ヨハネ福音書10章31-42
~ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた。イエスは彼らに答えられた。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」ユダヤ人たちはイエスに答えた。「良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。」イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの律法に、『わたしは言った、おまえたちは神々である』と書いてはいないか。もし、神のことばを受けた人々を、神々と呼んだとすれば、聖書は廃棄されるものではないから、『わたしは神の子である』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が、聖であることを示して世に遣わした者について、『神を冒涜している』と言うのですか。もしわたしが、わたしの父のみわざを行なっていないのなら、わたしを信じないでいなさい。しかし、もし行なっているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。」そこで、彼らはまたイエスを捕らえようとした。しかし、イエスは彼らの手からのがれられた。そして、イエスはまたヨルダンを渡って、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた所に行かれ、そこに滞在された。多くの人々がイエスのところに来た。彼らは、「ヨハネは何一つしるしを行なわなかったけれども、彼がこの方について話したことはみな真実であった」と言った。そして、その地方で多くの人々がイエスを信じた。~
10章の始めの頃では、あなたはキリストかどうかハッキリしてくれ。と言って、「わたしがキリストだと言ったところで、あなたがたは信じないではないか」と「わたしはキリストだ」と言った時に、ユダヤ人の多くが石でイエス・キリストを殺そうとして怒りを露わにするんです。そして、その続きで宮清めの祭の日に「わたしはキリストだ」と語られて、ユダヤ人達が本当に怒って、石を持ってイエスを殺そうとし始めている。そして、その宮清めの日にまた、「わたしは神の子だ」と言ったところで、またイエスを殺そうとして、捕えようとして、ユダヤ人達が怒りを露わにしている。という話が今、10章で続いていて、そして最後にはイエス様がヨルダン川に戻って行くという話で、括られています。そして、「わたしはキリストだ」の次に「わたしは神の子だ」とイエス様が別々に語っているんです。でも、マタイやマルコの福音書では別々に語られて、別々に書かれてはいないんです。神の御子キリスト、と呼ばれているんです。だから、神の子も、キリストも同じように語られている。でも、ルカの福音書とヨハネの福音書だけは、『神の子』と『キリスト』を別々に書いているんです。
ルカでは裁判の時に「あなたはキリストか。」「あなたは神の子か。」と質問を別々にしています。そしてこのヨハネの福音書の10章でもあなたはキリストですか。と言った後に、「わたしは神の子だ」と2つに分けて書いてあるんです。それはやはり、1世紀末に書かれたという事情からです。最初に言った通りに紀元1世紀の始めの頃には、まだキリスト教というハッキリとした概念がなく、ユダヤ教の中で語られている事が多かったけれども、1世紀末に書かれているルカ書とヨハネの福音書は、もう既にその時に論争が起きているんです。「イエス・キリストはキリストだ。そして、更に神の子だ。」という『イエスは神であったか。』という神学の論争が1世紀末に激しく争われているので、特にこのルカとヨハネの福音書では、『イエス・キリストは神の子だった』を強調しているんです。だから、ヨハネの福音書だけではなく、第1ヨハネでは、イエスを信じて神の子として告白した者はこの世に勝ったもの。勝利した者。というように、イエスが神の子であったと、告白した者はこの世に既に勝利しているというように、イエスを神だと認めていなければならなかったんです。キリストだって認めているだけでは、完全ではなかったんです。何故ならユダヤ人のキリスト像が、この前言っているように、マカバイ一家が武力をもって、イスラエルをシリアから解放した、あれをキリストだと錯覚しているユダヤ人が多かったからです。イスラエルをローマ支配から解放し、武力をもって、力をもって、またイスラエルをダビデの国のように、ダビデの子孫のように、ダビデの子のようにリードしてくれる王であり、そのような祭司を探しているんです。だから、「わたしはキリストだ」というだけでは完全ではなく、「わたしは神の子だ」と別々に告白しているのが、ルカ福音書とヨハネ福音書。1世紀末のキリスト教がこの事で激しく論争している事が暗示されてはいるんです。
そして、特にこのヨハネ福音書の特徴としては、古いものが新しく変えられた。旧から新に変えられる。また、完全な変換が起きているという事を強調しているんです。まずヨハネの福音書の最初にカナの婚礼の時に、水が葡萄酒に変えられている。という話しがあるし、ヘロデ王達が何年も何十年も懸けて建て直している神殿を、神の家を強盗の巣にしてしまった、この古い体制をわたしは壊し、わたしは新しく神殿を建て直す、と言うイエス様が直接語っておられる。そして、バプテスマヨハネが、「私は衰えて彼は盛んにならなければならない。」というのは、彼こそが本当の花婿だから。彼こそが火でバプテスマを授ける方で、私は靴の紐を解く値打もない。また、新旧が入れ替わるんです。それをずうっと、このヨハネの福音書は続けているんです。そして更に、過ぎ越しの祭で、「モーセの時代に天からマナが下ってきたけれども、それより、わたしは偉大だ。モーセより偉大で、わたしこそが天から下ってきたパンである。生けるパンである」と言って、モーセよりわたしが偉大だ、と仰っているし。また、サマリヤの女では「ヤコブの族長の井戸で水を飲むよりも、イエス・キリスト、わたしキリストから水を飲む者は永遠に枯れない」と言っているんです。また、仮庵の祭の時もそうです。「わたしこそ、本当の生ける水」「わたしこそ、本当の光である」「天から下って遣わされたものだ」「モーセよりも偉大だ」とイエス様は繰り返し語っているんです。そして、サマリヤの時も、「これからは、山でも神殿でもなく、霊と真をもって礼拝するときが必ずくる」と仰っているし。また、盲目の人が安息日に癒された時も、「わたしがこの世に来たのは、目の見えない人が見えるようになり、見える人が見えなくなるためだ」と新旧の入れ替えがあるんです。そしてヨハネの福音書は第1章から光がこの世に来たと表現しているし、言葉が肉体となってこの世に訪れたと書いてあるんです。だからヨハネは、イエス・キリストこそ本当に全てを新しくする神の子だ。と言っているんです。このヨハネの福音書の特徴なんです。
そして今日は「わたしが神の子だ、と言って、一体何がいけないのか。旧約の律法にもそう書いてあるではないか」とイエス様がここで旧約聖書を引用しているんです。そして、「あなたがたは神々だと書いてあるではないか。聖書は1点1画も廃れる事も無くなることも変わる事もないから、この事でわたしを神の子だと言ったとして、神を冒涜しているとはおかしいではないか」と言っているこの箇所。この箇所では、「わたしこそ、本当に遣わされたものだ」と仰っています。「わたしは段々キリストになり、次第に神の子になったんではない」と言っているんです。「わたしこそは初めから神であったし、神が人間として来ているだけだ」順番が別なんです。あなたは色んな奇跡を行ったから、神々のようになり、預言者の一人のようになり、キリストのようになった、のではないんです、ここ。初めから神であったし、初めから光であったし、初めから命であった方が、人となって来ている。だから、わたしが神と言って何が悪いのかという、本当はここ、一方的な言葉なんです。段々イエスになり、段々キリストになり、段々救い主になり、段々神の子のようになったんではないんです。人が段々預言者になり、人が段々リーダーになったのとは、全然違うんです。訓練の末に王になったわけではないんです。一方的に、初めから神だったと仰ります。でも、イエス様がこの詩篇の82篇を引用した理由があります。
詩篇82篇1節を見ると、
~神は神の会衆の中に立つ。神は神々の真ん中で、さばきを下す。~
詩篇82篇6節
~わたしは言った。「おまえたちは神々だ。おまえたちはみな、いと高き方の子らだ。~
とこの82篇でさっき引用したところがあるんですが、神は、「わたしが神と言って何が悪いのか」と言って、そして6節は『いと高き神の子』と表現しているので、イエス様が、「そしてわたしが神の子と言って何が悪いのか」と、ここ引用しているんです。「わたしは神で、神の子だ。それが一体何が悪いのか。82篇にもそう書いてあるし、預言の書に、律法の書に、そう書いてあるのに、わたしが神と言って何が悪い。わたしが神の子と言って何が悪い。それで、どうして神を冒涜する罪に、石打ちで殺される罪になるのか」と言葉だけでも、今イエス様は押し返しているんです。実際にそのようなお方だということを今横に置いたとしても、聖書の言葉を見れば正当に、相手のユダヤ人に何が間違いなのか?という事を立証されているんです。わたしが神と言い、神の子と言って何が悪い、旧約の人達にもそう言っているではないか。旧約はそのように表現しているではないか、とイエス様が今反論しているのは、ただ、神の子なのか、という単語そのものに対しても、冒涜の罪に当たらない。と反論されます。しかも、ここの神とか神々、神の子らという表現をしているその人達はイスラエルの司達です。イスラエルの、神の神殿に仕える者達、預言者、神のみ言葉を教える教師達。神の仕事を代わりにやっている、そのリーダー達。そのリーダー達を旧約の時代は、神とか神々とか、神の子と呼んでいたんです。神の仕事を代理する人達です。だから、イスラエルのリーダー達であり、イスラエルの司達のこと。またイスラエルの罪を裁く裁判官達の事を言っているんです。モーセの時代の、この申命記の時代の司達が、民の罪を裁いていたんです。そして、この裁きは神が裁かれて、その代理者がイスラエルの罪を裁いていたんです。だから、神だとか、神々だとか、神の子だと、この司達、神に使われ、神から使命を受けた者達に向かって、この表現を旧約の時代がしていたんです。だから、直接、天の父に遣わされたわたしが神だと言って、また神の子だと言って、何故、神を冒涜する罪で、殺されねばならないのか、と決定的な証拠を以って、イエス様が相手のユダヤ人達に、律法の書にもそう書かれているではないか、そして、この律法の書、旧約の書は、一点一画だって廃棄されることはない。破られることはないので、私が言っている事は、間違ってはいないのではないか。と今反論しているんです。石打の刑だと、あなた方が怒る理由など一つもない。と言っているんです。
何故、あなた方は神を冒涜すると言うのか、わたしが、した良い業の為なのか?とイエス様が反論する時に、このユダヤ人達がどれほどイエス様を憎くても、良い業の為にではない、と言い返すしかなかった。何故?イエス様がしていた事は、本当に良い業だったからです。貧しいものを救い、盲目の人の目を開け、唖の者が口を利けるようになり、足萎えが歩けるようになり、腕の萎えた者は腕が動くようになり、死人が蘇り、です。「このような良い業の為にあなたは、わたしを裁こうというのか」と言われた時に、ユダヤ人達は、さすがにそれは、否定できなかったんです。「いいえ、あなたの良い業は、良い業だったでしょう。あなたを今怒っている理由は、あなたは人間のくせに、神のように人を裁いていることで、その神を冒涜した罪で私達は今怒っているし、反論している。」と、彼らが言うんです。そして、イエス様が更に答えるのは、「わたしは天から遣わされた者だ。だから、わたしは天の父の御業をあなた方に徴として、示してきた。だから、この御業を信じるべきではないのか」と言っている。じゃあ、この御業や徴、天の父の力というものが、一体何であったのか。ただの奇跡だったのか。ただの癒しだったのか。という時には、似たような仕事をする人達は居たんです。当時、そのような奇跡を行う人は、異端の宗教にもあったし、神を信じない、別の偶像を信じる者達の中にだって、そのような奇跡を行っている人達は居たんです。だから、イエス様が今言っている、「わたしが天の父の業をあなたに示したのに、その業を信じればいいではないか。わたしを信じなくても、天の父の業を信じなさい」と言った、この『業』。「しかもわたしは、天の父の業をあなた方に啓示した。明らかにわたしは、あなた方に警告を与え、忠告を与えてきた。示してきた。何故その業を信じないのか」と仰っているんです。でも、ここでイエス様が言っているのは、単なる奇跡ではないんです。単なる奇跡で神の業を信じろと言っている意味ではない。それが、この詩篇82篇に書かれているんです。
詩篇82篇
~アサフの賛歌
神は神の会衆の中に立つ。神は神々の真ん中で、さばきを下す。いつまでおまえたちは、不正なさばきを行ない、悪者どもの顔を立てるのか。セラ 弱い者とみなしごとのためにさばき、悩む者と乏しい者の権利を認めよ。弱い者と貧しい者とを助け出し、悪者どもの手から救い出せ。彼らは、知らない。また、悟らない。彼らは、暗やみの中を歩き回る。地の基は、ことごとく揺らいでいる。わたしは言った。「おまえたちは神々だ。おまえたちはみな、いと高き方の子らだ。にもかかわらず、おまえたちは、人のように死に、君主たちのひとりのように倒れよう。」神よ。立ち上がって、地をさばいてください。まことに、すべての国々はあなたが、ご自分のものとしておられます。~
お前たちは神々だ、あなた方はいと高き神の子らだ、そしてあなた方は神々だ、1節と6節にそう書いてあります。と日本人的には、この何章何節、で聖書を読み解こうとします。でも、ユダヤ人というのは、そういう読み解き方をしないんです。何故ならその当時は当然、数字は書いてありません。何編何章とか、何節とかっていう数字が全くないんです。ユダヤ人はどうやって覚えていくんですか?丸暗記していくんです。ユダヤ人は聖書を何章、で覚えていくんではなく、その箇所全部を子供の内から丸暗記させていくんです。諳んじていくんです。イエス様が神々だと書いてあるではないか、いと高き神の子らと書いてあるではないか、とイエス様が82篇を引用した時に、既にユダヤ人達というのは、1節と6節を思い浮かべるのではなく、この82篇全部を思い返すんです。それでイエス様が十字架に架けられるとき、『神よ、わたしをお見捨てになるのですか』も、そうです。あれ、1節だけ日本人は理解しようとするけど、イエス様は、あの詩篇全部を引用されるんです。そしてユダヤ人達はそれを理解するんです。でも、日本人は何章何節に書いてありますね?という引用だけしかしていかないので、イエス様の言っている内容が全然理解できないんです。イエス様がここで、神々だと言っているのは、一点一画も聖書のみ言は地に落ちないっていう所で、この神々だ、と言っているのは間違ってはいないし、イエスを神の子だと言ったからと言って、旧約聖書にも書いてあるから、それは間違ってはいないっていう解釈では間違えるんです。聖書の言葉はこう書いてあるから、こう言っている、という言葉尻だけを捕まえ、その単語一つで論争するものではないんです。さっき言ったように、何章何節の一つの言葉で論争するものではなく、82篇とか、詩篇で書かれている、その作家の意図を汲まなければいけない。神のその意図、背景、本当の意味を悟って、それを引用しているんです。旧約の時代の人は、皆そうやって引用するんです。だけど、今の時代は、『神々だ』と旧約で言っているから、イエス様は間違っていない。イエス様は神を冒涜していない。イエス様は間違った引用の仕方をしていない。という理解ではないんです。そういう言葉1つをとって、旧約と新約を比べているわけではないし、言葉1個で間違ったか、間違っていないかと、一点一画という意味を使ってはいない。聖書の一点一画も廃れる事がない、律法が廃棄されることはない、とイエス様は確かに言っています。今日ここでも言っているんです。廃棄されないというのは、変わらない。棄てられることも、破られることもない。という意味です。破られない神の言葉、絶対に棄てられない、変わらない神の言葉というのは、反対に言えばこういう意味なんです。『必ず成就される』成就されずには、いられない。という意味なんです。神の言葉は新旧であれ、どこであれ、必ず成就せずにはいられないものなんです。必ず、成就するんです。その言葉通り、必ず成るという意味です。廃棄されない、とは神が、神々と呼んだから、一点一画間違っていないっていう解釈ではなく、必ず82篇の内容が成就する、です。だから、82篇全部を理解していない日本人的な読み方では、このイエス様が言っている、この言葉を理解できないんです。1節に書いてありますね。6節に書いてありますね。なんていう証拠物件を見せろと言っているんじゃないんです。イエス様はこの82篇で書いている内容は、必ず成就されるって言っているんです。今、ここで。だから、神々だ、神と言っている単語だけで、「あぁ、そうか。間違ってないね、イエス様の言ったことは。」なんていう理解ではいけないんです。だから、今読んでもらったように、
この神々だ、神の子だと言われている人達は誰ですか?イスラエルの司達、教師達、リーダー達、裁判官達、そしてイスラエルを治めている者達。そして神の代弁者、神の代理の仕事をする、使命を受けた者達です。この者の真ん中で神は裁くと言っています。すなわち、この者を裁きにくるんです。誰を?司達を。神々と呼ばれる人達を。神の子と呼ばれる人達を裁きにくると言っているんです。この82篇の内容はそういう内容なんです。そして、何故裁くんですか?貧しいものを助けず、やもめを助けず、孤児を助けず、虐げられた者を助けなかった理由です。そして、この詩篇の作家は、そうやって虐げられている一人です。この司達、イスラエルのリーダーと自称する者達、ユダヤ人と自称する者達、アブラハムの子孫だと言っている者達、自分は神を信じ、神に従っていると言っている、この神々、神の子ら達を、いつまで懲らしめないで、神は沈黙しておられるんですか?と言っているんです。何故このまま、この貧しいものを助けず、貧しいものを愛さず、虐げられているものを何一つ助けない、この司達を何故放っておくんですか?何故悪人を放っておくんですか?どうぞ神よ、この地に来て裁いてください。これが、82篇の作家の内容なんです。そして、預言であり、神のみ言葉なんです。必ず神は、神々の真ん中に立ち、いと高き神の子と呼ばれる真ん中に立ち、その人達がしてきた全ての悪い業を懲らしめ、裁きに必ず来ると言っています。そして、最後に、
~神よ。立ち上がって、地をさばいてください。まことに、すべての国々はあなたが、ご自分のものとしておられます。~
この神々と呼ばれている者達は、後にどうなるか?普通の人のように死に、他の王様たちも、基本的には権力争いで必ず殺されます。そのように殺されるだろう。そのように神々と呼ばれた者達は死ぬだろう。そのように神の子らと呼ばれた者達、司達、教師達、神の代弁者達は、必ず死ぬだろう。どうして?神が裁きにくるからだ。と今82篇の作家は言っているんです。
あなた方は神々だ、と言って書いてあるではないか。とただイエス様はここ引用しているのではないんです。「神の、天の父の業を、わたしはしにきたんですよ」と言っています。だから、この天の父の遣わされた、天の父の業を見なさい、と語られます。その業は、『裁きにきた』です。誰を?『神々を、神の子らを』裁きにきた。だから、天の父の業を見て、信じなさい。わたしはずうっとそれを啓示してきたし、このヨハネの福音書で、わたしはずうっと言い続けてきた。わたしはずうっとその説教をしてきた、と仰っているんです。
今日これを語られているのは、宮清めの日です。お祭りです。マカバイ一家が偶像を全部取り除き、そこからバアル神を取り除き、神の神殿を清めた日です。それをまた、引用しているんです。わたしがこの世に来たのは、マカバイ一家のように、そうやって清めたのではなく、わたし、イエス・キリストの御名でこの地を清めるために来ているんだ、です。ここでも、宮清めのその祭りを、また神様は顕しているんです。「わたしこそ、この地を清めに来たもの」と仰っていて、それを天の父の業を見て信じなさい、と言っているんです。何故?イエス様がなされたのは、何ですか?貧しい者の盲目の目を開き、貧しい乞食の足を歩かせ、貧しい者の喋れない者を喋らせ。イエス様がした事はそういう御業だったんです。あの82篇の神々がしなかったこと。神の子らがしなかったこと。をイエス様が来てされたんです。これが天の父の御業だと言っているんです。そして、それを見たんではないのか。あなたはこの業の為に、わたしを冒涜だと、言っているのか?わたしをこの業の為に死罪だと言っているのか?イエス様はここを論証しているんです。そして、「その業の為ではなく、あなたが神を冒涜した罪だ。」と相手が言っているのに対して、「わたしは神の予言通りしているだけではないのか?必ず裁きに来ると言ったではないか。必ずあなた方をわたしは裁きにくると、わたしは言っているんではないのか。わたしはそれを旧約の時代の預言者の口を通して、示してきたんではないのか。それが今、成就した」です。何故?『神の言葉が一点一画も地に落ちない』は、何ですか?必ずその言葉通りだけに成就される、です。神が『裁く』といえば、裁くという。これは、避けられない、という事です。私達クリスチャンに対する警告です。『その通りになる』がイエス様が再臨する時仰る台詞です。その通りになります。何故?その通りにわたしは啓示したのではないのか?と仰るからです。ここは、本当に神々だ、神の子だと言ったからといった単語で争っている訳ではないし、神を冒涜したとかいうそういう次元でイエス様が話されている事ではないんです。82篇のこの祈りが成就し、82篇のこの預言が成就しにきた、と仰っているんです。それで、イエス様はここで、82篇を引用されています。この箇所全部を引用しているんです。そして、その通りに成る為にわたしは来た。と言っているんです。
榊原先生も、このヨハネの福音書で仰っている事は、今の人達の問題がここにある、近代のクリスチャン達の問題は、ここにある、と言っています。「神々だ」と言い、「主よ主よ」と言い、イエスは神の子だ、キリストだ、というのが余りにも簡単。余りにも簡単に口にしている。余りにも簡単すぎる事が問題だと言っているんです。それでいて、神が何をしにきたかは、何も分からない。それでいて、イエスが神の子だという意味が分かっていない。そして、イエスがキリストだという事を分かってはいない。なのに、「主よ、主よ。」と言い、「イエスは神の子だ。」と軽々しく口にし、イエスはキリストだ、十字架に架かって死んだ。それ信じている。と言うんです。この時代はそれを言うのが難しくないって言うんです。一昔前なら、イエスが神の子だと言えば「えぇー!」って腰抜かすほどビックリしたそうです。今は腰抜かしてビックリする事はないんです。何か紙切れのように、「そうですか。」「違います。」と答えたり、「信じます。」と答えたり、「信じません。」と答えたり。軽いから、驚く人もいなければ、そこで仰天して腰抜かす人が居ないんです。それ程人間が神について分からないんです。軽々しく、私は信じたと言い、軽々しくイエスは神の子だったと言い、軽々しくイエスはキリストだ、と言うんです。まるで子供が算数の問題を暗記しているかのように。そして、そのクリスチャン達は、口だけで言っているので、82篇の意味が分からないんです。82篇の意味は何ですか?神の概念を、神がどういう神か、をこの82篇は明らかにしているんです。『裁判官です』この神がやる事は一つです。罪を扱うんです。罪を想定する神であり、罪を決める神であり、罪を定義する神であり、そしてそれを裁く審判する神であり、そして、その罪を取り除き、赦す神なんです。神は権威を持っている方。罪を扱う方なんです。神という概念はそこなんです。あなたが、不幸だから救い出す神?誰も私を励まし、慰めてくれないから救い出した神っていう概念がそもそも間違っているんです。イエスだけが私を救ってくれたからという神観が間違っているんです。この時代は自分の罪も、それを裁く神をも恐れないんです。或は神の言葉を。何故?神観をそんな事で理解してしまうなら、新興宗教と全く同じなんです。キリスト教は。「幸せにしてくれますよ。」「あなたの病気を治してくれますよ。」「家庭を与えてくれますよ。」「励ましや慰めを与えて、生き甲斐をくれますよ。」必死に伝道しています新興宗教は。必死に歌を歌い、必死に勉強し、この世でも成功させますよ、と教えています。英語を教え、巧みな技術を教えるんです。そして、幸せになった。わぁー素晴らしい。他の新興宗教の神々は、そういう神です。キリスト教は、これと同じ風にされてしまっているんです。82篇を引用される事がないんです。神の概念が、もう根本的に間違ってしまったんです。違っているんです、この時代の人達が。誰も彼もが同じ神に仕立て上げ、誰も彼もが自分中心の神に仕立て上げてしまっているんです。だから罪を扱う神っていう概念がないんです。罪を裁きに来て、その為に来たっていう事が分からない。イエス・キリストが来た理由です。だから、ヨハネはこう言うんです。「イエス・キリストがこの世に来たのは、サタンや暗闇の力を打ち壊し、奴隷となった者を解放するためだ。」と言っているんです。
聖書を理解していないからです。この裁き主っていう神概念が無いんです。慰めあい、励ましあって、博愛主義で、皆同じ。皆同じ能力で平等に教会の中働きましょうよって訴えます。皆同じように平等に扱ってほしい。公平に扱ってほしい。などなど。神への概念が間違っているんです。あなた中心に決めていくんです。人間中心に。何かくれた神が、イエス・キリストだと言っているんです。これなら、他の宗教も皆言っています。望むものは、この地での天国、この地の楽園です。この地で皆が平等に、だから教会に来て、キリスト教になったんだと言う場合、神観が間違っています。貧しいものを助けず、虐げられた者に対して何の心もない、隣人の愛もなく、隣人が滅びていくのに何にも感じない。霊魂が地獄行く事に何にも感じない、というキリスト者達を裁きに来る。がイエス様です。勘違いしてはいけないんです。これは、必ず成就する、です。イエス様が仰ったんです。絶対聖書の言葉は退く事はない。間違える事もない。廃れる事もない。廃棄される事もない。成就せずにはいられない言葉です。これが聖書なんです。旧・新関係なく聖書なんです。そして、イエス様が一方的に今啓示しているんです。そのことをユダヤ人達は全然理解しませんでした。
そして最後に、イエス様がヨルダン川に戻られるんです。バプテスマヨハネからイエス様ご自身が先例を受け、イエス様の上に聖霊が下られた場所に行かれるんです。そしてそこが、イエス様の公生涯の仕事の始めの場所だったんです。ここで、10章の終わりで、イエス様は公生涯の仕事を、もう終えられます。だから、戻るんです。だからヨハネは10章の括りにヨルダン川に戻ったという表現をして、そして、バプテスマヨハネは奇跡を起こさなかったけれども、イエス様はやっぱり違った。バプテスマヨハネとはやっぱり違った。ただの預言者でもないし、ただの皆が噂している奇跡を行う人じゃないし、本当に神だった。と大勢の人が信じた。全くイエスはキリストであり、イエスは神の子だった。と信じたと、10章は括っているんです。それはヨハネが最初の原点に戻るんです。イエス様が何故公生涯の仕事を終えて、最初に始めたヨルダン川、聖霊が下ったその場所に行くんですか?その時ヨハネはこう言うんです。「この地の罪を取り除く子羊。」この原点に戻るんです。「罪を取り除くためにわたしは来た」という所に戻るんです。奇跡を行ったり、癒しを行ったりするんではなくて。十字架だけが後残ったんです。イエス・キリストが棘の道を行く時間だけが今残されたんです。イエス・キリストがただ死ぬだけの時間が残され、そしてイエス様がヨルダン川に戻るんです。原点に。死ぬために来たという事。棘の道を行くために来たっていう事の、最初のそこにイエス様は戻るんです。だから、本当の天からの使命を果たす始まりなんです。だから、イエス様が10章の終わりにそこに戻られる。『そして、大勢の人が信じた。』それをヨハネが1世紀末に、本当に神の子だったと表現しているんです。本当に、神だった、です。死んで甦った神。死を打ち壊した、勝利した神です。その仕事がイエス様に残されている、が10章の最後の括りです。だから、イエス様が来た理由、裁きに来た。罪を扱うために来た。そして、その罪を取り除くのも神。赦すのも神。裁くのも神。罪を決めるのも神なんです。これが10章の内容です。そしてイエス様は言う。「わたしはキリストであり、わたしは神の御子。神の御子だ。わたしは天の父から遣わされ、そして天の父の御業を行うために降りてきた」です。何の御業ですか?82篇の成就です。裁きに来た、です。これが天の父の御業です。それを信じなさい、です。ご自身の栄光、ご自身の国、ご自身の考え、ご自身のご計画、ご自身の真理、教理、特質、品性を、神の愛を、真理を証しする為に来られているんです。人間側の事情じゃないんです。悪魔が神の業を滅ぼし、神の業を汚し、神の名を汚したから、それを取り戻しに来られたんです。そして、サタンの業を裁きに来ているんです。だから、サタンの業を好み、恋い慕う人間、神と対立し、神に逆らう人間も裁きに来るんです。
信じた者はこの世に打ち勝ったもの。とヨハネは表現しているんです。イエス・キリストの十字架を82篇を理解した人は、この世で勝利しているんです。もう既に。自分中心にキリスト教に入っても、一つもこの世に勝てません。この世に支配され、この世に負け、この世の価値観に溺れるだけです。「わたしは真の羊飼い。わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしの声に従わない羊はわたしの羊ではない」です。
82篇を読み、今日のヨハネの福音書を読んだら、神を恐れるべきです。クリスチャンの集まりのその真ん中に主が裁きに来るからです。そして必ず成就されるんです。これが聖書なんです。これが、神。これがイエス。この概念で私達は何時も恐れていなければなりません。これが知恵のはじめです。
律法は今も守るべき神の命令です。神を愛し、隣人を愛せよ。一点一画も地に落ちない、永遠に変わらない神のみ言葉です。私達はイエス様に求めるべきです。この命令を守ることができるように、従うことができるようにと。
愛のない私の罪を赦してくださるように、祈りましょう。アーメン。
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