ヨハネ福音書15章7-17
~あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。 あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。~
イエス様が弟子達に残された、最後の晩餐の時の最後の説教がまだ続いていて、葡萄の木の譬えの話の続きなんですけれども、『あなた方が実を結ぶため』という事を何度もイエス様が強調されているんです。あなた方が行って、あなた方がこの地上で、実を結び、そして最後までこの実を残すためだ、とイエス様が今日仰っているんです。今日は「あなた方が実を結ぶ事」を仰っているんです。この『実を結ぶ』という事にイエス様が、何をしたらいいのか?という事を考えてみたいと思います。何故ならこの地上で実を結ぶというのは、クリスチャン達がよく言う話ですが、じゃあ、実を結ぶっていう事はどういう事か?これは、クリスチャンそれぞれに解釈が違ったり、或は考えが違ったりすることが多いので、私達にとって、果たして実を結ぶっていう事は一体どういう事なのか?それを今日、イエス様が何を仰っているのかを、私達はよく考えなくてはならない。
~あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。~
実を結ぶために第一に、何でも求めなさい。とイエス様が最初に仰っている。その『なんでも求めなさい』は、後にもイエス様が仰っているんです。16節に
~それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。~
二度イエス様は、実を結ぶために、「わたしに求め、わたしの名で祈りなさい」と仰っている。だから、ここでいう実を結ぶために私達が一体何が必要なのか。という事の第一番目のイエス様の教えが、『祈りなさい』なんです。この祈りなさいっていうのは、クリスチャンであれば誰でも聞いている戒めなんですけれども、この『祈りなさい』という祈りについて、イエス様が何を求めているのか。祈ったらこの地上で実を結ぶ、と仰ってるんです。その祈りについてクリスチャン達は、まるで呼吸するように、と言います。イエス様に祈る事はクリスチャンにおいては、呼吸するように、同じことだ。空気を吸うのと同じことだ。当たり前なのだ。祈る事はクリスチャンにとって当然の事であると言われているし、そういう風に聞かされている事が多かったとしても、じゃあ、祈りは本当に空気を吸うような自然な出来事なのか?という事を考えなければならない。自然の出来事ではないです。救われて、イエス様の前で、クリスチャンになったと言って、じゃあ空気を本当に吸うように、意識もなしに、何の自覚もなしに祈れるようになるのか?それは、違います。だから、祈りにはある程度の修練が必要。訓練が必要という事です。この訓練や修練は一体どういうものなのか?という事を、私達が祈りとは何かを深刻に真剣に考えていきたいと思います。何故ならこの地上に実を結ぶために一番初めにイエス様が命令しているのが、この『祈り』だからです。この祈りは、時間を、何時間祈りました。とか、教会に来て毎日祈りました。とか、プリントアウトして、この台詞をこの言葉を繰り返し祈りました。という類の事が祈りなのかと言ったら、違います。それは祈りではないです。ヤコブは祈りについてこう言っています。
ヤコブの手紙5章16-18
~ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。~
というようにヤコブが言っている重要な内容はここです。「義人の祈りは働くと、大きな力があります。」大きな影響力、大きな効力がある、と言っているんです。でも、ここで言っているのは、『誰でも』ではないんです。『義人』の祈りは聞かれて、そして大きな力があり、エリヤが今雨を止めたり、また雨を降らしたりするほどの力があるという事です。この祈りについては、様々な人が、様々な事を言いますが、義人の祈りは他の普通の祈りとは違います。本当に力があります。その力があって効力がある祈りというのは、一体何の祈りか?ということです。 宗教改革者であるマルティン・ルターは、結局あちこちから追放されて、あるお城に匿われている時に、彼は熱心に祈っていたけれど、最後は聖書の翻訳に力を入れ、最善を尽くしていました。その時でも、聖書の翻訳、聖書の研究についてすごく多忙な時に、それでも、マルティン・ルターは一日三時間、必ず最優先で祈っていたそうです。そして、その祈り、そしてマルティン・ルターの信仰生活をみて、そこの城に居た人が、自分の友人に宛てた手紙にこう書かれているんです。「マルティン・ルターは、この厳しい難局、そして本当に苦しい境遇の中にも信仰を失くさず、快活で、常に祈り、常に信仰者であった。そして、彼が祈っている、その祈りの内容を聞いて、本当に驚かずにはいられなかった。」と書いてあるんです。それは、何を驚いたかというと、本当に天の父の前で遜って畏れ、そして天の父と本当に親しい者のように祈っていたそうです。本当に父と一体となって祈っていた。彼の祈りには本当に力があった。と書かれているんです。だから、義人の祈りとはこのように力があって、そして、その祈りがあったからこそ、マルティン・ルターはこの境遇、本当に厳しい状況の中で、宗教改革を最後までやり遂げて、最後までこの境遇に耐え忍んでいたんです。 その宗教改革を同じようにした、スコットランドのジョン・ノックスという人がいて、この人は有名なスコットランドの宗教改革者で、何が有名かと言うとすごく祈る人で、彼は本当に祈る人で有名だった。でも、その時のスコットランドの女王はバリバリのカチカチのコチコチのカトリック教徒だったので、この宗教改革をするジョン・ノックスを実に迫害した、本当に厳しく迫害した、メアリー・スチュアートという女王がいたんです。でも、このメアリー・スチュアートは彼をものすごく迫害したけれども、知人にはこう漏らしているんです。二万人の兵士より、彼の祈りをよりもっと恐れる。だから、二万人兵士がいたって、彼一人、ジョン・ノックス一人の祈りの、義人の祈りの方が本当に力があると、認めているんです。こんなに迫害しているにも関わらず。 このように歴史をみても、祈る人は、しかも、この宗教改革は簡単な事ではなくて、本当に迫害と苦難の連続で、ローマ・カトリックを、その全部を、全世界を、そして国王さえも敵に回している宗教改革でした。その中でも彼らは全て祈りで勝利をし、そして彼らの祈りは誰が聞いても、誰が見ても、敵が聞いても恐れおののく、そして効力があり、力があったんです。だからイエス様が今、何でも祈りなさい。そうすれば父はあなた方の祈りを聞いて下さる。そしてもう一つは、何でもわたしの名で祈りなさい。そうすれば、父が栄光をお受けになるのです。と言っているように、この父が栄光をお受けになる祈りでなくてはならない、ということです。自分のしたい事、自分のやりたい事。自分がこの時間祈りたいとか、私が教会に行って祈っているからとかいう問題ではないんです。父が栄光をお受けになる祈りでなくてはならないんです。それはイエス様がゲッセマネで祈って見本を示されています。わたしのしたい事ではなく、天の父がしたい事が、天の父の御心が叶いますように。イエス様もゲッセマネではそうやって祈られているんです。自分のやりたい放題、自分の願う通り、あれこれと問題を抱えたからって、あれこれしてくれ。神様がこうやって私に注目して、私によく働いてくれるように、という祈りではなくて、一時間祈ったとか、三時間祈ったとか、毎日教会通ったとかいう祈りではなく、提示された祈りだから、プリントアウトした祈りだから、これを祈らなくてはならないという問題ではありません。そんな祈りには何の効力もありません。何の力もない。そして、神との和解などないし、神と交わっている事でも何でもないんです。だから、その祈りには力がないし、その祈りには効力が一つもないし、そこにイエス様が働くことがないんです。何故?天の父が栄光をお受けになる祈りではないんです。だから、天の父が栄光をお受けになる、その祈りでなくては、私達は祈っていても意味がないんです。 だから、ロイド・ジョンズ先生が言っているように、祈りとは、キリスト教の教理の十字架の、イエス・キリストの恵みへの深い知識によらなければ、祈る事が出来ない。というのを今、私は実感します。ただ、私の感情。ただ私の気持ち。ただ言われたから、教えられたから、三時間祈らなければ。こんな事で祈れる筈がないんです。イエス・キリストによって与えられた恵み、天の父から与えられている無償の愛が、どういうものなのか分からない者には、祈る事なんて出来ないんです。何故なら、義人の祈りは、このように神が本当に働く祈りだからです。だから、イエス様が何度もここで仰ってるんです。「わたしに留まりなさい」これは、イエス・キリストに繋がっていなければ、決して何の実も結ばなというのが、ここで、説明されている通りです。イエス・キリストと関係ない祈りは、何の実も結ばない。だから結局、イエス様から離れて枝が枯れていくだけの事。だから、宗教儀式、宗教の形だけしているクリスチャン。そしてユダヤ人達は、イエス・キリストから離れていくしかない。だから、祈りも同じです。イエス・キリストと関わらない、天の父が栄光をお受けになる、その祈りでなければ、そして深いイエス様への、与えられた恵み、この恵みの教理を本当に知る知識がなければ、深い祈りなど到底無理で、義人の祈りなど到底無理なんです。
~わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。~
このように、「わたしの戒めを守りなさい」そして、「イエス様の父の愛の中に留まりなさい」これらの事を話したのは、わたしが喜び、そしてあなた方も喜ぶためだ。と仰っているけれども、聖書の福音書に、イエス様への描写の中で、イエス様は『怒られた、憤られた、悲しまれた、泣いた』という描写はあったとしても、イエス様が笑った描写は一度もないんです。イエス様が喜んで、笑って、楽しんでいる、という場面は一つも書かれていません。ただただ苦難にあい、ただただ蔑まれ、悲しみにあい、そして苦しみにあい、そして迫害にあい、そしてただ憤り、そして悲しまれた、そのイエス様の描写しかない。そしてイエス様はそのように過ごされたんです。それでいてイエス様は今、「わたしが喜び、そしてあなた方の中で喜びが満たされるためだ」と仰っている。じゃあイエス様は、笑って過ごした場面が一つもないのに、何を喜ばれたのか?イエス様は全ての栄光を捨て、神としてのその力を隠されて、受肉された事を喜び、人として生きられたことを喜び、死ぬ事を喜ばれたんです。だから、ワハハと笑って楽しんで、何か大騒ぎして感情が高ぶって、興奮した喜びなど何一つもなかったけれども、恵まれた環境などなかったけれども、イエス様は天の父の戒めと命令を、天の父がなさりたいその御業を一度も揺らぐことなく、一度も違うことなく、そうして全うされ、その道を完全に行かれ、その事を喜ばれたのであって、ご自身の何か個人的な喜びで満たされる事など一度もなかったんです。 だけど、ご自身が十字架まで背負われ、死にまで従順され、その事を喜んでイエス様は、「わたしの喜びが、あなたがたの中で満たされるためだ」と仰っているんです。だから今イエス様が弟子達に話されている『喜び』というのは、イエス様がなされる業の事を言っているんです。イエス様が死にまで従順され、そして、あなた方の罪のために、わたしが死ぬ事を、去っていく事を、それをわたしは喜んでいる。そしてあなた方も喜びで満たされるだろう。とイエス様が仰っているんです。だからあなた方が、わたしが愛したように、あなた方も愛し合いなさい。と仰り、
~人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。~
イエス様が、「もうあなた方を僕とは呼ばない。わたしはあなた方を友と呼ぶ」とこれからは友と呼ぶと仰った。その意味は一体何なのかです。当時のローマ時代もそうですし、全ての封建時代において、『王の友』という称号は実際にあったんです。王の友というのは、一体誰かと言うと、ダビデにもいたし、ソロモンにも『王の友』と呼ばれる者がいました。それらは一体誰かというと、王の家族よりも、王についている大臣達よりも、王の友は、王に謁見が簡単だったんです。だから、本当に王の友が会いたいと思う時、王への謁見が叶うんです。その位、家族よりも大臣よりも親しい仲にあるんです。この時代に王の友と呼ばれるのは、そのような高い身分であったんです。まして、この旧約時代に神様が友と呼んだのは、たった一人しかいません。アブラハムです。そのアブラハムを神様は、友と呼びました。唯一、人で友と呼ばれたのは、このアブラハムしかいないんですが、そのアブラハムに向かって主は、ソドムとゴモラを滅ぼす時に、「わたしのこの友に、今、わたしが滅ぼそうとしてる事を喋らないで秘密にしておられるだろうか。」と自問自答されるんです。そしてとうとう、アブラハムにその事を告白されますよね?「わたしは今、ソドムとゴモラを滅ぼしに行く」そしてアブラハムと会話されるんです。このように親しく話されるんです、アブラハムに。だから今、イエス様が「もう、あなた方を奴隷と呼ばずに、友と呼ぶのだ」と仰っているのは、旧約時代にアブラハムと話をされたほど親しく、そのように話されるという意味ではあるけれども、でも、ここで私達が友となった、と言ったら何かもうイエス様がマイフレンドのように、私達の身内の一人のように、あしらって扱っていいという事ではないですよ。本当に私達の同等の立場に居る方ではないです。当然全ての主権を持っておられ、全知全能の神ですから、私達がフレンドリーに付き合っていい相手ではないです。そこを錯覚してはならないのは、イエス様がここで、『友と呼ぶ』というのは、わたしが、私のする事、今から十字架に架かって、あなた方の為に死に、あなた方から去っていく事。そして聖霊があなた方に入った時に、聖霊がわたしのした事を全部あなた方に教える時に、イエス様が何をなさったか、神の恵みがなんであったかを、あなた方はもう知らされる。もう知らないで、ただ命令だけを守っている奴隷とは違う。今まで訳が分からなくても、こうしなさい、ああしなさいといえば、分からなくても、理解できなくても、従わなくてはならなかった、あのような奴隷ではなく、あなた方からわたしが去り、あなた方の為にわたしが命を捨てるので、あなた方はもうわたしを知るようになる。だから、友と呼ぶ、と言って、人間の身分が突然上がったり、神と同等になったり、近付いたりしているという、この身分的なものを言っているのではなくて、『わたしがそれをするから』です。イエス様が、私が去って、私が死んで、そして聖霊様をあなた方の中に送った時、あなた方が色んな事を知るようになる。だからもう、理解しているから、わたしがあなたを友と呼ぶ。このようにイエス様が仰っているんです。だから、人間の身分が奴隷から友に昇格したとかそういう事ではなく、人間が何かイエス様が報いなければならない何かがあって、そのように呼ばれているのではなくて、イエス様がされた事が、そしてイエス様があなた方に教える事で、友と呼ぶという事をイエス様の方で仰ってくれているんです。
~あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。~
あなた方をわたしが選んだのであって、あなた方がわたしを選んだ事など、たった一度もなかった。それは、わたしがあなた方を任命し、立たせるためだ。これは、行ってあなた方が実を結ぶためだ。また、もう一度実を結ぶために、わたしはあなた方を選んでいる。そして、あなた方を任命し、あなた方を立たせた。と言っているところは、私達が実を結ぶために、まず第一に、祈らなくてはならない。第二に、実を結ぶために、イエス様がこう仰ってるんです。実を結ぶために任命した。立って行って、あなた方が実を結ぶためだ。と言っているところに、ただ私達の内側が聖められるとか、邪悪な心とか、汚物のような罪が、ただ私達から消化され、洗い清められて、実を結ぶといっている事ではないですよね?その事を今、仰っているのではないです。何故なら、任命しているんですから。任命して、立たせて、仕事を与えているのですから、ここは単に聖めの事を言っているのではなくて、あなた方が行って、実を結ぶためです。『行って』というここは、去って行かなければならないでしょ?何処とかは書いてなくても、あなた方は去って行かなくてはならないのです。そして、実を結ばなくてはならない。というのは、第一に、伝道しなくてはならない。イエス様の最後の昇天される時の弟子達への最後の戒めが、地の果てまでも福音を宣べ伝えなさい。これが命令でした。だから、あなた方は行って、ここを去って、地の果てまでも宣教して伝道しなくてはならない。そして、実を結ぶためだ。伝道して実を結ぶためだと仰ってるんです。でも、この伝道して実を結ぶという意味が何であるか?それは多くの人が救われて、教会に来た、ただそういう事だけを言っているんではないです。ここでいう、『行って』というのは、『去る』というのと同時です。 友が友の為に命を捨てる事こそ、このような愛以外に愛はない。とイエス様がその前に仰っているように、『去る』は命を捨てる覚悟、という意味でもあります。私が友の為に命を捨てる、そして、それ程の愛は他にはないんです。とイエス様が説明した後に、あなた方も行って、去って、わたしと同じに命を捨てる覚悟をし、友の為に、隣人の為に、伝道や宣教の為に、命を捨てる覚悟を持って、あなた方がこの地で実を結ぶようにしなさい。こういう命令なんです。ただ、私達の内側が聖められ、クリスチャンだけ集まって、礼拝して、手を叩いて賛美して、このような事を仰ってはいないんです。『去りなさい』です。立ちなさい、出ていきなさい。地の果てまでも福音を宣べ伝えなさい。そして、隣人の為に、友の為に、あなた方は命を捨てるまでの覚悟を持って、出ていけ、と言っているんです。これが、わたしが愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさいという戒めです。同じです。そして、わたしに留まりなさい。それは、あなたが実を結ぶためです。というのと、父のみ言葉があなた方に留まるなら、あなた方は弟子となるのです。というのと同じ意味です。 私達がここで、神の弟子になる。という事が義人の祈りなんです。だから、義人の、力があり、効力があって、そして本当に人を動かす事が出来る程の力ある、その祈り、その義人の祈りは、イエスの弟子になった者だけが出来るんです。誰でもできることではありません。イエスの弟子になった者だけが、義人の祈りをする事が出来る。そしてそれは、イエス様に留まり、イエス様のみ言葉が留まって、イエス様の戒めを守り、去って、立って行き、伝道して、その実を結ぶ者です。これが、義人の祈り。イエスの弟子となるという事です。 この弟子となるという事が、一体どういう事か。過去、たくさんの殉教者がクリスチャンの中にいます。そのクリスチャンの中でも、紀元二世紀の頃、ローマから一番迫害を受けている時です。大勢のクリスチャンが獣に裂かれて殉教していった、見せしめの死刑がたくさん行われた時代です。その中で二世紀頃の、獣、ライオンの爪で裂かれた一人で、有名な宣教師がいて、その宣教師が最後にローマ教会に送った手紙が今も残されていて、その手紙の中でこう告白しています。「早く獣が私を裂けばいいのに。もし、獣が私を裂くなら、私から仕向けるだろう。私を裂くように。私は獣の牙を恐れるような者にはなりたくない。ようやく私は、今死を目の前にして、ようやく、やっとキリストの弟子になり始めている。だから、この身が拷問や、どんな火焙り、十字架刑、どんな獣の牙に身体が、手足が千切られようとも、私はそれを自分から望む。」と残している手紙があるんです。『やっと、弟子になり始めた。』彼は元々が信仰者で有名な人です。シリヤからローマに死刑のために連れて行かれるその途中で、手紙を書いているんです。そして彼は殉教しました。そして、その彼は『やっと弟子になれた。』と言います。だから、イエス様の弟子になる、という事が、そう簡単ではない。ましてや、義人の祈りは、この弟子にしか出来ません。この弟子こそが義人の祈り、大きな力があって、このメアリー・スチュアート女王のような、バリバリのカトリック教徒であっても、宗教改革者の祈りを恐れていたように。マルティン・ルターがこの厳しい状況の中で、最後までこの宗教改革を、革命をやり遂げて、それはもう、今まで大勢の殉教していったクリスチャンがそうであったように、イエス・キリストの弟子となった人達が全てそうだったように、です。最後までこのように、イエス様が行かれた道を行くんです。友の為に自分を捨てて、イエス様にだけ従って行っているんです。だから、彼らの祈りには、彼らの言葉には力があったし、そして彼らは多くの実を残して、そして多くの実を結んだんです。 私達は葡萄の木の譬えを簡単に、「そうです、イエス様は葡萄の木で、私は枝で、実を結ぶように。」と言い、私達は口先だけではクリスチャンと言い、口先だけでは祈ると言い、口先だけでは弟子になりたい、イエス様の特別な、イエス様に使われるそういう者になりたい。大きな力を持って人を救いたい。と私達は軽々しく口にし、軽々しくその為には命を惜しまないと、軽々しく口にするけれど、今、弟子となるにはイエス様の戒めを守っていなければならない。隣人の為に命を捨てる程の覚悟がなくてはならない。人に仕える事を止めてはならない。その事が最初の戒めなんです。そして、最初の戒めに、その為の執り成しの祈りが要求され、そして、その為の父に栄光を帰すその祈りが、弟子の祈り、義人の祈りなんです。しかも、その事が出来ていないのに、口先だけのクリスチャン、口先だけの弟子、口先だけの祈りなど意味がないんです。私達は全てがこのイエス・キリストに留まり、そのみ言葉が私に留まり、そして実を結ぶしか、私達はイエス・キリストの弟子になる方法など一つもないんです。 今、私達教会が祈っていますけど、本当に祈っているんでしょうか?まだ自分の為に、自分の感情、自分の気持ち、自分の有益の為に祈っているなら、そもそもそれは、祈りなのか?です。祈っていないなら、当然その祈りは聞かれません。私達は、本当にこの義人の祈りをするために、闘っているんです。何と闘っているかといえば、「従わない。神の言葉を嫌い、そして従順しない。そして自分勝手に生きて、自分勝手な祈りをしたい。自分の都合のいい人生で生きたい。自分のあれこれ欲しいものをあきらめたくない。そして、自分はこういう風に生きたいっていう道をあきらめない。放棄しない。」その自分を何一つ捨てられず、その覚悟もなく、そしてそのような、生ぬるい信仰、ただ宗教儀式だけを繰り返して、ただ時間的なものだけをして、ただ形だけをするなら、それは何十年経っても意味がないし、それは死ぬ日まで実なんて一つも結べないんです。 私達はこの地上に、弟子となる者が多い筈はないという事を知らなければならない。イエス様に留まり、本当に義人の祈りをする人が、私達の目の前には本当に現れません。それ程いないんです。それ程自分勝手に生きたい、自分の我が儘通りに生きたい。自分の欲しいものを祈って何が悪い、自分の願い通りやって何が悪いんだという態度を止めないからです。全てが神の無償の愛です。でも、全て神がするわけではないんです。私達の選択さえも神がきっかけをくれ、力を下さらなければならない、出来ない事ですけれども、だからと言って、私達は、ただ待っていれば、呼吸するように祈りが出来る訳ではないんです。ただ時間が経てば、修行僧のように、苦行したから祈れるようになるわけではないんです。私達がイエス様の命令を守った時だけです。自分を捨てられる時だけです。イエス様に栄光を帰せる、義人になった時だけです。自分を捨てイエス様に従える弟子になった時だけです。実を結んで、弟子となって、義人の祈りが出来るのは。その時だけです。何十年クリスチャン生活を送って、拷問のように祈りをしたって無駄です。跪いて五時間祈っても、決して力がないんです。私達が自分を捨てる日まで、自分を捨てて、隣人の為に命を捨てる覚悟が出来るまで、或は自分の考えや感情を全部捨ててイエス様の考えに合わせる日まで、そして自分の手柄でなく、全部イエス様に栄光を帰せる、その自分の心の中で、本当に針の先ほども、本当に一欠けらも自分に栄光を帰すという、その自惚れている自分を失くさない限りは、無理なんです。真に神に賛美する事も無理です。 確かに私達は弱くて、私達は本当に悲惨です。罪と汚物にいまだにまみれ、そして、サタンや暗闇の力に敗北している弱々しい、ない者のように扱われています。でも、義人は、マルティン・ルターは、それでも快活で、勇気があり、明るくて、積極的だったんです。暗くてネチネチして、劣等感の塊で、そんな暗い祈りでは、何も変わりません。それは何十時間、何百日続けても無理なんです。自分がこの恵みに感謝して、主がくれたものへの感謝がなければ、あれもまだ足りない、私にはこれもくれない、私には何にもくれないんだと、神に逆らい続けるなら、何時間祈ったって無駄なんです。だから今、私達が教会に来て祈っていても、何も聞かれないなら、義人の祈りではないという事です。そして、快活で明るく、イエス様に喜んで感謝を捧げていないで、暗くて、自分の問題に沈んで、感情に溺れているなら、意味がないんです。何の効力もありません。私達は神の恵みに本当に感謝して喜んで、そして、跪くんです。 始めから信仰心の熱い人はいないし、神の恵みが何かを知り得る人はいません。時間が必要ですし、訓練も勉強も必要です。それを導いて教えてくれる教師も必要です。でも祈り始めることは今からでもできます。その祈りは神様が必ず聞いています。問題はそれを願わないことです。私達にその純粋な信仰が与えられますように祈ります。アーメン。
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