ヨハネ福音書7章25-36

~そこで、エルサレムのある人たちが言った。「この人は、彼らが殺そうとしている人ではないか。見なさい。この人は公然と語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。議員たちは、この人がキリストであることを、ほんとうに知ったのだろうか。けれども、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。しかし、キリストが来られるとき、それが、どこからか知っている者はだれもいないのだ。」イエスは、宮で教えておられるとき、大声をあげて言われた。「あなたがたはわたしを知っており、また、わたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わした方は真実です。あなたがたは、その方を知らないのです。わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わしたからです。」そこで人々はイエスを捕らえようとしたが、しかし、だれもイエスに手をかけた者はなかった。イエスの時が、まだ来ていなかったからである。群衆のうちの多くの者がイエスを信じて言った。「キリストが来られても、この方がしているよりも多くのしるしを行なわれるだろうか。」パリサイ人は、群衆がイエスについてこのようなことをひそひそと話しているのを耳にした。それで祭司長、パリサイ人たちは、イエスを捕らえようとして、役人たちを遣わした。そこでイエスは言われた。「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます。あなたがたはわたしを捜すが、見つからないでしょう。また、わたしがいる所に、あなたがたは来ることができません。」そこで、ユダヤ人たちは互いに言った。「私たちには、見つからないという。それならあの人はどこへ行こうとしているのか。まさかギリシャ人の中に離散している人々のところへ行って、ギリシャ人を教えるつもりではあるまい。『あなたがたはわたしを捜すが、見つからない』、また『わたしのいる所にあなたがたは来ることができない』とあの人が言ったこのことばは、どういう意味だろうか。」~


今、仮庵の祭りの真っ最中で、皆がイエス様は何者か?エリヤなのか、預言者なのか或いは偽物なのか、悪魔の使いなのか、それとも神を冒涜してるのか、神の使者なのか、という事を皆がひそひそ噂をしている時にイエス様はずーっと説教しているんです。死刑になる、捕らえられると噂では聞いていたのに、誰もイエス様を捕らえることもなく、イエス様は自由自在に説教してしまっているんです。エルサレムのど真ん中で、その時にその噂をしている民衆たちが、コソコソとまた話しはじめるんです。この人は死刑だという噂がある、この人は牢獄に入るという噂がある、この人は偽者だという噂がある。その、殺されようとしているイエスはこの人ではないのか?しかし、見てみろ、この人は堂々と語り、公然と語っていて、この祭司長・律法学者・議員たち・国会議員たち、そして兵士たちは誰も、このイエス・キリストの口を止めてはいないし、捕まえることもしていない。この人がキリストだと彼らは知ったのだろうか?と、今度こう言っているんです。何故なら説教した途端、捕まえられると思っていたからです。エルサレムの神殿に入って説教しはじめた瞬間、イエス様が殺されるっていう噂を聞いていたのに、殺されもしなきゃ、捕まえられてもいない。という事は、議員たちやパリサイ人、律法学者達が、メシヤ・救い主、神の御子と認めたのだろうか、という話をしているところです。

でも、ヘブライ語の原本は、知ったのだろうか?で終わっていないんです。『いや、知っているはずがない。』という否定文で終わっています。日本語では知ったのだろうか?と曖昧な言葉で終わっているけれども、本文は、『いや、知るはずがない。』というニュアンスで語っているんです。何故知るはずがない、と言っているのかというと、


~けれども、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。しかし、キリストが来られるとき、それが、どこからか知っている者はだれもいないのだ。」~


ユダヤ人の中で、メシヤ・救い主が来ることは知って信じていたんです。預言も読んでいた。だから、イエス様が来ることは噂でも知っていたし、聖書でも知っていた。だから、来ることは疑っていません。でも、そのメシヤは突然現れるんですよ。この地上に、或いは天国に、或いはどこかに、はじめから神と共におられたけれども、突然人の前に現れ、突然奇跡を行い、モーセやエリヤやエリシャ達にやったような、それ以上の奇跡を行うのがメシヤだと考えていました。だから、イエス・キリストの出身地はガリラヤで、お父さんはヨセフでお母さんはマリアで、大工の息子で、そして彼はどこから来たか、誰も彼もが知っている。彼の兄弟たちまで知っている。だから、彼がメシヤのはずはない、という判断をしていくんです。メシヤならこんな日常を送るはずがない。メシヤなら、ましてや大工の仕事をするはずがない。メシヤなら、こんなご飯を食べたり、人前で何か日常の生活を送るはずがない。という彼らの判断で、メシヤのはずがない。メシヤであるはずがない。何故なら彼はガリラヤ出身ではないのか。と言っているんです。

でも、何故それをまた言うかというと、クリスマスの日に東方の博士たちが、ヘロデ王にこう言うんです。「イスラエルの王様が生まれました。あの王様は今、どこに居ますか?」と聞いた時に、ミカ書に書いてあるイスラエルの王はベツレヘムから生まれます。ダビデの町ベツレヘム以外からは預言者は生まれません、というミカ書の預言を信じているユダヤ人達は、まさか、メシヤがガリラヤ出身の筈はない。だから、メシヤである筈はないし、神である筈もないし、神がこんな日常を送るはずなどあるはずがないけど、それ以上に、ガリラヤ出身の筈はない。という判断なので、彼らはイエス・キリストを神と認めたのか、否そんな筈はない。と群衆は今言っているんです。しかし、イエス様はその声を聞いています。そこで、説教中にイエス様は突然大声を上げて、言われるんですよ。


~大声をあげて言われた。「あなたがたはわたしを知っており、また、わたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。~


と続くんですけど、ここでイエス様は、「あなたがたは私を知っており、また、わたしがどこから来たかも知っています。」と書いてあるけれども、ヘブライ語の原本はこうじゃないんですよ。「あなたがたは、わたしを知っているのか?そんな筈はない。」なんです。

しかも、こうです。ジャン・カルヴァンはここをどうやって翻訳するかと言うと、『イエス・キリストは「あなたがたは私を知っていると思うのか。」の次、鼻で嘲笑う。』まで表現するんです。そのくらいイエス様が、お前たちが私を知るはずがないじゃないか、という表現をしてしまうんです、翻訳するときに。日本語では、こんな風に綺麗に訳されているけれども、本当の原本はここ、否定文なんですよ。「あなたがたは、わたしを知っていると言うのか。」っていうのは、イエス様が今反論したのは、私はガリラヤ出身ではなく、ヨセフとマリアが登録した時に、馬小屋で生まれた場所はベツレヘムでしたよ。だからイエス様は本当はベツレヘムで生まれているから、ガリラヤ出身ではないんですよ。もちろん、ガリラヤで育ったのは確かです。でも、出身はベツレヘムです。しかし、イエス様がここで言っているのは、わたしはガリラヤ出身ではなく、ベツレヘム出身だと言っているのではないんです。そんな受け答えをイエス様していないんです。次読んだら分かります。


~しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わした方は真実です。あなたがたは、その方を知らないのです。~


ガリラヤとかベツレヘムだとかの言い訳をイエス様がしたいわけではないんです。わたしはどこ出身?大工の倅のように見えても、本当は聖霊で生まれた。処女マリアから生まれた。という説明はしませんでした。イエス様はそんな事を言うつもりは、ひとつもないんです。イエス様がここで言ったのは、嘲笑っているとの表現は近いんです。あなたがたは、わたしを知っていると言うのか?笑ってしまうよ。そんな筈がないでしょう?何故?わたしは、あなたがたの知らない神から、遣わされてきた・・・。天国から来たって説明しているからです。

ガリラヤでもなく、ベツレヘムでもなく、わたしは天から下って来たから、あなたがたがそれを知っている筈はない。そして、29節


~わたしはその方を知っています。~


わたしは神を知っている。何故なら、わたしは神から出てきた。神がわたしを遣わしたのだ。と、今反論しているんです。ガリラヤ出身だの、ベツレヘム出身だの、私の親の名前がこうだ、ああだって言ってはいないんですよ。イエス様は、「わたしは天国から遣わされているのに、あなたがたは天国も知らないし、その場所も知らないし、神も知っている筈がない。あなたの知らない神から遣わされているから、あなたがたが、わたしを知る筈はない。」って言ったんですよ。でもこれは、ユダヤ人にとっては、プライドをけちょんけちょんにされることなんです。

何故?神から選ばれた選民意識の強いユダヤ人達。ましてやここで、それを論争しているのは、ユダヤ人の中でもエルサレム出身ですよ。異邦人でもなく、移民でもなく、海外に散ったユダヤ人が言っているのでもなく、今これを言っているのは、エルサレムの城壁の中の、ダビデの子孫と誇る、神に選ばれたユダヤ人の中のユダヤ人。血統の中の血統。血を受け継いだ選ばれた民というプライドをもってイエスの説教を聞いているのに、あなたがたは、神を知らないって言われちゃうんですよ。ユダヤ人にとって、これ、怒り以外の何ものでもないんです。

何故?神を知っているのは私しかいない、という自負心があるのに、イエス様が、「あなたがたが、神を知る筈がないではないか。」という反論をしてしまうんです。そしてその時にどれだけ怒りますか、この人達は。ほんっとにイエスを殺そうとして、捕らえようとして、その後大変ですよ。ひがみと妬みと嫉妬で。イエス様はここで、ベツレヘム出身だとかガリラヤ出身だとか何も言ってないんです。「あなたがたは絶対わたしを知らない。私がどこから来て、どこへ行くのか。今、何をしているのか。知る筈はない。」

何故?あなたがたは、はじめから神など知ってはいない。これ、クリスチャンに言ってるんですよ。

私たちは教会に通っています。什一献金しています。日曜日度に礼拝しています。その上に祈り会だ、何だ。そして、人にイエスを伝えてもいますよ。でも、イエス様はこのクリスチャン達に何を言うんですか?「あなたがたは、はじめから私を知ってもいない。」って言うんです。「聖書を読んでもわたしを見つけることはできない。」です。


~そこで人々はイエスを捕らえようとしたが、しかし、だれもイエスに手をかけた者はなかった。イエスの時が、まだ来ていなかったからである。~


イエス様が十字架に架かる時間はまだきていません。イエス様は十字架に架かる時間に集中して、ここに焦点合わせて行動をとっているから、ここで、イエス様が捕まらないことは、イエス様の計画のうちです。だから、誰かが殺そうといくら思っても、屈強なローマ兵士がイエス様を捕らえようとしてもできません。神が、まだって言えば、まだなんです。だから、イエスの時がまだ来ていないから、どんな人間も、どんなに殺したくても、どんなに捕まえたくても、どんなに妬んで怒っていても、イエスの時が来るまで誰もイエスを捕まえることはできないんです。


~群衆のうちの多くの者がイエスを信じて言った。「キリストが来られても、この方がしているよりも多くのしるしを行なわれるだろうか。」~


でも、ある一部分のユダヤ人達は、この方はメシヤに違いない。救い主に違いない。

こんな奇跡を行う人は、今までのどのユダヤ人の中からも出なかった。ある人達はこのキリストを認めるんです。ある人達は、これを本当にキリストと認めてはいるんです。


~パリサイ人は、群衆がイエスについてこのようなことをひそひそと話しているのを耳にした。それで祭司長、パリサイ人たちは、イエスを捕らえようとして、役人たちを遣わした~


とうとう兵隊まで出すんです。とうとう騎兵隊を出し、軍隊を出していくんです。イエスを捕まえようとして。


~そこでイエスは言われた。「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます。あなたがたはわたしを捜すが、見つからないでしょう。また、わたしがいる所に、あなたがたは来ることができません。」~


イエス様はこう言うんです。「まだ福音はユダヤ人に述べ伝えられる時間が残っている。でも、ある時からはあなたがたはわたしの所へ来ることができない。」これが何の意味だかわかりますか?ある時間がきたら、あなたがたは罪によって死ぬでしょう。あなたがたは、その時間になれば裁かれるでしょう。あなたがたは、決して天国をみることも、神をみることもできない。その罪によって、あなたがたは裁かれるでしょう。と、警告を与えておられるんです。まだユダヤ人に福音は伝えられています。まだユダヤ人の時は来ています。でも、時がきた瞬間に、あなたがたは必ず罪に定められる。と、反論しているんです。この、「あなたがたは決して私の所に来ることができない。」と、聞いた瞬間、


~そこで、ユダヤ人たちは互いに言った。「私たちには、見つからないという。それならあの人はどこへ行こうとしているのか。まさかギリシヤ人の中に離散している人々のところへ行って、ギリシヤ人を教えるつもりではあるまい。『あなたがたはわたしを捜すが、見つからない』、また『わたしのいる所にあなたがたは来ることができない』とあの人が言ったこのことばは、どういう意味だろうか。」~


ユダヤ人達は所詮イエスが何を言っているのか分からないんです。これは何ですか?神を知らない証拠なんです。神がどこから来て、どこへ行くのか。知らないっていうことを自ら暴露してしまったんです。そしてイエス様は、その時になったら、あなたがたは決して私を見つけることも、見ることも、入ってくることもわたしの行く場所に行くことも絶対にできない。と言っています。そして、彼らはこういうんです。「あの人はこれからギリシャ人の中に行くのか。」

地中海沿岸に住んでいる、ローマ、小アジア、今でいうトルコそしてエジプト、その地方に散っているユダヤ人達が居ます。そこに行って、その散っていた移民のユダヤ人、Diasporaにイエスは伝えようとしているのか。或いはギリシャ人、異邦人の中に行こうとしているのか。と、彼らは、『行けない』って言われた瞬間、天国ではなく、そっちの方向に行ってしまうんですよ。何故それを言うかというと、本当の預言者は、まずユダヤ人に認められる。

ユダヤ人に認められない、へぼな偽預言者は異邦人に行くしかないっていう判断なんです。そしてイエスは、生粋の、血統の正しいユダヤ人の中のユダヤ人、エルサレムに住み、どこにも移民に出かけなかったダビデの町に住んでいるユダヤ人に、受け入れられない福音は、異邦人に行くしかない。そしてユダヤ人が異邦人に行くことは、汚れたことで、罪人が異邦人に行く事だっていう判断をしているんです。だから、我々に受け入れられなかったイエスは移民、或いは外国人に伝えるしかないだろう。という見下した言い方なんです。でも、恐ろしい事にこれは預言になってしまうんです。

パウロははじめ、ユダヤ人に伝えようと努力したんです。はじめユダヤ人にイエス・キリストを伝えたんです。はじめユダヤ人を救おうと必死だったんです。でも、どの教会も、どの神殿も、どのユダヤ人も受け入れなかったんです。そして足の塵を落として何て言ったんですか?「私は異邦人の所へ行こう。」ユダヤ人を頑なにし、異邦人に福音を伝えたのは、聖霊様でした。でも、既に彼ら自ら預言をしてしまったんです。イエスは我々のところではなく、異邦人に行く。という預言をしてしまっているんです。自ら罪に裁かれ、自ら天国に入れず、自らイエスを拒絶したことを暴露してしまっているんです。これが今、イエス様とユダヤ人との論争なんです。メシヤっていう、この忽然と現れて忽然と人の前に公然と現れる、その前は隠れている。というメシヤ論は・・・いわゆる神と言うのは、モーセとかエリヤとかエリシャに見せたあの奇跡、大いなる超自然的な超越的な偉大な力を持って人間に現れることもあるけれど、聖霊が内受しているように、生活の中に隠れているイエスだって存在しているんですよ。

そしてこのメシヤを本気で待ち望んでいるものなら、生活の中でメシヤを探せるんです。大工の息子であれ、ヨセフの息子であれ、誰やどこの出身であれ、ほんっとにメシヤを望んでいる者なら聞き分けることができ、その生活の中でイエス・キリストを見分けることができる。これが本当のメシヤの姿なんです。兄弟姉妹と教会の中では言いますよ。この兄弟姉妹と言われる所以というものは、この兄弟や姉妹の後ろにイエスがいて、その彼らの姿の中にイエスが居て、民衆の中にイエスがいて、捨てられた人の中にイエスが居て、見下された者の中にイエスが居て、私たちはだから、その兄弟姉妹に仕えよう。というのが、兄弟姉妹と言われている所以なんです。これが、メシヤを探すという事ですよ。

これが生活の中でイエス・キリストを探すという事です。私たちの日常、私たちの平凡なつまらない毎日、会社や家や電車の中、バスの中、道端でイエスを探すことができるっていうことですよ。そしてそれが本当のメシヤとの出会いなんです。突然的に癌が癒され、突然的に奇跡が行われ、自分の祈った祈りが全部聞かれ、生活が守られ、全てが守られた時、大いなる奇跡をおこすだけが神ではないんです。そんな事が起こらない、何も見えない、何も聞こえない、そんな平凡な毎日の生活やその現場で神は働いているんですよ。人間の中で、或いは人間の世界の中で。それが、本当にメシヤを待ち望む者の、キリスト者の姿なんです。この謙遜さが必要だったんです。

なのにユダヤ人はこの謙遜さがなかったんですよ。何故?モーセの書物を読み、アブラハムを読み、ダビデを読み、エリヤ、エリシャを読むと、ユダヤ人に現れる神はすごい力を持って現れる。そしてそんな力があり、異邦人の神々には真似もできない、偉大なるこの創造の力の神は、ユダヤ人だけを選んだ。っていう感覚があるんですよ。だから私たちにメシヤが現れるなら、当然、モーセやダビデやエリヤやエリシャ達に現われた、あの神の姿で来るはずだ。何故?選ばれたから。こんな平凡な日常の中で、『神だ』なんて、現す筈がない、それがユダヤ人のメシヤ論なんです。とすると、イエス様がこう言うんです。「あなたが、わたしを知る筈がない。」わたしは民衆の中に紛れているし、人々の中に存在している。これがメシヤ、これが神なのに、あなたがたがそんなものを見ることが出来る筈がない。何故?あなたがたは本当に他の異邦人と変わりない罪人だったのに、異邦人と同じように滅びる民だったのに、ただ偉大なる神が恵みによって選んでくれただけなのに、その事を忘れてしまい、『特別』『特殊』、神に突然自分だけ特別に扱われた、そういうクリスチャンだから、神が私には特別に働くに違いない。その神以外は認めない、その神以外は知らない、と言っている、このクリスチャンたちの態度です。

ジャン・カルヴァンはこう言ったんですよ。「私たち人間が神を知るのは、イエス・キリストに因らずしては神は知れない。」もし、イエス・キリストを通らず、それを通さず、神を知った、知ったというのは、偶像の神だ。という事は、人がほとんど偶像の神を拝んでいることになります。自分勝手に作り上げ、自分に都合のいい、奇跡を起こし、力をくれる神が私の神。このユダヤ人と同じ感覚がクリスチャンなんです。だから、日常の中の兄弟姉妹を無視し、日常の中の兄弟姉妹の中にイエスがいるなど、感じることもなく、日常の中に隠れているイエス様なんか、完全な無視をするんです。そして人を裁き、人を救わず、自分だけに働く神を、ただ一生涯口を開けて待っているんですよ。でも、一生涯出会う事はないんです。それでは天国に入れないし、一生涯イエスを見つけることはできない。一生涯、という以前に、神の時が来た時に、突然裁かれるんです。突然捨てられるんです。突然切られるんです。

限りなくチャンスを与える神ではないんです。神の時、までです。福音が伝えられ、わたしたちが神の恵み、赦しを受けられる期間は、主の時が来るまでです。それ以降は裁かれていくんです。

だけど、ユダヤ人同様クリスチャンたちはずーっと待つんです。奇跡を起こしてくれる神、私を特別扱いしてくれる神、私の願いを聞き入れてくれた神、私を人より高くしてくれる神、人より力をくれる神を待っているんです。そして日常で働く神は完全に無視をしていくんです。でも、時が来る時までです。

パウロがアテネで死人の復活の話をした時に、アテネの人たちは、こう言うんです。「その話はまた後で。」「後にその話を聞こう」と言ってイエス・キリストを受け入れる人がアテネでは少なかったんです。後で。もう少ししたら。明日からは頑張るって言っている間に、本当に次かあるでしょうか。後で、いつかはっていう間に、神の時が終わっているんです。この警告はとても厳しい警告なんです。私たちが想像以上に恐れ、緊張していないと、神の恵みは通り過ぎていくんです。

ユダヤ人がそうだったんです。神の恵みはある時期までだったんです。だけど、神が、神自ら、ユダヤ人の心を頑なにし、見えないように、聞こえないように、、悟らないようにしたんです。何故?彼らが悔い改めて神に立ち返らないためだ。と、聖書にあります。

神は時がきたら、その人を悔い改めさせることも、許さないけれども、もっと恐れるのは、エサウはスープ1杯で長子の権利をヤコブに売ってしまいました。そのエサウは後で後悔するんですよ。「あぁ~スープ一杯でこんな祝福を私は逃したのか。」と泣きながら、どんなに歯ぎしりしながら、神様にもう1度嘆願したのでしょうか。「どうか、取り戻してください、私こそ長男ですから。私こそ神に選ばれたものですから。どうぞ、取り戻してください。私に長子の権利を。」と願って言ったとき、その父であるヤコブはエサウを愛していたけど、こう言うんです。「無駄です。もう祝福は弟のヤコブの方にいきました。あなたがどんなに泣いても、地団駄踏んでも、歯ぎしりしても、悔しがっても、悲しがっても、二度とあなたには戻らない。」と。これが、今日の警告です。二度とです。二度と戻らないんです。

神の全能なる力を侮ったユダヤ人は、2千年、福音が入らないんですよ。初めにユダヤ人に福音が伝えられたのに、初めにイエス・キリストが来たのは、エルサレムだったのに、初めに聞いたユダヤ人が、これは神ではないって言った瞬間に、2千年もユダヤ人には福音が戻ってこないんですよ。どんなにナチスのヒットラーに殺されようが、世界中からユダヤ人が迫害されていようが、選民だろうと、力があろうと、今もユダヤ人が世界を支配していても、福音はユダヤ人に戻らないんですよ。2千年もです。これが、『神の時』なんです。

でも、神は云いました。後にまたユダヤ人にチャンスがくる、です。そして今がその時です。福音はもう1回ユダヤ人に戻るんです。そして福音はもう一度ユダヤ人の中に入るんです。これが神の計画です。神は、選んだ民をもう1回憐れむんですよ。一人も地獄へ行くことを望まないからです。

ユダヤ人に伝えられたイエスが、異邦人に伝えられて、私たち異邦人、外国人が救われたんです。今、キリスト教はユダヤ人ではなく、全世界で広がったんです。でも、ユダヤ人に福音が戻った時、今度捨てられるのは、主に従わない頑なな異邦人の方です。その時ユダヤ人が捨てられたように。どんなに泣いて喚いても、もうイエス様はこの悔い改めを聞かないんですよ。そして、日本にはまだ恵みが残っていて、日本にはクリスチャンが少ないから、今、神様がこの日本にリバイバルを起こすけれども、それが終わったら、これはユダヤ人に戻ってしまうんです。あっという間です。

私たちはこの時に、神と出会っていなきゃいけない上に、隣人も、今急いで、イエスを知るようにしなきゃいけないんです。このチャンスは、もう時間がないんです。そして、この世自体に、時間がないんです。そして、あなたがたクリスチャンが教会に通い、什一献金をし、祈り会に出て、聖書を読み、ロイド・ジョンズの本を読んだところで、イエスと出会えませんよ。そんな事でイエスと出会うんじゃないんです。日常の、本当に平凡な毎日の中で、イエスは隠れているんです。教会の中だけにイエスが居るわけじゃないんです。教会を通して神は栄光を現されますが、あなたがた1人1人が教会ではないんです。神の領域だけが教会です。それは、建物の中になんか納められないんです。自惚れている間に、このチャンスを逃し、「あぁー私はイエスを信じて、教会通ったから天国に行く」なんて、踏ん反り返って、胡坐をかいていてはいけないんです。まず、神の家から裁きが始まると、ペテロが語っています。ノンクリスチャンの方に恵みがいくんです。わたしたちクリスチャンはその高慢と、神に対する本当に失礼な、その態度、そして隣人を愛さない、隣人のためには何もしない、自分の事しか考えない、このような態度を急いで改めなくてはならないのです。今日、隣人の中に、社会の中に、会社の中にいるイエスを探すしかないんです。そして、それを礼拝するっていうのは、隣人に仕えた時、隣人にイエスを伝えた時、私たちは初めて神の国の住民のしるしとなります。

わたしたちが、宗教人になりさがった瞬間、当時のユダヤ人と同じです。神の前で、謙遜にへりくだって畏れる者こそキリスト者と呼ばれます。アーメン。

Jesus Christ Glory Church

イエスは言われた。 「わたしは、よみがえりです。いのちです。 わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者は、 決して死ぬことがありません。 このことを信じますか。」 ヨハネ11章25,26節

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