ヨハネ福音書15章1-6
~わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。~
最後の晩餐の日にまだイエス様が弟子達に向かって長い説教が続いていて、そして、今日はあの有名な葡萄の木の例え話をイエス様がされるのです。これは、信じていない一般のユダヤ人ではなくて、弟子達に語っているという事が重要です。それは、クリスチャンに語っている最後のイエス様の遺言であり、最後に、弟子達にイエス様が何を要求されているか、という事がこの葡萄の木の例えです。そして、この有名な例えの一節で「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。」このように書いてあるけれども、葡萄の木という概念は、旧約聖書の中から、イスラエル人にとって、とても重要な象徴だったんです。そして、旧約時代から葡萄の木は何に例えられていたかというと、詩篇の作者も語っているんです。
詩篇80篇8節
~あなたは、エジプトから、ぶどうの木を携え出し、国々を追い出して、それを植えられました。~
このように、エジプトから葡萄の木を携えてカナン地に植えられた。と、旧約聖書の中からも葡萄の木という例えはずっと出てくるんです。そして、この葡萄の木は誰を象徴して誰を言っているかと言えば、当然イスラエルの民です。神に選ばれて神が種を蒔き、神が水を与え、神が時には刈り込みもし、そして神が育ててきたんです。そして、神の前で葡萄の木というのは、神の選民達を言っているんです。だから、イスラエルの民です。ずうっとアブラハムから神様は約束してきて、このイスラエルの民にたくさんの実を結ぶようにして、この地で栄光を現すために、わたしが育てて、わたしが植えたのだ。そして、わたしがエジプトからも連れ出して、わたしがカナン地に運んで、そこでわたしが植えたのだ、という風に、わたしが選び、わたしが育てた。わたしの実。それがイスラエルだったんです。だから、旧約の時からずっとイスラエルは葡萄の木、或は葡萄っていうのが、選民達の象徴だったんです。だから、イエス様がお生まれになる少し前のイスラエルの貨幣の中には葡萄の木の印が押されているんです。その葡萄の実です。その上に、神殿の前に金で出来た葡萄の木があるんです。それは、民達が自分で個人的に献品していったんです。その葡萄の実と、葡萄の葉っぱと、それを黄金で出来たものを神殿の前に置いて、自分達が神に選ばれた民、自分達が神に守られているという象徴として、こぞって献品していたんです。だから、ある人は葡萄の房を献品して、ある人は葡萄の葉を献品して、黄金で作ったものを神殿の前に置くんです。葡萄の木として。それがイスラエルにとって喜びだったんです。自分達は選民。自分達は選ばれて、自分達はモーセに引き連られて神がこの地へ自分達を導いて植えて下さり、そしてまた放浪の旅へ行っても、またエルサレムへ戻して下り、自分達が葡萄の木、神の葡萄の木っていう誇りがあったんです。その誇りをもって貨幣にも印を押し、自分達の神殿の前にもこぞって皆が純金と黄金をもって葡萄の房を献品していたんです。こうやって旧約の時代から、イスラエルの民が葡萄の木、という象徴だったのに、ここで、弟子達にイエス様は違う事を仰るんです。『わたしが葡萄の木だ』イスラエルの民ではなく、わたしがそうだ。イエス・キリストそのものが、今、葡萄の木だ。と言って、今までイスラエルの民が思っていた事とは違う事をイエス様が仰っているんです。 それは、イエス様がその前の例え話でも葡萄園を農夫達に貸した。そして、収穫の時がきたので、その収穫の実を受け取ろうとして、僕達を送ったが、彼らは皆殺しにし、恥をかかせ、そして自分の子供を送った時には敬ってくれるだろう、と思って送った時には、葡萄園の農夫達は何をしたかといえば、その子供さえ殺してしまった。その時に主人はどうしますか?その葡萄園をあなた方から取り上げて他の人に与えるのではないんですか?という例え話をイエス様がしています。その例え話が、今、ここで仰っている事です。あなた方は確かにわたしが選び、わたしが育ててきた。そしてわたしは、実をいっぱい結ぶように、本当にありとあらゆる方法で、天からマナを降らし、岩から水を飲ませ、あなた方を何度も何度も育て養ってきた。そして収穫の時が来たから、あなたがたから実を見ようとして、下りてきたら、このイスラエルの民は何をしたか?本当に待ち望んできたメシヤを殺してしまう。あなた方は始めに預言者を送った時にも預言者の言葉を聞かず、この預言者を次々に殺した上に、神の御子が来た時には、イスラエルの民がもう一回神に立ち返るだろうと思っていたら、立ち返るどころか、その息子さえも殺してしまうのではないのか。だから、あなた方の持っていた葡萄農園は、もうあなた方は取り外されて、他の民に渡すのだ。というのが、今日の一節です。 弟子達に向かって、弟子達は当然ユダヤ人、イスラエル人だったから、葡萄の木の象徴だったんです。だけど、あなた方はもう勘違いしてはいけない。もう、イスラエルが葡萄の木ではなく、わたしが葡萄の木であると仰っている。パウロも言っています。「種を蒔いて、水を撒いても、育てるのは神様だ。」そして、あなた方は神の畑です。とパウロが言います。パウロが言ったのは誰ですか?キリスト教徒に言っているんです。ユダヤ教徒ではなく、キリスト教徒にパウロはこの手紙を送っています。ということは、イエス様がユダヤ人ではなく、異邦人という概念ではなく、キリスト教徒に移しますよ。キリスト教徒こそ、わたしが今度実を結ばせる相手、なんです。だから、ユダヤ人だとか異邦人だとか、という区別ではなくて、どこの国とか誰とかっていう区別ではなくて、キリスト教徒にわたしは、今度、わたしの木を育てるという事を移行してしまっているんです。だから、イスラエル人が葡萄の木ではなくなって、イスラエル人が選民ではなくなるんです。神が選んだ民ではなくなるんです。それは、ユダヤ人が完全に見捨てられるのかとかいう次元ではなくて、キリスト教に移るということなんです。ここからは、イエス・キリストが葡萄の木になっていくんです。イスラエルではなく。そして、イエス・キリストを信じる、キリスト教、教会が葡萄の木になっていく。というのが、今日イエス様が第一節から仰って弟子達に言っている大事な遺言です。これからは、わたしの名で祈り、わたしに祈り、わたしが事を成す、その事自体がわたしそのもので、わたしそのものが、真理であり、命であり、道であると、イエス様が語っておられる。それはわたしだ。今度はわたしに集まらなくてはならない。選ばれた選民ではなく、わたしこそが、それだ。だから、ここでいう、ユダヤ教からキリスト教に移ったというただそれだけではないのです。イエス様が言っているのは、今からはキリスト教徒に預けるんです、この葡萄畑を。今まではユダヤ人、選ばれた選民に葡萄畑を預けてきたけれども、これからイエス様が預けようとしておられる葡萄畑はキリスト教達に、クリスチャン達にわたしは預けていく。と仰っている。
~わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。~
ここは、「わたしの枝で実を結ばない者」というのは、イエス・キリストに取り敢えずはくっついているって事でしょ?イエス・キリストが葡萄の木であるなら、取り敢えずイエス・キリストに付いてはいる枝があるんです。でも、その枝はいつまで経っても実を結ばない。だからわたしは、これを切り取っていく。と仰ってるんです。これは、ノンクリスチャンに言っているのではないのです。イエス・キリストに付いているっていう事はキリスト教徒の事を言っています。イエス・キリスト教徒であれ、クリスチャンであれ、実を結ばない者は、わたしが取り外していく。
~あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。~
これは、弟子の足を洗う時にも仰いました。弟子の足を洗おうとした時、ペテロが「いや、いや、私の足を洗わないでください。」と言ったら、「そうしたら、あなたとわたしは何の関係もない」と仰るんです。わたしにくっ付いていなければ、あなたとわたしは何の関係もないと語られると、ペテロが、「いやいや、では頭も全身も、洗ってください。私は穢れていますから。」と言った時に、「いいえ、あなたはもう聖いのです。そして、あなたはもう、足以外洗う必要がないのですよ」とイエス様が足を洗う時にペテロにそう言ったんです。それとこれは、同じです。わたしに留まっていなさい。だから、わたしから足を洗ってもらわなければ、あなたとわたしは何の関係もありません。しかし、あなたはもう、聖いのです。と言ったのは、ただペテロの話をしているわけではないと、以前説明しました。その時のペテロの態度とは関係なく、イエス様が十字架に架かって死んでくださり、イエス様が甦り、イエス様お一人で、イエス様だけがなさった事が成就するので、あなたはもう聖いのです、という意味だったんです。ペテロがどうとかという話ではないんです。ペテロが何かイエス様に忠実だったから、ペテロが何かイエス様を特別に愛していたから、ペテロが何か信仰心が強かったからというものでもありません。その後ペテロはイエス様を三度も裏切ります。しかし、それを言っているのでもないんです。わたしが善であるから、わたしが死と復活を持つものだから、死の権威を打ち破るものだから、あなたは聖いのです。人間側が聖いのではないんです。わたしが聖いから、あなたも聖い。そういう意味なのです。イエス様が足を洗っている時からずうっと仰っていて、今も仰り、わたしこそがそれだと、ヨハネは言い続けているのです。『エゴエイミー』。イエス様が、わたしだ、『エゴエイミー』と言っているのです。そのエゴエイミーはエゴイストなんです。エゴイストは自分の勝手。独断という意味です。この業はわたしだけがしている。この聖さはわたしだけのもの。とイエス様は今もここで仰ってるんです。わたしだけなんだ、それをやれるのは。あなたではない。これが葡萄の木の特徴です。 そして、段々もっとハッキリと言います。
~わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。~
これは、さっき仰った事をもっと明白に語られています。わたしと繋がっていなければ、わたしの枝でなければ、あなたはどこからその力を貰うのですか?その聖さはどこから来るのですか?その知恵はどこから来るのですか?ここが、ジャン・カルヴァンが言っている通りです。人間からは何も出てこないんです。良いものも、聖いものも決してありません。堕落した人間には善なんてないし、人間には自らの義なんてないんです。邪悪でサタンと同じ資質で、私達は神に反逆する、その罪深さしかない。こんな私達が何の努力したからと聖められます?どんな熱心をもつからといって立派になれるのですか?わたしでなければ、無理です。わたしに繋がっていければ不可能なんです。これは、ペテロであれ、パウロであれ、どんな偉大な人物であれ、誰も例外なしに、イエスに繋がっていなければ、誰も聖くはなれないとイエス様が仰り、だからイスラエルが葡萄の木ではなく、わたしこそが葡萄の木で、わたしに繋がらなければ、どこの誰も、ユダヤ人でも異邦人でも、誰も救われない。これを弟子達に今、もうハッキリ、明確に、他のものは一切ないという真理を、キリスト教の土台、基礎である教理を今イエス様ご自身がハッキリと弟子達に遺言で残しているんです。
~わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。~
ここに真理の答えがあります。わたしから離れていたら、あなた方は何も出来ないんです。何一つ出来ないんです。これがイエス様が最後に弟子達に送っている言葉です。あなた方が自分の意志で、自発的に、自立して何が出来るのか?そして、実を結ばなければ、わたしは絶対切り離していきますよ。これがイエス様です。わたしにしがみついていても、実を結ばなければ切り離すと言っています。
~だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。~
というのが今日、葡萄の木の例えです。これを沢山の人が説教します。そして、榊原先生も説教して、この部分は有名な説教だからやっていますけども、ここで、様々な牧師が、「だから、イエス様に従いましょう。だから、イエス様を愛しましょう。だから、イエス様に、教会に来て礼拝しましょう。献金しましょう。」などという説教をされると、仰います。でも、それは間違いではないし、本当の事です。だけど、ここでイエス様が仰っているのは、どういう事かいえば、神の手は当然ユダヤ教からキリスト教に移りました。以前は、ユダヤ人が選民でした。でも、ここからは選民ではなくなります。ここからは、イエス・キリストそのものが葡萄の木になってしまうからです。選ばれた人間ではなくて、他のどの国の人でもないんです。イエス・キリストという神が、これからは中心になっていく。その前の遺言はこうだったんです。「これからは、わたしの名で祈りなさい。そして、わたしに祈りなさい。そうすれば、わたしがする」と語られたイエス様を見てください。人間の余地がありましたか?人間の余地はないんです。イエス様に沿った祈りをし、イエス様の名義で祈りをし、しかもそれをイエス様に捧げ、しかも、これを成就していくのもイエス様です。どこに人間の意志や活躍の余地があるんですか?どこに人間自ら何を成し得る余地があるのですか?だから、葡萄の木は教会で、葡萄の木はクリスチャンですね。という概念はむしろ、何か人間側に出来る事があるかのごとくの錯覚です。何か人間側もイエス様と共同に働く何かがあるかのごとくです。何かイエス様の前で人間が、「Yes」とか「No」とか答えて、何か自分の意志によってイエス様を助けているような、イエス様が報いなければならない何かが人間側にもあるかのごとく、クリスチャンはノンクリスチャンと違って、イエス様に特別にえこひいきされる、何か特殊な人間であるという勘違いをここで、私達はしてはならないんです。当然キリスト教が今はイエス様に選ばれていて、キリスト教がイエス様と繋合わされています。嘘ではないです。これは、本当の話です。そうするなら、礼拝守るのは当たり前で、什一献金払うのは当たり前です。そして、教会の奉仕をし、宣教し、隣人を愛していくのは当たり前の事です。でも、イエス様がここで言っている葡萄の木はそういう意味なのかといえば、それは、もう少し私達が考えなくてはなりません。特にジャン・カルヴァンはこう言うんです。「私達はまだ穢れているんですか?」という質問に対しては、ジャン・カルヴァンはこう答えるんです。「イエス・キリストは聖いのです。」と答えています。「私達にはまだ罪が残っていますか?」「イエス・キリストには罪がありません。」と答えているんです。それが正解です。 だから、私達が葡萄の木に繋がっている枝であるなら、私達は当然キリストの体です。キリストの手足、肢体なのですから、頭がキリストで、教会はキリストの体です。それは私達が手であり、足であるという事です。枝であるんです。でも、このイエス様に繋がっているキリスト教徒と、繋がっていないノンクリスチャンと比べてみてください。何が違うか。違わないんです。ほとんど同じです。そして、ほとんどのクリスチャンがノンクリスチャンと同じく穢れています。罪深く、隣人愛もなく、そして、イエス様さえ愛していません。変わらない状況です。どこがどう違いますか?むしろ、ノンクリスチャンが優れている場合がよくあります。ノンクリスチャンの方が隣人愛があったりして、ノンクリスチャンの方が思慮深くて、ノンクリスチャンの方が優しかったりします。だから私達がクリスチャンと名乗っていても、何が変わったのかと聞かれれば、いいえです。どう違うの?違わないんです。当然それがクリスチャンであってはならないんですけど。でも、現時点では変化が見られません。ノンクリスチャンと全く違うところを発見しますか?発見しません。ほとんど同じです。ましてや劣ることだってあるくらいです。では、何ですか?実を結ぶとは一体何でしょうか?これは全てイエス様の方でするしかないんです。イエス様の方で力を下さり、知恵を下さり、イエス様がイエス様の実を結んでいるだけです。私が実を結んでいるわけではないんです。イエス様が、イエス様の力で、イエス様の方法で、イエス様のご自身のやりたい事、願う事で実を結ばせているだけなんです。前回も言ったように、イエス様が、私に留まり、神の国を作るというのはどういう事かと言えば、イエス様がイエス様の家をイエス様の方法で作るんです。こういう次元です。何か私達が突然変えられたり、何か私が突然、性格が変わったり、何か犯した失敗が回復し解決したり、とかいう事を人間側がしているつもりになり、そして、他人を裁き始めると、当時のユダヤ人みたいになるのです。ユダヤ人はどうだったんですか?神に選ばれました。神に特別に愛されています。神の国です。私こそ神に選ばれた人です。と言って、異邦人を裁き、隣人愛もなく、宗教儀式だけし、律法におかれている神を愛し、隣人を愛しなさいという命令を一つも守らず、そして自分だけではなく、他人にさえもその間違いを教え、地獄に送っているあのユダヤ人に対してイエス様は何て言いましたか?「もう、あなた方にその農場は任せない。わたしから切り捨てる」と、今ユダヤ人達は言われているのです。もうこのユダヤ人達は実を結ばなかったんです。イエス様は下りて来たんです。そしてイスラエルをご覧になり、エルサレムをご覧になって、何も実らなかったんです。これだけ、イエス様が育て、優しくしてあげて、恵みを賜り、そしてみ言葉を下さったのに、イスラエル人達は実を一個も結んでいなかったんです。そういう人達はイエス様、何て言いました?絶対取り上げると言っているんです。取り上げて他人に渡すと言っているんです。その他人が、キリスト教徒だったんです。そして、弟子達から葡萄の木がまた新たに始まっているんです。でも今日、そのクリスチャン達も、また取り上げられていくんです。何故ですか?実を結んでいないからです。 では、私が努力して、一生懸命何か頑張って実を結ぶのですか?さっき言ったように、違います。イエス様が私の中に来られ、イエス様がご自身の国を建て、そして、イエス様がご自身のなさりたい事をし、イエス様だけが実を結んでいくんです。それでは人間側は、この枝は一体何をする人ですか?このキリストの体になった、農場を預けられた神様の畑と言われている私達は一体何なのですか?「私には何も出来ません。」「私は無能で無知です。」そして、「私からどんな善もありません。どんな義もない。ただ全てイエス様がなさった事。ただ全てイエス様の栄光。ただイエス様の犠牲だったし、イエス様が努力され、イエス様の熱心で、イエス様だけが働かれたんです。そして全ての賛美をイエス様へ。全ての礼拝を神へ。全ての栄光を主にお返しします。」これが、枝がやる事です。でもこれを生活で一切やらないんです。全部自分のした事になり、全部自分が考え出した手柄になっていて、全部自分の好きな事をし、全部自分の我儘を通し、全部神に合わせず、私の考えに神を合わせようとして、神が譲歩するようにという態度を取り、自分の我儘をイエス様の前で決して崩す事も、止める事もせず、不平不満も止めず、ノンクリスチャンの前でイエス様がひどく恥をかいていても、心を痛めず、正確にイエス様が伝えられず、大勢が地獄へ行くのも何にも感じないで、隣人愛より自分の事しか考えていないのに、どうやって栄光帰すのですか?口でいくら言っても、教会に来て、イエス様に栄光あれ、神の国に、神の栄光って歌っても、生活で何にもやっていないのに、口先だけで、神に栄光、主に賛美すると歌を歌って、主よ、主よと言っても、何一つイエス様に栄光を帰せないのです。何一つ自分の考えを壊せないでは、本当にはイエス様を賛美できません。 ジャン・カルヴァンはこう言っています。イエス様に栄光を帰せないなら、真のキリスト教ではないと。私達はこれを聞いたら痛いです。でも、事実なんです。 イエス様に繋がるにはどうしたらいいんですか?「私には何の善もありません。全てあなたがなさった事です。」という告白をするのです。 カルバンはこう言います。神を知るには、自分自身を知らなくてはならないと。それはアダムの堕落以降、人間自らは何の希望もないのです。ただ破滅の道を進むだけです。だから、イエス様が来られました。私達を救うためにです。これがユダヤ教ではない、キリスト教の教えです。このイエス様の助けなしには、私達は悪を好み罪を犯すのが必然です。イエス様に祈りましょう。私達の心に住まわれ、邪悪な私の心を変えて下さり、心に平安が訪れることを。アーメン。
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