ヨハネ福音書7章37-39
~さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。~
『さて、祭りの終わりの大いなる日』仮庵の祭りが、今終わろうとしています。前にも話したように、仮庵の祭りは7日間あります。 そして、7日間、毎日1周して、そして7日目は7周するっていうエリコの城壁を回った時と同じようにし、そして8日目は、ただ祝うのです。どこも回らず、祝う。だから、今日の大いなる日は7日目なのか、8日目なのかはよく分からない。ただ、祭りの大いなる日、にイエスは立ち上がって大声で言われた。
ここで、立ち上がって大声で叫ぶというのは意味があって、ユダヤ人の説教者達、ラビ達は、基本的には座ってメッセージをする。それは、昔のキリスト者達もそうしたんです。まあ、説教が長いからかどうか分からないけど、説教者は座るんです。そして、聖書を朗読する人は立ち上がるんです。その区別をします。何故か?神のみ言の朗読は偉大で、説教者は人間だから。だから、朗読が偉大なんです。どちらかと言えば。で、説教者は座るっていうことだったんですけど、この日は大いなる日で、イエス様が立ち上がって叫んだんです。だから、今日イエス様が説教されるのは、座りながら語ったのではなく、立ち上がった。だから、それだからこそ、重大発表があるのであって、特別な、いつもとは違うメッセージがあるという表現なんです。だから、このお祭りの最後の日に、イエス様が特別に立ち上がって、大声で民衆に向かって叫ぶっていう、ヨハネが何故この表現をするかというと、これから語るイエス様は、いつもと違うイエス様のメッセージがあるという表現をヨハネはします。だから、この仮庵の祭りが終わった日に、イエス様が立ち上がって叫ぶんです。
~「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。~
ここで、仮庵の祭りの大いなる日、最後の7日目か8日目か、この最後の日は、いつも以上に喜び踊るんです。そして、それはラビ達もやり、祭司長達も喜び踊るんです。何故その時に、ここで『渇いた者、水を飲め。』っていう言葉をイエス様が叫ぶかというと、これが仮庵の祭りの由来なんです。仮庵の祭りは、前にも話したように、収穫祭です。それは、収穫する時、昔のユダヤ人達は、その収穫の所に藁や木で小屋を作り、その小屋で収穫せざるを得なかったんです。収穫する時、夜通し働かなければないから。だから、仮小屋が必要だったんです。だから、その仮小屋という意味もありますけれども、この仮庵の祭りの本当の由来は、『雨乞い』なんです。だから、この時仮庵の祭りは井戸の周り、或いは水場の周りを1周します。そして、祭司長達が井戸から水を汲み、祭壇に注ぐという、そういう作業から出発するんです。そして、7日目には「ホサナ!ホサナ!」と神を褒め称えるんです。だからこれは、神を褒め称える大いなる、偉大な日に、この仮庵の祭りの日にイエス様は立ち上がって水の話をしているんです。何故なら、これは仮庵の由来において、イエス様はここで、水の話をしている。『雨乞い』がこの祭りの本当の意味だったからです。
だから、仮庵の間に雨が降れば、来年は豊作だという考えを持っているんです。でも、これは迷信などではなく、この季節に雨が降れば来年は豊作というのは、農民カレンダーによっているんです。だから、今でさえユダヤ人は仮庵の祭りをする季節に雨が降るかどうかは、他の国々でも、注目するっていうか、農業カレンダーなんです。だから、この7日の間に雨が降れば、来年の収穫は神が保障するという意味で、祭司達は、ただ「ホサナ!ホサナ!」と祝っていても、ここで、祈りは、「来年も豊作を。来年も雨を。来年も雨を降らして、私達を養ってください。」という祭りであり、祈りであり、礼拝なんです。だから、この大いなる日なんです。来年私達が、これで、飲んで食べれるかどうかという事なんです。
そして、イスラエルにとってモーセは偉大な人物ですよ。このモーセが引き連れて40年荒野を彷徨う時、神がマナを降らし、そして岩から水を飲ませた、という故事をこの人達は全員知っています。その故事に倣って、またマナを降らせ、水を飲ませてください、という祭りでもあったのです。だから、この祈り、この礼拝が、大いなる日にする日なんです。だからこの日、イエス様が「渇いている者は、私の所へ来て飲みなさい。」っていう事を叫んだとしても、ユダヤ人にとっては、突然こんな話をしているっていう事ではないんです。「この井戸の水は、また渇きます。でも、私に来るものは、井戸の水ではなく、永遠に乾かない水を、あなたがたに飲ませましょう。」と言いう、だから仮庵の最後の日、私達にマナを降らせ、モーセが導いた時に、40年枯れなかった、あの岩から水が流れるように、雨を降らせ、豊作を与えてくださいという、祈りと礼拝のその日に、イエス様が立ち上がってそこで井戸の話をするよりは、私の所へ来なさい、と言っている招きなんです。
今、イエス様がその大いなる日に、何故立ち上がって叫んだかというと、今イエス様が、とうとうご自身の所へ人々が来るように招いているんです。これをイエス様がしたいがために、エルサレムに上られたんです。人知れず。で、7日間、人知れず行ったのに、公にイエス様がとうとう立ち上がったんです。何故?イエス様にはこれをする目的が、はじめからあったんです。仮庵に行ったのは、イエス様が奇跡をおこしたいんではなく、その時はもう、井戸でもなく、モーセでもなく、わたしに、モーセにマナを降らした、このわたしに来て、わたしの所で飲みなさい。と、言っているんです。そして、
~わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」~
と叫んでいるんです。その人の心の奥底っていうのは、中からというヘブライ語です。ユダヤ人達はこれを肝臓とか、腎臓と言う意味で、肚わたなんです。あなたのはらわたから水が溢れ出る。と、イエス様が叫んでいるんです。これはちょうど、サマリヤの女に言った時と同じです。サマリヤの女の所に行き、イエス様が、「わたしに水を飲ましてください。」と言った時、「あなたは、ユダヤ人なのに何故サマリヤ人に声を掛けるのですか?ユダヤ人はサマリヤ人と話をしてはいけないんではないですか?」と言った時、イエス様が「わたしが誰か知っているなら、あなたから、私に水を差し出しただろう。」と言っている時に、「あなたの夫を連れてきなさい。」「私には夫はいません。」「そうです。あなたには、5人夫がいたけれども、今はいません。」と言った時に、「あなたは、確かに預言者です。そして、私はどのように礼拝していいか、メシヤが来た時に私に教えてくれるはずです。だから私は今、メシヤを待っているんです。」と女が言った時、イエス様が、「それは、わたしだ!」と招くんです。「そしてあなたは、いずれ霊と真をもって礼拝する時がくる。」と言っている箇所と同じ事を今、イエス様がおっしゃっているんです。
あのサマリヤの女を招いた時のように、今イエス様が、「わたしの所に来るならば、2度と渇かない、生ける水が、泉が、あなたの腹底から、肚わたから、心の奥深い深淵から湧き出て2度と涸れる事はない。それは、川のように流れ、海のように流れていく。」これは、詩篇でもよく歌われて『神の霊が川のように流れる』は、どこの箇所でも預言者達が歌っていることです。そして、この仮庵は、元々水の祭りであったことは、旧約からよく語られている事なんです。
ゼカリヤ書14章16-19
~エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る。 地上の諸氏族のうち、万軍の主である王を礼拝しにエルサレムへ上って来ない氏族の上には、雨が降らない。もし、エジプトの氏族が上って来ないなら、雨は彼らの上に降らず、仮庵の祭りを祝いに上って来ない諸国の民を主が打つその災害が彼らに下る。 これが、エジプトへの刑罰となり、仮庵の祭りを祝いに上って来ないすべての国々への刑罰となる。~
このように旧約の当時から、仮庵の祭りを祝う者、主を礼拝しに訪ねて来る者達には雨を豊かに降らし、そして、この仮庵の祭りに来ないで、自分の仕事が忙しい、もう結婚しましたから、子供を産んだから、畑仕事が忙しいですから、と言って言い訳をしながら、主に礼拝に上らない者達には、災いがきて、そこに2度と雨は降らない。渇ききった砂漠のように、荒地のようになるだろう。しかし、この仮庵をしに、神に礼拝しに来た者の上には豊かな雨が降り、豊かな水が流れ、豊かな水が河のように溢れるだろう。というのは、昔から、旧約の時代からイスラエルの民に約束している。この仮庵の祭りをし、神を礼拝し、神を褒め称えるならば、あなたがたに豊かに雨を降らせ、あなたがたは、河のように水を飲むことができる。そして、その井戸は涸れることがない。と、旧約の時からこの仮庵の祭りというのは、イエス様の約束なんです。だから、こぞって集まりますよ。この仮庵の祭りは。自分達の来年の豊作、或いはそれをしなければ、永遠の刑罰に落ちるという自覚の元で、このようにエルサレムに今、異国に行った移民たちも、ユダヤ人ならば主を礼拝しに上って来るんです。そしてその大いなる日、全てのユダヤ人達が上って、雨乞いをし、そして神の祝福を頂こうとし、神に礼拝しに来た全ての者の中で、イエス様が突然立ち上がって、「渇いているなら、わたしの所へ来なさい。」という招きをするんです。そして、私を信じる者は誰であっても、必ず、生ける水が、そして2度と渇かない泉があなたの肚わたから、あなたの心の奥底の深淵から、霊から、湧き起ってくるのです。それは、河のように流れていきます。と、イエス様が招くんです。
だから、ユダヤ人達も理解するんです。ここでイエス様が何故、水の話をしているか。ユダヤ人にとって至極当然の話です。道理にかなっていました。でも、これは、『わたしが神だ。』と言っているんですよ。モーセでもなく、他のどの井戸でもない。「わたしが、あなたにその水を飲ませ、わたしが、そのマナを食べさせよう。」と言っている招きなんです。だから、民衆にとってこれは、目新しい事を聞かされたのではなく、以前からメシヤを待ち望んだ、あのサマリヤの女のように、待ち望んだメシヤの台詞なんです。いつか、メシヤが現れて、このように私達を永遠な、本当にマナと水を飲ましてくれる、永遠に救い出す方が来られる、というのがユダヤ人の希望ですから、この大いなる日に、それをイエス様が宣言しておられるのです。だから、このユダヤ人にとっては、ここでもまた、信じる者と信じない者がクッキリ分かれていってしまう。異邦人がこの話を聞いても、何を言っているか分からないけれども、聖書に親しいユダヤ人、或いは、旧約からこの祝いをし、この礼拝を待ち焦がれている者、メシヤが来て私達を、以前以上の、モーセ以上の、ダビデ以上の、栄華を私達にもう一度見せてくれるという神が来ることを待ち望んでいるユダヤ人にとっては、待ちに待っている出来事なんです。
サマリヤの女がそうだったんです。私がメシヤに会うなら、メシヤがこの地上に来るなら、私はどこで礼拝するか、知れるようになる。何故ならメシヤが来て、私を救うからだ。と、待ち望んでいたサマリヤの女が、「どうやって礼拝するのか。」と言った時、イエス様が、「霊と真で礼拝する時が必ず来る。」と言っている。だからこの生ける水は、聖霊を言っているんです。
そして、第1コリントではパウロがこう言うんです。「モーセ達は御霊から全員が、同じ御霊から同じ水を飲んだんです。そして、その岩はキリストです。」と言っているこの箇所ですよ。あなたがたはいずれ、イエス・キリストから送られる聖霊を受けるようになります。その聖霊を受けるならば、2度とあなたがたは渇かない。2度と神はどこですか?と言わない。2度と神を探さないでも分かるようになる。そしてそれは、永遠に消えない光になっていく。だからあなたは、もう2度と山ですか?エルサレムですか?と言わない日が来る。エルサレムに礼拝しに来ず、誰でもイエス・キリストに直接礼拝し、直接会うことができるようになるのです。という招きを今、しているんです。でも、『わたしを信じる者』『わたしに来た者』です。条件が。
水を本当に欲しがるのは渇いた人だけです。力あるイエス様が語り、今招いておられようと、どれだけの奇蹟を見ようと、そして、どんな優秀なパウロが語っていようと、重要なのは、渇いた人にしか届かないっていう事です。渇いた人しか水は飲まないんです。渇かない人は決して水を飲んだりしないんですよ。だから、イエス様が招いている時、これを聞けるのは渇いた人だけなんです。だから渇いた人にだけ、神の声は聞こえてくるんです。そして、そういう者の中にだけ聖霊は、働いていくんです。これが水の特徴です。
荒野でカラカラに渇いて、もう、本当にどうする事も出来ない失望感に溢れた人だけが、このイエスの招きに耳を傾けることができ、飲めと言った水を飲めるんです。イエス様が、「わたしの血を飲み、わたしの肉を食べなさい。」っていう事を、理解することができるんです。これは、渇ききった失望に、どん底に落とされた者のみなんです。だからあの、サマリヤの女はイエス様が見るに、一番渇いていた人間だったんです。最初にサマリヤの女の所に行き、それを招き、「水を飲め、わたしを信ずれば永遠に渇かない。」と言ったあれは、あのサマリヤの女が誰よりも、何よりも、メシヤの来る事に渇いていたんです。メシヤの到来を待ち望んでいたんです。誰よりもそれを祈っていて、誰よりも神を望んでいたんです。だから、はじめにサマリヤの女の所へイエス様が行くんです。イエス様がはじめにその水を飲ませたのは、サマリヤの女だったんです。『水』というのは、そういう特徴があるんです。
だから私達がイベントをし、クリスマスの度に友人、知人を呼ぶけれど、彼女達は義理を果たしたら、2度ともう来ないんです。そのイベントには来ても、彼女達がイエス様を信じることは決してしません。何故?渇いていないからです。私達はきめ細やかな伝道、忍耐強い伝道、しつこい伝道、あきらめない宣教活動は必要です。その繊細な人間に対する配慮なしに、私達はクリスチャンとは呼べません。隣人愛はその繊細さからくるからです。だけど、霊魂を救うというのは私の努力、私の伝道の回数、トラクトの枚数で行なわれる事ではないんです。人が救われるのは、渇いた時にその人に聖霊が注がれた時、救われるんです。私達にできる事は、その霊魂が渇く時を待つしかないんです。その霊魂が水を欲しがるのを待つしかないんです。そして、伝道した時に、教会に呼んだ時に、その霊魂が渇いていないからといって、永遠に渇かないわけでもありません。必ずそのチャンスが、必ずその渇く瞬間がくるんです。でも、きめ細やかな伝道をせず、きめ細やかに連絡を取らず、その人に熱心に祈っていなければ、その人が渇いた瞬間に、イエスの所に来るには助けが必要です。でなければ、この世の方法でまた満たそうとし、誘惑にあいます。いつ、渇くか、どんな時に渇くかは、神の主権であり、私達の知る由もないことです。だから、きめ細やかな伝道、細かい配慮、続けて連絡を取るという伝道方法が、私達には、責任と義務があります。いつ、渇くか分からないからです。いつ、それを受け入れるか、彼女がいつ、彼がいつどんな時にそれを欲するか、分からないから、私達は常にその人が渇いているかを見て、また渇くように祈り、そして必ずイエス・キリストの所へ行き、その生ける水の聖霊を受けるようにと、私達は祈り続け、きめ細やかな活動を続ける以外ないんです。自分の宣教活動の云々によって救われることはありません。全ては聖霊の働きです。
イエス様自身が語っていたって、この時、信じる者は信じたけど、信じない者は信じなかったんです。渇く者しか、イエス様が直接来て、言ったところで、渇いていない者には聞こえないんです。
重要なのは、霊魂が渇く事です。この霊魂が渇いた者だけが、今日、仮庵の終わりの日にイエス様が招いた、その招きに、本当に応えるんです。そして、そうでない者はイエスを憎みます。
そして、イエス様がおっしゃるには、
~これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。~
ヨハネはこれを1世紀頃に書いているので、ペンテコステの後に、また使徒行伝の活動の後に、これを、ヨハネの福音書を書いているので、ペンテコステで何が起きたかをヨハネは知っています。だから、ヨハネの福音書だけは、このような説明を付け加えているんです。何故?まだペンテコステの時のあの火の聖霊が下っていなかったので、イエス様はただ招いているだけで、後に来る聖霊の事をイエス様は話しておられるのだ。今、聖霊が来られたのではなく、後にその聖霊は来たのであるという説明が加えられているんです。それは、ヨハネがペンテコステの以後に、このヨハネの福音書を書いているからです。そして今、イエス様がしていることは聖霊を下しているのではなく、招いているんです。伝道しているんです。そして、後に、ご自身がなさることを今、語っているんです。「わたしの血を飲みなさい。わたしの肉を食べなさい。」と言っているんです。でも、イエス様はまだ栄光をお受けにならなかった。この時点でまだ栄光を受けてはおられない。だから、御霊が来る時が満ちていないと言っているんです。私達が聖霊を受けるのも、イエス様を信じるのも、私の意志ではなく、イエス様の意志、聖霊の意志、聖霊の働きによって、タダで飲むんです。何の代価も払いません。どんな条件も加えられていないんです。今すぐに酒を止め、タバコを止めよという条件さえない。今すぐ姦淫を止めなさい、今すぐその不正を止めなさいと言っているのではなく、今すぐ什一献金をし、今すぐ日曜礼拝に出ろと言っているのではなく、この、「イエス様を信じて聖霊を受けなさい。」は、無条件、タダで受けなさい、という招きなんです。
でも、人間側にとってタダだったからと言って、イエス様側がタダだったわけではありません。偉大なる、本当にむごたらしい犠牲の末なのです。
イエス様が全ての対価を代表して払っているんです。これは、私達はタダで飲んだかもしれないけど、イエス様はこのみ霊を送るために、栄光をお受けになるために何をしたか。その後、十字架に架けられ、あの悲惨で、平手打ちをされ、げん骨で頭を殴られ、釘で刺され、そして鞭打ちをされ、そして最後は槍で刺され、血と水を、身体の全ての血と水を注いだ後に死んで、3日目に甦り、そして40日弟子の前に現れ、そして昇天された10日後に5旬節の日、ペンテコステの日に、火の聖霊、約束したあの聖霊を注ぐんです。
私はこの箇所、ロイド・ジョンズの聖霊論を読まなければ、多分理解できなかったです。聖霊論を読んでから、この箇所が何を言っているか理解します。あの火の聖霊が下ってこなければ、キリスト教は起きなかったんです。そして、知る事なんかできなかったんです。イエス様がこの日招いても、誰もイエス様の方には来なかったんですよ。誰も理解できなかったんです。弟子達でさえ理解していないんです、この招きを。後に、ペンテコステの後にハッキリ彼らも理解するんです。あの日、イエス様が何を言ったか、聖霊降臨を語っていたのか、というのも、弟子達でさえ、後から知ったんです。この大いなる日、この仮庵の祭りの日にイエス様が立ち上がって叫んだ時には、誰もこの招きを信じなかったし、誰もこの招きの方には来なかったし、誰もこの事が分からなかったんですよ。弟子でさえ、ペンテコステの日、聖霊のバプテスマを受ける前には分からなかったんです。
信じれば私達の内に聖霊が内受します。そして神の愛は満たされます。でも、『河のように溢れて流れていく』は、通常の満たしとは全然違います。『溢れ出る』です。この溢れ出るは、火の聖霊以外に無いんです。個人の救いでは留まれないんです。これは、他人にも影響を及ぼすしかない溢れる神の力です。
エレミヤは、「もう私は語るまい。」「もう、私は誰にも何の言葉も語りたくはない。」と、言ったけれども、言葉が火のように私の肚わたで燃え盛り、私はまた語らずにはいられなくなった。と表現しているものです。黙っていられない。表にでずにいられない。人々の中で光を表すしかない。こういう状態ですよ。だから、パウロが言ったんです。私がたとえ伝道し、福音を語ったとしても、私の誇りにはなりません。これは、何ですか?「私ではない」と言っているんです。この宣教、この伝道は、私の内におられるイエス・キリスト、聖霊が溢れ流れた結果である、なんです。だから、溢れ出ると言っているんです。「わたしを信じ、わたしを飲む者は。」です。この生ける水があなたの中で留まることがなく、溢れ出て、他人も飲めるようになる、です。これが火の聖霊です。
自分一人救われ、自分一人教会に通い、自分一人、コソコソ、救われるようなものではありません。『イエス様を愛する』と『イエス様の愛が溢れる』とでは違います。私達は、この雨乞いをしなくてはならないんです。何時、どこに、神が降らすかも分からない。そして、この火の聖霊は、イエス様がどのように送って来るかも分からない。
でも、このユダヤ人達のように祭りを祝い、礼拝をし、褒め称え、賛美をし、遜り、地にひれ伏し、要求するのではなく、嘆願するんです。「私は罪深い者、私にはこの権利がない。私はこれを要求する権利など無い立場だけれども、聖霊降臨を願う。」です。何故?河のように流れるためです。どの国も救い出す、神の偉大な力なんです。そしてその代価を、イエス・キリストが十字架の上で払った、あの、偉大な御業によっているんです。私が誇り、私が自慢するようなものではない。私が働き、評価を上げ、何か成績を遂げるような事では無いんです。何人教会に連れてきて、何人伝道したなんていうようなものでもありません。
ロイド・ジョンズ先生は、聖霊のバプテスマが下るのは、神の主権によると言っています。『神の義』は何ですか?神の道。神の真理、神の道理、神の教理、神の摂理を言っています。これに、餓え渇いている者です。神の義は、神の裁きでもあり、神の特質、善です。
これに渇く者は、幸いだと福音書にあります。貧しく、悲しんでいる者だけに、この幸いは来るんではなく、義に飢え渇き、その次に、義の為に迫害されている者の上に来るんです。宣教は必ず迫害が伴うからです。
イエス様が招いた時、ユダヤ人達は餓え渇いていなかったんです。しかし彼らは、私達こそ神に選ばれた選民。私達は神に祝福され、愛された特別な人間。特別に選ばれた者。だから、あなたと私は違うと言って、人を見下して、自分だけ祝福を一人占めしようとしている律法学者達には、聞こえないんです。見えないんです。渇いていないからです。
その渇かない理由は、自分の義が大事なんです。自分の道筋、自分の働き、自分の計画、自分の感情、自分の生涯設計、神より重要なんです。決して渇きません。何一つ見えない。何一つ聞こえない。全部自分中心のものに見えてくるんです。
でも、渇いた者には、二度と渇かない溢れ出る恵みなんです。そして、イエス様が本当に犠牲を果たし、この聖霊を送ったんです。ペンテコステの日に。
ホセア書と同じ、彼らはこの神の知識を要求しなかったんです。彼らは、この神の知識を必要とはしなかったんです。そして、この知識を要求しなかった故に、神に裁かれた。捨てられたと書いてあるんです。これは何をしなかった人ですか?ゼカリヤ書に書いてある、仮庵の祭りに来なかった人、エジプトの民。異邦の民。そして神を礼拝しなかった者の上に、雨を決して2度と降らさないっていう呪いです。2度とあなたに聖霊を下さない。何故?その人が見て、聞いて、悟って、悔い改めないためだと神様が語っています。イエス様が招いた時に従わず、招いた時に聞かず、招いた時に傲慢極まりない態度の者に向かって、神様は『2度と飲むな。』、『2度とわたしのことばは聞くな。』と言われます。
イスラエルの民は40年間マナを食べたんです。只一つカナン地に入れなかったんです。ヨシュア・カレブ以外は入れませんでした。私達は死ぬ日まで教会に属し、死ぬ日まで聖霊の賜物を頂き、死ぬ日まで祈った答えが来るかもしれません。なのに、カナン地に入れないことがあるんです。再臨に上がれないんです。私達クリスチャンは、渇き、従い、褒め称え、賛美することに、最善を尽くさなくてはなりません。力を尽くし、思いを尽くし、心を砕いて、注意深く従い、2度と渇かない火の聖霊を受け、私だけではなく、全ての人が救われるのを待ち望むのです。
このイエス様が招いている時に、聞かなければならない。招いた時に、食べなければならない、飲まなければならない。それは、聖餐式にパンを食べ、葡萄ジュースを飲むような儀式ではないんです。サマリヤの女に言った、「霊と真をもって礼拝する時がくる。」は、聖霊が注がれなければ不可能です。聖霊が私の魂を導かなければ、真のイエス・キリストを礼拝することはできません。「後にあなたが聖霊を受けたら、霊と真をもって礼拝する」です。
私たちはただ、神様の栄光の為に嘆願し続け、神の栄光の為に、聖霊の注ぎを求め、神の国が、この地でも現れることを祈りましょう。アーメン
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