ヨハネ福音書8章41-47
~あなたがたは、あなたがたの父のわざを行なっています。」彼らは言った。「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神があります。」 イエスは言われた。「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。 あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。しかし、このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません。 あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者がいますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。 神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」~
2000年前に神が、イエス様が人間の姿をとって、神としてこの地上に、人から見たら人間にみえるその形で、今ユダヤ人の中で、イスラエルと言う国の中で、ユダヤ人と何を論争しているかと言うと、イエスは神であるのか、神ではないのか。そして神の子は誰で、悪魔の子は誰か。という論争を今、エルサレムの中で2000年前に、公的にイエス様が働かれた30数年、イエス様は天から下り人間の姿をとられたけど、30数年の後、また天に戻られて、その短い時間にイスラエルの人にわたしが神であることを知らせている真っ只中で、今論争は、神様を信じていたユダヤ人、そして神様は必ず救い主として来られる事は預言者の口を通して来る事を知って、待ち望み、どれだけこの日を待ち望んでいたか分からないユダヤ人達、今でいうクリスチャン達、そして神を絶対的だって言っているユダヤ人達。神を信じないユダヤ人ではなく、神を絶対的に信じていたユダヤ人に向かって、イエス様が「わたしが神である事が分からないのか。」と言っていて、あなた方は悪魔の子だという論争をしているんです。これを神様を信じない者に向かって、「あなたは悪魔の子だ。」というなら、分かるのですが、ここでは神様を信じているユダヤ人達、何千年も神を礼拝してきたという民族、そして神の為に創られたイスラエルという国。そして全ての生活習慣が神殿であり、捧げものであり、神の礼拝であって、祭司長たちが必ずこの民を導いてきていたはずの、政治と宗教が全く統一していた国なんです。今の時代と違って。その神を敬う国の人達、ユダヤ人が、今イエスを殺そうとして論争している最中なんです。だから、神を信じているということが自慢であり、誇りです。アブラハムの子孫だという誇り。神に選ばれた選民達という誇りが高い、そのプライドの高さと言ったら、ユダヤ人のこのプライドの高さと言ったら、ものすごいその中で、イエス様と今論争しているんです。誰が神の子で、誰が悪魔の子だ。と言う事なんです。ここは、神学者達がものすごく研究する場面なんです。何故?イエスが神であるか、神でないかは、今だに神学者と哲学者と、日本の文化の中でもイエス・キリストについては話される、歴史の人物であり、史実なんです。それが問題なのは、イエスは居たんです、2千年前に死刑にされました、これは誰でも信じてクリスマスを祝っています。でも、論争は、イエスは神であったか、人間であったか、という論争は、2千年経った今でも続けられている論争。でも、2千年前にもやっていました。ここで神学者達が、イエスが神であったかを証明しなくてはならない所で、ヨハネの福音書はかなり神学者が研究するんです。何故?イエス様が語られた言葉、語られた台詞の中に、神はいるのか、彼の本質は神性なのかっていう事を具体的に解説しなければならないからです。その所でイエス様の台詞で神学者達が一番注目している所は、46節です。
~あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者がいますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。~
イエス様が今、律法を重んじるユダヤ人に向かって、「私に罪があるなら、私の罪を訴えてごらん。」とイエス様はユダヤ人に向かって、言っています。この前にある、姦淫の女が現場で捕えられた時にも、イエス様が「罪が無い者からこの女を殺しなさい。死刑にしてみなさい。」と言った時、老人から子供に至るまで自分の中に罪がない、心で罪を犯さなかったという、自信のある者が一人もいなかったんです。人間は、私は心の中でも罪を犯した事がないっていう自信満々で、人の前でも「私に罪があるなら、訴えてごらん」などと言える人間が一人も存在しないのは、このヨハネの前の章で勉強しました。その中で、ユダヤ人のように戒律を重んじ、神の神罰を怖れる民族の中で、イエス様は大胆にこう言うんです。「わたしに罪があるなら、言い当ててみろ」です。そしてユダヤ人は誰も訴えられなかったんです。イエス様に罪が見当たらなかったんです。しかし、ここでイエスを神とするのかということを、神学者達が言いたいのではありません。このユダヤ人達が何も言い返せなかったから、イエスが神なのではなく、ここで「わたしに罪があるなら、言い当ててみろ」と言った台詞そのものが神そのものだっていう神学者の判断なんです。そんな事は人間には不可能だからです。そんな不可能な事をされるのは、神しかいない。という神学者がここで、イエスが言っていることこそが、神そのものだ。無罪、罪のないという事をイエス様が立証しているのではないのか。という神学者たちは議論に議論を重ね、理論的に神を説明する人達だから、研究に研究を重ね、ギリシャ語とヘブライ語の聖書を紐解き、どの単語の意味で何に使われているかまで調べて、この台詞こそが神性を物語っている。という結論を定義する箇所なんです。それで、今イエス様が、「私に罪があるなら言い当ててみろ。だけど、あなた方は私の言っている事が分からない。」何故でしょう?あなた方は悪魔の子だから。と言っているんです。じゃあ、悪魔の子は誰なのか。という事なんです。そしたら、イエス様が悪魔の性格を言っています。
44節。
~あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。~
一言で言えば、悪魔の性格は、まず人殺し、第2に嘘つき、第3に真理が無い、これが悪魔の性格ですよ、と説明しています。
アダムとエバの時の話を思い出してみましょう。アダムとエバには罪が無かったんです。神様が完全な人間として創られたからです。その時、悪魔が蛇に形をとってアダムとエバを騙しにきたんです。その時何て言いましたか?「神様は本当にこの木から食べてはいけないと言ったんですか?」と言ったら、アダムとエバは「はい。神様は食べてはいけないと言いました。」と答えた時、「あなた方はこれを食べても死にませんよ。あなた方がこれを食べたら神のようになります。」という嘘をつき誘惑しました。まず悪魔が人間に近付く方法は嘘なんです。そしてアダムとエバがその嘘に騙されてそれを食べてしまった時に、神様から死刑宣告をされるんです。何故?その木が毒りんごだったからではなく、神様はこれを食べたら霊魂が死ぬって言ったんです。肉体が死ぬのではなく、今すぐ心臓発作で死ぬんではなく、脳梗塞で死ぬんではなくて、あなたの魂は神から離されるから死んでしまいますよって言ったんです。その通りに神様から、「あなたが、わたしに従わなかったから霊魂は死にます。」という宣告を受けてしまうんです。神からの死刑宣告をアダムとエバは受け、最初の人間がそのように悪魔に騙され死が入ったのです。悪魔が殺したのは、アダムとエバではないと神学者は言います。それは、悪魔の嘘が、アダムとエバを神から離したのは、初めの人間だけではなく、その子孫全員今に至るまで全人類が悪魔に騙されて嘘をつかれて、誘惑に陥ったために、神から死刑宣告をされたため、結果悪魔は人殺しを最初からしているんです。初めから嘘をつき、人殺しをしていたんです。これは歴史的に悪魔がしてきている事なんです。そして次の人間にも、次の人間にも人殺しをさせるんです。戦争を起こさせ、憎しみを起こさせ、嘘をつく事を覚えさせ、人間が何をするんですか?嘘をつき、人殺しをするっていう事を、ずうっと歴史上しているんです。これがイエス様の言う悪魔の性格だって言っているんです。
そして今、あなた方はわたしを殺そうとしているではないか。イエス様はその後、十字架で死刑にされます。誰が殺したんですか?今、論争しているユダヤ人に殺されたんです。だからイエス様が言うんです。「あなたは悪魔の子ではないのか。わたしを今、殺そうとしている悪魔のような殺人者であり、嘘つきである。」と言っているんです。「いつ私達が悪魔の子なんだ。私はアブラハムの子で神を敬うクリスチャンであり、私は教会に行き、献金を払い、私は教会で隣人を愛する為にあの働き、このような善業を行い、苦行を行い、修業を行ってきた者ですよ。あなたに悪魔呼ばわりされる憶えはないです。」と言って反発しているんです。今。これは、誰に言っているんですか?クリスチャン達に言っているんです。あなたはクリスチャンじゃありません。悪魔の子です。と言われているんです。イエス様を信じないノンクリスチャンに言っている訳ではありません。これを聞くと怒りますよね?クリスチャンは。「えっ、いつ私が悪魔の子ですか?教会に通ってイエス様を信じて、イエス様を神と認め、賛美をしています。誉め歌を歌っています。私は決して悪魔の子じゃありません。」と言い返すんです。牧師をはじめ、聖徒に至るまで。じゃあ、あなたの性格を見てご覧なさい。あなたは人を貶めても自分の成功を願っているし、人より自分が幸せになりたいと思う。その為には、いつも嘘をつくじゃないか。自分にまず嘘をつくし、他人にも嘘をつくし、笑いたくもないのに嘘で笑って、あなたはいつも怒って、人を裁くのは、悪魔の人殺しの業ではないんですか。あなたはクリスチャンって言うけれども、教会に通っているけれども、あるいは、神を信じていると言うけど、あなたの性格は神様の性格に似ていこうと本当に従っていますか?それとも今でも悪魔の性格ですか?もう、答えようがないです。ここで明らかなんです。悪魔のような性格を持ちながら教会に行き、隣人を愛してもいないのにクリスチャンだと言い、そして嘘をついてまでも自分のプライドを守るには、どんな手も使うくせに、「私は神様を信じています。」「教会に行っています。」「クリスチャンなんです。そして右の頬を打たれたら左の頬を出せって言われています。」その本当の意味を知っていません。右の頬を打たれたら、何倍にもして返すのが私達クリスチャンの今行っている事です。そうすると、イエス様に何て言われるんです?「あなた方は神の子供ではなく、悪魔の子供です。」と言われてしまうんです。私達は、クリスチャンはこの真理を知っていなければならないんです。このような嘘つきで殺人者のような性格を持っているうちは、肉の欲に属しているとパウロは言います。私達、クリスチャンは宗教活動じゃないんです。私達は修行僧じゃないんです。悲惨な、火の上を歩き、山の中で滝に打たれるような人物じゃないんです。私達は神様の性格をもって隣人を愛して、誠実に忠実に、自分の幸せではなく、本当に神の国の隣人の利益のために働く者がクリスチャンです。そう、教えられているんです。はたして、今日の今のクリスチャン達はそうでしょうか。私達は今まさに問われているのです。あなたは誰ですか?神の子ですか?悪魔の子ですか?」。他人への判断は考えなくていいのです。まず何より自分自身に問うべきです。神様は人間を創造しました。人間を創ったんです。だから、信じた者は神の子です。だから神に従います。でも、悪魔は人間を創った覚えは一度もないんです。悪魔は創造する力を持っていません。創りだす力なんて悪魔にはないんです。悪魔は何をするんですか?神の教会を壊し、神の愛、神の恵みを、人間に語る神の言葉を壊す事が、悪魔の仕業です。悪魔の子とは悪魔の遺伝子や血を受けたものではないんです。では、誰が悪魔の子ですか?悪魔に似るように恋い慕う人です。悪魔は一度も子供を産んだ事なんかないんです。映画に出てくるダミアンですか?悪魔から生まれた?あれは嘘です。無理です、悪魔が子供を産むなんて。今、日本のアニメ見てください。サタンが子供産んだりしています。人間と結婚して。そんな事が可能じゃないことは一目瞭然なのに、と思いますけど。悪魔は子供を産みませんよ、当然。じゃあ、誰が悪魔の子ですか?悪魔の仕業に似て、恋い慕って真似て、悪魔と同じ性格になった人が悪魔の子なんです。悪魔の性質は殺人者であり、嘘つき。でも、これは、実際牢獄に入る殺人を言っていませんよ。包丁や鉄砲で人を殺した話ではないです。いつも人の魂を汚し、他人の心を傷つけ、他人の心の尊厳や、それらを守らない、悪魔のように人を突き落とす性格。そして口で相手を裁くその性格。そして自分のプライドの為には嘘まで付くその性格を言っています。私達はあまりにも嘘に慣れてしまっています。嘘と言うのは、詐欺師のような嘘じゃないです。現実じゃない妄想の世界に入り、自分が優越感に浸るためには、他人に嘘をついてしまうんです。嫌いなのに好きだと言ってみたり。相手を赦してもいないのに、赦したと言ってみたり。愛してもいないのに愛していると言ってみたり。こうやって平気で自分の評価のためや、好かれようとして、いい人だと思われようとして、自分はそんなに悪人ではない、殺人者ではないと言うためにはどんな嘘だってつくんですよ。顔の表情で嘘をつき、目で嘘をつき、態度で嘘をつき、これが悪魔の性質です。そして続ければ魂は歪んで捻じれていきます。こんな嘘をつき続けた後に、私達がやることは殺人だけです。実際に殺人を犯して牢獄に入っていないから、私は善人だと思ったら、大間違いです。聖書は人を馬鹿にし、見下す時に殺人者だっていう罪の定めがあるんです。私達はもう既に悪魔の仕業、悪魔の性質、悪魔がやっている事と同じことをしてしまうんです。それを見てイエス様は、あなた方が神の子なら、私に従いなさい、と言われます。隣人に対してそんな態度をとってはいけないと。会社で、家の中で、友達に、親に、そんな態度しか取れないのに、あなたが何故神の子と誇るのか、と言われてしまうんです。でも、もっと恐ろしいのは、ここです。『わたしが本当の事を話しているから、あなた方は聞けないんだ』です。これが悪魔の子の特徴なんです。イエス様が語っている聖書の言葉が悪魔の子は聞こえないんです。日本語が分からないからですか?今、私は英語や外国語を話していますか?韓国語で話していますか?あなた方の分からないヘブライ語で話していますか?でも、悪魔の子は神の行った事がわからないんです。と、イエス様が今、明確に語られたのです。悪魔の子は絶対私の言葉が聞こえないって。
43節。
~あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。~
これ、日本語ではこのような訳になっていますけど、他の解説者、他の英語の聖書ではこうです。
~あなた方は何故わたしの話している事~ の、『話している』は、発音なんです。音的なものです。何故あなたは私の話している発音が聞こえないのですか?と言っているんです。分からないのですか?という意味です。なのに次にイエス様が、~それはあなた方がわたしの言葉に~ の『言葉』には、思想・内容・意味という表現なんです。同じ事を繰り返しているわけではありません。イエス様は、わたしの発音、音さえ、あなた方は分からないのですか?それでは、わたしの思想・わたしの考え・わたしが話している内容・わたしが話してる背景は、なおさらあなた方は悟れません。と、言っています。もっと明らかに翻訳されています。そして次には、
~それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。~
というのは、意志の欠落なんです。そしてここの、『耳を傾ける』は耳しいを言っているんです。耳が聞こえない、耳しいだからだって言っているんです。でも、それは意志の欠落のことを言っています。自分が積極的に聞かない事を決めたからです。あなたが霊的に、魂的に、はじめから聞く事を拒絶したからです。あなたの魂は初めから神など受け入れようとしていないからです。あなた方はわたしが真理、親切な言葉、優しい言葉、真実を語っている事を始めから聞く事を拒絶したからです。拒否の意識がそこに入っています、です。その後、何故ですか?あなたが悪魔の子だからと続きます。そしてその後こう言うんです。「それは、わたしが真理を話しているせいで信じないんです。」意味が分からないからではなく、偽りものだから、本当の事が聞こえないんです。分からないんです、悟れないんですと、説明しておられるんです。
たとえば、同じ小説を読むとします。同じ、本当にいい映画を観るときもそうです。聞こえないからではなく、日本語を喋っているのに、外国語を喋ってるわけじゃないのに、全然聞こえない、話が通じない、心が通じない人がどれ程居ます?コミュニケーションが取れない人がどれ程います?それは、言葉が話せなくてコミュニケーションが取れなかったんですか?日本語が分からないから?単語が分からないから?いいえ、です。元々心がねじ曲がっちゃうと、真っすぐな心を持った人とは会話が不可能になるんです。真っすぐな魂を持った人と、ねじ曲がった魂ではコミュニケーションが取れないんです。そこに起こるのは分裂、分派、悪口、怒り、妬み、そねみ、そして最後は殺人が起こるんです。言葉が通じないで、殺人事件が起こったんじゃないんです。もう、心がねじ曲がると、正しい事が分からないんです。一度目が暗くなると、フィルターが掛っちゃうと、どんなに正しい小説を読もうと、どんなに正しい聖書や、どんなに正しい神学書物や哲学書物、どんなに思想の崇高なものを読んでも、どんなに素晴らしい映画を観たって、分からないんです。何を言いたいのか、この映画の内容とか本の内容の主旨が分からないんです。日本語が分からないから?いいえ、ですよ。どんなに難しい話をしたって、心が澄んだ子供は何かをくみ取り理解してくれるんです。どんなに言葉が通じなくても、私達はどこかで理解しあえるんです。魂が共鳴していれば。同じ言語を使い、共通の言葉を使っていながら、全く分からないのは、心がねじれてしまったからです。魂が堕落したからです。心が曲がったんです。殺人者になり、嘘つきになり、悪魔の子の性質を自ら好んだんです。それは、クリスチャンという者もそういうことがあります。この罪を赦せる方はイエス様しかいません。当然、この悪魔の子が神様の子に戻れるには、神様の手しかないんです。神様の力、神様の恵み、神様のプレゼント、イエス様を信じていなければ、この、心の平安、喜び、環境を乗り越え、死を乗り越え、どんな地震や災害、津波からも平安を持てるのは、神の義、愛しかありません。でも、魂の領域をもっと深く考えるべきです。ただクリスチャン、ただ神を信じた、ただ教会行った、ただ祈った、ただ聖書を読んだだけで、魂は真っすぐにはなれないんですよ。生活の中で、会社の中で、隣人の中で、対人関係の中で、この私の嘘つきの性格、人をさばく心、悪魔みたいな性質を直さなければ、誰も神に近付けません。それを可能にされる方は、イエス様です。
私達、クリスチャンは勘違いしてはいけないんです。教会に通ったら、魔法のように善人になれるんですか?何か修業して、活動し、祈りをしたからといって、何か善人になれるんですか?NO!ですよ、NO!クリスチャンは魔法使いではありません。私達の救いは肉体じゃないんです。魂の救いこそが、幸せなんです。これがクリスチャンの告白でなくてはならない。私だけじゃなく、会社で、世界で、社会で。この福音を流していかなくてはなりません。始めの社会は家族です。結婚したら、もう社会です。そこで私の役割は、”ご飯作る事”だけではないし、仕事するだけではありません。平安と喜びを生み出す事です。殺人と嘘を無くしていくことです。これが社会での貢献なんです。それを会社で、或いは日本っていう国で、或いは横浜市で、或いは中区・南区でやるべきなんです。自分だけ幸せで、自分の家族だけ、自分の血縁関係だけ幸せで、それでいいっていうような甘い世界ではありません。じゃあ、次のあなたの子孫は?こんな社会にして、こんな世界にして、悪魔の子孫にしてしまったこの世界で、どんないい世界が残りますか?私の性質からまず、神の教えに従いましょう。神の国をまず求めましょう。そこはどういう国ですか?妬み・嫉妬もない。怒りもない。自分の利益を求めない。自分だけ、自分の幸せだけを求めない、そんな世界です。イエス様の力で立てられる国です。この地上的な国ではなく、心の中に起きる世界です。だから、神を礼拝しているんです。傷のなめ合いをして、古い傷を励まし合う為に集まったわけではありません。教会とは神がおられることが、幸せで、喜びに満ち、そのことを感謝する場所です。そしてそれを人にも分けてあげる為に働きます。これが教会でなくてはならない。これがクリスチャンです。これが私達の使命なんです。生まれてきた理由、生きている存在の価値なんです。
生涯イエス様を褒め歌うんです。アーメン。祈りましょう。
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