ヨハネ福音書6章16-21
~「夕方になって弟子たちは湖畔に降りて行った。そして、舟に乗り込み、カペナウムのほうへ湖を渡っていた。すでに暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。湖は吹きまくる強風に荒れ始めた。こうして、四、五キロメートルほどこぎ出したころ、彼らは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、恐れた。しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。舟はほどなく目的の地に着いた。」 ~
この前の、6章の5千人のパンを養うという奇蹟の後に、イエス様を王と迎えて、もう一度この奇蹟を体験しようと、イエス様の所に行って我々の王になってくれ、あるいはモーセのような預言者になってくれと、皆がイエス様をかつあげようとしたときに、このことが、イエス様の御心に全くかなっていないので、山に退かれて、弟子たちだけが、先にカペナウムの方へ舟をこぎだして行く場面です。 イエス様は聖餐式をされようとする意図で、5千人にパンを養われたのであって、彼らは自分の肉欲の満足のためだけに、空腹を満たすためだけに、イエス様についてまわっているという、ここで、イエス様と民衆の一致が全くないのがみられます。そしてイエス様もそれが嫌で、離れて退いているところです。 さらに弟子たちもまだ理解せず、今自分達だけで、カペナウムに船を漕ぎ出しています。イエス様はイスラエルの王にされそうになり、またパンをくれと言われるという無理解もそうですけれども、イエス様が山にこもられて皆と離れた理由は、モーセのような一人間の預言者とされたことです。モーセが荒野で祈ると天からマナが降ってきて、40年間イスラエルの民をマナで養うことによって、彼らは飢えなかった。だからもう一度このマナを降らせてくれ、と民衆は頼んでいるのです。あなたがモーセのような一人の預言者であるならば、もう一度マナを降らせてくれ、と言っているんです。でもイエス様は、モーセと同等であることがはっきり言って気に入らないのです。私のパンはそんな食べて死ぬようなものではない、私のパンは命のパンである、天から下ってきたパンであり、命を与えるものである、という他にもう一つ、モーセのような預言者ではない、という区別を突き付けたい。モーセに天からのマナを降らせたのは私だ、そしてモーセは出エジプトで紅海を割って、海を渡って行きますが、この奇蹟を行ったのも私であるのに、この奇蹟を行った神を見ず、モーセのような預言者のひとりみたいな扱いをされたイエス様が、彼らから離れて独り退かれているのです。
なぜイエス様が水の上を歩かれたか?私はモーセより先に生まれているし、モーセの上を行くものだと、強調したいのです。そして今弟子たちは4、5km漕ぎ出したところです。暴風がすごいんです。このガリラヤ湖というのは、幅が11kmで、横が20kmという楕円型の湖ですが、一番短いところを行くにしても、11kmだとすると、まだ半分くらいしか来ていないのです。でも昼ごろ出発し、夜中ということは、4、5km行くのにも相当の時間がかかっているということです。では、この人たちはアマチュアかといえばそうではなく、プロです。ペテロとアンデレ、そしてヤコブとヨハネは漁師です。ボート漕ぎの名人です。そして風を読み、水を読むことには慣れ親しんでいる、船乗りとしてはプロ中のプロです。そのプロが暴風で前に進めず、もう夜中になったのに、たった4、5kmしか進めないということは、どれだけの暴風でしょう。その暴風の中、退いて祈っていたイエス様が、水の上を歩いてきちゃうのです。これは他の福音書、マルコやマタイなどでは奇蹟的なこととして強調しています。水の上を歩かれて、通り過ぎようとするイエス様に、ちょっと待ってくださいと言っているし、他では私にも歩かせてくださいと、ペテロが水の上を歩く奇跡を強調しています。 でもヨハネでは奇跡の強調ではないのです。ヨハネが言いたいのは、水の上を歩いてきた、イエス様の奇跡の話ではないのです。イエス様がモーセの上におられる方、モーセより先におられた方を強調したいんです。そしてイエス様が、歩いてこられると皆が幽霊だと思って、ものすごく恐れ怖がっています。その怖がっている間に、イエス様は水の上を歩いてこられて、皆がわーっとわめくから、『わたしだ。』とイエス様が言っているのです。ここの部分は、他の福音書、マルコやマタイでは、波が静まった時にやはりこの人は神である、キリストであると表現しているのに、ヨハネの福音書では、弟子たちのこの表現がないのです。弟子たちの方ではなくイエス様の方で、ご自身をアピールしているのです。他の福音書では弟子たちのほうで、やっぱり神だったのか的なことを言っているのに、ヨハネの福音書だけは逆なんです。イエス様のほうが、『わたしだ。』的なアピールをしてるんです。なぜ?モーセのような人間の一人ではない、私がモーセを海の中に歩かせた者だ、とヨハネは強調したいのです。 マタイ書とマルコ書は、AD40~50年に書かれていますが、ヨハネの福音書は、AD100年くらいに書かれている。ヨハネの晩年に書かれたものです。パトモス島を出た後に、書かれた本。ヨハネの場合は、子羊イエスキリストがなぜ地上に来られて、天から下って来たのか、よく理解した上で、この福音書を書いているからです。だから奇蹟的なことは、ヨハネにとっては重要ではなく、ここでイエス様がなにを言いたいかが重要なんです。海の上を歩いている時に、皆が怖がっている時に、神様だと驚くのではなく、『わたしだ。』というイエス様のアピールが先に来ているのです。なぜ?『わたしだ。』恐れることはない。というわたしは、エゴエイミーです。エゴはエゴイストです。エゴイストそのものだというんです。だから私は他の誰でもない、モーセでもない、エリヤやエリシャのような預言者の一人ではない、エゴイスト的な私は他に存在していない、唯一無二の、この私だ。というエゴを表したあとに、エイミーは、「~という者である、」です。だから、わたしはありてある者である。ここで言っているのは、『I AM』イエスだと言う自己紹介的なものではないのです。わたしはありてある者。これは表現しているのです。ギリシャ語で、エゴエイミーと表現しているのです。では、このエゴエイミーはどこで表現されているかというと、
出エジプト記3章14
~「神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたし、あるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。~
ここで、わたしは、『ある』という者である、というのは、ギリシャ語聖書ではエゴエイミーと表現されているのです。だから、わたしは自ら存在している者、という意味なんです。あの湖の上で言った、『わたしだ。』は、ここの『わたしだ。』なんです。では、この時モーセと神がどういう会話がなされたかというと、芝の上で神が直接モーセに現れて、パロの所へ行きなさい、と言った時に、モーセが、神の名前が分からなくては、私は民に伝えることはできません。名前は何ですかとたずねると、エゴエイミー、わたしはありてある者、自ら存在している者、この時の私を、ヨハネの福音書では表現しているのです。そしてその前にこう言っているんです。私は下りてきた者。天から下りてきた者。これをヘブライ語では、ヤハウエと言います。このヤハウエは、日本語では主です。神はエロヒム。でもこのヤハウエは、エロヒムではないのです。ここで言っているのは、贖い主を言っているんです。アブラハム、ヤコブ、イサクに現れた、エロヒムの神ではないんです。天から下ってきた神。贖うために来た神。何を贖うんですか?今、エジプトで奴隷として苦しんでいる、400年も奴隷として苦しんだ、イスラエルの民を贖おうとしているんです。これからカナン地に導こうとしているんです。そのために特別に下りてきて、神の片鱗をみせるものは、このヤハウエなんです。 このヤハウェは主なんです。そして、この『わたしだ。』在りて在るもの、私はヤハウェだという言葉なんです。原文のギリシャ語で、聖書を読めば、そういう表現が区別されているんです。神と主は区別されているし、『わたしだ。』と言うときも、区別されているんです。日本語で読むと全てわたしだ、だし、全て神だとなっているから、区別がつかないけれど、ユダヤ人は、ヘブライ語で区別して理解しているんです。だからヘブライ人にとって、旧約の神はヤハウエ、主と呼ぶんです。贖いだす者です。どこから?エジプトから。それを祀っているのが、過ぎ越しの祭りです。彼らはよく知っているんです。贖いだす神。これがヤハウェであること。下りてくる神です。その方は、私たちを救ってくれる神です。その方は、自ら存在している。在りて在るもの。これが何ですか?『わたしだ。』なんです。この、『わたしだ。』にどれほど大きな意味があるかは、ユダヤ人だけはよく理解しているんです。ユダヤ人は神が、『わたしだ。』というとき深く理解します。私たち日本語では、これをよく区別して理解できないけれども、ヘブライ語は完全な区別をしているんです。そして、『わたしだ。』自ら存在している、ヤハウエである。それは三位一体のひとりである。ここも区別しているんです。下りて来た者。神から下りて来た、複数なんです。三位一体の神を、もうすでにモーセの時に表しているんです。これが、キリスト教福音の基本です。三位一体の、下りて来た神、キリスト。そして十字架で救い出すイエス。これを区別して、イエス様はこの時から、『わたしだ。』とヘブライ人に語って、海の上で、『わたしだ。』と言ったんです。下りて来た者。贖いだすために来た者。わたしはヤハウェだと言っているんです。ただ神とか言っているのではないのです。これで私たちは神の位格を見、特別な時だけ下りてくる、特別な時だけ契約してくる神、人間に特別な、大きな行事を起こすときだけに下りてくる、天にずっといる神ではなく、下りてくる神を言っているんです。下りてくる神は、今湖の上で弟子たちに言っているんです。私はヤハウェだ。だからヨハネの福音書はここをすごく強調しているんです。そしてイザヤも強調しています。
イザヤ43章25
~「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」~
ここも、ギリシャ語でエゴエイミー、エゴエイミーと繰り返すんです。ヘブライ語ではこういう意味です。わたしこそエゴイスト、わたし自身があなたの咎を消す者。ヘブライ語ではこうなんです。わたしの名誉のために、わたしの栄光のために、わたしの名のために、わたしの力のゆえに、わたしはあなたの咎を消す者です。このイザヤが、『わたしだ。』を表現するとき、エゴエイミー、エゴエイミーと言っているんです。完全なるわたし以外、誰も存在しない『わたしだ。』たったひとり自ら存在しているわたし。他の誰とも比べることができない、同等の者がだれも存在しないわたし。そしてその者だけが罪を贖い、罪を消す者。これは天から下ってきた、ヤハウェと表現をしているんです。神なる主を表現して、主なんです。これがヘブライ人にとって、普通に区別をしている、神の偉大なる名前なんです。どれだけヤハウェが、『わたしだ。』という名前が偉大で、人間にとって恵みなのか、です。ヨハネは今それを言おうとしているんです。他のマタイやマルコには理解できなかった、ただの奇蹟だけだったかもしれないけれど、ヨハネにとっては、イエスキリストが、天から下りて来た、ユダヤ人が待望していた、主なんだと、ヨハネの福音書はこれを強調しているんです。このヤハウェ、罪を贖う、天から下ってきた、他には全く存在していない神。これをイエス様が弟子に言っているんです。理解せず、5千人を食べさせたあの奇蹟しか思わず、自分のことしか考えていない、神を信じない無理解な、ピリポもアンデレも、そしてこんなに無理解な弟子の前に、イエス様が歩いてこられました。わたしはあなたが思っているような、モーセではないし、あなたが願っている、エリヤでもない。彼らを遣わした、彼らを動かした、彼らを海の底を歩かせた、その『わたしだ。』を言いたいんです。人間の一人じゃないと言いたいんです。旧約から、その前から存在しているこの、『わたしだ。』ヨハネの福音書の1章はなんですか?イエスは、はじめからいたことを強調しているではないですか?ヨハネはそれを強調したいんです。イエスははじめからいた、です。これを、どれだけヨハネが訴えたかったのか?どれだけ、何のためにイエスが来たかを訴えて、どれだけ、これが神の秘密かを訴えたいのか。これは全世界の罪を贖うための、キリスト教の福音中の福音、教理中の教理、真理中の真理なんです。神の秘密なんです。この名前が力で、この名前が、私たちが生きる全ての希望なんです。人を救うために下りてくる、神の名前なんです。特別な名前なんです。ユダヤ人にとってこのヤハウエは、すごい特別な名前なんです。私たちには区別がない名前かも知れないけど。 そしてこの名前はもう一つ、ヨハネの福音書に出てきます。
ヨハネの福音書18章1-6
~「イエスはこれらのことを話終えられると、弟子たちとともに、ケデロンの川筋の向こう側に出て行かれた。そこに園があって、イエスは弟子たちといっしょに、そこにはいられた。ところで、イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた。イエスがたびたび弟子たちとそこで会合されたからである。そこで、ユダは一隊の兵士と、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たちを引き連れて、ともしびとたいまつと武器を持って、そこに来た。イエスは自分の身に起ころうとするすべてのことを知っておられたので、出て来て、「だれを捜すのか。」と彼らに言われた。彼らは、「ナザレ人イエスを。」と答えた。イエスは彼らに「それはわたしです。」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らといっしょに立っていた。イエスが彼らに、「それはわたしです。」と言われたとき、彼らはあとずさりし、そして地に倒れた。~
ここでもイエス様を捕えに来た、祭司長、ローマ兵士、裏切った弟子のユダが集まって来たんです。イエス様は、誰を捜しに来たのかと聞き、ナザレ人イエスをと答えた時、それは、『わたしだ。』これもエゴエイミーなんです。あなたが探している犯人の、イエスだといっているんではないんです。ここでもまた、言っているんです。天から下りて来た者。罪を贖う者。特別に契約するために、下りて来た者。自ら存在している、ありてある者、『わたしだ。』これを言った瞬間、人間達はどうなったんですか?全員倒れるんです。神の名前に、どれだけの力があるから、イエス様が、『わたしだ。』と言った時、全員が気絶して倒れ、息さえたえだえになったんでしょう。どれだけの力なんですか?イエス様が、『わたしだ。』と言った瞬間、みんな倒れるんです。ただの、『I AM』と言っただけではないからです。何て言っているんですか?わたしはヤハウェだ、救い主だ、わたしは救うために来た、わたしはあなたと契約するために来た、ありてある者、ここで、『わたしだ。』と言っているんです。湖の上で言ったエゴエイミー、ここで言っているエゴエイミー、イザヤ書で言っているエゴエイミー、モーセに語られて、在りて在るものエゴエイミー。ここで区別しているんです。人間とは違う、他の預言書とも違う、他の神々とも違う、このわたし。唯一自ら存在し、永遠の存在、創造主、全知全能の神が、下りて来たと言っているんです。これが聖餐式であり、キリスト教の福音なんです。偉大なる神の秘密、神の力なんです。このわたしだ。エゴエイミー、ヤハウェがボートに付いた瞬間、どうなりましたか?波がピタっと止まって、すでに11kmの幅を、4、5km来たけれども、あとの4、5kmは、たったの数分で行ってしまったんです。望む港に。ヤハウェを乗せた瞬間です。これは詩篇に書かれています。
詩篇107編29-30
~「主があらしを静めると、波はないだ。波がないだので彼らは喜んだ。そして主は、彼らをその望む港に導かれた。」~
この主は、エゴエイミーです。ヤハウェがあなたを望む港へ連れて行く、です。そうすると波がないだんです。どんな問題も、どんな苦しみも、どんな悲しみも、どんな状況も、ヤハウェが共にいると、それはもう問題ではなくなるんです。「私は」、この神の強烈な名前、イエス様が説教している時に、パリサイ人たちが、あなたはモーセよりそんなに若いのに、モーセより先に生まれたのですか?と言って、モーセより先に生まれた、と彼らに答えたら皆が、イエスを殺そうとします。石打で殺そうとした時、イエス様が、神を冒涜した罪で、ユダヤ人は頭にきているんです。その時もエゴエイミーなんです。もしイエス様がエゴエイミーと言わなかったら、殺されることはなかったんです。預言者のひとりだと言ったら、イエス様は殺されなかったんです。ユダヤ人にとって、ヤハウェは特別な名前なんです。その特別な名前を、イエス様が、『わたしだ。』と言ったから、ユダヤ人が石を手にしたんです。神を冒涜した罪で。この、『わたしだ。』にどれだけの力があるかです。ユダヤ人にとって、それを言う者は神ひとり、それを人間が言うことを許さないんです。ユダヤ人にとって、このヤハウェというのは、人間が語ってはならない名前だったんです。モーセを導いた神の名前だったからです。ヨハネの福音書だけは、このエゴエイミーをずっと使うんです。ヨハネだけはこの表現をするんです。なぜ?ヨハネだけは、イエスが下りて来た、そのことを強調したいからです。そしてその方は、はじめからおられた、を強調したいんです。 私の姉が死んだとき、私は神などいないと思っていました。そんなある朝方、小説を書いている時、私の心に声がしました。「わたしだ。わたしはここにいる」驚きました。だけどその日から私は神がいることを信じたんです。そのとき、私にも、エゴエイミーと言ったんです。わたしは在りて在るもの。このヨハネの解読書を読んで、私もはっきりと理解したんです。『わたしだ』は、人間を慰める言葉でもなく、励ます言葉もなかったんです。姉が死んだ理由を教えてくれたわけでもないし、私がこの状況に陥った理由を教えるのでもないし、クリスチャンになりなさいとか、教会に行きなさい、聖書を読め、祈れと言ったことではないんです。イエス様が私に言ったことは、エゴエイミー。『わたしだ。わたしこそ主。』その言葉が私の人生を変えたんです。 エゴエイミー。この言葉が神の力だったんです。そして私は、神を信じる力をもらったんです。でなければ神がいることがわからなかったでしょう。そのエゴエイミーと言って下ってくる神が、『わたしだ。』と言った瞬間に、私に力がわくんです。なぜ?それは、主だけが救い主で、贖い主で、天から下りて来たものだからです。これがキリスト教なんです。わたしはヤハウエ。あなたを救う者。わたしがその主である。聖書は何が書かれた本でしょう?エゴエイミーが書いてあるんです。創世記から黙示録まで何が書いてあるんですか?わたしは救い主である。わたしがキリストである。わたしがイエスである。これが書かれている。わたしこそ神である。弟子たちにもこれをずっと言っていたんです。でも弟子たちは何と言ったんですか?満腹にさせろと言ったんです。マナを降らせろ、病気を治せ、金をくれ、幸せにさせろ。人間はこれしか言わないんです。この力ある名前を侮り、軽んじ、あざけり、理解しません。人間が軽々しく唱えることができる名前でもないし、イエスキリストの十字架がなければ、礼拝できる名前でもないんです。イエスは主と告白できた者は幸せなのです。この名を知ることは神の恵みです。それを私たちがどれだけ軽んじているんですか?どれだけこのイエスキリストの名前を軽んじ、満腹にさせろ、幸せにさせろ、飲ませろ、着せろ、どれだけイエス様にこれをしてきたんです?このエゴエイミーにどれだけの偉大な力があるのか?これがキリスト教です。誰でもキリストに属していなければ天国に行けないんです。悔い改めて祈りましょう。
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