ヨハネ福音書8章21-30
~イエスはまた彼らに言われた。「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死にます。わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません。」そこで、ユダヤ人たちは言った。「あの人は『わたしが行く所に、あなたがたは来ることができない』と言うが、自殺するつもりなのか。」それでイエスは彼らに言われた。「あなたがたが来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです。あなたがたはこの世の者であり、わたしはこの世の者ではありません。それでわたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」そこで、彼らはイエスに言った。「あなたはだれですか。」イエスは言われた。「それは初めからわたしがあなたがたに話そうとしていることです。わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わした方は真実であって、わたしはその方から聞いたことをそのまま世に告げるのです。」彼らは、イエスが父のことを語っておられたことを悟らなかった。イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしをひとり残されることはありません。わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行なうからです。」イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた。~
21節に「わたしは去っていきます。」とイエス様がこのメッセージをしているのは、仮庵の祭りが終わった頃なんです。イエス様は仮庵の祭りの時に、いつもこのタイミングで何かメッセージをしています。はじめ、雨乞いの祭りの時に、「わたしこそ、生ける水だ。私の所に来て生ける水を飲みなさい。」と仮庵の祭りの最中におっしゃり、その次に、夜には光を灯し、火の柱で導いた、イスラエルの民をエジプトから連れ出して、荒野で導く時の「わたしこそ、火の柱であった。」というのを表すために、仮庵の祭りが終わった頃に「わたしは本当に世に来た光である。」とメッセージして、ここでおっしゃっているのは、もう皆が帰る時なんです。仮庵の祭りが完全に終わったので、いよいよ皆がもう自分の郷里に帰ろうとしている時に、今度それに合わせて、またイエス様が立ち上がって言うんです。「わたしこそが去っていく。あなた方が帰るのではなく、わたしこそが、元いた所にもう帰る。そしてあなた方はわたしが行く所をどこだか知らない。何故なら、あなた方は罪の内に死ぬからだ。」という最後に不気味な事をイエス様はおっしゃっているんです。ずーっとこの仮庵の祭りに合わせて、イエス様はメッセージを繰り返してきているんです。イエス様が言っている、「わたしは、もう去っていく。でも、あなた方はわたしを知らない。」と21節で言っていますけど、今度28節になると、
~「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。~
今度はここで、あなた方は今は気付かない、今は分からないけど、わたしが十字架に架かり、死んで甦ったら、あなた方はわたしが誰であるかを、知るようになる。と28節ではメッセージしているんです。でも、この『知るようになる』という所で、ある人はこう言うんです。「十字架に架かって復活したイエスを見たら、悔い改める事が出来るようになる。」と解釈している人も居るけれど、カルヴァンはそう言ってないんです。「その時には、後悔するようになる」と解釈するんです。だから、私もこっちの言葉を支持します。何故なら、イエス様は、『あなた方は罪のうちに死ぬ』と21節では言っているからです。それで28節は『知るようになる』と言っているところで、悔い改める事ができるようになると言ってしまうと、合わないんです、言葉が。だから、ここでイエス様が「知るようになる」って言っているのは、あなた方は歯軋りして、後悔するようになる。何故?門が閉じられるから。というような、ニュアンスで、最後のメッセージをされているんです。そして、この『後悔』はカルヴァンに言わすと、ユダと同じような後悔だと、言っているんです。
イスカリオテ・ユダはイエス様を裏切った後、悔い改めたんではなく、後悔したんです。何故?悔い改めたなら、彼もイエス・キリストの十字架の血で天国へ行った筈なんです。でも、ペテロに言わせれば、「彼は彼の落ちる所へ落ちて行った。」と言っているのですから、ユダは後悔して自殺したけれども、悔い改めてはいなかった。という説明なんです。という事は、ここでユダヤ人達に向かって、イエス様が言っている事は「あなた方は決して天国に入る事はできない。罪の内に死ぬだろう。」何故?悔い改めなかったから。あなた方は後悔はしたけど、悔い改めはしなかった。という風にイエス様が祭りが終わって、語られているんです。この『悔い改め』と『後悔』では全く違います。『後悔』は、たとえば自分の人生が終わる頃、或いは失敗し、或いは不幸になって、或いは良くない出来事が起き、或いは家族に死なれるとか、色んな事があったら、人は後悔します。そして、人はこう言うんです。「その時悔い改めるに違いない。」こうやって人間は、「いつかやるだろう。」と言うんですよ。もっと厳しい境遇に落とされたら、生活が苦しく食べられなくなったら、仕事がなくなったら、イエス様の所に行くに違いない。悔い改めるに違いない。その時は後悔するから。などという人間側の解釈をしていきます。「だからその時、やればいいんじゃない。」と言うんです。でも、イエス様はここで、そんな甘い事言ってないんです。「あなた方は必ず罪の中に死ぬだろう。そしてわたしが誰だか知ったその瞬間に、後悔するだろう。」なんです。後悔と悔い改めが、これ程天地ほどの違いだっていう事なんです。
そしてそれは、イエス様が黙示録の中でも教会に警告を与えています。
ヨハネの黙示録3章14-16
~また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。~
この生ぬるいクリスチャンをカルヴァンは無感覚な人と呼んでいるんです。この無感覚な人は、イエス様が「必ず吐き出すだろう。」と言っているんです。これが今の私達への警告でもあるんです。ロイド・ジョンズは、この聖書はノンクリスチャンには書かれていない。これは全て、キリスト者に語られているし、キリスト者への警告であるし、キリスト者への恵みである。と語っています。だから、ヨハネの福音書でも、黙示録でも、語られているのは教会にであって、クリスチャンに語られているんです。だから、クリスチャンに向かって、生ぬるい無感覚な者は、わたしは締め出す。とハッキリ、イエス様が語られているんです。そして、
ヨハネ黙示録3章19-20
~わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。~
ここで言っているのは、生ぬるい無感覚なクリスチャンは、イエス様との間に壁1枚あるんです。イエス様と共には居ないんです。ここで、生ぬるいクリスチャンは締め出されたんです。そしてイエス様との壁が存在しています。だから、イエス様は今も戸を叩いて、熱心に悔い改めなさいという機会を下さるんです。そして一生懸命イエス様は、クリスチャンに向かって、「罪をもう犯してはいけません。悔い改めてわたしの所に戻り、わたしに留まりなさい。ぶどうの木に留まり、絶対にこの木から離れてはいけない。」とイエス様は忠告をし続けるんです。でも、その時に「いやいや、明日こそきっと悔い改めるに違いない。」或いは「人生が苦境に立たされた時でないと悔い改める事ができない。」或いは、「人生の終わりだろう。その時にはやるに違いない。」その時には悔い改めるんじゃないんです。泣いて後悔するだけです。
何故なら悔い改めるっていう事をよく考えなければいけない。『悔い改める』は、失敗した、ああ、やってしまった。という後悔ではなくて、罪と関係するんです。悔い改めるって言うのは罪からの赦しっていう次元なんです。その罪からの赦しと言う、この『罪』という問題があるんです。この罪が一体何かという事に関して、この『後悔』と『悔い改め』の次元が変わってしまうんです。何故?この罪は、基本的に殺人を犯す、姦淫をする、等という行動的な事を言ってはいない。罪というのは何かしでかし、やましい事をし、心で何か起きてしまった事を言うんではないんです。罪は元々『的外れ』っていう意味があるんです。的外れですよ。的が外れている。キリスト教の言っている罪は、この世の罪とは違うんです。神との関係のトラブルですよ。神が的です。私達の焦点は全部神にあるんです。その焦点から外れているって事です。だから、神との関係でトラブっている、或いは神の命令、み言葉から外れている。というのが、罪の次元です。アダムとエバが園から追い出された理由は何でした?罪だったんです。でもこの罪は、姦淫したのでも、盗んだのでも、偽証したのでもなく、彼らは、『してはいけない』っていう事を、してしまった。神との間のトラブルであり、神の命令、み言葉言への不従順だったんです。これは、何か犯して、失敗して、人生で後悔するような事ではないんです。神との関係の、神との命令との、神のみ言葉からのトラブルです。だから、この罪は、イエス様側が招いている時に、赦されなければならないんです。イエス様が戸を叩き、イエス様が悔い改めなさいと言い、イエス様が命令して招いている間に、罪が赦されなければ、戸が閉められるという事です。という事は、悔い改めは神の招き無しにはできない。だから、神の招きの間にするしかない。だから、「明日があるだろう。」と言って泣いて喚くのは、後悔であって悔い改めじゃない。何故?悔い改めは人間の次元でするんじゃない。人間側の事情でするんじゃない。人間側が苦しいからするものでも、悲しいから泣く事でもないんです。悔い改めは、神の招き以外にないんです。だから、神が招いた時、戸を叩き、熱心に悔い改めなさいと命令された時にやらなければ、明日は無理です。
これが、今イエス様が言っている、「あなた方は必ず罪で死ぬだろう。あなた方がわたしが誰か知った時に、必ず後悔するだろう。」というメッセージが今、この教会に警告で与えられているメッセージと同じなんです。そしてイエス様が、「わたしが十字架に架かった時、あなた方は知る。」と言っている時も、「わたしは」の時に、『エゴエイミー』を使っておられるんです。ヨハネの福音書は、エゴエイミーっていう単語を何度も使うんです。エゴイスト的に、神が一方的に語っているんです。そして、神だけがその時を知っていて、神だけがこのチャンスを与えられ、神が招いている間しかできないっていう事です。そして、「わたしを知るようになる。わたしが父と共に一緒にいるからだ。」と言っている時の、父と一緒に、この一緒に居るからだっていうユダヤ人に対しての言葉は、あなた方があんなに尊敬したモーセ、あなた方があんなに親しんでいるモーセは、わたしが食べさせてやったんだ。わたしが飲ませてやった。わたしが40年も養ってやった相手である。わたしはモーセのような1人の預言者ではなく、あのあなた方が憧れ、尊敬し、礼拝し続けた、あの全能の神そのものだ。わたしの中に父が居て、父の中にわたしがいるっていう事が、全能の神が今ここにいるっていうエゴエイミーを説明しているんです。わたしは父と共に一緒である。わたしこそが、あなた方が礼拝してきたそのものである。
だから、モーセがあなたの名は何ですか?と尋ねた時、答えられたあの『わたし』なんです。『ヤハウェ』ですよ。わたしはヤハウェだと、今説明しているんです。在りて在るもの。自ら存在しているもの。そして、天から降りて来たもの。この民を購うもの。という意味で、「わたしが誰であるか知った時」って言う時のこの『わたし』は圧倒的な全能者の立場で語られているんです。1人の預言者としての語りじゃないんです。だから、あなた方がそれを知った時にあなた方は後悔するだろう。何故?あなた方はメシヤを待っていると言いながら、実際に来たこのメシヤを殺そうとしているから。実際にあなた方はメシヤが来ればイスラエルは救われると言いながら、今、このメシヤを十字架につけようとしているからだ。という事を語られているんです。そして、イエス様がこのように語られた時、ユダヤ人達もこう言うんです。「どこへ行くつもりだ。彼は。自殺するつもりか。」という判断しかできないんです。どこか私達の知らない、死ぬ世界に行くんだろう。と言うんです。それは、また間違った誤解をイエス様にしているんです。何故なら、この前もそうだったんです。イエス様が「わたしこそ、天から降りて来たもの」と言った時に、「天から下って来た生けるパン」と言った時に、あの人の教えは何て酷い教えだろう。これからどこへ行くか分からないけど、きっとユダヤ人の中では、パリサイ人や律法学者、律法を知るユダヤ人、選ばれた選民、エルサレムの城壁の中に住む、その選民達の中で布教が出来なかったものだから、移民達、散らされたギリシャ人の中に居るユダヤ人の中に、或いはギリシャ人や異国人の中で、布教をはじめるに違いない。何故なら、ユダヤ人はもう彼を受け入れないから。彼の布教は異邦人の所へいくしかないんだろう。と噂したんです、この人達は。そしたら皮肉にも、イエス様が昇天された後、パウロ達は異邦人の方へ行ってしまい、ギリシャ人の中へ行ってしまったんです。そして、このヨハネの福音書自体も、エペソで書かれているんです。ギリシャ人の中で書かれているんです。と言う事は、その自分達が愚かにも言ってしまった、その言葉がその通りになってしまうという、愚かな会話を今、しているんです。そして今、彼は自殺するつもりか、というふうに、嘲笑っているんです。何故?ユダヤ人達にとって自殺は殺人より重い罪だったからです。モーセの十戒の律法の中で、『殺してはならない。』だから、血を流した者は血の報復を受ける。命は命で購わなければならない。という律法の中でも、自殺はもっとも卑劣な行為。この殺人よりもゲヘナの最も低い闇に落とされる罪という理解をしていたので、イエス様がもし、自殺をするというならば、本当に暗闇の中の暗闇、地獄の中の地獄へ落ちるだろう。と今話しています。それほどに、イエス様を嘲笑っているんです。だけど皮肉な事にイエス様はその後に、何て言うと思います?「わたしはわたしの命を、わたしから捨てた」と仰います。自殺という単語は使えないけれども、イエス様はご自身の命をご自身で捨てていると説明します。また、彼らはわからず自分で言っている事が、後に現実になってしまうんです。そして、決してあなた方はここへは入れないと言われてしまうんです。
こうして、み言葉を引用すればする程、律法から引用すればする程、イエス様に裁かれていってしまうんです。そのみ言葉が彼らを裁いていってしまうという。そして、イエス様が、「わたしを知る時は、わたしが父と共に居る事を知るだろう。」という事を最後言い残すんです。パウロが言った、栄光から栄光へ私達も変えられるという意味は、イエス・キリストの性質へと似ていかなくてはならない、という事です。イエス・キリストのように生きなければ、父と共に生きるという事になれないんです。イエス様が父と共に居るっていう事は、父が語られたい事を語り、父が願った事を行動し、父が願ったから十字架にも架かり、父の命令だったから死にまで従順され、父の力で復活しているんです。だから、イエス様が父に全服従をしたように、イエス様がそうされたように、今度は私達もイエス様に全服従をしなければならないんです。それが、イエス様の性質に似ていくっていう事です。というのは、私達の人生がユダヤ人のようではなく、この形式主義者達のようにではなく、イエス様のような従順な姿にならなければならない。イエス様のような性質、性格、品性を持たなければいけない。そうすれば、わたしが誰であるか、十字架に架かり3日後に復活した時に、あなた方はわたしを知るだろう、です。でも、その時後悔をして泣いて歯軋りするけど、決してあなた方は救われない。と警告を受けてしまっているんです。
私達は、来週苦難週、その次は復活祭です。この警告を受けなくてはならないです。しばらくしたら、悔い改めるだろう。もうちょっとしたら、人生がもっと厳しく、もっと大震災でも起き、皆が、周りが死んでいったら、きっと悔い改めるだろう。その時は確かに悔い改めますよ。エサウはそうしたんです。エサウはお腹が空いて、長子の権利をヤコブに、弟にスープ1杯で売ってしまいました。そして、後にお父さんから祝福をもう1回もらおうとして、泣いて悔い改めたんです。でも、お父さんは、「決してあなたに祝福はない。」と言われるんです。泣いて悔い改めるのは、人間側の事情じゃないんです。確かに人間は、悔いて後悔して泣いて悔い改めます。人生の終わりに、或いは厳しい時代、或いはそういう厳しい事が起きた時、でも、いつでも、イエス様に受け入れられると思ったら、大間違いです。悔い改めは、救いと同じ、イエス様が招いている時です。この時に悔い改めなければ、私達も、しばらくしたらイエス様は去っていくっておっしゃったんです。福音もしばらくしたら、去っていくんです。そのしばらくっていう時間は分からないけれども、私達に恵みと猶予が与えられている時間にやらなければならないのです。それは、伝道も同じ。私達が隣人に福音を伝えることも、明日やればいい。或いはその人の葬式の手前でやればいい。或いは彼が病気になった時伝道しようって言ったら、遅いんです。イエス様が今、伝道しなさいって言ったら、今するんです。今彼らにイエスを伝えなさいって言ったら、明日にのばしちゃいけないんです。彼らの明日の命を誰が保証します?明日の命はイエス様が握っているんです。私のも、隣人のも。なら、今日従いなさいって言ったら、今日従わなきゃならない。そして、今日伝道しなさいって言われたなら、今日するんです。明日の命は誰も誇れないんです。だから、今日1日の労苦で十分です。あなた方は今日私の命令に、「はい」か「いいえ」だけで答えなさい。熱いか冷たいか、そのどちらかでいなさい、です。その中間でいるなら、わたしは締め出しますよ。これが今、イエス様が警告を与えていることです。誰に、ですか?クリスチャンに、です。
私は、これはもちろん、初めの信仰者には厳しいと思います。まだ信仰の弱い聖書の分からない人には、イエス様だって、こういう厳しく要求するかどうかも分からない。でも、私達の教会は少なくとも、昨日今日救われた赤ん坊のクリスチャンではありません。私達の家族はノンクリスチャン、私達の友人・知人は、イエスを知らない。私達の知り合い達が、もうどんどん歳を取ってきているんです。そして宮城で起きた地震が、いつここで起きるかも分からない。そういう時に、私達が伝道は明日します。あさってします。もうちょっと私が訓練し、もうちょっと洗練されたクリスチャンになったらやります、じゃ遅いんです。イエス様の戸が閉められた瞬間に、もう私達には明日がないんです。今日という日は、たった一度だけ来ます。今日の祈りは、今日やらなければならない。そして、今日生ぬるいなら、明日も変わりません。これがヨハネの福音書で何度も言っている警告です。
今私達は、このヨハネの8章をずーっと学んできて、もうわかっています。ユダヤ人がどれだけ逆らって、鈍いか。イエス様が何度言っても、話しても、彼らは分からない。「何と酷い教えだ」と逆らっていくんです。これが今、私達の姿です。み言葉に逆らい、言われた事が感情にそぐわないとひねくれて、怒って、反発するこの姿は、今私達の姿ですよ。そして明日やればいいっていう、卑怯なこの考え方も、今私達が主の前にしている態度です。私は少なくても、この教会では、そんな赤ん坊のクリスチャンでは、居たくはないです。嫌です。私はこんな赤ん坊のクリスチャンで、泣いて、ヒステリー起こし、自分の人生が苦しいからと言って、イエス様の前でこんな態度しか取れない、私はそういう教会で居たくはないです。皆さんはどう思いますか?そんな赤ちゃんのクリスチャンで、伝道も出来ない、ちょっと苦しいと泣いているしかできないっていう赤ちゃんで居たいのですか?
私達は来週復活祭を迎えます。私はやっぱり硬い食物を食べられる、いつまでも甘いミルクしか飲めないような教会ではなく、本当にイエス様の復活を喜び、感謝し、そしてこの喜びをノンクリスチャンにも、次の世代にも流せる、大人のクリスチャンになる事を祈ります。アーメン。
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