れない。迫害を恐れない。牢獄を恐れない。このようなクリスチャン達が結局世界中に現れていくんです。世界中に散って行ったんです。そして、今私達の時代がこうです。「弁明ができない。」この宣教師達が全ての国に入っていき、その彼らが命懸けで翻訳した聖書が、全ての地に入っていって、それでイエス様に尋ねられた時、知らなかったって言える人が、多分イエス様が再臨する時に、一人も居なくなった時です。誰一人弁明が出来なかった時に、イエス様は来られるでしょう。 ジャン・カルヴァンはこう言っています。神への認識は、無神論者にもある。神を認識するという感覚は、誰にでも人間に埋め込まれている。だから、無神論者といっても、墓参りをし、無神論者は神はいないと言いながら、神頼みしている。見てください、どの例外なしに、どんな人でも、神頼みをどこかでしていて、墓参り、或は石だとか木だとか、何かについて祈ったりしています。それは神への、願いにほかなりません。だから、神を求めていくという事で、やっていない人間は一人も居ないほど、神は例外なしに人間に植え付けて、種はあるんです。でも、彼らは、この宇宙万物を見て、自然を見て、神は生きている事を知ったとしても、それで敬虔に生きようとしたとしても、でも、彼らは、罪に汚れている。真理を受け入れない限り、誰も救われない。それは、神の種が埋められて、何かしらの神を拝んでいたとしても、それは、偶像の神を、ただ作っているだけになります。自分の中で勝手に神像を作って、神様とはこういう神だと妄想し、神様はこういう風に私と接していると勝手に決めつけるので、結局、偶像礼拝をしてるに過ぎない。だから、神が啓示しているのは、聖書です。神が啓示している真理を受け入れない限り、誰も、救われない。何故?神を信じていると言っている人達は、ほとんど、自分が作り上げた神ですから、神自身が啓示したのではなく、神が「わたしだ」と言ったものではなく、人間が勝手に作り出した神を拝んでいるから、だから、神を信じますと言うだけでは、救われていないのです。何故なら、神が啓示している真理を受け入れてはいない。何故なら神はご自身を現して、それを受け入れるように命令しているんです。なのに、それは嫌です。真理は嫌。でも私は神を知っている。 これは、どんなに敬虔に生き、どんなに謙遜に生きようとしても、次第に堕落していきます。何故ならそれは基準のない、自分勝手な、手前勝手な、我が儘な考え方で生きようとする、人間が人間を中心にした神だからです。だから、少しも聖められる事はないんです。聖めるのは神以外にない。神以外にその人を救えないのに、その神は受け入れず、たとえ一神教であったとしても、不可能なんです。真理を受け入れてなければ。そしてそれを自ら自覚できる人間は、パウロでさえ、いないんです。自分から神の真理を分かる人など存在していません。絶対に神が教えていなければ、神の方で選んでいなければ、人間自ら、真理が真理だと分かりません。聖書の言っている事は分からないんです。聖霊に依らなければ、誰もイエスが分からないんです。だから、必ず神の方で選んでいるんです。必ず神の方が救っているんです。人間側ではありません。譬え私は神を知っている、神を拝んでいると言っても、それがイエス・キリストの真理でなければ、全然違う物語を言っているんです。この神様が本当に選んで、神が植え付けて、神が強制して、服従させていなければ、人間自らは、真理を受け入れる事が出来ない。でも、ここで私達が、では何故一世紀末に、あれだけイエス様を目撃したとして、あれだけの奇跡があっても、何で大勢がキリスト教から離れていったのか?だから、ヤコブが言ったように、「サタンもイエスを知っている。サタンもイエスを信じている。」という言葉をよく私達が理解しなければならない。何故?当然でしょ?イエス様と共にいたんです、サタンは。彼が神である事を知っている。信じている。そして、裏切ったんです。だから私達が、知っている、信じていると、口だけでは救われないのです。それはサタンでさえ、いいえ、サタンの方がよく知っていて、よく信じています。私達以上に、イエスを。という事は、イエス・キリストのみ言葉が、真理が、聖霊によって、私の信仰に結びついてなきければならない。だから「私はイエスを知っている、信じている」のその部分に、福音が入っていなければなりません。それが、『心で信じて告白する』という事です。 だから、イエス・キリストの証人、ペテロ達が恐れずに告白したのは、そう証しせざるを得ないんです。聖霊が語られるからです。それが、信仰に福音が結びついているということです。そういう者は必ず伝道していくし、必ず福音を語っていく。口を開くんです。だから、ローマ書に、『心で信じて告白する。そうして救われる』と書いてある通りです。そして、ヤコブはさらに進んでこう言います。「行いのない信仰は、死んだ信仰」だから、これらを全て含めて、『恵みだった』とパウロは言っています。パウロは口を開いたんです。それも命懸けで。しかも、良い時も悪い時も。相手が信じていなくても。相手が受け入れてなくても、パウロが口を閉じた日はないんです。常に何を語りますか?「イエス・キリストを信じなさい。これ以外救いの道がないのだから。」と彼は言います。やらざるを得ない。聖霊が語っていくから。聖霊が証人として立ち上がるからです。それは、福音がその人に入って、心で結びついて、信仰と繋がっているんです。だから、「私は信じている、知っている」では救われないという事です。それはサタンでさえ、知っていて、信じている。十字架の血潮は決して堕落しない。必ず滅びる事はない。この真理は完璧だ。一つの欠けもない、とジョンズ牧師は語ります。聖霊が入って福音が語られている時に、本人に自覚がなくても、聖霊が導いてくだされば、最後まで信仰が失われません。だから、イエス・キリストには失敗がない。この福音には一つの欠けもない。これは原理なんです。だからこれは原理であって、絶対の真理なんです。でも、救われていないと思われる自称クリスチャンはどうなのか?という質問に対しては、ロイド・ジョンズはこう言うんです。救われたかどうかを確認しろ。この真理に落ち度があるはずがない。これをロイド・ジョンズはローマ6章の解説で仰ってるんです。み言葉が心に入り、真理が入って、従順し、イエス様の気持ちを理解し、私の証と聖霊の証が一致して、そして口で告白して、本当にイエス様に最後まで従い通していく、これが救われている状態です。そして、それは決して自力ではありません。聖霊が力をくれるんです。それは福音が信仰に結びついて、イエス・キリストの葡萄の木にくっ付いているから、実を結ぶんです。くっ付いていなければ、実を結びません。それが自称クリスチャンです。信じたとはいえ、「イエス・キリストは主です。」と告白し、信じてはいても、実がないクリスチャンが実際にいるという事です。その実がないクリスチャン達はどうですか?切り捨てて燃やされる。最後にはそうなる。イエス様が直接葡萄の木の譬えで仰っています。 だからクリスチャンは迫害されていきます。この世から憎まれます。この世の人達と決して一致が出来ないんです。これがクリスチャンだ、とイエス様が遺言で残している。絶対あなた方はわたしと同じようになります。あなた方はわたしの模型なんだから。わたしが第一人者、原型で殺されたなら、あなた方も殺されます。殺されずに憎まれないなら、世の人なんです。この世の人なんです。これが真理なんです。言葉で理解するのは、本当に難しいです。だから神の国は力だっていう事を実感する。言葉ではなく、力なんです。だからこれは、イエス様との体験以外には理解できない、聖霊以外には説明できない事を実感します。ジャン・カルヴァンはこう言っています。「誰でも神を恐れている。誰でも神の刑罰や天罰を恐れている。」これも、恐れない人がいないんです。ただ怖いだけです。怖くて従っている人はいると言っています。この世の人でも神を恐れたり、天罰を恐れたりするんです。でも、ただ怖いからやっているのは、救われてはいないんです。 だから私達、信仰者は細い綱の上を歩いて、死と命との狭間にいるんです。そして、私達はそんな危険で、絶壁に立たされ、そんな霊的な激しい、嵐の暴風雨の中にいるにも関わらず、しかもその足元は、綱一本。それにも関わらず、安逸を貪り、安定を望み、孤立をこれだけ嫌がり、人からの評価を求めます。イエス様が望んでいるのはそれではありません。 聖霊の助けなしに信仰を維持するのは不可能です。だからわしたちは祈ります。イエス様の力で、信仰を守り、主に従えるよう助けてくださいと。この世を勝利するのは、この信仰です。アーメン。

Yokohama Glory Church

イエスは言われた。 「わたしは、よみがえりです。いのちです。 わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者は、 決して死ぬことがありません。 このことを信じますか。」 ヨハネ11章25,26節

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