ヨハネ福音書8章12-20
~イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」 そこでパリサイ人はイエスに言った。「あなたは自分のことを自分で証言しています。だから、あなたの証言は真実ではありません。」 イエスは答えて、彼らに言われた。「もしこのわたしが自分のことを証言するなら、その証言は真実です。わたしは、わたしがどこから来たか、また、どこへ行くかを知っているからです。しかしあなたがたは、わたしがどこから来たのか、またどこへ行くのか知りません。 あなたがたは肉によってさばきます。わたしはだれをもさばきません。 しかし、もしわたしがさばくなら、そのさばきは正しいのです。なぜなら、わたしひとりではなく、わたしとわたしを遣わした方とがさばくのだからです。 あなたがたの律法にも、ふたりの証言は真実であると書かれています。 わたしが自分の証人であり、また、わたしを遣わした父が、わたしについてあかしされます。」 すると、彼らはイエスに言った。「あなたの父はどこにいるのですか。」イエスは答えられた。「あなたがたは、わたしをも、わたしの父をも知りません。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたでしょう。」 イエスは宮で教えられたとき、献金箱のある所でこのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。~
前回話した[ ]はヨハネが書いていない。そして後から5世紀頃に挿入された、別の物語だ、と言いました。何故別の物語が挿入されたかというと、その後の、今日読んだところの『わたしはだれをもさばきません。』という所と、あの女に向かっても、『わたしはあなたをさばきません。』という事が同じ、イエス様が同じ事を言っているので、ここで挿入されたっていう説もあるのです。だから、あの[ ]は、まあ余所からか入ってきたにしろ、この仮庵の祭りが、今終わりを告げている。そしてまた、イエス様が仮庵が終わって、また宮に入って、教えられているっていう先々週のみ言葉の次、ここから仮庵の終わりの所がまた始まっているんです。だから、前回やった[ ]という所は、あとから挿入されているので、実際は仮庵ではないんです。
そして、今日読んだところから、また仮庵が終わった後、っていう事になっているんです。そして仮庵の第1日目というのは、基本的には大きな燭台を立てて、その燭台に夜は火を灯すんです。その火を灯すのにも祭司長が梯子に上って火を灯すんです。そしてそれは、線を引いて、普通の平民の民達は、線引きの中には入ってこれない。祭司長や律法学者や主な人達が、そこで賛美し、礼拝し、喜び踊るんです。それを全てのイスラエルの、この仮庵に来た人達が全員見て、楽しむ。夜はそのように仮庵を過ごしていたんです。だから、光が煌々と輝くんです、夜でも。でも、仮庵が終わった後、その光は消えてなくなります。そして、いよいよこの光がなくなった時に、全くもう燭台に火を灯さなくなった時、イエス様がまた立ち上がるんです。『わたしが世の光である。』
この前もそうでした。水の祭りでもあったんです。そして仮庵の水の祭りが終わった後に、イエス様は、こう言うんです。「わたしこそ、あの荒野で40年間、モーセとその民達を岩から水を飲ました者である。」で、仮庵の祭りが終わって、水の祭りが終わった時に、「わたしに来なさい。そうすれば、わたしがあなた方に飲ましてあげる。でも、わたしの水は永遠に涸れない。永遠の泉である。」と言ったんです。でも、その前に5千人にパンを食べさせた時もそうでした。5千人を食べさした時、「わたしこそが、天から下ってきたマナである。わたしこそ、生ける神のパンである。命のパンである。」と言った時にもそうでした。わたしこそが、あのモーセではなく、40年間、マナを降らした本人である。と言って宣言をしているんです。
ずーっと意図的にそうします。意図的にヨハネは書く時に、イエス様が何でそれを仮庵の祭りに、或いは5千人を食べさせた時に、或いはそれが終わった時に、この台詞が出てきたのかって言う事をヨハネは意図的に、皆に分かるように書いてあるんです。他の福音書とヨハネの福音書はそこが圧倒的に違うんですよ。何故か?1世紀の終わり頃、ヨハネは振り返ってイエスが来た理由を良く理解した後に、この福音書を書いているからです。そして仮庵の夜の導く光が終わった後に、「わたしこそ、わたしこそ本当の世に来た光そのものである。」とイエス様が宣言されているんです。
この世が真っ暗になった時にイエス様が立ち上がってこの台詞を話されているんです。だからイエス様は意図的にこれをしています。意図的に仮庵の祭りに行っているんです。そして光というのは、基本的にヤハウェ、待ちに待ったメシヤのこと言うんです。だから、今イエス様が言っている、「わたしこそ世の光です。」は「わたしこそ、ヤハウェである。」「わたしこそモーセではなく、モーセ達にマナを食べさせた者、水を飲ました者。そして、あの40年間昼は雲の柱、夜は火の柱で導いた、あの火そのものだ。」と言ってるんです。あの夜の火の、40年間1度も消した事無い、光を消した事無い、40年間荒野で導いた、あなた方の尊敬するモーセではなく、それを上回る天から下した火の、本人そのもので、あの時モーセの柴の所に降りて来られたヤハウェの神、ありて在る者。自ら存在しているもの。エゴエイミーであるって、今またここで、ヨハネはエゴエイミーを使うんです。
わたしこそ、それだ。わたしこそ、天から下って、あなた方に契約した、先祖達が拝み、先祖達があんなに待ち望んだ、先祖達が待ちに待ったメシヤそのものだ。ヤハウェの神であると、今宣言されてしまっているんです。そして、イスラエルの民がこれを聞いて、何という、何という冒涜だ!と思うんです。何故?今、わたしこそ、ヤハウェ。わたしこそ、救い主。わたしこそ、メシヤ。わたしこそ、モーセ以上の偉大な者と言っているからです。ここには、謙遜さなんか欠片もないんです。謙虚さもないんです。圧倒的な、エゴイスト的な言い方をしています。圧倒的な傲慢的な言い方をしているんです。圧倒的な一方的な言い方を今、イエス様がここでしているんです。あなた方は聖書を読む時、イエス様が世の光だって言ったら、疑問も持たないんですよ。「そうでしょ、イエス様光でしょ。」でもユダヤ人にとっては違います。『光』って言った瞬間に、もう『わたしは神だ』と言っているのを理解します。この、『わたしは神だ』って言っても、あなたの父はヨセフじゃないの、あなたの母はマリアでしょ。あなたの弟、妹はガリラヤに住んでいる、あなたはガリラヤ出身ではないの。何故それなのに、あなたは自分を神だと言うのか。そして何故ヤハウェ、モーセ以上に偉大な者って自分で自慢するのかっていう反論が来ているんです、ここ。何故あなたは証人もなしに、自分を証言してしまうのか。律法にはそんな事は書いていない。律法には、2人以上の証言が必要で、2人以上の承認が必要だ。何故あなたは、こんな風に傲慢極まりないのか、と言っているんです。あの時のユダヤ人の気持ちは、そういう気持ちでここ、反論しているんです。そしてイエス様が圧倒的エゴイストの言い方で返します。
仏教作った釈迦であれ、儒教作った孔子であれ、イスラム教作ったモハメッドであれ、彼らは、「私は光を求める者。」そして「私はその上求道している者。だから皆さん、一緒に行きましょうよ。皆さんも光を求めていきませんか?」っていう謙遜極まりない言い方で始めているんですよ。他の宗教、他の教祖たちは、皆謙遜極まりない言い方、私こそ光ではないけれど、光を探しましょうよ。命の方へ行きましょう。と導いた人達です。
でも、イエス様はこんな謙虚さはないんですよ、今。圧倒的な嘘つきか、圧倒的な神かのどっちかになってしまうんです。曖昧さをイエス様は、一言も言っていないんです。「わたしこそ、神。わたしはあなた方とは違う。」と言ってしまうんです。わたしこそ世に来た光そのもの、ヤハウェそのもの。神そのものだから。じゃあ、何故あなたは、自分の証言をするんですか。あなたを神って証言してくれる人は、どこに居るんですか?という反論が当然来ているんです。何故?ここで、エゴイスト的な言い方を今イエス様が、何の謙虚さもなしで言いきる。だから、ユダヤ人から見たら、大嘘つきか、本当のメシヤかっていう、どちらかの判断を取るしかないんです。その中間の、それを導いた預言者の1人だと言っていないんです、今、イエス様。その中間を導いた者ではないんです。神か、悪魔かっていう判断を今、取らなきゃならないんです。教会に入ったら、イエス・キリストは神か、そう信じないなら教会に来る必要はなくなります。これ位の強さで今イエス様は言っているんです。ここで言っているイエス様のエゴエイミーは、エゴイスト的に言っているんです。わたし以外いないっていう位に。
そして、証人を出せってまた言われたんです。律法を引用するんです、またこの人達は。そして証人が居ないなら、あなたの証言は嘘だ。と言うんです。そして、わたしは、わたしを証言していれば、これで十分だって答えます。言われたユダヤ人達の気持は、律法に書いている証人を立てていないのに、自分を神と言うこの人は一体何だろう、と困惑します。嘘つきか、ペテン師か悪霊か、ですよ。彼らに映るのはそういう類なものです。或いはこの方こそ権威ある教えをするメシヤか。真二つに分裂しているんです、今ユダヤ人の中で。そしてイエス様がここから反論していくんです。
あなた方はわたしに証言を求めるが、
~わたしは、わたしがどこから来たか、また、どこへ行くかを知っているからです。しかしあなたがたは、わたしがどこから来たのか、またどこへ行くのか知りません。 あなたがたは肉によってさばきます。わたしはだれをもさばきません。~
ここで、答えなんです。あなたは、わたしがどこから来て、又どこへ帰るのか、あなたは知らないって言ったのは、何を言っているんですか?ここで圧倒的な宣言をしてしまったんです。神を信じ、律法学を学び、ほとんど神を知っていると思っている律法学者。自分達こそ神を勉強してきた者。自分達こそ神を礼拝してきた者。落ち度がないと思っている人に向かって、こう言ってしまうんです。「あなたがたは、神なんか知らない。わたしも知らない。何故ならわたしがどこから来て、どこへ行くのか、あなた方は全く知らないからだ。」とイエス様が圧倒的に証言してしまっているんです。そして、イエス様がすることは、人間にとっていつもこういう事なんです。
士師記13章6節
~その女は夫のところに行き、次のように言った。「神の人が私のところに来られました。その姿は神の使いの姿のようで、とても恐ろしゅうございました。私はその方がどちらから来られたか伺いませんでした。その方も私に名をお告げになりませんでした。~
これは、サムソンのお母さんです。サムソンが生まれる前に御使いが現れて、マノアとその妻に、マノアがお父さんで、その妻がお母さんなんですけれども、「あなたからは、神の使いのような者が生まれて、それがサムソンだ。」って今預言しているんです。そしてその女が見たその方は、神々のようであり、天使のようであり、栄光に神々しく輝いていて、その方が、自分に子供が生まれ、それをサムソンと名付けろと、そして葡萄酒を飲ませても、死体に触らせてもいけないし、髪を切ってはならない。そういう子供があなたの中から生まれる。と言ったんです。でも、わたしは、その人の名前も知らなかったし、どこから来たか知らなかったんです。そして、それを聞かなかったんです。と、夫に今言ってるんです。わたしは大変な事を見てしまった。そして、夫のマノアは祈るんです。「もし、本当なら私にも現れて欲しい。」「私もそのお告げを聞きたい。」と祈るんです。そして又女の人に御使いが、主のような御使いが現れるんです。そして、その女は夫に、「また、あの方が来られました。」と言うんです。そして、女の人がこう言うんです。「あの方の名前を聞いてください。あの方がどこから来たか、今度はあなたがその方に直接聞いてください。私達はそれを知りたいのです。」だから夫に頼むんです。もし、もう一度天使のような、神のような方が現れたなら、聞いて欲しい。どこから来たか。そして、マノアは聞くんです。
士師記13章17-19
~そこで、マノアは主の使いに言った。「お名まえは何とおっしゃるのですか。あなたのおことばが実現しましたら、私たちは、あなたをほめたたえたいのです。」 主の使いは彼に言った。「なぜ、あなたはそれを聞こうとするのか。わたしの名は不思議という。」 そこでマノアは、子やぎと穀物のささげ物を取り、それを岩の上で主にささげた。主はマノアとその妻が見ているところで、不思議なことをされた。~
分からないんですよ、人間には。どんなに預言を受けようが、どんなに実際に神々の姿を見ていようが、「あの方はどこから来たか、私には分かりません。」そして、「あの方のお名前も分からないのです。」これが本当の人間の姿なんです。私達は神がどこに居て、どんな姿をして、どんな方なのか。全く分からないんです。そして、神様も人間に答える時、「わたしは不思議なものだ。」と答えるんです。人間にとっては不思議、不可思議な方なんです。だから、今イエス様も、「あなた方が知る筈がない。わたしのことを。」と答えています。あなたがたは、わたしがどこから来て、またどこへ行くのか全く知らないからだ。がイエス様の答えだったんです。
16節
~しかし、もしわたしがさばくなら、そのさばきは正しいのです。なぜなら、わたしひとりではなく、わたしとわたしを遣わした方とがさばくのだからです。~
本来の意味は、『さばくのだからです。』じゃなく、『一緒だからです。』です。神とわたしが、遣わした方とわたしとは、いつも一緒だから、と言っているんです。
「あなたがたの律法にも、ふたりの証言は真実であると書いています。」とイエス様が今度はみ言葉を引用して、仕返しします。でも、イエス様が、今み言葉を引用する時、旧約聖書に書かれている『証人』とは言っていないんです。ここでイエス様は単語を突然変えて、引用はされたけど、正しく旧約聖書を言わないんです。イエス様はこう訳してしまうんです。「あなたがたの律法にも、ふたりの人間達の証言は~」とここで語られます。
証言とかいう言葉を使わないで、あなたがた人間達っていう複数を使います。イエス様は敢えてここで、人間っていう単語を入れてくるんです。
~わたしが自分の証人であり、また、わたしを遣わした父が、わたしについてあかしされます。」 ~
イエス様の答えはこうですよ。「あなたがたは私がどこから来て、どこへ行くのかも知らない。わたしが誰かも分からない。だから、そんな人間達の証言を必要としない。」です。
あなた方人間達の中では、人間の証言が必要かもしれないけど、わたし神に於いては、人間の証言はいらないって言っているんです。むしろ嘘つきで偽証するこの人間達の証言は、わたしには、通用しない、ですよ。ここで、イエス様は律法を、律法で返しているんです。
あなた方は、その以前も、姦淫の女が連れて来られた時に、偽の証言と偽の証人を連れて来て、イエス様を訴えようとして、口実を使って彼らはもうその時から偽証をする事に慣れ親しんでいるんです。自分の都合によって嘘の証言をし、自分の都合によっては平気で嘘をついて裁判に臨んでいるんです。だから、イエス様も、あなた方はわたしを知らないのに、こんな人間の証言を何故私が必要としなければならない?また、ここで、エゴエイミー的な発言をしているんです。あなたの証言は、わたしにはいらない。しかも、偽の証言など。更に、あなたはわたしを知らないじゃないか。とイエス様はここで答えているんです。律法学者達がわけもなく、煮えくりかえっているわけじゃないんです。イエス様の圧倒的な一方的な言い方に腹を立てます。そして、他の宗教家や預言者のような謙遜さの欠片もここでイエス様はお見せにはならないんです。
~すると、彼らはイエスに言った。「あなたの父はどこにいるのですか。」イエスは答えられた。「あなたがたは、わたしをも、わたしの父をも知りません。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたでしょう。」~
そして、最後にユダヤ人達は自分達が神を知らないって露呈してしまうんです。ここでも又、自分に信仰がないことを、神を知ってはいなかったことを。全く神を知らないっていう事を自分の言葉で証言してしまい、自分の言葉で証明してしまい、その信仰の無さを露呈してしまうんです。自分達が神を知らないんです。結局この不思議で、不可思議で、人間には到底理解のできない、そして人間の証言で、神を証言できない、という事を本当に露呈してしまうんです。
私達はいくら聖書を読みあさっても、神ご自身を、ただ不思議としか告白できないです。私はダビデの言葉1つ1つを思い巡らす時、ダビデが言った、「月と星を見る時、人とは何だろう。これを創られた方が何故人を顧みられるんだろう。」っていう言葉が私にも実感です。何でこんな全能者が私達人間、屑みたいな人間を顧みるんだろう。全然理解ができないです。何でそんな事を神はするのだろう。これが、私達が神を知り得ない理由なんです。そして、それなのに自分達は証言を立てている。あなたも証言を立てろ。でも、結局神を知らないっていう事を露呈してしまっている。この人間の愚かしさをヨハネは今、語っているんです。全然、神を礼拝すると言いながら、神の律法を守ると言いながら、聖書を教えている教師たちまで、神が分かっていない、事が今露呈して、露出しているんです。
そして、イエス様も、だからあなた方の証言など、わたしは当てにはしていない。そしてある神学者はこう言っています。「キリスト教というのは、圧倒的に一方的にイエス・キリストの一方的なご自身の自己意識の元の証言以外に頼る者はない。」イエス・キリストが福音書で語った、イエス・キリストの台詞以外、言葉以外に、私達はより頼むものがないんです。イエスが神だと言えば、信じる他ないんです。イエスが、「わたしが光だ。命のパンだ。わたしが道で、わたしが真理だ。」と言えば、それ以外神を知る術も手立ても方法もないと神学者が言っているんです。ですから、キリスト教というのは、イエスの証言にすがりつき、依存し、その事が信仰の勇気、信仰の英雄なんだっていうんです。そこまで表現する程、イエスの証言以外に、イエスが証人とならずしては、神を理解すると言うか、知る手立て、方法がない。だから、福音書に書いてあるイエスの台詞だけが、「神だ。」って言えば、そうですね、っていうしかない。だから、「イエスが神だ。だから従いなさい。これが命令です。」そうですね、って答える以外ない。曖昧がないんです。それを信じていないなら、キリスト者じゃないし、クリスチャンでもなくなります。教会に来る必要もないんです。どんな偉大な者でもイエスが喋ったこと以外に、神を知る術も手立てもないって事ですよ。だから、イエス・キリストの証言にしがみつき、すがりついて、徹底した完全なる依存をするしかないんです。それが神というなら、そうなんでしょ。アーメン。としか、私達は応える方法がないんです。何故?神そのものは不可思議で不思議なんです。人間が、「あなたは誰ですか?説明してみなさい。」なんて言える相手ではないんです。
そして、それを言ってはイエス様に「あなたは全く神を知りません。」と言われてしまうんです。反論し、神に逆らい、何も悔い改めず、ロボットのように、ただ行動だけしている者たちは、結局イエス様の裁判の日に、何て言われるんですか?「あなた方はわたしを知らないし、わたしもあなた方を全く知らない。」っていう結果をもたらすんです。
人生そのものを懸けて、イエスが言った事は「その通りだ。」と思い、その通りに、実践的な行動、実践的な従順、実践的なものが必要とされてしまうんです。YESかNOしかないんです。イエス・キリストが「これだ。」って書いた事に、「そうです。」って言うしかないんです。イエス・キリストの証言以外、神の事を説明する手立ても、術もない。だから、イエス・キリストこそ、神の形。神を表した特質で、だからこれを「神だ。」って言えば、「アーメン。主よ、」っていう以外の答えはありません。
あの方はとても不可思議な方なんです。私達が頭で理解するような方ではないんです。だから、頭でイエス・キリストを知った人は、神を信じたのとは違います。「神はそうだ。」イエスが「神はそうだ。」と言えば、これに依存する以外、ないんです。サムソンの、お父さんとお母さんが、「私が見た方は、とても不思議な方でした。私達はあの方がどこから来て、どこへ行くのか知らないのです。」という告白以外、私達は神に対して出来ないんです。だから、知らないから、知れないから、イエスが言った、聖書で書いてある、この福音をそのまんま実践する以外にない。
「怒るな」と言えば、怒ってはならない。「姦淫するな」「偶像礼拝するな」「人を裁くな」「憎んではならない」と言えば、「隣人を愛せ」と言えば、「はい、そうです。」神がそうなら、はい、そうです。しかないんです。
従順こそ礼拝なんです。それを今、律法学者やパリサイ人の中で、イエス様が応えている答えなんです。あなた方人間の証言をわたしは必要としてはいない。だけど、こう言っているんです。でも、わたしを遣わした方がわたしの証人です。結局、何ですか?イエス様は2人の証人が居るんです。イエス様と神様。結局2人の証人を、律法の命令を守っているんです。イエス様は1度も律法を破ってはいないんです。あなた方嘘つきの人間の証言はいらないけど、わたしを遣わした真実な神は、わたしの証言をしてくれる。と言う事は、イエス様も証人を連れて来ているんです。という事は、その父とわたしは、いつも一緒にいます、です。
イエス様を情愛か何かの、そんな神だと思っていたら大間違いなんです。長い年月これだけメシヤを待って、これだけ行動パターンでは礼拝をし、これだけ自分の身体を鞭打ってきたけれども、結局イエス様に、「あなた、わたしを知らないでしょ。わたしもあなたを知りません。」と言われます。
そしてイエス様は捕えられないんです。まだイエス様の時が来ていないからです。そして、イエス様が今、ここで一番おっしゃりたい重要な所は、『わたしは遣わされて来た』です。ミッションがあり、使命がある、です。イエス様は世の光として、このミッションを果たすために来ているんです。別に人間に姿を表したいわけでも、人間に神の姿を見せたいわけでもなかったんです。イエス様が、この地上に来たのは、唯一つミッションのため。使命の為で、ただその為だけに遣わされて来ているんです。『遣わされた』は派遣です。派遣には必ずミッションがついてまわるんです。ミッションのない派遣はないんです。だから、仕事の為に来たって言っているんです。仕事が終わったら、帰るんです。仕事だけがイエス様の目的だったんです。ここへ来たのは何ですか?十字架で釘打たれ、死んで復活し、昇天し、聖霊を送るっていう仕事です。わたしはこの事の為だけに来ている。わたしはミッションの為に来ている。そして、派遣されたんだ。天の父の神から。でも、天の父の神は今もわたしと一緒に居る、です。理解なんか出来ないです、人間には。こんな事。何故?人間は生まれた事とミッションがイコールじゃないんです。人間はで自分の我儘し放題で何のミッションもなく生きています。何のミッションも果たさず、使命もなく。だから、人間にとって、存在=ミッションにはなっていないんです。だから、名刺が必要なんです。
だから、私は東京ガスの者です。NHKの者です。私はどこどこの会社の者です。っていう名刺が必要です。何故?『生きている=ミッション』にならないし、人間はそんな事を信用しません。生きているだけで、私にはミッションがあります。なんていう人間を誰が信用します?居ないんです、そんな存在は。
でも、イエス様は違うんです。『存在=ミッション』なんです。人間とは全然違うんです。
このミッションの為に。だから、何か情愛で慰めて励ましてもらおうって、私達はイエス様にしがみついているかもしれないけど、イエス様にとってはミッションなんです。存在そのもの、ご臨在そのもの。全ての事に於いて、ミッションで来られているんです。天の父から遣わされた仕事のために。聖霊様もそうです。
私達の中に内受している聖霊はあなたを励ますために来たんではなく、イエス・キリストのミッションを、欠けた所を果たすためにこの地上に来ています。神の国の仕事、神の義の仕事。真理の仕事です。イエス様が来られた理由も。聖霊が来られた理由もです。あまりにも人間中心に神を考えてはいけないのです。被造物はイエス様が選んだ神の栄光の器だったかもしれないけど、神様が人間と同等な事は1つもないんです。
イエス様はご自身が救った者を決して見捨てません。その責任は、絶対に果たす方です。神にとって被造物の運営はミッションなんです。人間の考える愛情とは違います。
そもそも私達は銀河が何かも、太陽系が何かも分からない。ダークマターなんて聞いても、実際にはその力が何なのか理解できない。私達の住んでいる銀河は天の川銀河ですよ。だから、時折夏頃に見る天の川は銀河の端っこを見ているんです。そして、その太陽系っていう私達が住んでいる太陽を中心に月と、また火星、水星、木星、金星、土星、地球、海王星、冥王星、いくつかの惑星が太陽系中心に回っているのを銀河って言いますが、これ、銀河の中心じゃないですよ。銀河の端です。こういう太陽系が無数になるのが、銀河です。そして、銀河っていうのは、私達住んでいるこの太陽系だって火星に到達するのが1年っていうのに、ロボットが行くのにも1年掛っているというのに、人間の足では火星に到達さえできないっていう距離なのに、しかも、ですよ。1番近い火星がその位の状態だけど、銀河っていうのは、この私達住んでる太陽系が端っこにあるという大きさで。銀河っていうのは、結局星の屑、惑星たちの渦の状態です。そして宇宙にはその銀河が数千万個あるんです。数千万個です。銀河そのものが数千万個あるんですよ。
その銀河の私達が住んでる1番近いアンドロメダ星雲、その銀河だって遥か彼方なんです。電子望遠鏡で見るのがやっとの所にあるんです。隣の銀河でさえ。
そして、その細い渦巻きや楕円形や、色んな形が全ての銀河にあるけど、全ての銀河は運動をしているんです。相対性理論っていうのは、こういう銀河と宇宙から生まれてきているんです。ニュートンやアインシュタインが発見した運動法則っていうのは、ここから来ているんです。そして、その銀河っていうものは、全部の星が運動しているんです。加速しているんです。渦上で回っているんです。そして、その中心は太陽じゃないですよ。古い星達が、丸く、ぐるぐる回り、次に新しい星が1番端っこにある、そしてぐるぐる回っているのが、銀河なんです。でも、最近ダークマターっていうのが、各国こぞって競い合って、これを探しているんです。何故?銀河の星の数を数えて、その質量と加速してる速度を計算すると合わないんです。質量と速度っていうのは、一定しなきゃならないんです。重力と加速は一定しなきゃならないのに、合わないんです。全然、全く。その10倍の質量が足らないんです。星の数よりも。そこで、ダークマターがあるっていう事が分かるんです。暗黒物質。光も発していないから、電磁波で私達が目に見えない物質が、銀河の70%を支配しているんです。そのダークマターが重力を作っているんです。そのダークマターがなきゃ、この銀河の運動法則は起きないんです。そのダークマターは影もない、形もない、光も発しない、そしてどんな物質か分からない。どんな性質か分からない。どんな素粒子か分かってない。どんな原子を持っているか分かってない。人間と、地球と宇宙で、見た事も考えた事もない、素粒子なんです。だから、これを探したら宇宙が分かるんです。そのダークマターが重力をほとんど作っていて、銀河を運動法則へと持って行って、加速させてるんです。それでも、ダークマターが70%って言うけど、それよりもっと驚くのは、ダークマターは銀河と銀河の間にもいるんです。と、言う事は何ですか?銀河と銀河の間の重力も司ってるんです。でも、ダークマターは光もない、形もない、そしてどんな分子かも分かんないから、人間がそれを見ようとしても見れない。だから暗黒物質なんです。
そして、それがどういう物質か探したいのが、今の地球人が本当にもっとも要求しているものなんです。でも、結局分からないんです。それが形なのか、光を発しない星なのか、
或いは違う私達の知らない物質なのかも分からない。でも、このダークマターが結局重力を異常に作るから、宇宙を拡張させてるとも言われてるんです。宇宙を今も広げている働きは、このダークマターがしてる筈だ、なんです。計算からすると。何故?莫大な重力を作ってしまうからです。そして、それは時空を壊してしまう程、歪ませてしまう程の重力なんです。
だから、光が真っすぐに通れない。ダークマターにあうと、光は婉曲に動いてしまうんです。光は真っすぐしかいけないんです。物理的には。でも、ダークマターにぶつかると、光は歪むんです。何故?ダークマターの重力で光が歪んじゃうんです。という事は、本当にダークマターが宇宙の秩序を守ってることになります。重力で、です。重力で運動法則をどの銀河もダークマターがまわしてるんです。そして銀河と銀河がぶつからないように、そして地球と太陽がぶつからないように、そして火星が木星がぶつからないように、完全なるこの秩序を作っているのが、ダークマターです。宇宙の大半を支配しているんです。でも、何だか分からないんです、人間には。
でも、ハッキリしているのは、神のことばなんです。天体を創ったのは神です。しかも、神はその天体を1日で創っているんです。しかも、ことばで。このダークマターを使っているのは、神そのものです。この宇宙の秩序を神のことばが今も運営し続け、イエス様がダークマターを消した瞬間に、こうです。黙示録に出てくる太陽は光を無くし、星星は地に落ちるっていうのは、ダークマターが無くなったら、重力が不規則に動くと、今度は隕石がぶつかっただけで爆発が起きるように、地球の爆発が起きてしまうんです。何故ならダークマターはガスである可能性もある。でも、このガスだって他に充満してる宇宙で、石と石が、星と星がぶつかった瞬間に核爆発の何百倍も大きな爆発が起きるって言う事は、宇宙の壊滅状態なんです。ダークマターが働かなくなった瞬間に。という事は、神のことばが終わった瞬間に、もう宇宙さえも大爆発を起こすっていう。地球の崩壊どころじゃないんです。これが神の働きなんです。『ことば』なんです。そして宇宙万物を創る創世記には、神はこれこれを創った第1日目。とユダヤ人は書いてあるけど、古代のユダヤ人というのは、第1日目の1日目というのは、光っていう意味も持っていて、光って言うのは、神の働きの場っていうのも持っていて、神の光、神の働き、宇宙そのものなんです。でも、古代ユダヤ人はこのダークマター含めた全て、単数の1つで表現してしまうんです。宇宙全てを単数の1個全てで表現してしまうんです。この数限りない星星を。1個を表現するんです。何を言うんですか?燭台と言うんです。光を入れる器に過ぎない。しかも、単数形です。こんな私達が想像を絶する、宇宙の膨大な広さ、深さ、無限さっていうものをユダヤ人は大した価値にしないんです。たかが燭台だって言うんです。神の栄光を載せるたかが道具に過ぎない。という表現をしているんです。この天体に、それ程価値が無い。価値があるのは、神のことばであり、神の光であり、神の働きであるっていうのが古代ユダヤ人の考え方なんです。何1つ天体を褒めたたえていない。他の宗教、他の古代人、他の全ての者は月や星を神々にしてるんです。皆、太陽が神であり、月が神であったんです。どの国も、どの人種もです。ユダヤ人だけですよ、そんなものは燭台の1つに過ぎなく、神の道具の1つに過ぎなく、どんな偶像も作らなかったんです。神は霊だからっていうのが、ユダヤ人の徹底した観念なんです。ユダヤ人にだけ、偶像の神が現れないんです。1個も作らないんです。作った瞬間に滅ぼされます、神に。これが神の光と言う意味です。今、わたしは世の光。古代ユダヤ人にとっては。
今の私達には、ダビデが言った、「何故私を顧みるんだろう」っていうあの不思議な、不可思議な、何故だろうっていうクエスチョンがありません。私を見てください。私を慰めてください。私に何かないですか。私に何か仕事を下さい。という要求ばかりです。神の事を知っていないからです。知ったふりしたところで、律法学者のように、「あなた方はわたしを知らない」っていう答えしか返って来ないです。
私達の住んでる銀河系なんて、宇宙の端の端ですよ。どんな偉大な科学者だって、死ぬ時には分からないと答えます。ゲーテだって言います、私は空しいって。「分からないって」哲学者も。これが人間の姿です。だから、イエスが言った事を「そうですね。」って言うしかないんです。「はい、そうです。主よ。だって、あなたは神で私は被造物だから。」っていう態度を取るしかないんです。これ以外に神と接触する方法がないんです。だから、イエス様の語ったこの言葉に、圧倒的な全体的な依存をするんです。イエスのことばに、です。そうでなければ神を知れないからです。
にもかかわらず、イエス様は私達を救ってくださったのです。アーメン
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